と束縛と


- 第47話(3) -


 上半身に集中している切り傷を一つ一つ検分し、洗浄しながら、和彦はマスクの下で唸り声を洩らす。すると、手術室を区切るカーテンの向こうから組員が顔を覗かせてきたので、手術の介助をしている看護師が小声で叱責する。〈こちら〉の仕事のベテランらしく、女性ながらヤクザ相手にもまったく臆していない。
 総和会から回ってきた仕事を請け負うのは久しぶりだが、手術の準備や手伝いをするスタッフの顔ぶれはほとんど変わっておらず、今のところすべてにおいて滞りはない。皆、手慣れたものだ。一番落ち着かないのは、もしかすると和彦かもしれない。
 本宅で相変わらずのんびり過ごしていた和彦の元に、賢吾経由で総和会からの連絡が入ったのは、ほんの一時間ほど前だ。緊急で怪我の治療を頼みたい患者がいると言われて、逡巡する余裕もなく車に乗せられ送り出された。途中、総和会が用意した車に乗り換え、移動しながら患者の状態について説明されたのだが――。
 正直、怪我自体は重篤なものではない。見た目はなかなか凄惨だが、すでに出血も止まりつつあり、患者の意識もしっかりしている。大怪我と聞かされたときは、輸血パックの手配が間に合うか心配したぐらいなので、医者としては素直に安堵すべきなのだろう。
 和彦はもう一度唸り声を洩らすと、今度は患者である青年が不安そうな眼差しを向けてきた。現役ホストというだけあって顔立ちは悪くなく、身なりにも十分金をかけているとわかる。日焼けした肌に鍛えられた体つき。さきほど和彦と看護師で切り刻んで剥ぎ取ったシャツは、手触りでわかる高級品だった。しかし、何より大事な資本である体を、客によってズタズタに切りつけられたのだから皮肉だ。
 女性の力によるものと、切れ味の悪い刃物を使ったせいで、太い血管まで傷つける事態には至らなかったのだろうが、何しろ傷が多い。
 ここで和彦は心の中で結論を出す。手間のかかる処置が必要なため、自分に回ってきたのだなと。患者には申し訳ないが、確かに指先の感覚を取り戻すには最適な仕事だ。
 患者の体の前後を写真に撮ってから、さっそく局所麻酔を打って傷の縫合を始める。これだけ傷が多いと、細かく縫うと肌が引き攣れて、かえって日常生活に支障が出ることなどを説明しながら手を動かす。
「今はまず傷を塞ぐことを優先するから。縫い跡が雑に見えて不安かもしれないけど、あとで縫い直して、傷跡を目立たなくする手術もある。とにかく縫ったあとは安静にして、清潔に。もちろん飲酒厳禁。そうだな……、目途としては十日から半月後ぐらいに傷の具合を見てから抜糸、といったところだ」
 あとで同じ内容を説明するのも手間なので、カーテンの向こうの組員にも聞こえるように話す。出血のせいなのか、精神的ショックからなのか、ホストの青年はぐったりとして黙り込んでいる。騒がれるよりはよほどいいと、和彦はできる限り迅速に縫合を進めていく。
 手元に意識を集中しながら、自分の中で変化した部分があることを実感していた。
 年末年始、実家や和泉家に出向いたことで、和彦はさまざまなことを知ったし、思い出した。その中の一つが、佐伯家の中にありながら、和彦だけが医者となることを求められた経緯だ。いつか佐伯家から放逐されたあと、食うに困らない職業を選ばされただけだと淡々と受け止めていたが、まさか、実の母親の願いだったとは考えもしなかった。和彦が実の父親だと確信している人が医者なのは、決して無関係ではないだろう。そしてもう一人の父親は、託された願いを叶えた。
 周囲の願いや思惑の結果として得た手技を、裏の世界で生きる人間たちのためにもふるっているのだから、人生は本当に何が起こるかわからないと、密かに苦笑を洩らす。ただ不思議なほど、自虐的にも、投げ遣りな気持ちにもなっていない。
 自分はこうなるべくしてなった人間なのだと、妙に和彦は納得しているのだ。
 治療を終えてラテックス手袋をゴミ袋に放り込むと、処方する薬の種類や、傷口の処置の方法などをいつものようにメモ用紙に書き記して、付き添いの組員に渡す。次回の診察は抜糸のときということになるが、万が一にも悪化した場合はいつでも連絡してくれと告げておく。
 目が離せない容態でもなく、滞在する理由もないため和彦は速やかに帰り支度をする。ジャケットを羽織りながら、何気なく室内を見回す。当然のように窓は板で塞がれているため、外の様子を知ることはできない。ここを訪れたのは昼頃だったため、治療にかかった時間から推測しても、陽が傾きかけているということはないだろう。
 ここは元は飲食店らしく、手術室が設けられた二階は宴会もできる座敷だったようだ。多少の改造は加えられているが、かつての光景が簡単に想像できる。建物の表は人も車もひっきりなしに通っており、よくこんな物件を手術場所に使おうと思ったなと、大胆さに呆れるよりも、感心してしまう。
 裏口から中に入ったとき、一階の広い炊事場の存在がちらりと視界に入ったが、何も人を治療するためだけにここを利用しているわけではないのだろうと考えてしまうあたり、和彦はすっかり物騒な男たちに毒されていた。
 総和会からつけられた案内役の男に促され、階段を下りていると、取り乱した若い女性の声が耳に届いた。少し待つよう男に言われて従う。男が様子を見に先に一階に下り、その間和彦は所在なく、壁に貼られたポスターを眺める。元飲食店らしく、古くなったビールのポスターだ。
 すぐに男が戻ってきて、一緒に下りる。
 一階も、通りに面している窓はカーテンが引かれているうえに、出入り口も含めてバリケードのようにテーブルやイスを積み上げて外からの侵入を阻んでいる。人の出入りはすべてカウンター横の裏口から行われていた。
 その裏口に向かいながら、和彦は横目でちらりと、殺風景なカウンターについた女性を見遣る。取り乱した声の主のようだが、必死に肩を震わせて泣きじゃくっている様子は子供のようであり、側に立つ男たちは困惑気味だ。総和会と、総和会を構成する組の男たちの組み合わせは、こういった治療の場では珍しくないのだが、ホストの患者と女性の存在はどうにも異質だ。
 気にはなるものの、あまりじろじろと観察するのもためらわれ、そうしているうちに裏口のドアが開く。すぐ目の前に待機している車に案内役の男とともに乗り込み、あっという間に立ち去る。
「さっきの――」
 なんとなく後ろを振り返ったあと、シートに座り直した和彦が口を開きかけると、案内役の男が察したように説明してくれた。
 泣きじゃくっていた女性は、ある組の幹部の一人娘で、ホストのほうはその恋人だという。恋人と言いながら、奥歯にものが挟まったような説明から、第三者からは女性が金づるのように見えていたのかもしれない。別れる別れないのケンカから、あの事態に至ったということだが、病院に駆け込めない理由が双方にあったため、和彦が呼び出されたというわけだ。
 刺された側より、刺した側のほうが大事な存在なのだと言われて、ホストの青年の行く末を案じはしたものの、治療以外に和彦ができることはない。泣きじゃくっていた彼女の情に期待するしかないだろう。
 久しぶりに指先に全神経を集中したため、異常なほど肩が凝っている。ゆっくりと首を回してから、自分の肩を揉んでいた和彦は、信号待ちで停まった車の外に何気なく目を向ける。たまたま視線の先に花屋があり、柔らかで華やかな色彩の花たちが並んでいた。
 何か買って帰ろうかと一瞬思ったが、本宅に滞在するのは、おそらくあとわずかだ。その期間のためだけに客間に花を飾るのはどうかと思い直した。
 車は三十分以上走り続け、住宅街にあるスーパーの駐車場へと入った。いつもであれば、隣の駐車スペースに、長嶺組の車が待機しているのだが、今日は違う。家族連れが乗ったミニバンが停まっており、明らかに組の関係者ではない。
 困惑する和彦に、総和会の男は前方を指し示した。スーパーの外にベンチが並んで設置されており、そこに、お年寄りと隣り合って腰掛けている男がいた。
 息を呑んだ和彦は、挨拶もそこそこに車を飛び出す。
 こちらから声をかけるより先に、地味な色合いのスーツを着た男がほんのわずかに唇を緩め、控えめに片手を上げて寄越してきた。
「三田村……」
 立ち上がった三田村と向き合ったとき、込み上げてきた感情に胸が詰まる。本宅で会ったときは、ほんのわずかな言葉しか交わせず、周囲に人もいたため、じっくりと顔も見ることも叶わなかったのだ。
 ここでハッとした和彦は辺りを見回す。
「俺しかいない。ちょうど時間が空いていたから、先生の迎えを代わってもらったんだ」
 優しいハスキーな声がじんわりと鼓膜に溶け込む。
「よければ、これから少しドライブにつき合ってくれないか?」
 こう問われて、和彦の返事は一つしかない。
「――もちろん、どこにでも行く」


 三田村が連れて来てくれたのは、広大な敷地の公園だった。公園と名はついているが敷地内にさまざまな施設があるようで、設置された敷地内の地図看板をちらっと見ただけでもキャンプ場や植物園、レストランの文字が目に入った。
「……すごいな。バーベキュー場もあるし、池もある」
 子供を連れた家族連れの姿がすでに何組も視界に入る。だからといって居たたまれなくなるということもなく、学生らしいグループや、幅広い年齢層の男女が楽しげに歩いている姿もある。つまり、医者とヤクザの組み合わせが紛れたところで目立たないということだ。それに、何しろ広い。
「意外な場所を知ってるんだな、三田村」
 スーパーで買い込んできたおにぎりやお茶が入った袋を手に、三田村は目元を和らげる。
「千尋さんに頼まれていたんだ。子供が喜びそうな場所を調べておいてくれと。いくつかピックアップした中にこの公園があって、気になってたんだ」
 千尋の目的を察して、和彦は小さく頷く。
「あいつなりに、父親をやろうとしてるんだな……」
「俺はそういうのとは無縁だから、ただ組がにぎやかになってくれるんなら、嬉しい。――先生も戻ってきてくれたしな」
「戻ってはきたけど、いろいろあった。前のぼくとは、変わったかもしれない」
 冗談めかして言ってはみたものの、三田村から気遣わしげな眼差しを向けられて、心が痛んだ。
「本当は桜の花が見られたらよかったんだが、見頃になるには少し早かったみたいだ」
 レンガ敷きの小道の傍らに桜の木が植えられているが、三田村の言葉通り、まだ花をつけていない。色づいたつぼみがあるのではないかと目を凝らしたいところだが、歩調を緩めた途端に三田村がこちらをうかがってくるので申し訳なくなってくる。
 三田村なりに目的地を設定しているようだった。ときおり歩道に出ている案内板を見ては、道順を確認している。
「……地図だけだとわからないものだな。こんなに歩くことになるとは思わなかった」
 ぼやいた三田村の足元は、スーツに合わせて革靴だ。一方の和彦はスニーカーで、足取りは軽い。
「いい散歩になる。本宅にいると、どうしても運動不足になるからな」
 外に出るのに護衛は必須で、散歩程度で組員を煩わせるのは気が引け、用がない限りはこもりがちになるのだ。三田村は、その辺りの事情をよく理解していた。
「遠慮なく組員に言えばいい。あいつらも息抜きをしたがってるから、先生が声をかければ喜んでついてくる」
「残念。もうそろそろマンションに戻るつもりだ」
「それでも、護衛はつくだろ」
「……一応、体づくりをして、少しだけど自分の身を守る方法も教わったんだけど」
「先生にあまり強くなられると、みんなが残念がるな」
 まったく期待されていないなと、三田村の口ぶりから察する。和彦も、護衛がつくのを本気で嫌がっているわけではないのだ。
「――鷹津は、元警察だけあって、対人格闘をよく知っていただろう」
 突然、三田村の口から鷹津の名が出てドキリとする。変に隠し立てをするほうが不自然なため、和彦は正直に頷く。
「あの男、鍛えることに関してはスパルタだ。毎日嫌になるほど地面に転がされた」
「体を鍛えて、先生自身に戦ってほしいわけじゃないだろう。いざというとき、動じず、怯まない気持ちを持ってくれたらと願ってたはずだ。結局のところ、いくら取っ組み合いが強かろうが、ヤクザの場合、拳銃を使ったほうが話が早いからな」
「……身も蓋もない」
「だが、それが俺たちのいる世界だ。――先生も戻ってきてくれた」
 そう、自分は戻ってきたのだ。
 その事実を改めてかみしめていた和彦の耳に、にぎやかな犬の鳴き声が届く。何かと思って見てみれば、柵で囲った芝生で、犬たちが元気よく駆け回っていた。
 ドッグランまであるのかと、ついふらふらとそちらのほうに歩み出そうとして、ハッとして三田村を振り返る。優しい目で頷かれた。
「――和泉の家には、猫が何匹もいたんだ。もしかすると、まだ会ってない子がいたかもしれない。人懐こいというのとは違って、なんだか客のあしらい方が上手い猫ばかりだったな。ぼくに撫でさせてくれたかと思ったら、すぐにスルッとどこかに行ってしまって。……あと、冬の間生活してたところは山奥だったから、たまに野ウサギとかイノシシを見かけたし、野鳥観察もしてたんだ」
 そんな話をしながら、二人で柵の側に立つ。元気に駆け回る犬ばかりではなく、芝生の隅に所在なさげに佇んでいたり、他の犬に一方的にじゃれつく犬もいて、個性が出ている。眺めているだけで楽しくて目を細めていると、三田村がこう提案してきた。
「組長に頼めば、マンションでペットを飼えるんじゃないか。先生、動物が好きだろう」
「……ぼく程度で動物好きなんて名乗ったら、本物の動物好きに叱られるな」
 走り回っていた大型犬が、何が気になるのか二人の側まで寄ってきて愛嬌を振りまいてくれる。人懐こい大型犬にも心惹かれるものがあるが、この大きさで飛びつかれては自分ならひっくり返るだろうなと、一人で納得した和彦は、三田村を促してドッグランを離れる。
「別に、一人でいて寂しいというわけじゃないから。賢吾もそれを気にしてたのか、いつだったか、猫を飼ったらどうだと言ってきたことがあるけど。ぼくは基本的に無精者だから、危なくて生き物は側に置いておけない」
「先生がそう言い張るなら、そういうことにしておこう」
「なんだか引っかかる言い方だなー」
 肘で三田村を軽く小突く。三田村は一瞬表情を緩めたあと、唇を引き結んだ。
「三田村?」
「――……俺と組長は、たぶん同じことを考えたはずだ。〈こちら〉の世界に、先生が大事にするものをいくつも作っておけば、何かあったときに引き止められると。俺たちは狡いんだ」
「そんなこと、骨身に叩き込まれてるよ」
 三田村の口調が深刻なものになりそうだったため、あえて冗談として受ける。いまさらもう、身近にいる男たちがどれだけ狡猾で悪辣であろうが、すでに和彦はよく知っている。そのうえで、戻ってきたのだ。
「念を押さなくても、ぼくは自分の意志で戻ってきた。だから三田村、そんなに不安がらないでくれ」
 ハッとしたように目を見開いたあと、三田村は口元に手をやった。参ったな、と小さな呟きが和彦の耳に届く。
 二人が腰を落ち着けたのは、池の近くにある広場だった。広場を囲むようにして売店やレストランなどがあり、ずいぶんにぎわっている。広場の一角にも広い芝生があり、シートを敷いてピクニックを楽しむ家族連れも多い。
 ちょうど木陰になっているベンチを見つけて並んで腰掛けると、手軽な昼食をとることにする。
 和彦がおにぎりに齧りついていると、辺りを見回した三田村が売店を指さす。
「先生、足りないなら、あそこでいろいろ売っているみたいだ」
「ぼくは大丈夫。三田村こそ、何か買ってきたらどうだ。ぼくはここにいるから」
 本気かと、三田村が大仰に目を剥く。
「俺が先生から離れるとでも?」
「……ここは見晴らしがいいから、少しぐらい……」
「その少しが、先生と会える最後になるかもしれない」
 和彦が思っていた以上に、唐突に消息不明となった出来事は三田村に――というより、男たちに深い傷を与えたようだ。和彦にとっては鷹津に庇護されていたという感覚だが、賢吾やその周囲にいる者にとっては、和彦がどんな状況に置かれていたのかしばらく不明だったのだ。
「慣れとは怖いな……。自分がどれほど思われて、大事に扱われているのか、すぐに感覚が麻痺する」
 和彦がぽつりとこぼすと、三田村は自嘲気味に唇を歪めた。
「先生には申し訳ないが、そうありがたがられるものでもない。なんといっても俺たちは、先生を閉じ込めて、逃げ出さないための檻を作っているだけなんだから。先生がそう感じてくれてるんなら、こちらの思惑通りだ」
「あんたは悪役ぶるのが似合わないな」
 和彦がニヤリとすると、決まり悪そうに三田村は頭を掻く。
「一応、現役ヤクザなんだが……」
 三田村との間に流れる空気が心地いい。ハスキーな声も、優しい口調も、一途に向けられる眼差しも、何もかもが自分のために存在していると、傲慢にも思ってしまうほどに。
 和彦はつい想像する。自分がいない三か月もの間、三田村という男に〈触れた〉者はいたのだろうかと。いない、と確信が持てるからこそ、己の傲慢さに和彦は打ちのめされる。
「先生……?」
「……なんでもない」
 和彦がおにぎりを勢いよく食べきってしまうと、すかさず三田村からお茶が差し出される。
「――何か難しいことを考えたんだろうが、俺はただ、先生が戻ってきて嬉しい。それだけなんだ。……単純な男だからな」
 向けられた三田村の横顔を一心に見つめる。何か言葉を、と切羽詰まった和彦の口から出たのは、間の抜けた言葉だった。
「三田村、おでん一緒に食べないか?」
 二人の視線は売店に向く。店先でいくつもの吊り下げ旗が揺れており、その中におでんの文字がある。
 ゴミを片付けて立ち上がったところで、ふっと和彦は視界の隅に何か異物を捉えた気がした。同時に嫌な感覚が背筋を駆け抜ける。反射的に傍らの三田村の腕を掴み、何かがいたと思しき方向を見遣る。
 三田村は素早く和彦の前に立ちはだかった。
「どうかしたのか、先生?」
「いや……。誰かが、こっちを見ていた気がしたんだ」
 人の往来はあるが、誰も和彦たちに注意を向けていない。ただ、広場には木が林立しているため、相手が本気で身を潜めるつもりであれば、不可能ではない。特にプロであれば。
 三田村の全身に緊張感と殺気が漲っている。和彦は申し訳なくなり、三田村のジャケットの袖を軽く引っ張った。
「ごめん。やっぱり見間違いだったかも」
「今は組の護衛はついていない。つまり――」
 総和会の車はスーパーで別れたが、尾行されていた可能性がないわけではない。しかしそんなことをして、和彦を警戒させる必要があるのだろうかという疑問がある。気になるなら、堂々と同行すれば済む話だ。
 ふと和彦は、ある可能性に思い至る。
 まだ周囲を見回している三田村を促し、結局おでんは諦めて帰ることにする。
「先生、何か心当たりは?」
 三田村の問いに、和彦は軽く肩を竦める。
「ありすぎて、なんとも言えない」
「……先生の日常は波乱万丈だ」
 否定できず、和彦は苦い顔で背後を振り返り、誰かと視線が合わないか念のため確認していた。


「――ぼくに尾行をつけてますか?」
 呼出し音が途切れた瞬間、勢い込んで和彦は質問をぶつける。返ってきたのは沈黙で、たっぷり二十秒ほど待っている間に、さすがに不躾すぎたと反省する。
「えっと……、すみません。佐伯和彦です。それであの――」
『あー、いや、わかります。和彦さんね。知らない番号だったから、誰かと思いました』
 どこか飄々とした口調と、微かな関西弁のイントネーション。返ってきた言葉にほっとして、和彦はもう一度非礼を詫びた。
『今どこですか?』
 わずかに笑いを含んだ声で問われる。
「……長嶺の、本宅に……」
 公園からまっすぐ本宅に送り届けられた和彦は、客間に入ってすぐにスマートフォンを手に取ったのだ。三田村とは玄関まで一緒だったが、険しい表情で詰め所に向かった。今頃、公園でのことを報告しているだろう。
 誰かに見られていたというのが勘違いであったなら、自分の自意識過剰ぶりに顔から火が出るところだ。だからといって、何事もなかったふりができないのが、和彦の立場だ。
『つまり、外を出歩くなら護衛がついてますよね。襲われたとかじゃないんですね?』
 和彦の事情の大半を把握しているだけあって、話が早い。
「それは大丈夫です」
『でも、少し冷静さを失ってるようですね。わたしがあなたに尾行をつける理由がありませんから。知りたいことは、あなたからこうして直接お聞きすればいいんですし。なんといっても、もう既知の仲ですから』
 指摘されて初めて和彦は、意外に自分は動揺していたのだと知る。傍らに三田村がいて、自分が取り乱せば大事になるとそればかり考えていたのだ。
 大きく息を吐き出し、額に手をやる。
「まあ……、そのとおりです。一番最初に頭に浮かんで、連絡もしやすかったのが、あなただったんです。――九鬼(くき)さん」
『素性も風体も怪しいですからね、わたし』
「あっ、いえ、そういう意味では……」
 強く否定できないのは、実際、初めて九鬼を見かけたとき、怪しい人物だと思ったからだ。
 田舎町の小さなスーパーの軒先で、仕立てのいいコートとスーツを着込み、肩にかかるほど長いウェーブがかった髪に、きちんと手入れされた顎ひげを生やし、愛想よく微笑みかけてきた九鬼のことを思い返す。一緒にいたのが、坊主頭で、明らかに堅気ではない佇まいの男ということもあり、あれで警戒するなというのが無理な話だ。
 しかし、紗香の墓前で倒れていた和彦を助けてくれた男たちでもある。
 九鬼は、和泉家の――というより、総子と正時の息がかかっている男だ。九鬼いわく、野垂れ死にしかけていた自分を救ってくれた恩人とのことで、手足となって働いているのだという。その証が、和泉家が所有する不動産管理を一手に行う会社の社員という立場だ。
 総子が言っていた、和彦が『この先を生き抜くための武器』の中には九鬼も含まれているらしく、かなりの切れ者であり、使い勝手がいい人物だということはうかがい知れる。おそらく、限りなく賢吾たちに近い存在だ。和泉家の持つ資産とは、そういう男たちを配しなければならないほど厄介で、魅力的なものなのだ。
 頭が痛いのは、和彦も、その会社に役員として名を連ねることになっており、自動的に九鬼を使うことがほぼ決まっている点だ。
『尾行しそうな人間・組織について、他に心当たりはありますか……と、聞くだけ野暮ですね。心当たりがありすぎるでしょう』
 ふふ、と電話の向こうで九鬼が笑っている。
 和泉家への忠義によって和彦と関わっているという微妙な距離感のせいか、九鬼の言動はどこかドライだ。これまでのところ直接顔を合わせたのは二回。ログハウスに滞在中に数回電話でやり取りをしただけの仲なので、これでもずいぶん砕けた会話ができているとはいえる。祖父母がいる限り、ある種絶対的な信頼がおける人物なのは確かで、和彦は、九鬼をどう使うか思索している最中だった。
 情が介在しない分、つき合いやすい男かもしれない。
「……総和会、というのが妥当かもしれませんが、正直、ぼくの勘違いというのが一番ありえる気がします。しばらく山にこもっていたので、人に囲まれる感覚が取り戻せていないというか……」
『言い訳をして、何事もなかったことにするのはやめたほうがいい。あなたが感じたのなら、あったんですよ。尾行が』
 九鬼の口ぶりが気になる。和彦がそっと眉をひそめると、客間の外で微かに人の気配がした。電話で話しているとわかったのだろう。気配はすぐに遠ざかる。
「もしかして、何か知ってますか?」
『さあ、どうでしょう』
 和泉家に滞在中に感じた、田舎に引きこもっていながらの総子の知見の広さは、九鬼の働きによる部分も大きいようだ。そんな男がこんな物言いをして、何も知らないはずがない。しかし悲しいかな、和彦には問い詰める手段がなかった。
 和彦を翻弄するように、九鬼がこんな提案をしてくる。
『近いうちにでも、オフィスに遊びにきてください。わたしと楽しくおしゃべりをしていると、何か情報が転がり出てくるかもしれませんよ。わたし、人としゃべるのが好きなんですけどね、相方――、ああ、坊主頭の奴のことです。烏丸(からすま)と言うんですがね、元プロレスラーで、そのあとヤクザのフロント企業で用心棒をしていた男なんですが、見たまんま、無口なんですよ。いい奴ではあるんですが、とにかく会話が弾まない』
 元ホストの秦並みによくしゃべるなと、うっかり聞き入りながら感心してしまう。
『心配しなくても、健全で、ごく普通のオフィスですから。それは、長嶺組の組長さんも太鼓判を押されると思いますよ』
「……組長って……、賢吾、さん?」
『手土産持参で、挨拶に見えられました。――まあ、偵察でしょうね』
 予想もしなかった話に、和彦は軽く混乱する。ようやくこの質問を絞り出した。
「いつの、話です……?」
『一昨日でしたかね。いやー、こっちもバタバタしていましたから、さすがにアポなしだとあまり時間が取れず、申し訳なかったです』
 冗談めかしてはいるが、これは皮肉だろう。自分の知らないところで一体何をしているのだと、困惑と怒りが同時に押し寄せてくる。
 和彦はスマートフォンを耳に押し当てたまま、手元の九鬼の名刺に視線を落とす。実は九鬼に関する情報は、まだスマートフォンには一切登録していない。個人情報をヤクザに掴まれるのは、九鬼にとって気分がいいものではないだろうと考えてのことだったが――。
 和泉家で九鬼から受け取った名刺は、いろいろと書き留めたメモの類と一緒に封筒にまとめて、衣装ケースの衣類の下に一応隠しておいたのだ。和彦としても、この本宅にあって、紙きれ一枚であっても完全に隠し通せると能天気に考えていたわけではない。しかし、それにしても、賢吾の動きが早すぎる。
 呆れていいのか、感心していいのか、自分でもわからないまま大きくため息を吐き出す。電話の向こうでやはり九鬼は笑っていた。
『気にしないでください。うちの会社といえば、知る人ぞ知るという存在ですから。住所を調べるぐらい、造作もなかったでしょう。別に隠してもいませんし。それに不動産業界の事情通に聞けば、すぐに噂が出てきますよ。――和泉家の土地に迂闊に手を出すと、骨も残らない目に遭わされる、とか』
 朗らかな口調で言われ、危うく聞き流すところだった。和彦の背に冷たい感覚が滑り落ちる。
「えっ……?」
『冗談です。手間だから、さすがに骨ぐらい残します』
 さすがに絶句すると、九鬼が軽く唸った。
『和彦さん、まじめですね。笑ってもらわないと、わたしがスベったみたいじゃないですか』
「冗談、ですか……」
『そう思っておいてください。電話ではなんですから、お会いしたときにじっくりお話しましょう。――あなたもうすでに、〈こちら〉側の人間なんですから、これからいろいろと勉強されたほうがいい』
 今後和泉家と関わっている限り、足を運ばないわけにもいかず、九鬼の持つ情報も気になる。総子が信頼している人物を、和彦が遠ざけるという選択肢がそもそもなかった。
「でしたら、近いうちに。また改めてお電話して、そちらの都合のいい日をうかがって――」
『堅苦しいですねー。もっとフランクに話してください。うちは基本的に、いくらでも時間の融通が利く仕事の仕方をしてますから、和彦さんの予定に合わせますよ』
「はあ……」
 具体的な仕事の内容が気になるところだが、尋ねるといつまでも話が終わらないのが容易に想像がつく。
 さすがに今日は疲れたと、和彦は丁寧に礼と詫びを述べて電話を切った。


 とにかく今日は疲れたと、入浴後によろよろと客間に戻った和彦は、早々に布団を敷いて横になる。
 予定では、帰宅した賢吾を捕まえて、九鬼の件について問い詰めるつもりだった。だが当の賢吾が遠出で、今夜はホテル泊なのだという。肩透かしもいいところだが、そもそも九鬼と連絡を取ったきっかけを思い出し、複雑な心境となる。
 今日、自分をつけていたのは誰なのか――。
 和彦はもう、自分の勘違いだとするのはやめていた。確実に、誰かが目的を持って和彦を見ていたのだ。
 神経がピリピリとして落ち着かない。安定剤が欲しいところだが、あいにく一錠も残っていない。組員に頼めば早々に手配してくれるだろうが、それは最終手段だと思っている。
 和彦は枕元に置いていたスマートフォンを取り上げる。早く慣れるために、なるべく触るようにしていた。二度手間だと思いつつも、手帳に書き込んでいるスケジュールを、スマートフォンにも打ち込むようにしたし、電話帳にも知人の情報をせっせと追加している。もちろん、九鬼の情報も。賢吾に何もかも把握されているのなら、いまさら隠す必要もないだろう。
 いろいろとアプリを勧められて入れてはみたのだが、今のところ、ラジオが聴けるアプリぐらいしかまともに活用していない。耳を傾けていると、ログハウスでの生活に引き戻される感覚があり、心地いいのだ。
 部屋の電気を消し、女性パーソナリティの柔らかな語りを聴いているうちに、眠気がやってくる。
 スマートフォンだとバッテリーの残量が気になるので、気が向いたら小型のラジオを買おうかと、意識の片隅でぼんやりと考えていた。
 ふっと音声が止まる。そして、傍らでごそごそと何かが蠢く。和彦が寝ている布団の中に一気にひんやりとした空気が流れ込んできたかと思うと、次の瞬間には体の片側がほんのりと温かくなった。
「寒っ……。エアコンつけて寝たらいいのに」
 すぐ耳元で千尋の声がする。
「……お前、きちんと風呂で温まらなかったんだろ。寒いのは、そのせいだ」
「シャワーで済ませた。――少しでも早く和彦と話したかったからさ。というか、寝るの早いよ」
 千尋のおかげで、眠気がどこかにいってしまった。和彦は軽くため息をつくと、身じろいで枕元のライトをつける。意外なことに、千尋は怖いほど真剣な顔をしていた。
「お前、何か怒ってるか?」
「怒ってるというより、ムカついてる」
「……ぼくが何か――」
「その危機感のなさっ」
 千尋がキッとまなじりを吊り上げ、その迫力にさすがに和彦も息を呑む。同時に、千尋が言わんとしていることを察した。
「あー、昼間のことか」
「帰りの車で報告受けた俺の気持ち、わかる?」
「悪かったよ……」
「和彦は悪くないじゃん」
 思わず苦笑いが出てしまう。長嶺の男は扱いが難しい。
 少しは気が済んだのか、千尋は甘える犬っころのように和彦の肩先に額を擦りつけてきた。
「――せっかく和彦が戻ってきたのに、上手くいかないよなあ……」
「まあ、危害を加えられたわけでもないし。誰かが、興味半分で見物してただけなのかもな」
 ちらりと見上げてきた千尋の眼差しが鋭い。
「和彦は知らなくて当然なんだけど、和彦がいない間、総和会と長嶺組は、本当にピリピリしてたんだ。その原因となった人に対して、他人が興味を持つのは仕方がないともいえる。でもさ、ようやく事態を丸く収めたのに、また長嶺組を刺激するようなまねを、少なくとも総和会がする可能性は低い。そう考えるのは、俺が現総和会会長の孫だからかな」
「……誰も、総和会からつけられた尾行だとは言ってないだろ」
「だったら和彦は、誰だと考えてる?」
 まるで答えを誘導するかのような千尋の口ぶりに、和彦はハッとする。
「お前もしかして、鷹津が……とか考えてないだろうな?」
「違うの?」
 質問に質問で返すなと言ってはみたものの、和彦は視線を逸らしていた。あまりに千尋が一心に見つめてくるせいだ。
「あの男じゃなかった」
「顔はよく見えなかったんだろ」
「わかる。――あの男なら、気配でわかる」
 断言してから、しまったと思ったが、意外に千尋の反応は冷静だった。
「……嫉妬する。和彦にそこまで言わせるあいつに」
「お前のことだって、顔が見えなくても判別できる自信はあるけど」
 返ってきたのは大きなため息だった。
「性質悪いよなー、和彦って」
「長嶺の男に言われたくないな」
 さっさと自分の部屋に戻れと、千尋の体を布団から押し出そうとして、強く手首を掴まれる。そのまましっかりと抱き締められた。
 見た目に凛々しさが増した千尋だが、こうして密着すると、体つきの変化もより実感できる。本当は犬っころなどと表現するのもはばかられる、成熟した獣になりつつある。
 千尋に導かれて触れたものは、ふてぶてしい存在感を誇示していた。
「――ぼくを心配して、忍び込んできたんじゃないのか」
「危機感なく寝てる和彦の姿を見たら、ほっとしてこんなことに……」
「悪いけど、今日は疲れてるから、早く寝たいんだが」
「最後まではしないから」
 どこまで本気なのか、そんなことを言いながらも千尋はしっかりスウェットパンツと下着を脱いでしまう。悪びれない態度に、和彦もこれ以上強くは言えない。
 多忙な男たちのスケジュールと、和彦の体調のタイミングが合わず、実は本宅に滞在してまだ一度も、二人とは体を重ねていない。賢吾に対しては手や口を使っての行為には及んだが、千尋とはそれすらなかった。
 息子は、父親ほど要領がよくなかったというべきか、父親よりよほど気遣いができていたというべきか――。
「……そういえば、お前も毎日がんばってるんだったな。跡目修行で忙しいうえに、父親になる準備もしてるみたいだし」
「どっちも、なるようになるの精神だけじゃ、どうにもならないからね。それに、和彦に格好悪いところ見せたくない」
「それはまあ、いまさらというか……」
 ふいに千尋の顔が近づいてきたかと思うと、唇を塞がれる。いきなり口腔に差し込まれた舌を、和彦は甘やかすように吸ってやり、自らの舌を絡める。千尋の呼吸があっという間に乱れ、荒くなった。
 トレーナーも脱ぎ捨てた千尋がのしかかってきて、熱い体を受け止める。久しぶりに千尋の背に両てのひらを這わせ、見えないながらも確かに存在を感じる刺青を撫で回す。それだけで千尋は心地よさそうに吐息を洩らした。
 下着を剥ぎ取られた和彦は両足を自ら大きく開き、千尋の腰を迎え入れる。もどかしげに和彦の浴衣の帯を解きながら、千尋が高ぶった己の欲望を、下腹部に擦りつけてきた。
「んっ、千尋……」
 浴衣の前を開かれて、荒々しく胸元をまさぐられる。すでに硬く凝っていた胸の突起を指で押し潰すように刺激され、和彦の胸元に小さな快感の波が広がっていく。
 布団の中で抱き合い、絡み合っているうちに、いつの間にか和彦が千尋の上に覆い被さる格好となっていた。待ちかねていたように千尋に背を引き寄せられ、胸に顔を埋められる。子供のように胸の突起に吸い付く千尋の頭を撫でてから、和彦は自ら腰を動かし、勃ち上がった千尋の欲望を刺激してやる。
 なんとなく千尋を甘やかしたい気分になっていた。
「――和彦」
 名を呼ばれて再び唇を重ね、唾液を交わす濃厚な口づけに耽る。その間に、千尋の手に両足の中心をまさぐられ、興奮を兆し始めていた和彦自身を掴まれる。このままだと体が汚れるとか、汗だくになったらまた湯を浴びに行かなければならないとか、つい考えてしまうが、うねりのように押し寄せてきた情欲の前には些細なことだった。
 和彦の変化を感じ取ったのか、千尋の目が爛々と輝く。
 布団を押し退けられた途端、ひんやりとした空気に肌を撫でられる。抱き合っているうちに浴衣も完全に脱げてしまっていた。
「やっぱエアコンついてなくてよかった。暑くなってきた……」
 千尋がぽつりと洩らした言葉に、和彦はうっすらと微笑む。
 せがまれるまま、千尋が見ている前で足を大きく開き、自らの欲望を刺激してみせる。行為自体は興奮のため抵抗はなかったが、千尋の恍惚とした表情を目の当たりにすると、さすがに羞恥で身が燃えそうになる。
「千尋、もういいか――」
「ダメ。最後まで見たい」
「いままでも、見たことあるだろ……」
「和彦が戻ってきてからは、初めてだ」
 言おうとしていた言葉は、口中で消えてしまう。結局、達する姿を千尋にじっくりと鑑賞されていた。
 肌を汗ばませ、全身を震わせて喘ぐ和彦の姿は、千尋を楽しませるには十分だったらしい。高ぶった己の欲望を扱いた千尋が、達する寸前、素早く動いた。襲い掛かられるのかと身構えたときには、和彦の胸元に生温かな液体が飛び散る。
「あっ……」
 千尋が獣のように舌なめずりして、和彦を見下ろしてくる。自分の精で和彦を汚せて、満足しきっている顔だった。このときゾクゾクするような感覚が、和彦の中を駆け抜ける。
 長嶺の男から向けられる独占欲と執着は、甘い毒だ。じわじわと和彦のすべてを侵していき、毒自身に快感を覚えるようになる。忘れているつもりはなかったが、改めてそのことを思い知らされる。
「すっごい、感じてる顔してる。今の和彦……」
 千尋が、胸元に散った自分の精を、和彦の肌に塗り込めるように指先を動かす。和彦は胸を大きく上下させた。
「あとで一緒に風呂入り直そうよ」
「……仕方ないな。このままだと風邪ひきそうだし」
 やったー、と大げさに喜んだ千尋が、次の瞬間、雄の顔をして和彦の目を覗き込んできた。
「ねえ、九鬼って奴とさ、何話したの?」
 なぜその名が出てくるのかと驚いたが、なんのことはない。さきほど和彦のスマートフォンを触った千尋は、わずかな間で履歴までチェックしたのだ。
 本当に抜け目ないと、もはや感心するしかない。
「九鬼さんのこと、知ってるのか?」
「オヤジが挨拶に出向いたときに、ついて行った。あっ、俺は車で待機ね」
「……お前たち物騒な業界の人間なんだから、あまり堅気の人に迷惑かけるなよ」
「それはわかってるけど、九鬼って奴は同業者だ――とオヤジが言ってた」
 和彦自身、それは感じていたので驚きはなかった。総子にしてもすべて承知のうえで雇っているのだろう。
 重ねて千尋に問われて、和彦は視線を天井に向ける。
「オフィスに遊びに来てくれとか、そんな話だ」
「和彦をつけてた犯人じゃないんだ?」
「する必要がない。聞きたいことがあれば本人に聞けばいいし、と言われた」
 ふいに千尋に唇を塞がれる。ここまでの会話で何に興奮したのか、すでにもう千尋の欲望は再びの高ぶりを見せていた。ふてぶてしいが、可愛くもあり、和彦は優しく掴んで扱いてやる。千尋が嬉しそうに笑った。
「ねえ、尾行してた奴がわかったら、どうしてやろうか? 和彦を怖がらせたんなら、やっぱちょっとは痛い目に遭わせたいよね」
「……そういう物騒なことは、ぼくの目の前にいる怖い男に任せる」
 そう言ったほうが、長嶺の男は悦ぶ。
 実際、和彦の手の中で、千尋の欲望は瞬く間に重量を増していた。









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