と束縛と


- 第48話(1) -


 総和会本部の建物内については知り尽くしているとまではいかなくとも、各階に何があるかを大まかながら把握している和彦だが、建物外のこととなると、何も知らないに等しい。元はある企業が、税金対策に建てた研修施設だったというだけあって敷地はそれなりに広い。かつてはグラウンドなどもあったという話だが、守光の指示によって造園工事が行われたのだそうだ。
 守光の場合、自然派だとか緑を愛しているとか、そういう理由からではないだろう。長嶺の本宅の中庭を見ていても感じるが、〈整えて〉いることに満足を覚える性質なのかもしれない。
 和彦は少し首を傾けて、車の後部座席から空を見上げる。次いで、周囲に目を向ける。敷地内をゆっくりと車は進む。いつも車が停まる建物の裏口や駐車場ではなく、今日はさらに奥へと進んでいた。まさに、守光が造園工事を命じたというエリアだ。
 呼ばれたのをこれ幸いと、あれも聞きたい、これも聞きたいと勢い込んでやってきたものの、当の守光は、今は来客の対応をしているという。拍子抜けしたのだが、だから先に、和彦を案内したいところがあると言われて移動中だ。
 敷地には車が通る道以外に、屋根つきの歩道も通っている。念入りに植裁を行っているのか、樹木が頭上から覆い被さるように生い茂っており、緑の回廊を作り出している。ちょっと見惚れるほどの光景だが、見栄え云々ではなく、上空からの視線を警戒したのではないかと和彦は推察する。少し前ならヘリコプターでの空撮だっただろうが、今なら一般人でもドローンを簡単に入手できるのだ。
 建物の窓から見下ろしていたときは、広い敷地で手入れが追い付かないにしても、少々鬱蒼としすぎているのではないかと感じていたが、間近で見ていると途轍もない手間がかかっていると知る。
 ところどころ小綺麗なベンチも設置されているので、普段から立ち入りが禁止されている場所というわけでもないようだ。実際、こうして目にすると、和彦自身、自分の足で歩き回ってみたくなってくる。建物自体を檻と認識していたため、敷地内を散歩できる場所だと想像もしていなかったのだ。
 唐突に緑の回廊を抜ける。目の前に現れたのは一軒の建物だった。目的地はここだったらしく、車は正面玄関で停まる。降りるよう告げられたので、仕方なく指示に従う。車は走り去ったが、ここから本部の建物までなら歩いて戻るにしても苦になる距離ではない。
 数歩後ろに下がって、目の前の建物を観察する。正面は一見して隠れ家的なカフェの赴きがあり、玄関のガラスドアと瀟洒な飾り枠と柱がその印象を強める。木材を使った壁が美しく、緑の回廊を抜けた先にある建物としては違和感がない。ただ、カフェにしては建物自体は規模が大きく、そもそもここは総和会本部の敷地だ。
「ああ、ここが……」
 若い構成員たちが詰めることになるかもしれないとちらりと聞いたが、ここがそうだというなら納得できる広さだ。
 周囲に目を向けると、土が剥き出しとなっている部分がある。花壇か池でも造るのか、なんにしても手を加える途中であることは確かだ。さらに、先に通じる道は、今しがた通ってきた緑の回廊とは様子が違い、コンクリートを塗り固めただけのように素っ気なくのっぺりとしている。
「――元はレンガ敷きの道だったが、工事車両が出入りするのに不便でこうなった。今、舗装材を手配してもらっているから、少しの間、見た目が悪いのは我慢してくれ。先生」
 前触れもなく話しかけられ、和彦は飛び上がりそうなほど驚く。パッと振り返ると、いつの間にか玄関のドアが開いており、男が立っていた。厚みのある大柄な体を真っ白なワイシャツで包んだ南郷だ。
 存在を認識した途端、和彦は総毛立つ。自分とこの男との間に起こった出来事が、一瞬にして脳裏に蘇っていた。
 顔色をなくして立ち尽くす和彦にかまわず、南郷はさらに話しかけてくる。
「総括参謀なんて肩書きがつくなら、本部の一室にネズミみたいにいつまでも棲みついているなと、使っていた部屋を追い出されたんだ。ちょうど、テニスコートを潰して若い奴らのための寮のようなものでも造るかという話が出ていたから、俺は体のいい管理人みたいなものだな。そうでなかったら、こんなシャレた建物に住むことなんて、一生なかったはずだ」
「ここに、住んでいるんですか……?」
「オヤジさんが会長を引退するまでは、一応ここが、俺の家ということになる。わかりにくいなら、表札をかけておこうか?」
 決して懐かしさを覚えたわけではないが、皮肉っぽい物言いが南郷らしいと実感させられる。この男とまともに会話を交わすのはいつ以来かと、つい頭の中で数えていた。最後に顔を合わせたのは和泉家から戻ってきた日の駅構内だった。総和会の男たちに追われ、駆け出した先で鷹津に救われたのだ。そこからおよそ三か月経って、またこうして南郷と相対している。
「今日、あんたがここに来ると聞いていたから、お披露目しておこうと思ってな。――あんたとも無関係の場所ではないし」
 それはどういう意味かと和彦は眉をひそめる。南郷はスッと視線を逸らし、土が剥き出しとなっている一角に目を向けた。
「ここに頑丈な柵を立てて、犬を飼おうかという話が出ている。番犬のような男揃いの本部に、いまさら本物の犬を飼うのもどうだという話だが……、先生なら、この空き地をどう使う?」
「ぼくは、関係ないので」
 和彦の返答に、南郷は軽く肩を竦める。
「あんたの気が紛れるなら、なんでも作ってやろうと思ったんだがな。犬でも猫でも、鳥が飼えるような小屋でもいい。生き物は嫌だというなら、温室だって――」
「さっきから、何を言ってるんですか?」
 抑えようとしても刺々しい口調となってしまう。こういう反応は、むしろ南郷を喜ばせるだけだとわかっていながら。案の定南郷は、歯を剥き出すようにして笑った。
「中に入ってくれ。説明する。ついでに、渡したいものもある」
「いえ、ぼくはここで……」
「――忘れてるようだが、俺はあんたの後見人だ。総和会でのあんたの立場を守る代わりに、俺の指示にはしたがってもらう」
 数秒の沈黙が訪れ、互いを見つめ合う。南郷は、和彦の返事を待たずに玄関に引っ込みながらさらに続けた。
「オヤジさんの用が済むまでの、時間つぶしだと思ってくれればいい。せっかく戻ってきてくれたあんたに、無体は働かない」
 ここでいくら嫌だと言い張っても南郷は引かないだろうし、受け入れるしかない自分の立場もわかっている。何かあれば大声で助けを求めるしかないだろうと覚悟を決め、建物に足を踏み入れた。
 エントランスの正面には受付カウンターが設けられているが、誰もいない。左右に廊下が分かれており、南郷は左に進んだので和彦もスリッパに履き替えてついていく。
 新築の建物特有の匂いに軽く鼻を鳴らし、歩きながら天井を見上げる。壁だけでなく天井も真っ白だ。二階までの吹き抜けとなっており、高い位置にある窓から差し込む陽射しによって、白さが際立ち目が眩む。ここは白い回廊だなと、愚にもつかないことを考えてしまう。
「うわっ」
 立ち止まった南郷の背にぶつかってよろめく。
「ここから先が、俺個人が自由に使えるスペースだ。さっきの廊下を右に行ったら、若い連中の居住スペースになってる。個室がいくつか。今はプライバシー重視で、一つの部屋でまとめて雑魚寝生活というのは嫌われるらしい」
「……若い連中というのは、第二遊撃隊の人たちですか?」
「総和会の資金が注ぎ込まれている手前、そういう露骨な贔屓もできない。いろいろ、だ。俺を慕っている者も、反感を抱いている者もいるだろう。もしかして、俺の動向を探る目的の奴も入り込んでいるかもな」
 第一遊撃隊の人間も入居していると、思わせぶりな口調で南郷は付け加えた。
「隊や組を超えた交流が必要だ。縄張り意識だけ強くなった頭の固い人間は、この先の組織運営には障害となる――とオヤジさんの言葉だが、俺も同感だ」
 ドアを開けた南郷に促され、おずおずと部屋に足を踏み入れる。広々としたリビングダイニングには、まるでモデルルームのように趣味のいい家具が一通り揃っている。キッチンも見えるが、使っている形跡はない。
「メシは、本部の食堂で食ったほうが手間がかからなくていい。ここには、寝に通ってるようなもんだ」
 南郷が階段にちらりと視線を向ける。二階に寝室があるとわかって和彦は本能的に体を強張らせたが、気づいているのかいないのか、南郷はリビングダイニングを通り抜け、さらに奥に続くドアを開けた。白い回廊とは対照的な、薄暗く狭い廊下が伸びている。
 南郷に招き入れられたのは、廊下以上に暗い部屋だった。まだ片付いていないのか段ボールが部屋の隅に積み上げられているが、和彦が興味を惹かれたのは、壁際の大きな書棚だった。傍らには書斎デスクがあり、その上にはパソコンやプリンター一式が鎮座している。一人掛けのソファにオットマン。配線の済んでいないオーディオセットと確認していくにつれ、南郷という男の素の部分を少しだけ覗き見た気がした。
 カーテンを勢いよく開けた途端、室内が陽光で満たされる。大きな窓の向こうには、さきほど外で観た土が剥き出しとなったスペースがあり、確かにこのままでは殺風景だ。南郷の計画としては、ソファに腰掛けて音楽を聴きながら本を読み、ときおり外の景色を楽しみたいといったところなのだろう。
「ここに座ってくれ。先生」
 南郷がエグゼクティブチェアをソファの近くに移動させてくる。恭しく手で示され、いまさら部屋を出るわけにもいかず和彦は従う。南郷もソファに腰掛けると、さっそく本題に入った。
「わざわざ、あんたにここに来てもらって、簡単だが建物を案内したのには理由がある」
「……なんですか」
「先生、ここで俺と暮らさないか?」
 突然の提案に呆然としたあと、我に返った和彦はきっぱりと拒否する。前にも南郷から同じ提案をされたことを思い出した。
 和彦の返事は予想通りだったのだろう。南郷は気を悪くした素振りを見せるどころか、むしろ満足げな表情を浮かべている。揶揄われていると感じて席を立とうとしたが、次の南郷の言葉で動きを止めた。
「俺とあんたは、敵同士ではなく、限りなく同志に近いと思っている」
「えっ……?」
「――長嶺組長の将来について話をしようか、先生」
 ぎこちない動きで和彦は座り直していた。南郷は窓のほうに視線を向けると、何かを思い出しているのかふっと遠い目をした。
「去年の末の総和会の別荘での出来事については、俺はまったく謝る気はない。必要だから実行した。興味もあったしな。長嶺の男に愛されるあんたの体に」
「……謝らなくていいです。どうせ、一生許す気はないですから」
「それでこそ、特別な〈オンナ〉だ」
 何も感じないわけではないのだ。服の下では肌が粟立っているし、じっとりと冷や汗もかいている。和彦は、たまらなく南郷が怖い。だが賢吾の話題を出されては、逃げ出すわけにはいかない。
 南郷に負けたくないと強い対抗心を持つのは、目の前にいる男が賢吾に抱く特殊な感情に気づいているからだ。
「あんたが元刑事のもとへ逃げ出したのは、想定外だった。そして、がっかりもした。俺の見込み違いだったのかと」
「見込み違い?」
「あんたは自分の人生を、長嶺組長に賭けたんだと思っていた。――俺がそうであるように」
 賭ける相手は守光ではないのかと、和彦は大きく目を見開く。その反応の意味を、南郷は正確に読み取っていた。
「俺にとってオヤジさんは、大恩ある人だ。肥溜めみたいな世界から掬い上げて、獣から人にしてくれたんだからな。あの人が成し遂げたいことがあるというなら、俺は喜んで命を差し出す。長嶺組長は、そんなオヤジさんの一人息子だ。俺は当然、何かあれば身を挺して守るつもりだったが……、自分は本当にそんなことで納得するのかと思い始めたんだ。納得というのは、そのまま満足して死ねるかということだ。こういうことを考えるようになったのも、オヤジさんが本を読めと勧めてくれたからだ。ものを知らなかった人間でも、紙に印刷された文字を読んだだけで、一端の知識は得られる。で、ついにある考えに至った」
 南郷がちらりと一瞥をくれたのは、積み上げた段ボールだった。おそらくあの中に、持ち込んだ本が収まっているのだろう。
「……何を、考えたんですか」
「どうすれば、長嶺組長に成り代われるか。誰よりもオヤジさんに認められる存在になりたかったんだ」
 ぎょっとした和彦に対して、南郷は一人で声を上げて笑う。
「バカだろう? ガキだったんだ、そのときは。頭でっかちのな。そんなことは不可能だと、長嶺賢吾という存在に相対した瞬間に理解した。モノが違うとはこういうことかと。長嶺守光の血を受け継ぐとはこういうことかと」
 南郷の口調はいつの間にかわずかな熱を帯びていた。どこか誇らしげでもある表情を目にした和彦は、この男は長嶺の血に縛られることに焦がれているのかもしれないと、嫌悪とも憐憫ともつかない複雑な感情を抱く。
「――……もしかして、あなたが長嶺会長の隠し子だという噂は、あなた自身が流したんですか?」
「どうだろうな。そう思わせるよう振る舞ったかもしれないし、誰かが邪推して流したのかもしれない。特定したところで意味はない。利用できる噂話だから、表立って否定はしていないし、オヤジさんもそれを良しとしている。腹に何かしら抱えていると、下衆な期待をする奴もいる。本妻の子と妾腹の子が後継者の座を巡って争えば、おもしろいことになるかもしれない、とかな。俺と長嶺組長が反目し合っていると思わせるほうが、何かと動きやすい」
 和彦は意識しないまま、小さく声を洩らしていた。
 そんな二人の関係が、和彦の登場によって険悪さを増したと周囲は思っているだろう。賢吾がかつて南郷を殴った原因は、和彦だった。総和会と長嶺組の緊張感が高まったのも和彦によるところが大きく、そんな中で、南郷が和彦の後見人となったのだ。誰もが、賢吾の神経を逆撫でる決定だと感じたはずだ。
「ぼくとあなたは、組織どころか父子の仲を引き裂きかねない。それが、さっきの同志という言葉に繋がるんですか……?」
「長嶺組長と長嶺組の安寧は、総和会での絶対的な立場にいることで約束される――と、オヤジさんは考えている。あの人は、ずっとそうだった。総和会で誰を蹴落とし、誰かと誰かを共食いさせてじわじわと影響力を削ぎ落とし、そうしながら常に頭にあるのは、長嶺組と、長嶺の血を継ぐ男たちのことだ。だが、肝心の長嶺組長は総和会を忌避したがっていた」
 歯がゆい、とはっきり南郷は言い切った。
「警戒心の強い蛇なんだと、いつだったかオヤジさんが、長嶺組長の気質を語っていたことがある。巣穴にこもった蛇を外に引っ張り出すのは容易じゃない。美味い餌でおびき出すか、燻し出すか――」
 ここで南郷に向けられた視線に、和彦は顔をしかめて返す。露骨な当て擦りに、いまさらムキになって反論はしない。
「あんたはきちんと、戻ってきた。長嶺の男のもとにな。褒めてやりたい」
「……けっこうです」
「あんたが総和会に近い位置にいることは、長嶺組長にとって悪いことばかりじゃない。大義名分が立つんだ。あんたを人質に取られていては、総和会の意思決定には逆らえない、というな。我を通すだけではどうにもならないと、あの人ならわかっているだろう。長嶺組が総和会と袂を分かつなんてのは、現実的じゃないんだ。特に今のご時世は」
「そのこと、賢吾さんに念を押さないでくださいね。誰よりも、総和会との関係の重要性をわかっている人ですから」
 いつの間にか、南郷に対する異常な恐れは消えていた。和彦が強い眼差しを向けると、南郷は軽く肩を竦めた。
「強面の俺がちょっと揶揄えば、さっさと尻まくって逃げ出すかと期待もしてたんだがな。見た目によらず、あんたは下手な極道より肝が太かった。――オヤジさんと渡り合える佐伯俊哉の息子なら、さもありなんか」
「……父は、関係ないです。あの人はあの人の生き方を貫いて、ぼくは、どう生きるか模索している最中ですから」
「上手いな、先生」
 ニヤリとした南郷の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。もしかすると、和彦と俊哉の血の繋がりについて、守光から何か聞かされており、鎌をかけたつもりなのかもしれない。
 ここでふいに短く電子音が鳴り、南郷は一旦立ち上がって書斎デスクに歩み寄る。スマートフォンを手にして何か確認したあと、すぐにまたソファに腰掛けた。メッセージが届いたようだが、返信する必要はなかったようだ。何事もなかったように南郷は会話を再開した。
「あちら――長嶺組長には、オヤジさんから伝えておいたんだが、月に一度、あんたを本部に派遣してもらうというのは聞いたか? 一泊してもらうことになる」
「決定、なんですよね」
 ついさきほどの南郷の話を聞いたうえで、拒否できる人間などいるのだろうか。賢吾や長嶺組のことが頭にある和彦には無理だった。だから南郷も『同志』などという単語を使ったのだ。
「できることなら、あんたが月の半分でも、ここに住んでくれればいいんだがな」
「ぼくを衰弱死させたいんですか」
 言葉に遠慮がなくなった和彦を、南郷は鼻先で笑った。
「大事にするが?」
「ええ、大事にしてください。ぼくは、長嶺賢吾のオンナですから」
 スッと笑みを消した南郷が、まっすぐ見据えてくる。敵意も悪意もなく、ただ、目の前の存在を網膜と脳に焼き付けようとしているかのようだ。
「……雪に足跡を残しながら逃げ惑うあんたの姿は、今でも夢に見るほどよかった。ガキの頃に見た、追われるうさぎそのもので。俺の今の仕事は猟犬に例えられるが、あのときは心底、猟犬の気持ちがわかった」
 昨年末の総和会の別荘での出来事を持ち出されるたびに、体の内に冷たい感覚が走る。つまり、心底不愉快なのだ。
「それが、今、目の前にいるあんたは違う。姿を隠していた間に、ぬるっと得体の知れない生き物に変化したようだ。肝が据わったというだけじゃない。――何か武器でも手に入れたか?」
「隠し武器の存在を、正直に打ち明ける人間はいないでしょう」
 和彦としては冗談のつもりはなかったのだが、南郷は虚をつかれたように目を丸くしたあと、声を上げて笑う。舞台俳優のような芝居がかった大きな笑い声に、凄まれるよりも身が竦む。
 ふと、外で車のドアが閉まった音がした。和彦が何げなく視線を窓のほうに向けたときには、音もなく南郷は立ち上がっていた。今度は、段ボールの一つを開けて何かを取り出し、和彦の膝の上に置く。小さな手提げ袋だった。反射的に中を覗き込んだ和彦は、パッと南郷を見上げる。
「拾ってクリーニングに出しておいた。寒くなったらまた使ってくれ」
 南郷から贈られた手袋だった。駅構内で落としてそのままになっていたが、皮肉なことに南郷の手によってまた手元に戻ってきたのだ。物に罪はないため、無碍に突き返すこともできない。
「もっと話したいことがあったが、時間だ。先生、玄関まで送る」
 いきなり面談の終了を告げられ、南郷にドアのほうを示される。和彦は手提げ袋を胸元に抱えて立ち上がった。
 再び白い回廊のような廊下を歩きながら、なんとなく気になった和彦は控えめに提案してみた。
「この壁、何か、飾らないんですか? あまりに殺風景というか……」
「今、悩んでいる。風景画にするか、古い映画のポスターでも額に入れて飾るか。版画……リトグラフというのか、ああいうのでもいい。買い揃えたいところだが、俺はインテリアとか美術についてはまったくお手上げだ」
 本部の建物には麗々しい日本画や書を飾ってはあるのだが、あれらは南郷が求めているものではないようだ。
 美術、という単語にふっと脳裏を過ったのは賢吾の顔だった。美術館巡りをするような男なので相応の知識はあるのだろうが、まさか南郷の相談に乗るはずもない。余計なことは言わないでおくに限ると、和彦は無意識に口元に手を遣っていた。
「――ああ、言い忘れるところだった。便宜上、ここは〈寮〉と呼ぶことになっている。先生もそうしてくれ」
「寮ですか……。表から見ると、雰囲気のいい喫茶店みたいな造りなのに、変な感じですね」
「便宜上、だからな。先生がシャレた名前をつけたいというなら任せるが」
「ぼくは関係ないので」
 淡々と会話を交わしながら玄関まで来たところで、ガラスドアの向こうでちらちらと人影が動いている。南郷が恭しくドアを開けると、そこには着物姿の守光が立っていた。
 静かに息を詰める和彦とは対照的に、守光はリラックスした様子で南郷に話しかけた。
「この空き地に何を作るか、決まったか?」
「犬を遊ばせる場所はどうかと考えてみたんですが、生き物はどうも、先生のお気に召さないようで」
 自分を巻き込まないでくれと、和彦は必死に表情で訴える。このとき、守光と南郷は顔を見合わせ、薄い笑みを交わし合った。その表情を目にした途端、なぜだかゾッとした。
「ここで過ごすとき、先生の気が紛れるものをと二人で相談し合っていたんだが、やはり先生本人の意見を聞くのが一番だと思ってな」
 守光の言葉に、和彦は心の中で嘆息する。意見の一つでも出さないと、解放してもらえそうになかった。
「でしたら――」
 和彦が口にした提案に、守光はただ微笑むだけだったが、南郷は微妙な表情を浮かべた。案外、つまらん、とでも思ったのかもしれない。


 散歩するために車は帰したという守光と共に、緑の回廊をゆっくりと歩く。意外なことに、南郷はついてきていない。二人きりだ。
 自分の足で歩いてみたいとは思ったが、望みが叶うのが早すぎる。和彦は、自分の歩調が速くなりすぎないよう気をつかいながら、緑の回廊をじっくりと見渡す。広い敷地にこれだけの樹木があって、鳥がいないはずがなかった。鳴き声や羽ばたく音を耳にして、反射的に目を凝らす。おかげで、隣に守光がいながら、あっという間に緊張もほぐれてしまった。
「これだけの木を揃えるのは、大変だったのではないですか?」
「それが、そうでもなかった。元の所有者は、一区画ごとに木で目隠しをするようにしたかったのかもしれん。途中から手入れをする余裕もなくなったのか、わしが購入したときには、荒れてひどいものだった。それでもせっかく育った樹木は活かそうかと、こんな形になった。ただ、歩いていて楽しめるようにと、いくつか苗木は吟味して買い揃えたかな」
「……建物の窓から見下ろすばかりだったので、こんなに立派な公園みたいなところだったとは、気づきませんでした」
 別に責めるつもりはなかったのだが、そう取られても不思議ではない言い方となってしまう。守光は低く笑い声を洩らした。
「あんたが本部にいる間は、閉じ込めておきたいという下心もあった。が、一番の理由は、あんたを信用していなかった。総和会本部は、わしのための要塞だ。どこまで見せていいのか、もっと時間をかけて見定めるべきかと、考えていた」
 一瞬、胸が痛んだが、なんとか表情には出さずに済んだ。
「あんた自身のせいではない。あんたの父親が、佐伯俊哉だからだ。どこかで、あんたと千尋が出会ったのは、彼の手引きがあったのではないかと疑っていたんだ。賢吾が慎重なのは、わし譲りだろうな」
「今、こうしてぼくが出歩けているということは、何かが変わったんですか?」
「あんたがいない間に、久しぶりに彼と会って話したが、結局のところ、わしのことを一番よく理解してくれたのはこの男だけなのだと、つくづく実感できた。お互いの底を見透かし、嘲りながら、どうしようもなく同情し、労わる。そういう相手は、一人しかいない。おそらく、あんたの父親も」
『彼』と『男』と『父親』と、 佐伯俊哉という人間を表現するのに、守光は三つの使い分けをした。それが、守光が俊哉に抱く感情の複雑さを物語っているようだ。
 総子から聞いた限りでは、俊哉はずいぶん便利に守光を使っていたようだ。打算があるにせよ、守光は俊哉のために働き、その後しばらくは接触を断っていた。俊哉の弱みを握っているはずなのに、守光ほどの男が便宜を図るよう働きかけもしなかったのだ。
「どうして……」
 無意識に声を洩らした和彦だが、自分でも何をどう尋ねればいいのかわかりかねた。困惑していると、守光は目元を和らげて頭上を見上げた。歩道にかかる屋根を軽やかな音が打つ。何事かと思えば雨が降り出したようだ。陽射しはさしているので、天気雨のようだ。
「――狐の嫁入りか」
 ぽつりと守光が洩らし、緑の回廊の脇の細い道に入る。こちらの道は屋根はついていないが石畳が敷かれており、泥で靴を汚す心配はない。どこまでも手入れが行き届いている場所だが、果たしてここを散歩コースとして利用できるのはどれだけの数の人間だろうかと、つい考えてしまう。
 多少の雨を浴びながら守光についていくと、驚いたことに東屋があった。これでは本当に公園だ。
 守光に勧められてイスに腰掛ける。正面には、雪が積もっているのかと錯覚するほど、枝先にたくさんの白く小さな花をつけた低木が並んでいた。鼻先を掠めるのは雨の匂いと、控えめな甘い香りだ。
「少なくとも一時は、わしと佐伯は共犯関係だった。代々受け継いだものを否応なく背負わされて、足掻いている二人だからこそ、佐伯はわしを頼ったし、わしは佐伯に使われた。官僚とはいえ当時は権力なんぞまったく持っていない若造のくせに、奴は居丈高だった。わしには、新鮮だったよ」
 俊哉から聞かされた守光との関係は、利害でのみ繋がっているドライなもので、友誼めいたものなどなかったように思えたが、守光の語り口からは、仄かな熱情のようなものを感じる。
「あなたと父は、本当にそれだけの関係だったのですか? 友人……というのは、父に否定されました」
 守光は、雨音に紛れるような密やかな笑い声を洩らした。
「……あんたにだから打ち明けよう。大昔、まだ組長だったわしの父親が、佐伯に目をつけた。政治に絡んだ旨みは好きだが、面倒事はとにかく嫌いな男で、後始末はわしの仕事だった。ある政治家から、佐伯の抱えた問題を処理してほしいと頼まれたとき、当然のようにわしが任された。それが佐伯とのつき合いの始まりだったことは、前にあんたに話したと思う。わしの父親は、佐伯の将来性を特別なものだと思ったようだ。極道らしい方法で、佐伯家そのものに接近しようとして、わしは、それは上手い方法ではないと説得したんだが、残念ながら聞き入れる度量のある男ではなかった。ただ、実行に移す前に、死んでしまったのは、幸いだったな。佐伯にとっても、わしにとっても」
『追い落とした』と俊哉には語っていたという、守光の父親の死だ。これが事実なら、守光は実の父親から、俊哉を守ったことになる。
 和彦がゆっくりと目を見開くと、守光は正面の白い花を見つめたまま薄く笑んだ。雨で冷えたのか、強い寒気がした。
「自分で自分に驚いたよ。家のため、組のためという理由以外で、わしが行動を起こせたことに。――ぬるい感情からではない。佐伯俊哉という人間に強い興味はあったが、もっと打算的なものだ。代替わりしたばかりの組は、荒波の只中に放り出された小舟そのものだ。保険が欲しかった。いざとなれば、わしの父親がやろうとしたように、佐伯の家を利用するつもりだった」
「でも……、しなかった。ですよね?」
「必要がなかった。わしは、父親よりも組織の運営に才があったようだ。自力で組を大きくしていく中で、下手に役人と関わりを持つほうが危険だったというのもある。そうしているうちに、また、佐伯から手を借りたいと相談された。……あのときは複雑な喜びがあった。わしを利用する価値があると、佐伯個人が判断したことにな」
「それで、よかったんですか?」
「それでいい。利害のみで繋がるほうが、後腐れなく関係を絶てる。死ぬ間際にでも、こんな出会いがあったと走馬灯として思い返せればいい。そう、思っていたんだがな。まさか、わしらの息子たちと縁が繋がるとはな」
 千尋と関係を持った男が和彦だと知ったとき、守光は何を思ったのだろうかと、白い花を揺らす雨を眺めながら想像を巡らせる。つい、というには生々しい発言が口を突いて出た。
「ぼくの父と……、体の関係があったのですね」
「言わぬが花、という言葉を知っているか、先生?」
 柔らかく窘められ、さすがにこれ以上踏み込むことはできなかった。続けて守光が洩らした言葉を聞けば、なおさらだ。
「ただ一つ言えることは、佐伯俊哉は冷たく美しい男だったということだ。忌々しいことにな」
 二人は口を閉じ、雨を眺め続ける。気まぐれな天気らしく雨足はすぐに弱まり始めた。
「――さて、昔話はここまでだ。これからの話をしようか」
 そう言って守光が始めたのは、事務的な話だった。
 和彦と総和会の間で進められていた病院建設について、一旦凍結ということになったというのだ。率直に感想を述べるなら、非常にありがたかった。和彦としては経験も何も足りない人間が、小規模ながらクリニックを一つ任されているだけでも重圧なのだ。そこに、総和会という大組織の意向を受けて形ばかりとはいえ病院運営を任されるなど、分不相応というレベルを超えて無謀だった。
「あんたがいない間に、土地の取得についてちょっと面倒が起きて、いっそのことここは手を引いておくかという話になった。あんたが戻ってくるという確信もなかったことだしな」
「……ぼくにはまだ早かったということです。ご面倒をおかけしたことは、本当に申し訳ないとは思いますが――」
「気にしなくていい。もともとの計画のついでに、あんたを囲い込めればと下心があったうえでのことだ。あんたは無事に長嶺の男に戻ってきたし、規模の大きな計画が頓挫するのは珍しいことでもない。それに当分は、注意しておきたい案件もあるしな。総和会の外で目立つ動きは避けるべきと、忠告された」
 誰から、と問いかける前に、異変を感じたように守光が視線を動かし、和彦もつられて同じ方向を見る。透明なビニール傘を差したうえに、二本の傘を持った南郷が歩いてくるところだった。
 東屋の前で立ち止まった南郷が、空を見上げてから傘を畳む。
「せっかく傘を持ってきたんですが、少し遅かったようですね」
 雨の勢いはすでに衰え、霧のような小雨となっている。この程度なら雨宿りも必要なさそうだ。
 屋根の下から出た和彦は傘を断り、南郷に倣うように空を見上げて目を丸くする。虹が出ていた。こういうとき、同行者に知らせたくなるものだが、あいにくそこまで気安い相手がこの場にはいない。守光と南郷は、虹に気づいているのかいないのか、本部の建物に移動してお茶を飲む相談を始めていた。和彦は黙っておくことにした。
 守光と並んで石畳を歩く。先を行く南郷は、スマートフォンで誰かと話している。聞く気がなくとも聞こえてくる物騒な内容に、和彦はソワソワしてしまう。意識を逸らすため守光に話しかけた。
「この白い花、きれいですね。なんという名前なんですか?」
「ユキヤナギだ。気に入ったなら、賢吾に頼んで、長嶺の本宅にも植えてもらったらどうかね。日当たりさえ気をつければ、育てるのは簡単だ」
「……いえ、本宅の庭に同じ花が咲いていたんです。それで、名前が気になって」
「わしがいたときはなかった花だ。たまには庭木を入れ替えているようだな。自分の代になったら、とっととコンクリートで埋めるとか言っていた奴なんだが」
 賢吾が言いそうな憎まれ口だと、笑みをこぼしたそのとき、白い花に集っていたハチがふいに和彦に向かって飛んでくる。軽く手で追い払っただけで、あっさりとハチは白い花にまた寄っていく。その様子を見ていた守光が、ふいにこんなことを言った。
「――あんたの周りを飛ぶ羽虫がいたと聞いたが、問題ないかね」
 一瞬、さきほどのハチのことかと思ったが、冷徹な守光の眼差しを見て、そうではないと気づく。
「あの、なんのことか……」
「遠い土地からわざわざこっちにやってきて、巣を作り始めているらしい。いつの間にか、な。第一遊撃隊の御堂辺りは把握していたようだが、なぜかわしは、賢吾から聞かされた」
 ここまで言われれば、伊勢崎組のことを指しているとわかる。なんと答えるべきかと、和彦は目まぐるしく頭を働かせる。御堂の名が出た以上、迂闊なことを言えば迷惑がかかる。
 顔を強張らせて口ごもる和彦に、ふっと守光は微笑みかけてきた。
「あんたに聞いても仕方のないことか。――極道の考えることは、極道にしかわからん。多分な」
 雨に濡れるよりも、このやり取りのほうが体が冷えた。
 この後、守光の部屋でお茶を飲み、引き止められるまま昼食まで共にしてから、ようやく本部を辞した。
 車の中で和彦は、自分は本当に聞きたいことが聞けたのだろうかと思い返すが、気疲れのせいかすぐに思考は空回りを始めた。漫然と車窓から眺める外の景色には、一時的に降った雨の名残りはすでになく、虹もとっくに消えている。
 車は自宅マンションへと向かう。賢吾からは本宅でもマンションでも、好きなほうに戻ればいいと言われており、遠慮なく自宅を選ばせてもらった。一人になりたかったのだ。
 ふらふらと部屋にたどり着き、ドアを開けた途端、ふわりと風が吹き抜けた。一瞬覚えた違和感の正体は、すぐに気づいた。窓は施錠しているので、風が室内から吹いてくるはずがない。つまり――。
 バタバタと靴を脱いでダイニングに駆け込むと、ちょうどキッチンからカップを手にした賢吾が出てきた。なぜか、寛ぐ気が全身から溢れ出ているスウェットスーツ姿だ。
「……何、してるんだ」
「茶を淹れてた。コーヒーを飲みたかったが、道具に勝手に触ると、お前が気を悪くしそうだからな」
「ぼくはそんなに狭量じゃない――じゃなくて、どうしてぼくの部屋にいる」
 お茶を一口啜ってから、悪びれるでもなく賢吾はニヤリとした。
「当然、お前の顔を見たかったからだ」
「朝、本宅でしっかり見ただろう。……ここに帰ると、ぼくは本部を出てから決めたんだ。なのにあんたは、先に着いてた。しっかり着替えまで済ませて。つまり、最初から予測してたんだな。ぼくの行動を」
「蛇の千里眼を甘く見ないでもらいてーな」
 蛇にそんな特殊能力はないだろうと思ったが、和彦の口から出たのは軽いため息だった。一人になりたかったはずなのに、こうして賢吾を目の前にすると、自分はこの男に会いたかったのだと実感できる。
 カウンターにカップを置いた賢吾が両腕を広げる。誘われるように歩み寄り、賢吾の腕の中に収まる。戻ってこられたのだと心底安堵しながら、和彦も賢吾の背に両腕を回した。


 前髪から滴り落ちようとしているしずくを指先で弾くと、うなじにそっと唇が押し当てられる。心地よい疼きが緩やかに背筋を這い落ちて、和彦は身じろぐ。
 今日はもう仕事はしないと宣言をした賢吾は、鼻歌を歌いながらバスタブに湯を溜め、入浴剤を選び始めた。結果、こうして夕方にもならない時刻から、二人一緒に湯に浸かっていた。
 湯の温度はぬるめだが、背で感じる賢吾の体温は高く、なかなかいい塩梅だ。
「贅沢だ……。長嶺組長を座椅子代わりにして、入浴するなんて」
「お疲れだろうから、労ってやろうという俺の優しさだ。しっかり感謝しろよ」
 疲れているのは、昨夜の父子による行為のせいもあるのだが、指摘するのはやめておく。藪蛇になりかねない。
「そういえば――」
「何?」
「今日の昼間、雨が降っただろ。天気雨というやつだ。たまたま外に出ていたから、参ったぞ」
 和彦はパッと賢吾を振り返る。
「もしかして、見た、のか?」
「見たって……、ああ、あれか。虹が出てたな」
 賢吾は短く笑い声を洩らすと、和彦の肩先に掬った湯をかけてくれる。
「たまには空を見上げてみるもんだな。いいものが見られた。あとになって、写真を撮ってお前に送ってやればよかったと思ったが、そうか、同じものを見たんだな」
 白乳色の湯の中で、なんとなく互いの手をまさぐり、指を絡めた。
 和彦は、総和会本部での出来事をできるだけ簡潔に説明する。その中には、守光や南郷とのやり取りも含まれているが、さすがに、守光と俊哉の関係については省かせてもらった。
「……〈寮〉が完成したというなら、うちから何か、祝いの品でも送らないといけねーな」
 賢吾がぽつりと洩らした言葉に、和彦は目を丸くする。南郷が管理する建物ということで、てっきり賢吾は知らん顔をすると思ったのだ。
「表向きは、俺は怒りの矛を収めたことになっている。お前がいない間、古参連中がこぞって俺の説得にやってきてな。わかってはいたが、堪えるもんだ。いい歳したおっさん共の泣き落としは。――長嶺組と総和会ってのは、切っても切れない仲だ。そこまで作り上げたのはあの化け狐で、誰も彼も手玉に取られている。俺すらな」
 苦笑いを浮かべた賢吾の頬にそっと自分の頬をすり寄せる。
「組の組織運営なんてぼくにはわからないけど、あんたが何かを失うことにならなくて、よかったと思う。……ぼくのせいで」
 腰に逞しい腕が回されて、引き寄せられる。
「俺としては、情けないと言ってお前に見限られなくて、よかった」
「……どうだか。長嶺の男はみんな、自信家だろ」
「いいや。肝が小さいから、口だけはでかいことを言うんだ。可愛いだろ」
 自分で言うなと、つい笑みをこぼした和彦の唇が、賢吾に塞がれる。唇を吸い、ときおり舌先を触れ合わせていると、賢吾のてのひらが体中に這わされる。肌をまさぐられているうちに和彦の息は上がり、自分でも目が潤んでいくのがわかる。腰に当たる賢吾の欲望は熱く硬くなっていた。
 意識が流されてしまいそうで、和彦は必死に会話を再開する。
「祝いの品は――」
「うん?」
「壁に飾れるものがいいと思う。大きな真っ白な壁に、何もなかったんだ。リトグラフでも、ぼくは絵のことはよくわからないけど、油絵でも水彩画でも。こだわりはないみたいだったから……」
 ふむ、と声を洩らした賢吾が思案げな顔をする。それでも手は動き続け、和彦は欲望を握られた。緩く扱かれ呼吸が弾む。足をもじつかせた拍子に湯が波立った。
「だったら、組から贈るものとは別に、俺とお前の連名で、絵を贈るか。知り合いがやってる画廊がある。現代アート専門だが、若い連中が出入りする施設なら、そっちのほうが見栄えがするだろ」
 両足を広げられ、もう片方の手が柔らかな膨らみにかかる。和彦は腰をビクビクと震わせながら、声を上げた。
「すでに〈あいつ〉に絆されてるんじゃねーか? 祝いの品と聞いて、すぐに絵がいいと提案してくるんだ。今日はしっかり話し込んだみたいだな」
 恐ろしい大蛇がチロチロと舌を出している姿が、脳裏に浮かぶ。話はしたが、絆されてはいないと否定した和彦に、わかっているとばかりに賢吾が薄い笑みを唇に刻む。
 大蛇の執着がねっとりと和彦に絡みつき、逃げられないよう締め付けてくる。手荒く柔らかな膨らみを揉みしだかれ、慣れた指先に弱みを捉えられ、弄られる。
「あっ、あっ、痛、い……。そこ、嫌、だっ……」
「痛いことはしてないだろ。俺はここを痛めつけたことはないはずだ。いつでも優しく、甘やかしてる」
 耳に唇が押し当てられ、官能的なバリトンで囁かれる。声で鼓膜を愛撫された和彦は身悶え、下肢への残酷な愛撫も受け入れる。
 はあ、はあ、と息を喘がせながら賢吾を振り返り、唇と舌を貪り合う。濃厚な口づけの合間に問われた。
「寒くないか?」
「へ、きだ……。熱い、ぐらいだ」
「のぼせるなよ」
 腰が蕩けてしまうと危惧するほど、じっくりと丹念に欲望と柔らかな膨らみを愛されているうちに、悦びの声を抑えきれなくなる。半身を捩って賢吾の腕にすがりつき、肩先に歯を立てたところで、ふっと脱力してずるずると湯に沈み込みそうになり、さすがに慌てた賢吾に引き上げられた。
 心配した賢吾にしっかりと抱き締められ、和彦は呼吸が落ち着くのを待ちながら、じっとする。自分の鼓動の音がうるさくて、どれだけ興奮していたのかと密かに恥じ入る。
「……やりすぎた」
 ぼそりと賢吾が洩らし、たまらず和彦は噴き出す。
「あんたでも反省するんだな」
「滅多にないことだから、明日は大雪かもな。あーあ、せっかくの桜の花が凍り付くな」
 ひさしきり笑ったところで顔を上げ、また賢吾と唇を重ねる。自ら望んだこともあり、腰をわずかに浮かせて、賢吾の指を内奥に受け入れていく。
「んっ、んぅ、んく……」
 昨夜長嶺の男二人に開かれた場所は、まだ熱を帯びて少し疼いている。
「柔らかいな、ここ」
 そう指摘してきた賢吾が指をゆっくりと動かし、襞と粘膜を擦り上げてくる。自分ではどうしようもできない反応として、その指をきつく締め付ける。すでに内奥はひくつき始めていた。
 二本の指が付け根まで挿入され、上擦った声を洩らす。和彦の奥深くを暴くように掻き回され、かと思えば不意打ちのように指が引き抜かれて、またすぐに挿入される。丁寧に快感を呼び起こされ、苦痛を取り除かれ、ささやかな肉の悦びを与えられているうちに、和彦の理性は危うくなってくる。誇示するように、賢吾が高ぶった欲望を腰に擦りつけてくるからなおさらだ。
「――寮の空き地に何を作ってほしいと言ったんだ?」
 唐突な問いかけに和彦はすぐには思考が切り替えられず、硬直する。すると賢吾は噛んで含めるように言い直した。
「さっき言っていただろう。寮に空き地があって、お前のために犬でも猫でも飼ってやるとか、温室を作ってもいいとか言われたと。南郷やオヤジに揃って詰め寄られて困ったとも言ってたな」
「……詰め寄られたとまでは、言ってない」
「似たようなもんだ。あの二人に意見を求められたら。お前がなんと答えたかまでは、教えてもらってない」
「苦し紛れに言ったから、あんたの期待に応えられるようなものじゃないぞ。会長はさすがに表には出さなかったけど、南郷さんはなんか微妙そうな顔をしていたし」
「あの二人の表情を読み取れるようになったら、大したものだ。――で、もったいぶらずに教えろ」
「別にもったいぶってなんか……。野鳥の水飲み場だ」
 せっかく答えたというのに、賢吾の反応は、南郷と似たようなものだった。あまり手間も金もかけてほしくなかったため、本当に苦し紛れで出した要望だが、意外に悪くないかもしれないと和彦は心の中で自画自賛していたのだ。
「あれだけ緑が多い場所だから、野鳥も棲みついているんじゃないかと思ったんだ。水飲み場といっても、何も池を造ってほしいとかじゃなくて、野鳥が水浴びとかできる大きさの器を置けばいい。できれば、羽を休められる止まり木程度のものをちょっと植えてもらって」
「……お前はささやかなものを想像しているかもしれねーが、総和会の面子にかけて、植物園みたいなのを造るかもしれんぞ」
「そうなりそうだったら、絶対あんたが止めてくれっ。ぼくはただ、部屋の中から、飛んでくる野鳥を眺められたらいいなと思っただけだ。……何か言わないと、本当にでかい番犬を何頭も飼いそうだったし……」
 ぼやく和彦がおかしかったのか、賢吾の笑い声が浴室内に反響する。
「そりゃ南郷も微妙な顔になるな。ヤクザの巣窟に、小鳥を呼び込むつもりかと。そんなことを思いついてリクエストするのは、お前ぐらいだろうな」
 内奥から指が引き抜かれ、和彦はほっと息を吐き出す。興奮のせいでそろそろ頭がぼうっとしてきたところだったのだ。賢吾から体を離そうとして、次の瞬間力で引き戻され、顔を覗き込まれた。
「急に野鳥に興味を持ったのは、誰の影響だ?」
 鷹津から送られてきた荷物には野鳥図鑑と双眼鏡もあったのだが、当然賢吾も知っているだろう。知っていて、問いかけているのだ。
「あんたが嫌なら――」
「俺は、お前にはできるだけ日々の生活を楽しんでもらいたいと思っている。お前がしたいというなら、危険がない限りは止めない。何かの拍子に嫉妬しちまうのは、大目に見てくれ」
「嫉妬……」
「俺が嫉妬深いのを忘れたわけじゃねーだろ」
 賢吾に片手を取られて、熱く滾った欲望を握らされる。さらに耳元で低く囁かれ、和彦は頷くしかなかった。


 夕食は、外に食べに行くかという賢吾の誘いを断って、おとなしく過ごすことにした。なんなら賢吾一人で出かけてもらってもよかったのだが、俺がそんなに薄情な男に見えるかと言われては、仲良く二人で過ごすしかない。
 材料は最低限は揃っているので、山暮らしでレベルアップした手料理を振る舞おうかと思っているうちに、賢吾はさっさと組員に連絡をして、デパートで花見弁当を買って来させた。
「――余裕があれば、去年みたいに一泊して桜見物に出かけられるんだがな」
 弁当と一緒に買ってきてもらったインスタントの味噌汁を掻き混ぜながら、渋い顔で賢吾が洩らす。和彦は、自分の前にも置かれた弁当をまじまじと見つめる。春の陽射しの下で見たなら、さぞかし映えるであろう華やかさだ。今のこの状況だと少々わびしさを感じなくもないが、だからといって味が変わるわけではない。
 煮物の小芋をまず食べてみたが、ダシの風味がしっかりと効いて美味しい。ご飯は二種類あり、錦糸卵がたっぷりのったちらし寿司に、たけのこご飯だ。たけのこの触感を楽しんでいると、また賢吾がぼやく。
「花見会の予定がズレたせいで、どこもかしこもてんやわんやだ。知らん顔したいところだが、どこぞの父子が揉めたせいでこうなったと噂されているせいで、そうもいかん」
 その父子の片方が、和彦の目の前にいるというわけだ。
「……ささやかな雑用なら手伝えるけど、ぼくができる程度の仕事なら、組員のほうが機転が利いて使いやすいか」
「お前はお前の仕事がある。クリニック再開の準備もあるからな。猫の手も借りたくなるほどに忙しくなったら、頼るかもしれん」
「素直に、お前の手は必要ないと言ってもらったほうがいいんだが……」
 上機嫌で笑った賢吾は、桜の花の形のかまぼこを口に放り込む。
「ただまあ、どんなに忙しくても、お前が何をしているかわかる距離にいるのはいい。何かあれば、本宅の奥に匿っちまえばいいからな。当の本人は、嫌がるだろうが」
 一人になりたくてマンションに戻ってきた和彦に対する当て擦りなのだろうが、知らないところで奔走してくれた賢吾には言う権利がある。苦笑した和彦は、お詫びとばかりに、弁当に入っているエビの天ぷらを差し出す。ニヤリと唇を緩めた賢吾は、遠慮なく食べてしまった。
「俺〈たち〉の心配が杞憂じゃ済まないのが、お前の危ういところだ」
 あっ、と声を洩らしたのは、守光との会話を思い出したからだ。どうしたと、賢吾が視線で問うてくる。
「――……ぼくがつけられてたこと、会長に話したんだよな」
「当然。オヤジには情報が集まるからな。心当たりの一つでもあれば流してもらいたかったんだ。もっとも今回は、情報を掴んでいたのは秋慈だったわけだが」
「そのことも、会長に伝えたんだろう」
 一瞬、意味がわかりかねたように首を傾げた賢吾だが、和彦の表情で察したようだった。
「気に食わなかったか?」
「……なんとなく、会長の様子が気になって。御堂さんの立場が悪くなることは……」
「あいつとは長年の腐れ縁で友人だが、極道としてはなかなか食えない奴だ。オヤジ相手には俺はどうしたって肉親の情が入るが、その点秋慈はシビアだ。あいつが俺に知らせてくれたのは、お前を安心させたかったのもあるだろうが、本当の目的は伊勢崎組のネタをオヤジの耳にも入れたかったのかもな」
「なんのために?」
「さあな」
 はぐらかされたのはわかったが、和彦が知る必要はないと賢吾は判断したのなら、どれだけ問い詰めても無理だろう。
『――極道の考えることは、極道にしかわからん。多分な』
 守光がこう言ったように、賢吾には御堂の何かしらの意図が見えているのかもしれない。
 湯葉巻きを箸で摘まみ上げたまま考え込む和彦に、賢吾は苦笑を含んだ柔らかな声でこう言った。
「そんな難しい顔をしてると、美味いものでも不味くなるぞ」
 胃が痛くなりそうな話を聞いても、空腹感はしっかりある。和彦はがぶりと湯葉巻きにかぶりついた。









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