久しぶりに自宅マンションに戻ってきた和彦は、書斎に荷物を運びこんだ組員が引き上げるのを待ってから、腰を落ち着ける前に各部屋を見て回る。
心配するまでもなく手入れが行き届いており、大げさではなく埃一つ落ちていないのではないかとすら思える。カーテンや寝具も入れ替えられており、当然、クローゼットには春物が並んでいる。さらに冷蔵庫の中は、和彦が好みものばかりが収まっていた。
「さすが……」
笠野が目を配っていたとのことなので予想はしていたが、まさに至れり尽くせりだ。
書斎に入ってドアを閉めると、ようやく一人きりになったのだと実感する。本宅の居心地は確かによかったのだが、完全に一人きりとなって味わう解放感の心地よさは、別ものだ。
これで心置きなく作業ができると、床の上に座り込んだ和彦は、組員に運んでもらった段ボールを開ける。ログハウスに残してきた和彦の私物で、すでに季節外れとなった冬服の他に、買い込んでいた本や雑誌も入っている。そして何より大事な、和泉家の相続関係の書類や資料も。和彦が長嶺の本宅に滞在し始めた翌々日には、なぜか秦の手によって届けられたものだ。
和彦が鷹津の身の安全についてさほど心配していなかったのは、この荷物の存在があったからだ。秦に手を回せるほど余裕があったということは、総和会に身柄を押さえられなかったという証明になる。
長嶺組――というより賢吾が、鷹津を追っているのかどうかは、正直よくわからない。互いに忌々しい存在だと思っていても、利用できると認め合っている節もある男たちだ。和彦からあれこれは聞けない。
この荷物の中に九鬼の名刺も入っていたので、それ以外のものにも長嶺組のチェックは入っているだろう。和彦が和泉家から受け継ぐことになるものについてどう感じているか、これもまた和彦は賢吾には聞けない。
大蛇の潜む賢吾の目に、肉欲以外の〈欲〉を見たくないのだ。
荷物を取り出し分類していくと、最後に、厳重に梱包されたプラスチック製の食品保存容器が残る。中に入っているものが万が一にも濡れたり、傷ついたりしないようにという、鷹津なりの気遣いだ。
大きく深呼吸をしてから和彦は保存容器の蓋を開け、ビニール袋に包まれた小さなアルバムを取り出す。和泉家で別れ際に総子が渡してくれたもので、収まっているのは、すべて紗香の写真だ。
自分では平気なつもりだったが、最初の一枚を見た途端、和彦の胸は詰まる。おそらく病院で撮ったものだろう。パジャマ姿の生気の薄い横顔を見せており、背景は殺風景だ。写真を撮られることが嫌いだったということから、隠し撮りに近い写真だろうとうかがえる。
紗香のことを思い出せたとはいえ、ほんの欠片ほどの記憶だ。それでも、写真を眺めていると込み上げてくるものがある。一度、ログハウスでアルバムを開いたときに鷹津の前で涙を流してしまい、あのふてぶてしい男を動揺させたぐらいだ。和彦自身、自分の反応に戸惑い、以来、一人きりになれる場所でしかこの写真は見ないと決めた。だから、長嶺の本宅でも段ボールの底に仕舞ったままにしておいた。
「はー、ダメだな……」
もうこの世にいない実の母親に対して、感傷的になっているが故の反応かもしれないし、もっと素直な感情の揺れ故の反応かもしれない。
とにかく、このアルバムは和彦にとっての聖域となった。本棚に並べるのははばかられ、デスクの引き出しに仕舞っておく。
片付けを終えてやることがなくなると、コーヒーを淹れるためキッチンに立つ。カップなどを準備していると、テレビもつけていないのにどこからか音楽が聞こえてきて、耳を澄ませる。なんの音だろうかと首を傾げた数瞬後に、慌ててキッチンを飛び出す。いまだに耳慣れていない、スマートフォンの着信音だった。
書斎で充電中だったスマートフォンを取り上げたときには、すでに電話は切れていた。てっきり長嶺父子のどちらかと思ったが、表示された名を見て和彦は苦い表情となっていた。
言い訳をして後回しにしていた自分が悪いのだ――。
重苦しいため息が出そうになるたびに、和彦はそう自分に言い聞かせる。一方で、気持ちを整理する時間もほしかったのだと、また言い訳を重ねてしまう。
自分のペースで物事を進めたいと願うのは、今の環境では難しい。事情も感情も利害もが絡み合い、嫌でも和彦自身に決断と行動を促してくる。
「いや、そう大げさなものでもないのか……」
堪らず独りごちると、運転席の組員が背後をうかがう素振りを見せる。なんでもないと言いかけて、まったく違うことを口にしていた。
「本当にすまない。こちらの都合で、いきなり呼び出すことになってしまって」
和彦の言葉に、前列の組員二人はのんびりと笑う。
「気にしないでください。組からしてみれば、先生が何も言わずに出かけられるほうが、よほど怖いんで。よくぞ、連絡してくれました」
大層に褒められることでもないのだがと、つい複雑な表情となってしまう。
実のところ、黙ってでかけようかと一瞬思わなくもなかったが、正体不明の人物に尾行されたばかりなのもあって、実行には移せなかった。和彦も命は惜しい。
和彦のスマートフォンに残っていたのは、実家の電話番号だった。何事かと反射的にかけ直して電話に出たのは、母親である綾香だ。用件は端的で、年明けからいままでの出来事について報告がほしいというものだった。和泉家からの相続の件もあり、綾香の言い分は至極もっともだ。そう理解していても、和彦は自分から佐伯家に連絡を取ることができなかった。俊哉個人の携帯電話に連絡を取るのとは、わけが違う。
何もかも知った今となっては、佐伯家の家族の一員として振る舞うことが、ただ苦しい。俊哉はともかく、綾香や英俊にとっては、〈佐伯和彦〉という存在はなかったことにしたほうがいいだろうし、そういうものとして日常を送っていてほしいと願ってすらいた。
だからこそ、今から実家に来られないかという綾香の言葉は意外で、困惑はしたものの拒否はできなかった。ふと気になって、俊哉はまだ仕事中ではないかと尋ねたとき、綾香は沈黙した。
沈黙の意味は理解したつもりだ。つまり、俊哉は知らないし、知られたくないのだ。
罵倒されるぐらいで済むだろうかと、和彦は無意識にネクタイの結び目に指をかける。綾香と会うのにどんな服装がいいだろうかと悩む時間もなく、無難にスーツを着込んできた。
ネクタイを緩めかけて寸前で止める。とうとう実家が見えてきたせいだが、車はスピードを落としながら一旦通り過ぎた。監視している者がいないか確認したのだと今の和彦ならわかる。
実家近くで和彦と助手席の組員が車を降りる。もちろん中に入るのは和彦だけで、組員は外の目立たない場所で待機しているという。
インターホンを押すと、今回はすぐに応答があった。淡々とした綾香の声を聞いた途端、心臓が締め付けられたように胸苦しくなる。和彦は一拍置いてから名乗り、門扉を押し開けた。
玄関前に辿り着くまでに、どんどん鼓動が速くなり、手足が冷たくなってくる。それでもなんとかドアを開けると、珍しくワンピース姿の綾香が出迎えてくれた。その姿を見て、和彦は仰け反るほどの衝撃を受ける。脳裏を過ったのは、記憶にある紗香の姿だった。
「……おかえりなさい」
顔を強張らせたまま立ち尽くす和彦に、逡巡を見せたあと綾香が声をかけくる。ハッとして、なんとか言葉を絞り出した。
「ただ、いま……」
上がるよう言われて和彦は靴を脱ごうとしたが、どうしても先に言っておきたいことがあった。
「ごめん、か、さん……。もっと早くに、こちらから連絡するべきだったのに……」
「――わたしの存在なんて、頭になかったでしょう」
底冷えするような冷たい声の響きに、和彦は総毛立つ。
「そんな、こと……」
「昔から、この家のことはなんでもわたし抜きで決まってきたから、仕方ないんでしょうね」
困惑して立ち尽くす和彦に、綾香は初めて見せる自虐気味な笑みを向けた。
「あなたの連絡先がわからなくて、俊哉さんの携帯を盗み見てようやく知ったのよ」
「それは……、母さんを面倒なことに巻き込みたくないと、父さんなりに考えたんだと思う」
「あの人は、わたしに説明することが面倒だったんでしょう……」
ここで綾香が大きく息を吐き出し、額に手をやる。ひどい痛みを感じたように顔を歪めた。
「母さん、大丈夫?」
「まだ、そう呼んでくれるのね。――全部思い出したんでしょう?」
「……思い出したけど、母さんは母さんだよ。ぼくにそう呼ばれるのは、ずっと不本意だったと思うけど」
和彦と俊哉に血の繋がりがない可能性を、綾香が知っているのかどうかはわからない。その疑問を今ここで投げかけるのと、自分の夫と妹との不義によって生まれた子だと信じたままの現実と、どちらがより残酷なのだろうかと、ふと考えてしまう。
どちらにしても、和彦の存在は、綾香の心に刃を突き立てる存在にしかなりえない。そう思いながらもこうして向き合うと、やはり自然と出てしまうのだ。『母さん』と。
皮肉でもなんでもなく、和彦は心の底から綾香に同情していた。幼少時からの綾香の自分に対する態度は、すべてを知った今では理解と許容ができる。
「何も……、悪くないでしょう。あなたは。家と大人の勝手な都合に巻き込まれただけで――」
ここまで言って綾香が呻き声を洩らした。
「そんな環境が、あなたを追い込んでしまった。だから、あんな連中のところに……」
和彦はハッとして顔を強張らせる。綾香の言う『あんな連中』がなんであるか、即座に理解した。
「母さん、ぼくは――」
行き場がなくて長嶺の男たちの庇護下にあるわけではない。そう訴えようとしたが、綾香が続けた悲痛な告白に声が出なかった。
「あなたを見ていると、どうしても紗香のことを思い出していた。……妹から取り上げてしまったという罪悪感が、ずっと消えなかったの。でも、また子供を持てて嬉しいと思ってしまう自分もいて、英俊にしていたように素直に大事にはしてあげられなかった。そうしているうちに、あんな事件があって、紗香の母親としての執念を見せつけられて……」
和彦が、側にいるのに触れられない存在になってしまったのだと、綾香は続けた。
歯止めを失ったように心情を吐露し続ける綾香に、ただ和彦は気圧される。綾香が語れば語るほど、母親という殻が剥がれ落ち、その下からおぞましいものが姿を見せそうだ。
今の綾香と重なるのは、幼い和彦の前で壊れていった紗香の姿だった。
込み上げてくるものがあり、口元を押さえる。そんな〈息子〉の異変に気づかず、綾香がぎこちなく微笑みかけてきた。
「ああ、ごめんなさい、立たせたままで。さあ、早く上がって」
そう言って綾香が手を伸ばしてきたが、腕に触れられる寸前で本能的に和彦は身を引く。愕然としたように綾香が顔を強張らせた。
「ごめん、母さん。今日は帰るよ……」
綾香の表情の変化を見るのが怖くて、そう言い置いて和彦は玄関を飛び出した。
外に出てきた和彦を見るなり、待機していた組員が物陰から駆け寄ってくる。
「先生っ」
「帰ろう」
「……あの、早くないですか? もう用は――」
「今日はいいんだ」
帰ろう、と繰り返す和彦に組員もそれ以上は何も言わず、伴われて車に戻る。
帰路はさんざんだった。手足が異常に冷たくなっていたのは自覚していたが、途中で気分が悪くなり、急いで立ち寄ったコンビニのトイレで嘔吐までしてしまった。眩暈もひどく、なんとかマンションまで戻ったものの歩くのも覚束ない状態となり、結局、組員の判断で長嶺の本宅へと運び込まれることとなった。
久しぶりに髪を切ったせいか、首筋を撫でていく風の感触が新鮮だった。施術中は、バサバサと落ちていく髪を惜しむ気持ちもあったが、美容室の外に出てしまえば現金なものだ。やはり切ってよかったと思える。
和彦はさっぱりとした後ろ髪を一撫でして、歩き出す。背後を振り返るまでもなく、長嶺組の護衛はついているのだが、傍からは同行者だとわからない程度に、距離は空けてもらっている。これは和彦から言い出したことではなく、賢吾の指示によるものだ。
和彦はまた、長嶺の本宅に滞在している。綾香と会って動揺したことで、ほんの少しだけ体調を崩したのだが、それを見逃す長嶺父子ではない。もっともらしい言葉で丸め込まれてしまった。どうせ塞ぎ込むなら、側に人がいたほうが安心だろうと言われては、逆らえるはずもない。
ただ自分でも意外だったのは、和彦が客間に閉じこもっていたのはわずか一日ほどで、その翌日には、気分転換がしたいと外出できたことだ。外出のために服を選び、馴染みの美容室に予約を入れ、あれこれと予定を立てる一方で、これから先の家族との向き合い方や距離感を思索していたが、その最中に自覚したのは、決して自分が苦悩しているわけではないということだ。
実家について多少俯瞰して見られるようになっていた。佐伯家は、自分の人生におけるすべてではないと薄々わかっていながら、俊哉に望まれるままに身を委ねて生きていくつもりだったが、いつの間にかその感覚は希薄になっている。まるで真水に晒されて、毒が抜けたように。それとも、より強い毒によって染められたのか。
無意識に苦々しい表情になっているのに気づき、ほっと息を吐く。答えの出ない自問に疲れたというのもあるが――。
和彦は頭上を見上げて目を細める。今日は春というより初夏めいて陽射しが強く、気温が高い。この陽気で一気に桜は開花するだろう。自分の中にある硬い蕾めいた陰鬱も、花開いたあとに散ってくれないだろうかと益体もないことを思ってしまう。
もっと陽射しを浴びるためにふらふらと散歩したいところだが、次の行き先の予約時間が迫っている。コインパーキングで待機していた車に、護衛についていた組員と共に乗り込むと、さっそく出発する。
向かうのは、医大時代からの友人である橘が勤める病院だ。
和泉家に滞在している間に、自分の中にある記憶の歪みがもたらした弊害を痛感したし、実父――かもしれない賀谷からもPTSDの治療を勧められた。安定剤さえ処方してもらえばいいという考えは、一昨日綾香と会ったことで、さらに改めざるをえなくなった。
自分もいつか紗香や綾香のように、怖い生き物へと変じるのではないかという怯えが、いつの間にか和彦の中に芽生えていた。それはささやかなものだが、無視もできないのだ。
母親たちの気質を受け継いだかもしれないとしたら、血の繋がりとは本当に厄介だと厭わしく感じ、そんな自分の薄情さに和彦はうんざりとする。だから、心療内科の主治医である橘に吐き出したい。それはカウンセラーの仕事だと、面倒見のいい年上の同期は苦笑するかもしれないが。
病院を出た和彦は、その足で道路を挟んで向かいにある薬局で薬を受け取る。ここまでは、いつもの手順だ。ただ今日は、すぐに車に乗り込む気分にはなれなかった。
薬局の外で待っていた組員に、申し訳ないが、と切り出す。病院近くのコーヒーショップを指さした。
「少しあそこで休ませてもらっていいか?」
「もちろんかまいませんが、顔色が悪いですよ、先生。よければ、わたしが買いに行きます」
「いいんだ。少し一人でぼんやりしたい」
受け取ったばかりの薬の入った袋を組員に預け、和彦はコーヒーショップに入る。アイスカフェラテを買うと、少し迷ってから外に置かれたベンチに腰掛ける。和彦の姿が見えないと、組員たちが落ち着かないだろうと考えたのだ。
話しすぎたせいか、喉が痛い。和彦は軽い咳をしてからストローに口をつけながら、さきほどまで受けていた橘の診察を思い返す。
三か月以上ぶりに診察に訪れた和彦を見るなり、橘はぎゅっと眉をひそめ、強いひげに覆われたあごに手をやった。
「かつてないほど健康的に見えるのに、不景気そうな顔をしてるな」
開口一番にそう言われたときはさすがに笑ってしまったが、友人らしい口調で話しかけてきたのはこれだけだ。次の瞬間には橘は、心療内科医として患者と一定の距離を置いた表情と声音で和彦に問いかけててきた。
「――最近、変わったことは?」
前回の診察時に橘には、実家に里帰りをすることは告げていたため、和彦はそれから何があったのか大まかに説明した。母方の実家にまで出向き、母親の墓の前でフラッシュバックを起こした結果、幼少時に欠落した記憶が戻ったことも。
しばらく人を避け、山奥でひっそり療養していたと告げたとき、橘はなんとも複雑そうな表情となり、ボールペンの尻で頭を掻いていたのが印象的だった。
長い期間記憶を失っていたことがPTSDに起因したものだとしたら、正常に戻った現在は、すでに快癒したといえるのではないかという和彦の質問に、あっさりと橘は首を振った。むしろ、記憶が戻ったことによって新たな症状が起こるかもしれないと指摘され、咄嗟に頭に浮かんだのは、綾香と対面したときの光景だった。
〈母親〉という存在に怖さを感じていると吐露していた。思わず出た言葉だったが、口にして和彦は、正直な気持ちであると認めた。ぼんやりとした思慕の一方で抱えてしまった、後ろ暗い気持ちだ。
橘から、フラッシュバックを起こしたときの呼吸法やリラックス方法を教えられた。不安感を和らげる薬はこれまでと同じものを処方して、様子を見るとも言われた。
「時間をかけていくしかない。時間薬というやつだが、もし体の異変が現れるというなら、PTSDを専門にしている先生を紹介してやれる」
「それはいい。今のところ、たまに不安感のせいで眠れなくなるぐらいだから。それに、橘さんだから、診てもらおうという気になるんだ。他の先生だったら、たぶん病院から足が遠のく」
「あのなあ……」
呆れたように呟いた橘が、もう書くことはないとばかりにボールペンをデスクに置いた。
「自分を追い込むような状況に身を置くなよ。なんの拍子で精神のバランスが崩れるかわからないし、それに体が耐えきれないということもありうる」
「ぼくは楽なほうに流れる性質だから、そこまでマゾじゃないよ」
「環境や状況にじわじわと慣れていって、気がついたときには取り返しがつかないことに――なんて、お前がそうならないよう、友人として願ってるよ」
別れる間際、今度来るときは家族のことをもっと話してくれと橘に言われ、和彦は困惑した。詳細な説明まではしなかったが、さすがに橘も和彦の家庭の歪さを感じ取ったのだろう。
「余計なことを言ったな……」
自らの発言の迂闊さを反省したが、だからといって担当医や病院を替える気はまったくない。橘には、医者としてとことんつき合ってもらうつもりだった。組に頼んで安易に安定剤や睡眠薬を手に入れてもらうと、歯止めを失ってしまいそうで怖い。橘は和彦にとって、表の世界と繋がる細い糸のようなものなのだ。
アイスカフェラテを飲み終える頃には、なんとなくふわふわとしていた気分が落ち着く。店に一気に団体客が訪れたのを機に、和彦は席を立った。
病院近くの河川敷は散歩コースとして普段からにぎわっているのだが、今の時期だと桜や菜の花目的で訪れる人もいるらしく、わざわざ近隣の駐車場に車を停めてから向かっているようだ。さきほどの団体客もそうなのかもしれないと思っていると、立派なカメラを首から提げた初老の男性グループとすれ違った。
和彦はジャケットのポケットに入れてあるスマートフォンに触れる。いまだ一枚も写真を撮っていないため、せめて春らしいものを撮っておこうかと、少しだけ浮ついたことを考えた瞬間、立ち止まってパッと背後を振り返った。
さきほどのコーヒーショップを訪れていた団体客は、注文カウンターの前で混雑を生み出していた。その中に、地味な色合いのスーツを着た男二人がおり、その姿を和彦はガラス越しに視界の隅に捉えていた。
今この瞬間、どうして男たちが気になったのか思い出した。カジュアルな服装の一団の中にあって、彼らだけがスーツ姿で、しかもこちらを――和彦を見ていたように感じたのだ。たまたま目が合っただけだと瞬間的に判断したのだが、一気に違和感が湧き起こり急いで引き返す。
コーヒーショップを覗いたが、混雑はまだ解消していないものの、和彦が見たスーツ姿の男たちの姿はすでになかった。自分の気のせいだったというつもりはない。確かに男たちはいて、和彦を見ていた。おそらく無関係の団体客に紛れて。
「先生、どうかされましたか?」
離れて見守っていた組員が異変に気づいて駆け寄ってくる。和彦は口ごもったあと、車の中で説明すると告げ、急いでその場を離れた。
帰宅した賢吾は、見るからに機嫌が悪かった。一足先に帰宅した千尋は気色ばんで和彦に駆け寄ってきたので、この辺りの反応の違いは、潜り抜けてきた修羅場の違いによるものかもしれない。
誰かが大蛇の尾を踏んだせいだと、和彦は苦々しく思いながら、ロールケーキを一口食べる。春の期間限定ということで、生地も生クリームもほんのりとピンク色で、桜の風味が口内に広がる。組員の奥さんが差し入れてくれたものだそうで、食後のデザートにと笠野が勧めてくれたのだ。紅茶との組み合わせは最適だったと、自分の飲み物の選択に満足していた最中だった。
和彦が寛いでいるように見えたのだろう。ダイニングにやってきた賢吾はほんのわずかに目元を和らげた。
「――美味いか?」
「ご飯も喉を通らないという状態じゃなくて申し訳ないが、美味しい」
「お前にやつれられると、あちこちから俺が責められるからな。それでいい」
そう言って賢吾の手が、さりげなく髪を撫でてくる。
「よく似合ってる」
礼を言うのも照れ臭くて、いつもと同じ髪型だともごもごと応じていると、ちょうど風呂から上がってきた千尋もダイニングにやってくる。ふらふらと和彦に近づいてくると、背後から抱きついてきて甘えるように肩に額をすり寄せる。
いきなり長嶺の男二人に絡まれて、和彦としては苦笑するしかない。とりあえず、心配されていたことはよく伝わってくる。
賢吾はあごに手をやり、何か考える素振りを見せたあと、こう宣言した。
「よし、一時間後に俺の部屋で家族会議を開くぞ」
「家族会議って……」
「もちろん、お前も同席しろ。今日のことで話を聞きたい」
風呂の前に野暮用を片付けると言って、ジャケットを脱いで組員に預けた賢吾がどっかとイスに腰掛ける。心得たもので組員が、手帳を開いて仕事の打ち合わせを始める。この様子だと、いろいろと用事を放り出して帰宅したようだ。和彦を心配して――。
千尋は、髪を乾かしてくると言い置いて自分の部屋に戻り、和彦としては、この状況で優雅にデザートを味わうのは気をつかう。せっかくのロールケーキを気忙しく紅茶で流し込むと、ダイニングから逃げ出した。
もっとも一時間後には、賢吾の部屋で改めて顔を合わせたのだが。
座卓についた賢吾は無事に風呂を済ませたのか浴衣に着替えており、肩に羽織をかけている。ちょっと見惚れるほどその姿が様になっており、和彦は苦労して視線を引き剥がす。今夜はもう何もしないという決意の表れか、座卓の上には酒肴が用意されていた。
「家族会議じゃないのか」
和彦がつい洩らすと、賢吾が軽く首を傾げる。
「飲みながらでも話せるだろ」
「……会議なんて言い出すから、どれだけ大層なものかと思ったら……」
「いやいや、大層だぜ? お前がまた狙われたことについて話し合うんだからな」
「それはちょっと大げさだ。気になる男たちがいたというだけだから」
危機感が足りないと言いたげに賢吾が微苦笑を浮かべる。和彦は慌てて言い募った。
「心配してくれているのはわかってるんだ。でも、決定的なことが起こったわけじゃない。見られてただけで――」
「お前がいくら色男でも、あとをつけるような奴はまともじゃねーんだ。お前も薄々、相手の種類は察してるんだろ」
賢吾に示され、和彦はやっと正面に腰を下ろす。いつの間にか部屋の外で待機していたらしく、一声かけて笠野が障子を開ける。和彦の前にお茶の入ったカップを置くと、すぐに部屋を出て行く。
数秒待ってから和彦は口を開いた。
「たぶん、今日の男たちは堅気じゃなかった」
「それで?」
「意地が悪いな。ぼくにわかるのは、それぐらいだ」
軽く鼻を鳴らした賢吾は、たけのこの和え物を口に運ぶ、小気味いい咀嚼音を聞きながら、和彦は座卓の隅に置かれたタブレット端末に気づく。
「――舐めたまねをしやがる」
ふいに地を這うような低い声がした。ゾクリと身震いをして反射的に賢吾を見る。忌々しいほど魅力的なバリトンの本来の使い方を、唐突に教えられた。この男の声は、物騒な武器でもあるのだ。
硬直する和彦に対して、賢吾は安心させるようにふっと笑いかけてくる。
「おっとりしたお前はともかく、周囲がどれだけ警戒しているか、探りたかったのかもな。しばらく行方をくらませていた人間が、突然またふらふらし始めたら、まあ、気になる連中はいるだろう」
ここで障子が開き、今度は千尋がするりと部屋に入り込んでくる。手には缶ビールを持っており、何食わぬ顔で当然のように和彦の隣に座った。
一旦会話が止まったのをきっかけに、三人はそれぞれ飲み物に口をつける。笠野が淹れてくれたのはほうじ茶で、香ばしい香りにほっと息が洩れる。賢吾のグラスは焼酎のお湯割りだそうだ。飲むかと問われたが、遠慮しておいた。
「……しばらく、ぼくは本宅に近づかないほうがいいかもしれない」
ぽつりと和彦が呟くと、千尋が大仰に目を剥く。
「何言ってんのっ」
「いや、いままではぼくが一番弱い立場だったから、当然のようにここで庇護されてたわけだけど、近いうちに、お前の――稜人くんが滞在することになるんだろ。ぼくが厄介事を運び込むわけにはいかない」
今日本宅に戻ってから、あれこれと組員たちに世話を焼かれながら考えていたことだ。目が離せない小さな子供が本宅にいて、和彦の護衛によって負担をかけるのは本意ではない。何より、稜人自身が怖い目に遭う可能性は、限りなく潰しておきたい。自分が幼少時に体験したことを思い出してから、和彦は子供に対する見方がやや変化していた。
真摯な気持ちで訴えたというのに、なぜか長嶺の男二人は顔を見合わせたあと、声を洩らして笑い始めた。
「どうして笑うんだ。ぼくは冗談を言ったつもりはないんだが……」
「うちの先生は生まじめだと思ってな」
賢吾に『先生』と呼ばれて鼓動が跳ねる。少しだけ嬉しいと思ってしまった。
「そういう心配するの、和彦ぐらいだよ、きっと。うちなんて厄介事の巣窟みたいなところなのに」
「お前……、実家だろ。そういう言い方……」
「実家だからよくわかるんだって。だから、和彦が心配しなくていいよ。多少のことなら、ここにいる大蛇がぱくっと呑み込むから」
もっとも、と賢吾が言葉を引き継ぎ、両目に剣呑とした光を宿す。
「それらしい理由をつけて、お前が俺たちから距離を置きたいというなら、話は別だがな」
「……だったら最初から、戻ってこない」
和彦がじっと見つめ返すと、賢吾はすぐに降参した。
「悪かったな。お前がいじらしいから、つい意地悪を言っちまったな」
「意地が悪い中年男は嫌われるからな」
千尋の発言に対して、賢吾は澄まし顔でグラスに口をつける。
家族会議と言いながら、こんなことを話していていいのだろうかと疑問に感じたところで、賢吾がふいにタブレット端末を取り上げ操作してから、和彦に差し出してきた。
「秋慈が送ってきた画像データだ。お前も見たほうが手っ取り早い」
意外な名が出て和彦は目を丸くする。御堂秋慈の灰色がかった髪と秀麗な顔立ちが鮮明に脳裏に浮かび上がった。
最後に御堂と会ったのは昨年末の総和会の本部だったが、知らず知らずのうちに顔が熱くなってくる。御堂は元オンナとして、傷ついて脆くなっていた和彦を抱き締めて、慰めてくれたのだ。そのとき一度だけ唇を重ねた。二人だけの秘密で、賢吾にも言ってはいけないという御堂の忠告を、和彦はしっかりと守っていた。
「あいつも食えない奴だからな。クラゲのような細くて長い毒を持つ触手を、いろんなところに伸ばしている。これぞという餌や敵に刺して毒を流し込むんだ。俺は一応身内だと判定されているようだから今は平気だが、そうじゃない相手には――。あいつが優しいのは、オンナに対してだけだろうな」
そう言う賢吾の口ぶりと眼差しから、薄々とながら和彦と御堂の間に何かあったことを察しているようではあるが、嫉妬や怒りといったものを感じない。賢吾にとっても御堂は、大蛇が牙を向けない身内に含まれているようだ。
「お前の里帰りからの経緯について簡単に説明したついでに、尾行のこともぽろりと洩らしたら、心当たりがあったらしい。持つべきものは、総和会第一遊撃隊隊長の友人だ。――俺が切り出さなきゃ、いつまで情報を仕舞い込んでおくつもりだったのか気にはなるが」
受け取ったタブレット端末に視線を落とす。表示されていたのは見知らぬ男の画像だが、明らかに隠し撮りされたものだ。しかも一人ではない。和彦が次々と画像を確認していく様子を、賢吾と千尋は黙って見守っている。
画像には、数人の男たちを個別に、街中を移動する様子や建物から出てきた瞬間などが収められていた。ありふれた服装をしており、外で見かけても自然にすれ違うであろう特徴のない男たちに見えるが、撮った側がこめた意図や敵意が、画像を通して和彦には伝わってくる。この画像の男たちは、おそらく賢吾たちと同種だ。
「この人……」
和彦は、ある画像で手を止める。地味な色合いのスーツを着た、不自然なほど真っ黒な髪色をした二十前半に見える男を見た途端、おぼろだった脳内の映像がしっかりと輪郭を持つ。今日、コーヒーショップで見かけた男だった。
パッと顔を上げると、目が合った賢吾が眉をひそめる。
「今日見た男か?」
「たぶん、そうだ……。これ、誰なんだ?」
「――伊勢崎組の組員だ」
これもまた意外な名だった。和彦が目を開くと、賢吾はサディスティックな笑みを口元に浮かべた。
「お前が今思い浮かべたのは、組長である伊勢崎龍造か、その息子である伊勢崎玲か、興味があるな」
伊勢崎父子のことを聞かされてからずっと、不自然な鼓動の乱れ治まらなかった。父子、と言いながら、やはり強く思ってしまうのは、玲のことだ。
大学受験が上手くいったのなら、もうとっくに新たな生活の準備は整えているだろう。一緒に行動したのはほんの数日のことだったが、彼はいろいろなことを話してくれた。大学生活を送るにあたり、父親から離れて一人暮らしをしたいのだと語っていたが、果たして希望は叶ったのだろうか。
龍造が、〈こちら〉で商売を始めようとしていることは、御堂や賢吾がちらりと話していたので知っている。龍造本人が出向いてくるなら、玲が安穏とした大学生活を送れる光景は残念ながら思い浮かばないが、他人である和彦が心配するのはおこがましいだろう。
夜も更け、本宅は詰め所を除いてひっそりと静まり返っている。入浴を終えた和彦はいつもなら客間で一人寛いでいる時間だが、今夜はなんとなく落ち着かなくて、こうして中庭に下りていた。
庭園灯のぼんやりとした明かりが、白く小さな花をつけた庭木を照らしている。賢吾も千尋も中庭の植物になど興味がなさそうなのに、気がつけば種類が入れ替わっていたりして、こまめに手入れが行われている。なんの花なのか、組員に聞いてみようかと思っていると、ふいに背後でぞろりと何かが蠢く気配がした。
総毛立ったのは一瞬で、すぐに肩から力を抜く。
「――身が燃えるか」
揶揄するように話しかけられ、和彦は短く息を吐き出した。
「意地の悪い中年男は嫌われると千尋が言ってたぞ」
「どのあたりが意地悪なんだ」
「……そういうところ」
隣に賢吾が立ち、和彦の肩に羽織をかけてくる。雨が近いのか、今夜は風が生ぬるくて暖かいぐらいなのだが、厚意はありがたく受け取っておく。
「秋慈はまだ何か隠しているぞ。伊勢崎組……というより、伊勢崎龍造に関して」
「気づいてて、聞かなかったのか?」
「聞いたが、まだ探っている最中だと、すげなくあしらわれた。大事な一人息子を骨抜きにした相手が気になって、とんでもない行動に出るなんて、どこぞの誰かとよく似てるじゃないかと、当て擦られもした」
ふふ、と和彦は笑う。御堂にあしらわれて、大蛇の化身のような男がすごすごと引き下がった姿を想像したのだ。
「笑い事じゃねーぞ。――お前の周りには、厄介な男ばかり寄ってくる。たまには人畜無害な奴を引っ掛けてもいいんだぞ」
「人をなんだと思ってる。意識してそんなことできるわけないだろ。だいたい、あんたたち父子と知り合う前までは、それなりに平穏に生きてたんだからな」
どうだかなと言いたげに、賢吾が軽く鼻を鳴らす。和彦が肘で軽く小突くと、肩に腕が回された。肩先を撫でられ、たったそれだけのことで体温がじわりと上がる。意識を他に向けようとして、耳元に唇が寄せられた。
「――和彦」
名を呼ばれただけで腰が砕けそうになる。咄嗟に賢吾の胸元を掴むと、そのまま抱き寄せられた。
浴衣に包まれた賢吾の体は熱い。その熱に刺激されて身の内がざわつく。間近から目を覗き込まれ、逸らせなくなっていた。唇が重なってきて、喉の奥から声が洩れる。
「お前が傷つけられるような事態になっていたら、俺は伊勢崎龍造を許さなかった。……護衛についてた奴から聞いたが、一人で突っ走ったそうだな。もし相手が待ちかまえていて、拉致されたらどうするつもりだったんだ。肝が冷えたぞ、俺は」
「さすがに組員が助けてくれるだろ。それに、少しぐらいならぼくも抵抗して――」
心底呆れたように賢吾がため息をつき、唇に軽く噛みつかれた。
「暴力に慣れた奴相手に、自分でなんとかしようとするな。かえって怪我をする」
「……何度でも言うが、一応、護身術程度のことは教わったんだが」
「〈あいつ〉の名前を今この瞬間に出さなかったのは、賢明だな。今日はもう、伊勢崎父子の名前だけで腹いっぱいだ」
賢吾は鷹津を強く意識していると、次の発言でさらに思い知る。
「俺は、お前を大事に大事にしてるんだぜ? サソリの毒が抜けないうちにお前を抱こうとして、拒まれるのを恐れるぐらいには、臆病にもなってる。今日だって、何もするつもりはなかった」
唇を啄みながら賢吾に囁かれ、和彦はただ聞き入る。
「だが、あれはいけねーな。あれで、俺は我慢できなくなった」
「な、に……? なんのことを、言って……」
「伊勢崎の息子の名前を出した途端、お前が艶めいた顔をした。――俺を目の前にして、他の男のことを考えて発情しただろ」
「してないっ」
「千尋も気づいたぞ。お前に関してはおそろしく鼻が利くからな、あいつも」
ぞっとするほど優しい手つきで賢吾に頬を触れられ、そこから首へとてのひらが移動する。縊り殺されるのではないかと和彦は本能的に怯えたが、同時に、身震いしたくなるような興奮が湧き起こる。
「お前は、俺のオンナだ」
「……ああ」
「去年の末に、総和会本部でお前が俺に言ったことは覚えてるか?」
喉仏に指がかかり、微かに喘いで和彦は頷く。
「今も気持ちは変わってないな?」
たった一つの返事しか求めていない問いかけだった。和彦は、賢吾の目を見つめ返す。両目に宿るのは狂おしいほどの執着と情欲だ。これほどの男に、こんな目をさせる自分の存在に、自惚れそうなる。
「――……あんたから先に、言ってほしい」
「大したオンナだ、お前は。俺も手玉に取るか」
賢吾の声音に一気に凄みが増したが、怒っているわけではない。ひどく高ぶっているのだ。
「愛してる、和彦」
唇を触れ合わせながら賢吾に囁かれる。和彦は悦びに身を震わせた。
「もっと言ってくれ……」
「愛してる。お前だけだ、和彦。愛してる――」
囁かれるほどに大蛇の甘い毒に浸されていき、恍惚とする。そっと賢吾の唇を吸い返し、溢れ出る気持ちを言葉にする。
「ぼくも……、愛してる。あんたになら、殺されてもいいと思うぐらい」
「そんな勿体ないこと、するわけねーだろ」
苦笑した賢吾に向けて、もう一度『愛してる』と告げてから身をすり寄せる。きつく抱き締められてから、すぐに体を離される。
腕を掴まれて和彦は中庭から連れ出される。脱ぎ捨てたサンダルを揃える間すら与えられず、大股で歩く賢吾に引きずられる。
連れ込まれたのは賢吾の部屋だった。床が延べられている寝室に入ると、突き飛ばされる。布団の上で仰向けとなった和彦は、覆い被さってくる賢吾をただ見上げる。いや、待ちかねていた。
浴衣の裾をたくし上げられ、乱暴に下着を剥ぎ取られる。両足を抱え上げられたうえに、大きく左右に広げた格好を取らされた。和彦に見せつけるように舐めて唾液で濡らした指を、賢吾は内奥の入り口へと這わせてきた。
「うっ、う……」
こじ開けるようにして、一本の指が付け根まで挿入される。疼きと異物感に和彦は声を洩らしながら、きつく指を締め付ける。すぐに指の数は増やされ、内側から解されていく。
襞と粘膜をじっくりと擦り上げられ、掻き回される。賢吾の見ている前で、瞬く間に和彦の欲望は身を起こし、切なく震える。
「いやらしいオンナだ」
うっすらと笑みを浮かべて呟いた賢吾に欲望を軽く指で弾かれ、和彦は息を詰めた。
内奥にたっぷりの唾液が施され、入り口が綻び始めた頃、一度体を離した賢吾がようやく帯を解き、浴衣を脱ぎ捨てる。目の前で露わになった体に、和彦は圧倒される。興奮による猛りが一目でわかる張り詰めた筋肉と、全身から匂い立つ雄の匂い。すでに汗が伝い落ちている肌の艶めかしさと、本当に背に棲みついているかのような生々しい大蛇の姿。
和彦はのろのろと体を起こすと、ほぼまとわりついているだけとなっている自分の浴衣を脱ぎ落す。すかさず賢吾に引き寄せられ、両足の間に手を突っ込まれた。
「あぁっ、あっ、んうっ」
手荒く柔らかな膨らみを揉みしだかれて腰が震える。無意識に舌を差し出すと、きつく吸い上げられてから、激しく絡め合う。和彦は夢中で賢吾を味わいながら、両手を背の大蛇に這わせていた。賢吾が身じろぐたびに大蛇が蠢く姿を想像して、胸の奥で妖しい衝動がうねる。
「……そんなに〈こいつ〉が可愛いなら、お前も同じものを彫るか? 背中だと見ることも触れることもできないから、この辺りに、同じ図柄で小さなものを――」
内腿を撫でながら、苦笑交じりで賢吾が言う。和彦は、賢吾の大蛇にそっと爪を立てた。
「あんたの体にあるから、いいんだ。撫でて、爪を立てて、舐めて、可愛がってやりたくなる」
「俺をまだ、骨抜きにしたいのか、お前……」
大蛇が、肉に飢えた獣に変わる。
布団の上に押し倒された和彦は、再び両足を抱え上げられる。まるで熱の塊のような欲望が、濡れて喘ぐ内奥の入り口に擦りつけられ、反射的に息を詰めた瞬間、容赦なく押し入ってきた。
汗を浮かせ、軽く眉をひそめた賢吾の男らしい顔には、普段からは想像もできない色気が漂っている。目が合うと、額に唇を押し当てられた。
力強く腰を突き上げられるたびに内奥を押し広げられ、欲望を呑み込まされる。敏感で感じやすい和彦の襞と粘膜は、従順に包み込み、締め付けながら、さらに奥へと迎え入れようと蠢く。下肢に絶え間なく鈍痛が生まれるが、肉同士が強く擦れる愉悦の前にはささやかなものだ。
「んうっ、んっ、あうっ……ん、あひっ」
賢吾の充溢した欲望を根本まで受け入れてから、動くのを待ってもらう。和彦は髪を梳かれながら、賢吾と唇を吸い合う。一方で、自分だけの特権とばかりに、賢吾の背にてのひらを這わせ、大蛇を愛でる。重なった胸から強い鼓動が伝わってきて、それがとてつもなく心地よく、安心できる。守られ、愛されていると実感できるのだ。
「お前一人で気持ちよくなるな」
耳元で意地悪く賢吾に囁かれる。その声にすら反応してしまい、和彦は小さく嬌声を上げる。
内奥深くを抉るように重々しく突かれる。もう痛みはなく、静かな波のような快感が腰から這い上がってきた。和彦は全身を戦慄かせながら、肉の悦びに鳴く。賢吾が緩やかな律動を刻み始めた。
「い、ぃ――……。賢吾、それ、いい……」
賢吾の逞しい腰には両足を絡めて、はしたなく腰を揺する。賢吾が低く笑い声を洩らした。
「もう箍が外れたのか、和彦」
「うる、さっ……」
和彦を焦らすように、ふいに賢吾が動きを止め、内奥からゆっくりと欲望を引き抜いていく。勝手に体が反応し、内奥が激しく収縮して欲望を締め付ける。
賢吾に片手を取られて下肢へと導かれる。何を求められているのか察した和彦は、興奮と羞恥で全身を熱くしながら、自ら内奥の入り口に指を這わせ、わずかに呑み込んでいる賢吾の欲望の形もなぞる。こんなものが自分の中に収まっていたのかといまさらながら戦く。
「どうしてほしいんだ。撫でてるだけじゃ、お前は気持ちよくならねーだろ」
「……本当に、意地が悪いな」
「そんな男に惚れてるんだろ。趣味がいいな」
自分で言うなと、つい噴き出した和彦だが、賢吾と唇を触れ合わせてから小声でせがんだ。
「あんたに気持ちよくされたいんだ。もっと……」
すぐさま深々と内奥を刺し貫かれる。短く悲鳴を上げたときには、快感の波にさらわれていた。全身を駆け抜ける快美さに呼吸も忘れ、閉じた瞼の裏で舞う極彩色の光に酔う。そんな和彦をさらに極めさせようと、賢吾が動く。
「うあっ、あっ、あうぅっ――」
重々しい律動に合わせて、反り返って震える和彦の欲望が精を吐き出す。
「おい、俺を置いていくな」
柔らかな声で窘められ、ゆっくりと目を開く。再び胸が重なり、和彦は両腕でしっかりと賢吾にしがみつく。
張り詰めた逞しい欲望が、限界が近いことを知らせてくる。緩やかな動きで内奥を擦り上げながら、賢吾が荒い呼吸を繰り返し、一心に和彦を見下ろしてくる。その眼差しを見つめ返していると、賢吾は低く唸り声を洩らして引き抜いた欲望を、素早く内腿に擦りつけた。内腿を伝う生温かな感触に、賢吾が達したのだと知る。
どうしてだと目で問いかけるが、賢吾は答えることなく、まったく衰えていない欲望を再び内奥に挿入してきた。
和彦は震えを帯びた吐息を洩らし、見悶える。賢吾の欲望を締め付けたまま、再び軽い絶頂を迎えていた。そんな和彦の姿に、賢吾は歓喜を隠そうともしない。
「美味いだろう。俺の肉は。お前だけのものだ。――大事で可愛いオンナには、いくらでも食わせてやる」
体を繋げたまま、快感を極めた余韻と幸福感に酔う。愛し合っているという実感は、欲望の際限をなくしてしまう。それは和彦だけでなく賢吾も同じなのか、熱いてのひらで体をまさぐってきながら、耳元や首筋に忙しく唇を這わせ始めた。
「は……あぅ」
何げなく視線を隣の部屋へと向けたとき、胡坐をかいて頬杖をついた千尋の姿が飛び込んできた。いつからいたのだろうかとうろたえたのは一瞬で、和彦はただ千尋を見つめる。寝室を隔てる襖を閉める余裕がなかったため、絡み合う二人をいくらでも観察できただろう。
すると賢吾も視線を動かし、笑い声を洩らした。どうやら、とっくに千尋の存在に気づいていたらしい。
「――千尋にも権利はあるからな」
何の、とは問わない。賢吾が体を離すと、のっそりと立ち上がった千尋がこちらに歩いてきながら、トレーナーを脱ぎ捨てた。
賢吾が場所を移動し、裸となった千尋がのしかかってくる。ちょっと待てと言いたかったが、当然のように腰を密着させてきて、舌なめずりせんばかりのしたたかな表情を目の当たりにして、言葉を呑み込む。止めたところで無駄だと、一瞬にして悟ってしまった。長嶺の男がこんな顔つきになったとき、和彦は捕食されるしかないのだ。
賢吾に愛されたばかりで、物欲しげにひくついている内奥の入り口に、千尋の欲望が擦りつけられる。興奮しきったそれを押し込まれたが、なんなく受け入れていた。
深々と繋がってから、千尋が大きく息を吐き出す。
「まだ和彦の中、ビクビク震えてる……。刺激強すぎ」
「俺のおかげだな」
傍らで余計なことを言った賢吾に、簡単に千尋は煽られる。
「抜け駆けしやがって」
「されるほうがマヌケなんだ」
「……人の上に乗りかかりながら、父子ゲンカなんてするなよ」
「しないよ。それより――」
耳元に顔を寄せてきた千尋にあることを囁かれ、和彦は素直に従う。千尋の背に両腕を回すと、賢吾の大蛇にしたように、犬を撫でる。犬っころなどと呼べるような可愛い存在ではなく、犬の身で人間の姫を自分のものにしてしまった執着の化け物ともいえる物騒な犬だ。
もし稜人と一緒に風呂に入るとき、この背のものをどう説明するのだろうかと、つい余計な心配をしていると、千尋にぐいっと顔を覗き込まれた。
「和彦、誰のこと考えてる?」
「心配しなくても、お前のことだ」
露骨に疑いの眼差しを向けられたので、和彦は千尋の髪を手荒く掻き乱す。何をやっているんだかと言いたげに、賢吾が呆れた顔をしている。
じゃれ合うようなやり取りはここまでで、急に表情を改めた千尋に唇を塞がれる。側にいる賢吾が最初は気になっていたが、千尋のしなやかな筋肉の躍動を体全体で受け止めているうちに、和彦はそれどころではなくなる。
「ああっ、あっ、あぅっ、千、尋っ――」
内奥深くまで穿たれた欲望が、大胆に円を描くように動かされる。中からの刺激によって、再び和彦の欲望も勃ち上がり、反り返っている。先端から悦びの涙を垂らし始めると、千尋は無邪気に喜んだ。
さきほどからずっと痛いほど凝っている胸の突起を、べろりと舐められてから、軽く歯を立てられる。和彦は呻き声を洩らして仰け反り、ビクビクと体を震わせていた。
「和彦、可愛い……」
掠れた声で呟いた千尋が、もう片方の突起をてのひらで捏ねるように弄り始める。
思い出したように内奥を突き上げながら、千尋は和彦の体を堪能する。口腔深くに舌を差し込んだあと、耳を舐った。さらには指に一本ずつ舌が這わせてから、腕から肘にかけて舌先でなぞる。何事かと思った和彦だが、賢吾の愛撫の痕跡がない場所を探しているのだと察し、慌てて身を捩ろうとする。千尋の舌先がたどり着く場所がわかったのだ。
「千尋っ」
腕を押さえつけられて、露わになった腋に千尋の唇が這わされる。ゾクゾクするような感覚が背筋を駆け抜け、反射的に千尋の頭を押し返そうとしたが、賢吾まで加わって手首を掴まれ抵抗を封じられた。
「い、やだ……、それ……。気持ち、悪い……」
言葉とは裏腹に、腋で蠢く舌に異様なほど感じてしまう。気がついたときには達しており、下腹部を精で濡らしていた。
喘ぐ和彦を見下ろす千尋の目は爛々と輝いている。性質が悪い、と心の中で呟いていた。可愛い言動と表情で油断させてきながら、これが千尋の本質なのだ。とっくに知っていたことだが。
二度、三度と和彦の中で律動を繰り返してから、千尋も達する。賢吾とは違い、内奥にたっぷりの精を注ぎ込んできた。
もちろん、厄介な生き物を身に棲まわせる父子がこれだけで満足するはずもなく、少し休んで千尋がまた動き始め、賢吾は頭上から和彦の唇を塞いできた。
今朝の朝食が、自分だけ粥が準備されていたのはどんな意味があるのだろうかと、和彦は食後のお茶を啜りながらずっと考えていた。
目の前では賢吾が悠然と新聞を開いており、和彦の隣では千尋が、朝のニュース番組をチェックしつつ、トーストにかぶりついていた。ちなみにこれで三枚目だ。
若い千尋の健啖ぶりはいまさらといえばいまさらだが、昨夜あれだけ体力を使えば、食欲に拍車もかかるのかもしれない。一方の和彦は、限界まで体力と精を搾り取られて、シャワーを浴びに行くのも苦労した。
客間で一人で休みたかったが、その前に朝メシを食えと言われて、賢吾の部屋に連れ戻された。
テレビを観ていた千尋がふいに、和彦の前に置かれた空の椀を覗き込んでくる。
「和彦、あんま食ってないだろ。パンでも頼む?」
千尋のせっかくの気遣いだが、和彦は胃の辺りをさすって首を横に振る。
「お粥で十分腹いっぱいになった」
横から口を挟んできたのは賢吾だ。
「昨夜は肉をたらふく食ったからな。軽めに、と笠野に注文しておいた俺の読みは正しかったわけだ」
「……なんでお粥なのかと思ったら、あんたか」
「その代わり、昼には美味いものを食いに連れて行ってやる。鰻なんてどうだ?」
「今から、昼なにを食べるか聞かれてもなー。というか、昨日の今日で、出歩いて大丈夫なのか……」
和彦が何を気にかけているか、当然賢吾はわかっている。
「秋慈から、伊勢崎龍造に連絡して軽く牽制してもらうことになっている。実際の目的がどこにあるのかはっきりしないが、少なくともお前相手に狼藉を働こうという気はないはずだ。そんな気があったら、もっと早くに動いていただろうしな」
「前に会って食事をしたときは、悪い印象は受けなかった。もちろん堅気じゃないから怖くはあるんだけど、玲く――息子に対する情愛を感じられたんだ」
「……お前を騙すのは簡単だな」
そう言って賢吾は苦笑し、千尋は苦虫を噛み潰したような顔をしている。父子揃って、和彦は甘いと言いたいのだろう。
「うちでも伊勢崎組の最近の動向について探ってみる。なんとなくだが、秋慈だけにネタを握られているのが落ち着かん。尻の辺りがもぞもぞする」
千尋がトーストを食べ終わる頃には、三人で鰻を食べに行く話がまとまり、そのついでのように賢吾から報告を受けた。
「そういえば言うのを忘れてたが、休業中で都合がよかったから、クリニックを少し改装したぞ」
「改装って、どんな……」
「大したことじゃない。ドアと窓ガラスを頑丈なものに入れ替えて、防犯システムを一ランク上げたぐらいだ。ああ、それと、何かあったときに仮眠室に立てこもれるように、ちょっと要塞化を――」
「要塞化っ」
素っ頓狂な声を上げてしまい、千尋が腹を抱えて爆笑する。
賢吾の過保護ぶりをいまさら咎めるつもりはないし、止めたところで聞き入れる男でもない。むしろ、この程度で留めておいてくれることに安堵すべきなのだろう。やろうと思えば賢吾は本気で、和彦をどこかに閉じ込めて、外との接触を断絶することができるのだ。
呆れと恐れを込めた視線を向けると、悪びれた様子もなく賢吾が薄く笑む。
「お前の場合、執念深い男にばかり惚れられるから、やれることはやっておかないとな」
一番執念深いのはあんただと言いかけたところで、卓上の賢吾のスマートフォンが鳴った。画面に視線を落とした賢吾が一瞬眉をひそめたのを和彦は見逃さなかった。
スマートフォンを取り上げた賢吾は隣の寝室に入り、襖を閉める。和彦は千尋と顔を見合わせた。
「あー、今日は鰻はなしかもな。オヤジは」
「二人で行くのか?」
「俺もう、昼メシは鰻の舌になったから」
ついでに買い物でもして帰ろうかという話をしていると、賢吾が戻ってきた。どかっと座卓についた顔は不機嫌そのもので、いい内容の電話ではなかったようだ。
他人事のように分析していた和彦だが、その賢吾の眼差しがじっと自分に向けられ、ふっと不安に襲われた。
「……どうか、したのか?」
「オヤジからの電話だった。お前と相談したいことがあるから、今日か明日にでも、本部に来てくれと言われた」
この言い方だと、行かないという選択肢は与えられていないようだ。和彦の困惑ぶりに、賢吾が助け舟を出してくる。
「調子が悪いとか言って、もう少し先延ばしすることもできる。なんなら、俺が同行しても――」
「一人で行く。ちょうどよかった。ぼくも、会長に聞きたいことがあったんだ。だから……」
心配しなくていいと、和彦は目で訴える。
和彦が不在の間、賢吾と守光が緊張関係にあったのは聞いている。無用な火種は作らないに越したことはない。
「――……わかった」
重々しい口調で賢吾が応じた。
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