と束縛と


- 第47話(2) -


 和彦は数日ほど本宅に滞在することになった。その間に、自宅マンションにハウスクリーニングを入れると賢吾は言っていたが、本当に必要なのだろうかと甚だ疑問だ。よく気の利く笠野の差配により、日頃から組員たちが管理してくれていたはずで、わざわざ業者を入れるような状態になっているとも思えない。
 もっともらしい理由をつけないと、和彦がすぐにマンションに帰りたがると考えたのかもしれない。
 客間に転がった和彦は、耳を澄ませる。うるさくない程度に、人の話し声や足音が聞こえてくる。鷹津と生活したログハウスが非常に静かだったため、この生活音に溢れた環境にいると、戻ってきたのだなという実感がひたひたと押し寄せてくる。
 障子を通して陽射しの暖かさを感じる。朝方はまだ肌寒かったが、それも日が昇るにつれて和らぎ、過ごしやすい気温となっている。こんな天気のときに散歩すると気持ちいいのだろうが、ふらりと一人で出歩ける山の中ではないため、護衛をつけなければならない。長嶺の本宅から出入りするとき、これは絶対だ。
 散歩には行きたいが億劫だと、ぽろりと本音が洩れる。
 昨日、本宅に到着してからずっと、軽い違和感は拭えない。三か月というのは、生活習慣を変えるには十分な時間だったのだろう。鷹津と生活を共にしている間、日々の家事はほぼ交代、もしくは半分ずつこなしていたため、何もやらなくていい本宅では、なんとなく身の置き場に困る。マンションの部屋で一人になれば、また感覚は違うのだろうが。
 気が重いことは早く済ませてしまおうと、俊哉には連絡を入れておいた。肝心なことは鷹津から報告を受けているはずなので、和彦からは、長嶺の本宅にいるということぐらいしか告げることはなかった。そのあと、和泉家にも電話をかけ、総子と話すことができた。ログハウスで過ごす間に、何度か総子とは連絡を取り合っていたため、正直、俊哉とよりも気楽にやり取りができるようになっていた。
 電話の向こうから猫たちの鳴き声が聞こえてきたことを思い出し、つい笑みをこぼす。
「――和彦、今いい?」
 障子の向こうから突然、千尋の声がした。ぼんやりしていたため、足音に気づかなかったようだ。和彦は慌てて体を起こして応じる。
 部屋に入ってきた千尋は、今日はまだ仕事で出かけないのか、ジーンズにTシャツというラフな服装だった。
 二人きりになれたのはいつ以来だろうかと感慨深いに気持ちになったのは、改めて見る千尋の顔つきが少し大人びて、凛々しさを増しているように感じたからだ。
 昨日は慌ただしく過ごしているうちに、移動の疲れが出た和彦は夕食をとってすぐに床についてしまったため、千尋とも三田村ともゆっくり話せなかった。忙しい男たちなので、和彦から声をかけて呼びつけるのは気が咎めるが、こうして部屋に顔を見せにきてくれるのは大歓迎だ。
 千尋はいそいそと、膝同士が触れそうなほど近くに腰を下ろすと、無遠慮なほど和彦を見つめてくる。
「どうした?」
「本当に和彦が戻ってきたんだと思って、感動に浸ってる」
 大げさだと苦笑した和彦は、照れ隠しに千尋の頭を手荒く撫でる。
「悪かった。……心配かけた」
「まあ、じいちゃんとオヤジから事情は聞いてたし。――それでも、寂しかった」
 大人びた表情を見せていたくせに、一変して千尋は、あざとい上目遣いとなる。
「和彦といろいろ話したいこともあったのに、連絡も取れないどころか、オヤジたちですらどこにいるかわからないって言うから、ほんともう、気が狂いそうだった。俺、やつれてない?」
「……前と違いがわからない」
 子供のように唇を尖らせる千尋だが、この仕種もあざとい。たまらず和彦は顔を背けて噴き出してしまう。
「そのほうが長嶺の男らしい。お前が痩せ細ってたら……、申し訳なくてこんなふうに向き合えなかった。だから、元気そうでほっとしてる」
 言ってから、これは自意識過剰な発言だったかもしれないと即座に後悔する。慌てて言い募ろうとしたが、千尋が一瞬顔を歪めてから飛びついてきた。
「うわっ」
 声を上げた和彦はそのまま千尋と一緒に倒れ込む。しがみついてきながら千尋が低く呻き声を洩らし、ぐりぐりと額を肩に擦りつけてくる。
 少々乱暴ではあるが、怒っているわけではないようだ。和彦の脳裏に、大型の獣が爪と牙を立てないよう気をつけながら、精いっぱい体をすり寄せて甘えてくる姿が浮かぶ。
「もう帰ってこないんじゃないかと思ってた……。和彦が実家の空気に触れて、家族に囲まれて、そしたら、もう〈ここ〉に帰ってくる必要はないって、気づくんじゃないかって――」
「……変な言い方だな。ぼくは催眠術にでもかかってたみたいじゃないか。気づくも何も、ここがどんな家で、お前たちがどんな人間なのかわかったうえで、世話になってたんだ。そして、戻ってきた」
 不安かと尋ねると、頑是ない子供のように首を振り、ますます強くしがみついてくる。さすがに少し苦しいと思いながらも、押し退ける気にはなれず、ポンポンと背を軽く叩いてやる。
 離れて生活している間に、千尋の自分に対する熱情がいくらか冷めているのではないかと、恐れると同時に、ほんの少し期待にも似た気持ちが和彦にはあった。そのことを、今は申し訳なく感じる。抱き締めてくる腕の強さや呻き声は、千尋の一途さを雄弁に物語っているからだ。
 将来、自分はこの青年に何を返せるだろうかと考えていると、ようやく気持ちが落ち着いたのか、千尋がもそもそと身じろいでから起き上がる。手を掴んで和彦も引っ張り起こしてもらうと、照れたように千尋が笑った。
「久しぶりだから興奮しすぎた」
「……血気盛んでけっこうなことだな」
 結局何をしに来たのかと尋ねようとしたとき、千尋がぐいっと身を乗り出してきた。
「ねえ、これから買い物行こうよ。服とかさ。そんで、俺の買い物にもちょっとつき合って」
 これを渡りに船というのかもしれない。散歩に行きたいと思いつつ億劫でもあった和彦としては、千尋とともに買い物というのは魅力的だ。あれこれと買いたいものが頭に浮かび、すぐに承諾した。
 千尋が護衛の相談のため客間を飛び出していき、和彦は身支度を整える。とはいっても、チノパンツに履き替えてシャツの上からジャケットを羽織るだけなので、あっという間だ。
 財布をポケットに突っ込み、少し迷ったがスマートフォンは置いていくことにする。客間を出ると、ちょうど千尋もやってくる。さきほどは着ていなかったフード付きのパーカーを羽織っていた。
「十五分ほど待ってくれって」
 予定になかった行動で、組員たちも大慌てで準備をしているのだと思うと、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
 のんびりと並んで廊下を歩いていて中庭の一角が視界に入り、不自然に視線を逸らしてしまう。賢吾が、砂場を作り、遊具も置くために整地したと話していたが、当然、千尋も把握済みだろう。父子の間でどんなやり取りを交わしたのか気になるが、さすがに和彦は踏み込めない。
 年上として配慮を示したかったが、千尋はあっさり一蹴してくれた。
「――いまだに信じられないんだ。俺が、高校生のときに〈父親〉になってたなんて。まだ直接顔を合わせたことはないけど、写真は見せてもらってる。検査の必要がないぐらい、ガキの頃の俺そっくり」
 立ち止まった千尋がそう言って、中庭に目を向ける。どうやら話題に出してもかまわないらしい。
「心当たりはあるんだろ?」
「うん。……年上の女(ひと)」
 さすがに複雑な心境になったが、これが嫉妬からくるものなのか結論を出す前に、千尋が言葉を続けた。
「高校生のガキが、大人のきれいな女に一目惚れしてのぼせあがった――なんて話じゃなくて、若いうちから女に慣れておけって、じいちゃんが紹介してきたんだ」
「……それが、長嶺の家の流儀というやつか?」
 皮肉を言いたいわけではなかったが、そう受け取られても仕方のない言い方をしてしまい、和彦は顔をしかめる。いまさら、長嶺家の教育論や倫理観についてとやかく言うつもりはないし、言う権利が和彦にない。
「組の人間がよく通ってた店で働いてた人でさ、客あしらいが上手くて人気あったみたいだけど、高校生の俺なんて、てのひらで転がすまでもなかったんじゃないかな。何度か遊んで、そういうことをして……、でも恋人同士というわけじゃなくて。で、連絡が取れなくなって、そのまま。俺はじいちゃんに、その人がどうなったのか聞きもしなかった」
 千尋の知らないところで、守光と女性、賢吾も含めてやり取りがあったのだろう。守光としては、目論見通りだったのかもしれない。
「軽蔑した?」
 自嘲気味に千尋に問われる。和彦は似た表情で返しながら、千尋の頭を撫でてやる。
「残念だが、お前に偉そうに言えるほど、ぼくも品行方正な高校生活を送ってたわけじゃないから――」
 里見の顔が脳裏に浮かび、苦い気持ちが込み上げてくる。実家に里帰りしたときの里見の部屋での出来事以来、まったく連絡を取っていない状態だ。新しくなったスマートフォンには、里見の連絡先は残されていなかったが、それは俊哉を通して入手可能だ。もっとも、そこまでして里見と何を話したいのか、和彦自身よくわかっていない。
 ただ、里見が英俊をどう思っているのか、それだけはずっと気になっていた。ログハウスに滞在している間、連絡をするべきなのか迷ったこともあるが、行動を起こさなくて正解だったのだろう。英俊が知ったら、余計なことをするなとまた殴られていたところだ。
「どうかした?」
 突然黙り込んだ和彦を気遣うように、千尋が身を乗り出してくる。そんな千尋の顔をまじまじと見つめて、和彦は嘆息した。
「……お前に、本当に子供がいるとはなあ」
「自分のことだけど、俺も何回、そう思ったか……」
「一緒に暮らすんだから、そんなふわふわしたことじゃダメだろ」
「それだけど、今すぐ一緒に暮らすわけじゃないんだ。来年、小学校に上がるから、早いうちに戸籍関係の手続きを済ませて、この家で暮らすのに慣れるよう、月に何回か泊まらせるようにして……。あと、いろいろ準備をする。情けないけど、書類の手続きとか、俺さっぱりわかんないから、じいちゃんとオヤジに言われるまま動いてるんだ」
 そこに、準備ができたと組員が二人を呼びに来る。話の続きは車に乗り込んでからとなる。
 千尋と並んで車に乗るのもいつ以来かと考えていると、さっそく千尋が話し始める。
「――俺さ、オヤジはともかく、じいちゃんがどうして、和彦とのつき合いを認めてくれたのか、実はずっと不思議だったんだよね。まさか、俺の次の跡目がいるからだなんて、予想外もいいところだよ」
 口調は軽い千尋だが、事態を本人なりに深刻に受け止めているのは、らしくなく強張った表情が物語っている。酷なことをすると、和彦は心の中で、守光と賢吾を責めていた。もちろん、今回のような決定となった事情も過程もあるだろうし、何も知らない他人がとやかく言うべきではない。それでもいささか腹が立ってしまうのは、和彦自身の出生の複雑さのせいだ。
「大事なことを知らされていないというのは、けっこうつらいよな……」
「わかってくれる?」
「……ぼくも、自分の生まれに関して最近いろいろ知ったばかりだから、身につまされる」
 和彦の物言いから察するものがあったのか、千尋は落ち着きなくシートの座り直し、言い訳をするように訥々と説明を始めた。
「どうして最初に、子供のことを俺に知らせなかったのか、じいちゃんとオヤジに聞いたんだ。そうしたら、相手がギリギリまで、産むかどうか迷ってたみたいなんだ。じいちゃんの説得で産んだあとは、今度は、子供を長嶺で引き取らせてほしいと言ったんだけど、相手の実家と揉めて……」
「〈大人〉の話に、お前を巻き込みたくなかったということか」
「ヘラヘラして過ごしてからなあ。その頃の俺。二人が気を回したのも、複雑な心境だけど理解はできる」
 結果として千尋の子を引き取ることはできたが、急転直下でそこに至った理由は、なんとも現実的なものだった。
「条件のいい結婚話がまとまったんだって。きれいな人だったし、まだ若かったから、当然といえば当然なんだけど。ただ、未婚の母なのはともかく、子供の父親の家が、でかいヤクザの組だというのは知られたくなかったみたいで……。それでうちの親戚の家に一旦預けられて、面倒を見てたんだ。その間に、双方にとって円満となる環境を整えて――と、じいちゃんが言ってた」
 千尋の物言いが他人事なのは、やはり大事なことを何も知らされないまま現在まできたからだろう。千尋を除く長嶺の男二人が過保護なのは間違いなく、それとなく千尋の子の存在を仄めかされた和彦は、ある意味特別扱いされたということだ。
「まあ、俺は知らないうちに、長嶺の男としての義務は果たせてたってことだよ。オヤジのときは、じいちゃんや他の身内からの圧力がすごかったらしいから。結婚は後回しでもいいから、早く跡目を作れって。俺が生まれたら生まれたで、前に和彦に話したと思うけど、じいちゃんとお袋は仲悪くてさ。もし仮に、子供ができたのを機に俺が結婚してたとしても、きっとうまくいかなかったと思う」
 あっけらかんとした千尋の話を聞きながら、和彦は薄ら寒いものを感じていた。
 守光と賢吾は、長嶺の本宅に〈女〉を迎え入れるつもりがあったのだろうか、と。相手の女性の、千尋に対する本心など今となっては不明だし、『条件のいい結婚話』についても、長嶺組――というより長嶺の男たちが手を回してまとめたのではないかと想像してしまう。
 堅気の女性では、千尋を支えられないと考えたうえでのことかもしれない。そう自分に言い聞かせようとしても、和彦の心はざわつく。
「どうかした?」
 黙り込んでしまった和彦に、千尋が心配そうに尋ねてきた。和彦は短く息を吐き出してから、微苦笑を浮かべる。
「いや……。長嶺の男たちがいる場所に戻ってきたなと思って……」
「そう言うなら、鷹津と一緒にいた期間分、本宅で暮らしてよ」
 和彦は反射的に聞こえなかったふりをする。
「――それで、お前は何を買いたいんだ? ぼくは散歩程度にふらふらできればいいから、そっちの買い物優先でいいぞ」
「あっ、露骨に誤魔化した」
 小声でぼやきながらも千尋は自分のスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで操作する。そのスマートフォンが、和彦に与えられたものと色違いなのは、いまさら指摘する気にもならなかった。
「ここ、ここ」
 千尋がそう言って見せてきた画面には、店のホームページらしきものが表示されている。
「食器?」
「品揃えがよくて、子供用の食器もたくさんあるという組員の嫁さん情報を聞いて、本宅で使う〈ヤマト〉の食器をお前が選んで買ってこいと、オヤジから言われた」
 和彦もスマートフォンを覗き込み、画面をスクロールさせる。
「名前も入れてもらえるみたいだな」
「もちろん、全部名前を入れてもらう。俺と和彦もお揃いでカップや茶碗を買って、ついでに入れてもらう?」
「やだよ。――ヤマトって、どんな字を書くんだ」
 千尋は素早くスマートフォンに打ち込んで見せてくれた。
「これ」
 表示されているのは、『稜人』という文字だった。和彦はふっと表情を綻ばせる。呼び名だけは知っていたが、漢字を見たことで、さらに存在を感じることができた。
「いい名前だ」
「オヤジが喜ぶよ。和彦がそう言ってたって知ったら」
 つまり、稜人の名付け親は賢吾らしい。そうなった経緯についても気にはなるが、和彦は口を噤んでおく。自分は長嶺家の一員ではないから、という配慮ゆえだが、これ以上、引き込まれかねない闇を覗き込むのを恐れたからだ。
 すでに佐伯家と和泉家の闇に浸っている身には、それはあまりに重かった。


 夕食後、和彦は一旦客間に引っ込むと、この三か月の間に溜め込んだどころではない仕事関係の雑務をこなしていた。即時対応が必要なものは、長嶺組のほうで動いてもらっていたので、いわば事後確認のようなものだ。
 賢吾には、本宅にいる間ぐらいのんびりしろと言われているのだが、昼間千尋と楽しんだ分、気が急いてしまう。
 なるべく早くにクリニックも再開したいため、詳細な予定を立てる必要もあった。導入している医療機器のメンテナンスも行いたいし、薬品やサプリメントも、年末に棚卸しはしたものの、改めて確認しておきたい。必要ならば、販売店の営業に来てもらい――。
 文机に向かい、カレンダーを傍らに置いてやるべきことを書き出していた和彦は、唸り声を洩らす。あれもこれもと思い付き、思考がまとまらなくなってくる。
 一人で考えるのは無理だと諦め、クリニックの運営を手伝ってくれているスタッフや組員に相談することにする。そう結論を出すと現金なもので、息抜きをしたくなった。
 ふらふらとダイニングに向かう。夕食の片づけが終わり、夜食の時間帯にはまだ早いため、誰もいない。この隙にと、キッチンに入ってドリッパーやペーパーフィルターなどを用意してコーヒーを淹れ、さらに電子レンジで牛乳を温める。
 コーヒーに牛乳を注いでカフェオレを完成させると、片付けを済ませていそいそとテーブルにつく。
 牛乳が多めになったカフェオレだが、穏やかな雰囲気の中で一息つくには最適な味だ。
 同じ屋根の下には千尋がいて、今頃自室で何をしているのかちらりと気にはなったが、わざわざ声をかけたりはしない。一緒に出かけた食器店で、熱心に子供用の食器を選んでいた千尋の横顔を思い返し、意識しないまま和彦の口元は緩む。突然知らされたわが子の存在を、千尋なりに受け止めようとしているのだと感じた。
 一方の稜人は、実父の存在をどんな形で知らされたのかと考えて、今度は口元を引き締める。どうしても自分自身に重なり、苦い感情がこみ上げてくるのだ。
 和彦は、自分が不幸だったと思わない。ただ、幼いうちに別の選択肢も選べたのではないかと、当時自分の周囲にいた大人たちに複雑な感情は覚える。その選択肢がなんであるか、具体的には思いつかないというのに。
「――苦いコーヒーでも飲んでいるのか」
 突然、話しかけられる。和彦が視線を上げると、廊下に立った賢吾がこちらを見ていた。考え事をしていたせいで、組員たちの出迎えの声を聞き逃していたようだ。
「いや……。どうしてだ?」
「お前がしかめっ面をしているからだ」
 賢吾はまっすぐ自室に向かうつもりはないのか、ダイニングに入ってくる。組員に脱いだコートとジャケットを手渡すと、和彦の隣のイスに腰掛けた。
「メシは食ったか?」
「ああ。あんたは――食べてきたみたいだな」
 賢吾からわずかに酒気が漂っており、表情も柔らかいというより緩んでいる。気心の知れた人物と飲食して機嫌がいいのだろうと和彦は推察した。実際、和彦の読みを裏付けるように賢吾が答える。
「今晩は、ツレたちと食事会だった。お前も戻ってきたことだし、久しぶりに気が抜けた」
 賢吾の言う『ツレ』とは、この本宅で若い頃、寝食を共にした腹心たちのことを指している。気軽に言っているが、現在の長嶺組を支える幹部たちばかりだ。
 組員から水の入ったグラスを受け取ると、賢吾は一気に呷った。カップに口をつけつつ、和彦はそんな賢吾を観察する。髪が少し乱れており、わずかに頬に赤みが差している。普段、組長という堅固な鎧をまとっているような男が、こういう人間味のある姿を覗かせると、目のやり場に困るほど魅力が増して見える。
 大蛇の毒に侵されているなと、和彦はじわりと苦い笑みを浮かべた。
「今日は子守りで疲れたんじゃねーか」
「……千尋が聞いたら怒るぞ」
「誰も千尋のことだとは言ってないだろ」
 軽く睨みつけると、賢吾はニヤニヤする。
「言ってなくても、他に思い当たる人間はいないだろ。この本宅にっ」
「もう少ししたら、増えるぞ。お前にも子守りを手伝ってもらうことになるかもな」
「あまり……、あてにしないでくれ」
「顔を合わせたときに、健康に気を配ってくれるだけでいい。子供の頃の千尋に、体質が似ているんだ」
 今は健康そのものの千尋だが、幼少期は病弱だったと聞いたことがある。生まれた頃からこの家で生活していた千尋はともかく、稜人の場合は体調だけでなく、ストレスのほうも大丈夫なのだろうかと今から心配になってくる。
 ついつい稜人に、幼い頃の自分の境遇を重ねてしまう。余計なお節介で済めばいいが、と和彦はふっとため息を洩らす。
 空のグラスを弄びつつ、賢吾は穏やかな眼差しをそんな和彦に向けている。なんとなく気恥ずかしさを覚えて、わざと素っ気なく片手を振る。
「早く部屋に戻って休んだらどうだ」
「休むにはまだ早いな」
 意味ありげな笑みと謎解きのような返事に、和彦は慌ててカップを手に立ち上がろうとする。
「そ、そうかっ……。ぼくは部屋で、クリニック関係のあれこれを片付けないといけないから、これで――」
「冗談だ。もう少しつき合ってくれ」
 目を眇めた賢吾にそう言われ、手首を軽く掴まれる。この手を振り払える勇気は和彦にはない。素直に座り直すと、賢吾はある人物の名を口にした。
「宮森に――」
「宮森さん?」
「今日一緒に飲んでいて、お前への言付けを預かった」
 和彦は、長嶺組若頭と長嶺組傘下城東会組長という肩書きを持つ男のことを思い出す。物騒な肩書きに反して、見た目はごくごく普通の顔立ちをしており、佇まいもまっとうな勤め人のよう。話してみればそれとなく極道らしい地金も透けて見えるが、和彦に対しては終始紳士的だった人物だ。
 宮森とセットで思い出すのが、彼の甥の存在だった。
「もしかして、優也くんのことか……?」
「忘れられているんじゃないかと、宮森が心配していたぞ。あいつもなかなか過保護だからな」
 声を洩らした和彦は、額に手をやる。最後に優也と電話で話せたのはいつだったかと、記憶を辿る。実家に帰っているときに軽く世間話をしたのだが、まさかあのあと、長らく連絡が取れない状況になるとは想像すらしていなかった。そして本宅に戻ってきてからも、まだメールすら送っていない。
「……薄情者だと思われてるな。優也くんに」
「向こうも、お前が大変な状況だったことぐらいは宮森経由で知らされているから、気に病むな。宮森も別に責めたくて、俺に話したわけじゃない。よければ、また連絡を取ってやってくれないかと言っていた」
 和彦としてはもちろん、避けられていないのなら優也と連絡を取るつもりだ。さっそく今からでもとソワソワし始めた和彦に対して、賢吾は顔をしかめる。
「気にかける相手があちこちにいて大変だな。――俺はいつ、相手をしてもらえるんだか」
「相手をして、って……、こうして話してるじゃないか」
「それで俺に我慢しろと?」
 露骨に妖しい流し目を寄越され、反射的に和彦は立ち上がる。自分が捕食される寸前の小動物になった気分で、今度こそダイニングから逃げ出す。賢吾が怖かったというのもあるが、二人きりになるといまさらながら気恥ずかしい。そして、後ろめたさを自覚してしまいそうになる。もちろん、鷹津と三か月も一緒に暮らしていたことに対してだ。
 嫉妬した、とあっさり口にしていた賢吾だが、胸の内はそう単純なものではないだろう。和彦の中に根付く鷹津への感情に気づいたうえで、じっくりと探っているのかもしれない。大蛇の口で呑み込めてしまえる程度のものかどうか。
 客間に戻った和彦は、再び文机に向かう気にもなれず、スマートフォンを手にする。千尋が勝手に入れてしまったアプリには触らず、登録されているアドレスの中から優也のものを探し出す。
 慣れないフリック入力に四苦八苦しながら、優也に送る文面を打ち込んでいると、風呂の準備ができたと障子の向こうから声をかけられた。
 賢吾は先に入らなかったのだろうかと気にしつつ、作業を中断し、着替えを抱えて客間を出た。
 脱衣場のカゴに着替えを入れてシャツを脱ごうとしたとき、前触れもなく引き戸が開き、ぬっと賢吾が入ってくる。驚きすぎて声も出せず固まる和彦と目が合うと、悪びれた様子もなくニヤッと笑いかけてきた。
 我に返って咄嗟に風呂場に逃げ込もうとしたが、易々と腰を抱えられて捕まる。逞しい胸に引き寄せられ、有無をいわせず唇を塞がれた。
 噛みつくように唇を吸われてから、強引に舌が口腔に押し込まれてくる。首の後ろにかかった指にぐっと力が入り、身を捩って抵抗しようとしていた和彦は、それだけで動けなくなった。
 我が物顔で口腔中を舐り回しながら賢吾の目が笑っている。睨み返す気力など、あっという間に食われてしまった。
 ようやく唇が離れて喘ぐ和彦に、ヌケヌケと賢吾が言う。
「今夜は我慢するつもりだったが、お前に冷たくされて、気が変わった」
「……冷たくなんてしてないだろ」
「俺の誘いを露骨に受け流した。三か月もお前を待ち続けていた身には、堪えるんだ。こう見えて、けっこう繊細だからな」
 自分で言っておかしかったのか、賢吾は低い笑い声を洩らす。獰猛な獣の鳴き声のようでもあり、和彦はそっと身を震わせていた。
「――久しぶりに、お前の体を見せてくれ」
 耳に唇が押し当てられ、囁きを注ぎ込まれる。鼓膜を震わせるバリトンの響きに逆らえず、シャツのボタンを外し始めたが、途中、賢吾の視線から逃れるように背を向ける。
「いまさら気になるものか?」
「あんたが、今にも取って食いそうな目をしてるからだ」
 シャツを脱いで足元に落とすと、当然のように指示される。
「下も」
 和彦は大きく深呼吸をすると、注文通り一糸まとわぬ姿となった。賢吾に背を向けたままでいたが、すぐ背後で気配が動き、ビクリと身じろぐ。
 背骨のラインに沿って指先が這われた。
「筋肉のつき方が少し変わったか?」
「よく山を歩いていたからな。それに……、軽く護身術を習っていた」
「怖いな。油断したら、お前に投げ飛ばされるかもな」
 そこまで本格的なものは教わっていないし、何を血迷ってそんな命知らずなことをしなければならないのかと、和彦は顔をしかめる。
「……できるとは思ってないくせに、意地の悪い男だな」
「この機会に挑戦してみたらどうだ」
 和彦の力を試すように背後から抱き締められる。抱擁というより拘束で、がっしりとした両腕の中では身じろぎもままならない。髪に頬ずりしたあと、賢吾が首の付け根に唇を押し当ててきた。
 二度、三度と肌を吸われたあと、硬い感触が触れる。賢吾の歯だとわかった瞬間、怖気立つとともに、背筋を熱い感覚が駆け抜ける。
「――俺が噛みつくと思ったか?」
 和彦が息を詰めたのを感じ取ったのだろう。揶揄するように耳元で囁かれる。そのまま耳朶に軽く歯が立てられ、足元が乱れた。
「噛む、なっ……」
「噛んでない。歯が当たっただけだ」
 屁理屈を言うなと窘めて、腕の中から抜け出そうとしても、それは許されなかった。
 賢吾の片手がスッと下へと移動し、下腹部にてのひらが押し当てられる。意味ありげに陰りをまさぐられて咄嗟に和彦が考えたのは、鷹津との行為だった。すでに、そのときの行為の名残りはなく、和彦の記憶にあるだけだ。しかし、賢吾の指が動くたびに、その記憶を暴かれそうな危惧を覚える。
 足を開くよう命じられ、勝手に体が動く。怯えている和彦の形を指先でなぞってから、賢吾の手が両足の間に差し込まれる。
「うっ……」
 柔らかな膨らみに指がかかり、それだけで膝から崩れ込みそうになる。その気配を察したのか、賢吾に腰を抱えられるようにして洗面台の前へと連れて行かれた。
「ここに掴まってろ」
 言われるまま洗面台の縁に手をかけた和彦は、顔を上げてぎょっとする。鏡に自分の姿が映っており、すでに締まりのない顔をしている。視線を逸らすと、今度は背後に立っている賢吾と鏡越しに目が合った。
「――しっかり俺を見ていろよ」
 視線を逸らすのは許さないと言外に仄めかし、賢吾は容赦なく和彦の体を調べていく。両足の間に膝を割り込まされて、さらに大きく足を開くと、背を押さえつけられる。自然と腰を突き出したような姿勢となり、羞恥から顔を背けようとしたが、無遠慮な手つきで尻の肉を掴まれて動けなくなる。
 体を丹念に見ている賢吾の様子を、和彦は見せつけられる。鷹津との最後の情交の痕跡は、もう肌に残っていないはずだと目まぐるしく考える自分自身が嫌になる。甘やかしてくる賢吾を舐めていたわけではないが、改めて、大蛇の化身のような男の怖さを実感していた。
 強い執着は、見えない蛇の舌だ。それがじわじわと肌を這い回る。見つめてくる眼差しに体をまさぐられているようで、あっという間に和彦の息遣いは乱れ、体温が上昇していく。
 しっとりと肌が汗ばむと、賢吾が再び首筋に顔を寄せてきた。
「髪が長いと、お前の顔が見えにくいな。早いうちに切りに行ってこい」
 伸びた髪もなかなかいい、という発言を一昨日聞いたばかりだが、もう賢吾の気は変わったらしい。和彦は唇を緩めそうになり、慌てて引き結ぶ。
 触れられないまま興奮のため硬く凝った胸の突起を、爪の先で弄られる。さらにもう片方の手は、いつの間にかゆるゆると形を変え始めていた和彦の欲望を包み込んでいた。
「んっ……」
 敏感な先端を指の腹でそっと撫でられる。そうかと思えば、欲望全体を手荒く扱かれてから、括れを指の輪で強く締め付けられる。和彦は息を喘がせ、顔を紅潮させながら、鏡の中の自分の姿をじっと見ていた。正確には、賢吾の手の動きを。いかがわしく胸元を這い回る手つきは、まさに和彦に見せつけるためのものだ。視覚的にも感じさせられ、理性の箍は巧みに緩められていく。
「――自分でやってみろ」
 賢吾に言われるがまま、和彦は下肢に手を伸ばすと、身を起こした自らのものを掴む。今度は賢吾に見せつけるために手を動かし、羞恥と興奮に交互に襲われながら快感を手繰り寄せる。
 ときおり首や肩先に唇を押し当てるだけで、賢吾は何もしてこない。鏡の中で煩悶する和彦を眺めて、ゆったりと笑みを浮かべるだけだ。
 もっと触れてほしいと思った瞬間、賢吾から罰を与えられているのかもしれないと気づいた。三か月もの間、別の男との生活を堪能していたことへの。
 ゾッとした和彦はすがるような眼差しを賢吾に向ける。
「どうした? 急に不安そうな顔をして」
 ひどく優しい声音で問いかけながら、賢吾が頬に唇を寄せてくる。
「触って、くれないのか……?」
「触ってるだろ」
「そうじゃなくて――」
 一気に芽生えた不安を、どう言葉で伝えればいいのかわからない。もどかしくなり、和彦は振り返って直接賢吾を見ようとしたが、あごを掴まれ正面を向かされる。
「お前の複雑な家庭事情も何もかも呑み込むつもりだが、鷹津に関することは、どうしたって喉に引っかかりそうでな。お前を閉じ込めて、縛り上げて何日か放置するのも手かと考えてみたこともあるが、それで俺自身が満足して、気が晴れるかというと、それはないだろうな。嫉妬深い蛇としては、その放置している間に、お前がちらりとでも鷹津を想って煩悶する姿まで想像しちまうんだ」
 寸前まで和彦に対して甘く優しかった賢吾が、嫉妬に狂うただの男になる。鷹津への複雑な気持ちを軽口に紛れ込ませるように洩らしていたが、和彦が考えていた以上に、賢吾にとって無視できない存在となっていたのだ。
「お前が俺に対して感じる後ろめたさを解消するために、俺が協力する――というのは、違うよな? 今回のことで確かに嫉妬はしたが、やむをえない状況だったとわかってはいるんだ。だから俺には、お前に罰を与える理由がない。ただお前は、自分の多情さをよく噛み締めろ」
「……ぼくに、怒っているのか?」
「話は最後まで聞け。――お前の多情さに、俺は……というより俺たちは、振り回されることがあるが、救われてもいる。妙な奴を引き寄せるから、危なっかしさもあるがな」
「引き寄せる云々は、ぼくのせいばかりにされるのは、少し納得いかない」
「他の奴に聞いて回ったら、全員が俺の意見に賛同すると思うぞ」
 和彦はつい苦笑いを浮かべたが、すぐに息を弾ませる。賢吾の指に、欲望を軽く弾かれた。
「手が休んでる」
「あんたが話しかけてくるから……」
 我慢できなくなった、と呟いた賢吾にあごを掴み寄せられ、また激しく唇を貪られる。その状態で身を捩った和彦は、ワイシャツに包まれた広い背に両腕を回す。布の下に身を潜めている大蛇の姿を思い浮かべなから、何度もてのひらを這わせていると、和彦の舌を甘噛みした賢吾が、苦々しい口調で言った。
「俺が一番嫉妬する相手は、鷹津じゃねーな。背中の〈こいつ〉だ。お前がいつも物欲しげに撫でまわして、甘やかすせいだ」
 本気で言っているのか疑わしいが、それでも和彦は嬉しくなり、賢吾の肩に額をすり寄せる。
 自分の中に芽生えた不安の正体がわかった気がした。賢吾の中にある己の存在を強く実感したかったのだ。そのために必要なのは罰などではなく、もっと単純で、明け透けなほどわかりやすいもので――。
 さきほどから感じていたが、賢吾の両足の間をまさぐると、興奮した状態となっていた。身震いしたくなるような肉欲の疼きが急激に高まり、和彦は小さく吐息を洩らす。
「――和彦、舐めろ」
 賢吾のその言葉を待っていた。崩れ込むようにその場に座ると、スラックスの前を寛げて、賢吾の欲望を引き出す。まずてのひらで包み込むようにして扱いて、ゆっくりと顔を寄せる。
 オンナらしく奉仕するため、賢吾によく見えるように舌を出し、丁寧に這わせる。根本から舐め上げて、括れに舌を絡ませ、先端に吸い付く。和彦の示す媚態の意味を理解したのか、賢吾の指が無遠慮に口腔に突っ込まれて強引に大きく口を開けさせられる。そこに、容赦なく熱い肉の塊を押し込まれた。
「んんっ」
 反射的に頭を後ろに引こうとしたが、ギリギリで耐える。そんな和彦の頭を、賢吾がやや乱暴に押さえてくる。たっぷり愛せと言わんばかりに。和彦は悦びに小さく喉を鳴らし、同時に、口腔で脈打つ逞しいものを締め付ける。
 賢吾の高ぶりに呼応するように、和彦自身も反応していた。たまらず口淫と同時に自慰を始めると、低い笑い声が降ってくる。
「いやらしいオンナだ」
 和彦一人による行為が熱を帯びてくると、賢吾が深い吐息を洩らす。頭を押さえつけていた手が、いつの間にか髪の付け根をまさぐり始め、その刺激にも快感を覚える。
 先に和彦が達し、手を濡らす。ここでようやく視線を上げ、愉悦に満ちた賢吾の表情を目の当たりにしたとき、歓喜のうねりが身の内で生じる。同じ感覚を賢吾も共有したらしい。
「――……俺は心底、お前が愛しくてたまらねーんだ。今度また、お前と離れ離れになることがあったら……、どうなるだろうな。邪魔な奴ら全員、どうにかするかもな」
 物騒な愛の囁きだった。
「そんなことが来ないことを祈るが、今はただ、お前は男たちに愛されてりゃいい。そのうえで、俺を愛してくれ」
 言葉の代わりに和彦は、懸命に唇と舌を使って賢吾の想いに応えた。




 長嶺の男二人は、揃って朝早くから出かけていた。出向く場所は別らしいが、多忙な立場なのは同じようだ。
 昨夜の賢吾との行為のせいで、父子どちらとも顔を合わせづらかったので、朝食をとりながら和彦は、正直助かったと思った。
 その後、組員が持ってきた書類の説明を受けて署名をしてから、クリニック再開に向けての準備について相談を持ちかける。さすがというべきか、和彦が心配するまでもなく、すでに各方面への手配は始めているという。
 一端の経営者のつもりであっても所詮和彦は雇われで、エキスパートの支えが欠かせない。一人で張り切ったところで仕方ないと言われたようで、少しだけ恥ずかしくなり、それが顔に出ないよう必死だった。
 客間に戻ると、忘れないうちに優也へとメールを送る。まだ寝ているだろうかと心配したが、あっという間に返信があり、直後に電話がかかってきた。
『――生きてた?』
 優也からの第一声に、和彦は破顔する。
「しばらく連絡できなくてごめん。寂しがってくれてたんだって?」
『……情報が正確に伝わってないみたいだな、あんたのところに』
「照れなくていいだろ」
『照れてないっ。……なんか、相変わらずみたいだ』
 どういう意味だと尋ねると、優也は少し口ごもったあと、教えてくれた。
『年明けてからいままで、あんたがけっこう大変な目に遭ってたって聞かされてたから。荒んだ感じになってるのかと、勝手に想像してた』
 これは、優也への宮森の説明が悪いというより、その宮森への賢吾の伝え方に問題があったのではないか。そう思った和彦だが、あえて確認することでもない。無事に戻った今となっては、笑い話にしてもらったほうが気が楽だ。
「大変な目というのは大げさかもしれないけど、まあ、いろいろあったのは確かだ。ひとまず落ち着いたから、戻ってきたんだ」
『電話もできない状態だったみたいだから、こちらもなんとなく察するものがあったけど。しかし、三か月って……』
 優也の物言いが引っかかる。そう、三か月なのだ。
「……もしかして、君のほうも何かあったのか?」
「何か、ってほどじゃないけど、あー、引きこもってるのに飽きたから、そろそろ職探しを始めようかと思って」
 耳を澄ませないと聞き取れないほどの声で優也が言う。つられて和彦も小声で応じた。
「おめでとう……?」
『あんた、いい感じにとぼけてるよな。――その言葉はまだ早い。こっちは、あまり他人に説明したくない空白期間があるから、就活が順調にいくか怪しいし。叔父さんは、知り合いに頼むから、まずはアルバイトから始めてみたらどうだと言ってくるんだけど』
「きちんと相談してるんだ」
『履歴書とか準備してるのバレたんだよ。だから、説明しないわけにもいかなくて……』
 優也に対して宮森は過保護だという、賢吾の言葉はあながち大げさではないようだ。
『なるべく叔父さんは頼りたくないから、僕の狭い交友関係の中で、頼りになりそうな人たちにも声かけてる。別に、前の事務所より大きいところがいいとか、年収が上のほうがいいとか、そんなのは希望してないんだ。とにかく、ストレスのない人間関係が築けるところがいい……』
 切実だなと、心底優也に同情する。和彦の場合、精神力と体力の限界を感じて転科した過去があるので、他人事だと思えないのだ。
「よかったらぼくも協力するけど」
 和彦も現状、やはり狭い交友関係の中で生きており、頭に浮かんだのは胡散臭い笑みを浮かべた秦だった。ただ、人脈の広さは只者ではない。いざとなれば力になってもらおうかと考えたのだが、優也の返答は素っ気なかった。
『いや、いい。あんたに借りを作ると高くつきそうだから』
「……別に、恩を高く売りつけようなんて気はないけど」
『あんた自身は善意の塊でもさ、周りの連中が怖いじゃん』
 残念ながら反論できなかった。
『こっちは一度どん底まで落ちたせいで、けっこうクソ度胸がついたというか、開き直れてるから、変わった仕事でもしてみようかと思える程度に余裕はあるんだ。行き詰まったときには頼りにさせてもらう、かも』
 ほんの数か月前に、熱を出して子供のように駄々をこねていた人物とは思えないほど、優也は落ち着いていた。一体何がきっかけかと問うと、苦い口調で教えてくれた。
『仕事辞めて引きこもってから、腫れ物に触るような扱いだったんだけど、あんたに往診してもらってから、多少雑に扱っても大丈夫だと叔父さんたちから判断されたみたいでさ。理由つけては外に連れ出されているうちに、なんかもうバカバカしくなった。ヤクザに部屋に押し入られるぐらいなら、自分から外に出てやらあ、って』
「――つまり、ぼくのおかげだとも言えるな」
『腹立つけど、叔父さんもそう思ってる節がある』
 冗談だと応じてから、意識しないまま和彦は大きくため息をついてしまう。優也の前向きさと、堂々と表の世界で就職活動ができる経歴を、咄嗟に羨んでいた。そんな自分に驚く。
 それを優也に悟られたくなくて、スマートフォンのバッテリーがもうすぐ切れそうだと告げ、和彦は慌てて電話を切った。









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