と束縛と


- 第47話(1) -


 車中の空気はピンと張り詰めていた。和彦は、頭では状況が理解できているものの、感情が追い付かず、ただ前を見据えたまま体を硬くしていた。
 隣に座っている賢吾は、車が走り出してから間を置かずに、スマートフォンを取り出して連絡を取り始める。最初の電話は、賢吾の口調から相手が千尋だとわかった。手短に和彦を〈保護〉したと告げ、すぐに電話を切ったかと思うと、今度は本宅にかけているようだった。そうやって電話かけていき、指示を与えていく。
 聞き耳を立てなくても、嫌でも話す内容は耳に入ってくる。それでわかったのだが、今日、ログハウスまで賢吾がやってきたのは、慌ただしく予定を変更したうえでの行動のようだ。賢吾だけでなく、助手席に座る組員はしきりにメールを打っては、電話の合間に賢吾に報告をして、指示を仰いでいる。
「――俺を電話一本で右往左往させられて、さぞかし痛快だっただろうな。あの男は」
 ふいに賢吾がそんなことを呟く。自分に向けられたものだと和彦が察するのに、十秒以上かかってしまった。目を丸くした和彦が隣を見ると、賢吾は無表情ではあるのだが、指先でスマートフォンの縁を落ち着きなく叩いている。賢吾の感情がわずかに漏れ出ているのを、そんな些細な仕草から感じ取ったが、何より和彦が気になったのは、いつから賢吾がスマートフォンを使うようになったのかということだった。
 鋭い男の察しはよく、スマートフォンを軽く振って見せてくる。
「いい加減切り替えろと、周りがうるせーからな。ついでに、お前の携帯もスマホにして、番号も変更したぞ」
 何かあるたびに簡単に携帯電話を替えていたので、スマートフォンにしたと告げられても不服はなかった。強いて言うなら機種は自分で選びたかったが。
「佐伯家から、お前の着替えなんかと一緒に携帯も戻ってきたから、データを移しておいた。登録してあった連絡先の中から、何件かはこちらで先に新しい番号を知らせてある。あとは、落ち着いてからお前自身が連絡すればいい」
 もともと長嶺組が手配した携帯電話のため、プライバシーも何もあったものではないのだが、この賢吾の言葉を聞いた和彦の中で、元の世界に戻ってきたのだと妙な実感が伴ってくる。見られて困るような電話やメールのやり取りはしていないが、賢吾が選んだ『何件』が誰なのかは気になるところだ。
 さらに賢吾は続けた。
「鷹津には、秦経由で新しい番号を伝えてやれ。どうせあいつ、今使っている携帯をすぐに解約するだろうからな。……胸糞悪いが、一応あいつには、借りができた。それに――」
 不自然に言葉を切った賢吾は、何か思案するようにあごを撫で、唇を歪めた。
「蛇蝎の片割れは、とことん食えない野郎だ……」
 どういう意味かと問おうとしたが、その前に組員が賢吾に声をかけ、スマートフォンを差し出した。画面にちらりと視線をやった賢吾は、軽く手を振ってこう応じた。
「明日だ、明日。何を言われたって、今日はもう身動きが取れねー。適当に誤魔化しておけ」
 大きく息を吐き出した賢吾を見つめていると、ふいにゾッとするような流し目を寄越される。心の内を暴かれそうな危惧を覚え、咄嗟に和彦は視線を伏せる。
「――迎えに来るのが遅くなって、怒っているか?」
 思いがけないことを言われて、一拍置いてから慌てて和彦は首を横に振ったが、果たして反応として正しかったのだろうかと、すぐに後悔することになる。賢吾の両目に険が宿ったからだ。
「俺は、できることなら、すぐにでも迎えに行きたかった。厄介な交渉や約束なんて放り出してな。……そうか。お前は怒ってないのか」
 弁解したかったが、そのための言葉を自分は持っていないと、和彦は知っている。いつでも賢吾に連絡できる状況でありながら、結局自分からすることはなかった。ただ、待っていたのだ。
 呆れられて、見捨てられるのか。ふっとそんなことが脳裏を過り、途端に狂ったように鼓動が速くなる。
「俺たちのオヤジは、立場上、膝をつき合わせて話すのは容易じゃない。何より、お前のオヤジが嫌がった。おかげで、比較的身軽な俺が。四十半ばにもなって使い走りさせられた。総和会本部に顔を出してオヤジと話し、細かい注文を受けて人目につかない場所を設定してはお前のオヤジと会い、折衝。俺を含めて、面子に泥を塗られるのも、意見を曲げるのも嫌がる男たちだ。これだけの時間がかかっちまった。……少しばかり言い訳させてくれ」
 賢吾の声音は苦々しげで、横顔にはわずかな疲労の色も浮かんでいる。和彦も体験しているからこそわかるが、ここまでの車の移動には長時間かかる。
しかも賢吾の場合は、組の仕事をこなしてからの移動であろうから、負担がないはずがなかった。
「詰めの段階になって、総和会は花見会の準備に入っててんやわんやだ。その合間を縫って、ようやく話をまとめて、お前のオヤジに報告した。そして昨夜遅く、鷹津から電話がかかってきた。迎えにくるなら、和彦を返してやってもいい、ってな」
 賢吾は何やら毒づいたが、あまりに小声だったためはっきりとは聞こえなかった。
 自分の知らないところで、賢吾と鷹津がこんなやり取りを交わしていたと知り、和彦はログハウスでの自分の生活を思い返す。大部分の問題を見て見ないふりをして、のんびりと過ごしていたのだ。その間、自分のために奔走していた男たちがいた。一人は、今隣に座っており――。
 和彦は、膝にかけたダウンコートを握り締める。
「お前は、自分が悪いなんて思うなよ。あえて言うなら、巡り合わせが悪かった。軽く聞かされた程度だが、俺たちのオヤジには古い因縁があって、今になって家同士の思惑も重なった。お前の周囲にいるのは、性質の悪いヤクザだらけだ。状況を見きわめるために、安全な場所に身を隠すのは仕方ない。……一番悪いのは、俺の不甲斐なさだろうな。古狐どもに振り回されてばかりだ」
 最後の呟きはため息交じりだった。賢吾の様子に、和彦はなんと声をかければいいかわからず、ただうろたえる。すると、伏せがちだった視線をスッと上げた賢吾が、まっすぐこちらを見据えてくる。心の奥底まで浚おうとするかのような、無遠慮で傲慢な眼差しだ。
「だから最後に、俺がエゴを剥き出しにした。和彦のことは絶対、長嶺の本宅で面倒を見ると。和彦も絶対にそれを望むはずだと。古狐それぞれに、そう突き付けて、無理やり承諾させた」
 そのときの光景を思い出したのか、賢吾はふっと唇の端に笑みを浮かべる。
「どうするよ。総和会会長と、大物官僚様にケンカを売っちまったぞ。……いや、いままでも、けっこうなことをやってたな。俺は」
 ここまで話してから賢吾は何か気に障ったのか、眉をひそめた。
「――口が利けなくなったのか? 車に乗ってから黙り込んだまま、俺一人が話してる」
 それとも、と賢吾の声が凄みを帯びる。
「俺とはもう、話もしたくはないか」
「違、う……」
「どう違う」
 身を乗り出してきた賢吾の放つ圧に、息苦しさを感じる。返答次第では首をへし折ると言わんばかりの獰猛な眼差しに、和彦は改めて、賢吾を怖いと思う。だが一方で、大蛇の化身のような男が見せる激情の一片に、静かな歓喜も芽生えるのだ。
「……久しぶりに、側であんたの声を聞いたから、つい聞き入ってた……」
 不自然な静寂が車内に流れたあと、賢吾が片手で自分の顔を覆い、大きく息を吐き出した。一瞬にして圧はなくなる。
「コーヒーでも飲むか? あと、簡単に食えるものも。こちらの都合があって、今日は一般道を走るから、長丁場になる。コンビニに寄るから、必要なものは買っておけ」
 和彦は反射的に、前後を走る車に視線を向ける。意識しないまま苦笑いを浮かべていた。
「見た人に、何事かと思われるかな」
 車はともかく、乗っているのは堅気とは言いがたい空気を放つ男たちだ。長距離移動だということを差し引いても、今日の護衛はさすがに大仰ではないかと感じる。その理由を賢吾が教えてくれた。
「一台は、総和会から出ている車だ。お前を迎えに行くことを報告したら、すかさず、連中を送りつけてきやがった。今度は俺が、お前をどこかに匿うんじゃないかと警戒している――という、露骨な当て擦りだ。せっかくだから、何かあったときは弾除けぐらいには使ってやる」
「何か、ありそうなのか?」
 ない、と賢吾が断言したので、ひとまず安堵しておく。
 賢吾の指示を受けてコンビニの駐車場に車が入る。一旦ここで休憩ということなのか、組員たちが交代で店内に入り、和彦も買い物を済ませておく。とはいっても一円も持っていないため、ペットボトルの水の他に、小袋に入ったクッキーとチョコレートを買ってもらって車に戻ると、後部座席についたままの賢吾はカップに口をつけていた。組員が買ってきたらしく、車内にはコーヒーの香りが漂っている。
「もういいのか?」
「ぼくは大丈夫」
 外からドアが閉められ、車に二人きりとなる。落ち着いているのは和彦と賢吾だけで、周囲では組員たちが慌ただしく動いている。馴染みのない土地で賢吾が同行しているとなると、普段とは違う緊張感があるのだろう。どの組員もピリピリしている。
 それもこれも自分が原因だと、和彦は一層の申し訳なさを噛み締めていたが、ふとある異変に気づき、周囲に停まっている車の数を確認する。
「……一台、少なくなってないか?」
「うちの車だ。高速で先行させて、今日泊まるホテルやその周りを確認することになっている。何もかも急に決まったからな。いつもみたいに段取りよくとはいかねーんだ」
「泊まる、のか……」
「強行軍で行きは休憩なしで車を走らせたが、帰りは日が落ちて事故が怖い。さすがにそれはやめてくれと、うちの連中に言われた。それに、俺は乗ってるだけだが、それでも腰にくる」
 賢吾が決めたのなら、和彦は従うだけだ。
 小さく腹が鳴ったので、遠慮なくクッキーの小袋を開ける。何事もなければ今頃、ログハウスでのんびりとクッキーを齧っていたのかと思うと、感傷じみたものが胸の奥で込み上げる。鷹津と夕食の準備について相談し合っていたのだろうかとも考えたところで、和彦はハッとして賢吾を見る。
「どうした?」
「ぼくのことで、秀をひどい目に遭わせ――」
 言いかけた言葉は口中で消える。賢吾が心底不快げに顔を歪めたからだ。
「鷹津、だろう」
 短く賢吾に指摘された瞬間、和彦の背筋に冷たいものが走る。向けられる氷のような眼差しに呼吸すら止まりそうになった。
 取り出していたクッキーを袋に戻そうとして、賢吾に言われる。
「いいから食えよ」
 口にしたクッキーは本来なら甘いはずなのだが、まったく味がしない。和彦を怯えさせたと自覚があるのか、ぼそぼそと賢吾が呟いた。
「……安心しろ。あいつには、俺どころか総和会も手出しできない。お前のオヤジに釘を刺されたからな。まだ使い道があると見ているようだ」
 露骨に安堵するわけにもいかず、ぎこちなく頷いておく。
 短い休憩を終えて再び車が走り始めると、和彦はようやく背もたれに体を預けられる程度には、この状況に慣れ始めていた。
「クリニックは、お前が体調を崩したという理由で休業にしてある。スタッフにはその間の補償も出している。解雇となると、そのあとの処理がまた面倒だからな。金を出して済むなら、そちらのほうがいい。とはいえ、人件費に家賃、機材のリース料諸々を考えたら、何か月もは無理だったが」
 出資者としては、開業して一年で手を引くというのはありえないだろう。クリニックに注いだ資金の回収はようやくここからといったところなのだ。淡々と報告する賢吾だが、ビジネス面での判断としては胃の痛いところだったかもしれない。
 長嶺組はいろいろと気を回してくれたようだが、それでも先行きが見えない不安から、二人のスタッフが退職したと聞かされ、和彦は視線を外の景色に向ける。
「……申し訳ないことをしたな、スタッフに。こちらの事情で振り回した」
「復帰したら、しっかり病み上がりのふりをしておけよ」
「あんたにも――」
 迷惑をかけた、と言おうとして、やめる。今はこの言葉を口にするのは抵抗があった。口を噤んだ和彦に、賢吾もしばらく話しかけてこなかった。


 早めの夕食をうどん屋でとってから、夕焼けが空を染める頃に今日の宿泊先に到着した。
 先行していた長嶺組の組員が駐車場で待機しており、一行を出迎える。賢吾に促されて車を降りた和彦は辺りを観察する。繁華街というには小規模で、地方のいわゆる飲み屋街のようだった。近くにはパチンコ屋や商店街があり、どこか雑多な雰囲気のある場所だ。しばらくブナの木に囲まれた静かな場所で暮らしていた身としては、遠いところに来てしまったと、郷愁にも似た感覚に陥る。
 何もかも突然だったため、心の一部を、鷹津と過ごした場所に置いてきてしまったようだ。
 ぼうっと立ち尽くしている和彦に、賢吾が声をかけてくる。
「悪いな。泊まるところを吟味する時間がなかったんだ。一泊だけ我慢してくれ」
 賢吾がこう言うのは、見るからに古いビジネスホテルだからだろう。部屋が空いているならどこでもいいという一行ではないため、限られた時間の中、条件に合うのがこのホテルだったのかもしれない。
「あっ、いや、ベッドさえあったら、別にどこでも……」
 まず和彦と賢吾が先にフロントでチェックインを済ませる。内心、賢吾は無事に宿泊できるのだろうかと緊張していたが、特にフロントで不審がられることなく、鍵を受け取ることができた。
 二人は三階でエレベーターを降りるが、部屋は隣同士ではなく、和彦はエレベーターに一番近く、賢吾は奥まった場所だ。ただし、非常階段には近い。賢吾の部屋の前には、すでに一人の組員が立っていた。
「……ずっと、ああやって立たせておくのか?」
「悪目立ちするだけだからな。少し様子を見てから、自分の部屋に戻らせる。どうやら泊まり客は少ないようだし、まあ、そこまで警戒する必要もないだろう」
 その言葉を裏付けるように、賢吾はジャケットのポケットから無造作に一万円札を取り出すと、エレベーターホールの隅に設置された自販機でビールとつまみを買い始めた。
 去年、夜桜を見に行った先で泊まった宿で、賢吾が組員たちと早々に晩酌していたことを和彦は思い出す。すぐ近所に飲み屋はいくらでもあるのだが、さすがに己の立場を心得ているのか、出かけるつもりはないらしい。
 一声かけて自分の部屋に行こうとしたところで、背後から賢吾に呼ばれた。
「――和彦」
 一瞬、和彦の体の中を駆け抜けたのは、快感に近いものだった。振り返ると、賢吾が千円札数枚と小銭を押し付けてきた。
「金を渡しておく。カップラーメンは一階で売ってたぞ。アイスもあった」
「……よく見てるな、あんた」
「明日も車移動だ。しっかり休んでおけ」
 賢吾の視線を感じつつ、和彦は部屋に入る。よくあるビジネスホテルのシングルルームで、簡単に設備を確認した和彦はさっそくスリッパーに履き替え、小脇に抱えていたダウンコートをハンガーにかける。このときポケットの辺りで硬い感触に触れ、図鑑を入れていたことを思い出した。なんとなく、取り出して眺めるのは気が咎め、そのままにしておく。
 一旦はベッドに腰掛けたものの、外の様子が気になった。カーテンを開くと、建物裏の路地を見下ろせるようになっていた。窓は開かないため、広く見渡すことはできないが、こちらもまた小さな飲み屋などが建ち並んでいる。斜め向かいの二階には雀荘の看板が出ているものの、窓はカーテンで覆われて中の様子をうかがい知ることはできない。
 見知らぬ風景を眺めていて、少し離れた場所に鳥居らしきものが建っていることに気づく。もっとよく見ようと立ち位置を変えたり首を傾けてみたが、これが限界だ。
 ふらりと窓から離れ、とりあえずテレビをつける。夕方のニュース番組の画面に妙な新鮮さを感じたが、そもそもテレビを観るのが久しぶりだった。ラジオで最低限の世間の動向は把握していたが、映像で観ると情報量が違う。頭が痛くなりそうで、すぐにテレビを消した和彦はもそもそとベッドに横になる。
「疲れた……」
 咄嗟にそんな言葉が口を突いて出た。楽な浴衣に着替えたいが、その前にシャワーを浴びなければならない。面倒だなと考えているうちに眠気が押し寄せ、和彦は抗うことをしなかった。
 手足を投げ出して目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのは三か月近く過ごしたログハウスで目にした光景だった。寝室の小さな窓から見えたブナ林と、ときおり窓の外にとまっていた小鳥の姿。毎日歩いていた周辺の道に、鷹津と歩いて向かった滝の流れ――。
 心が持っていかれるのに任せているうちに、意識を手放していた。
 次に和彦が目を開けたときには、薄明りが点滅する天井が視界に入ってきた。ぼんやりと見上げたまま、何事だろうかと考えていたが、どうやらカーテンを通して、外のネオンの明かりが入ってきているようだ。起き上がった和彦は辺りを見回してから、ベッドの枕元の時計に目をやる。軽いうたた寝程度のつもりだったが、しっかり三時間ほど経っていた。
 中途半端な時間に目が覚めるぐらいなら、このまま朝まで眠っていたかったが、もうどうしようもない。
 和彦は乾燥した室内の空気に軽く咳き込み、慌てて水分をとる。再び窓の外を見てみれば、路地は夕方とは様子が一変している。闇が辺りを包み込んでいる中、飲み屋の看板の明かりがいくつも浮かび上がり、その明かりに誘われたようにちらほらと人通りがある。気になっていた雀荘も、カーテンの隙間から明かりが漏れ出ており、営業しているとわかる。
 飲みに行きたいとは思わないが、夜の空気にはそそられる。フロントで近くのコンビニの場所でも聞いて、少し散歩してみようかとソワソワしていると、和彦の企みを察知したかのように内線が鳴った。
『――起きてたか』
 心の準備なく賢吾の声を聞くと、うろたえてしまう。受話器を通しても、バリトンの魅力は少しも損なわれないのだ。
「ちょうどよかった。あんたに許可をもらおうと思ってたんだ」
『なんだ』
「少し外を散歩したくて……」
『それこそちょうどよかった。今まさに、お前を散歩に誘おうとしてた』
 十分後にロビーにいろと言われて、内線は切れた。
 ちょうどよくというべきか、まだシャワーを浴びておらず、着替える必要もない。ダウンコートを羽織った和彦は、賢吾からもらった千円札と小銭を念のためポケットに突っ込むと、部屋の鍵を持ってロビーへと降りる。賢吾の姿はなかったが、すでに二人の組員がいて、しきりに周囲を警戒している。
 一人で気ままに山を歩く生活に慣れきっていたが、もう、そういうわけにはいかないのだと、改めて思い知らされる。和彦は、組員に促されるまま壁際に置かれたソファに腰掛けると、小声で話しかけた。
「夜なのに、バタバタさせてすまない」
「気にしないでください。――むしろ、組長が出歩く気になられて、我々はほっとしたと言いますか……」
 どういう意味だと首を傾げて表情で問いかけたが、組員は視線を逸らして誤魔化された――わけではなかった。エレベーターの扉が開き、組員を伴った賢吾が姿を見せる。ふと気づいたが、足元は革靴に変わっていた。
「……寝てたのか?」
 目の前に立った賢吾に問われる。
「起きてたけど……」
「寝癖がついてるぞ」
 和彦が慌てて自分の頭を撫でると、賢吾はニヤリとした。
 外に出る前にフロントで、一番近いコンビニの場所を聞いておく。玄関前で待っていた賢吾に追いつくと、何をしていたのかと聞かれた。
「コンビニの場所を聞いたんだ」
「だったら俺たちも、朝メシ用に何か買っておくか」
 そんなことを話しながら建物を出ると、コンビニの場所を和彦に問うことなく賢吾が歩き出す。賢吾にも目的地があるらしいと察して、黙ってついていく。数メートル離れて、組員たちも。
 照明が灯ってはいるがなんとなく薄暗い商店街を通ってみると、ほとんどの店が閉まっている。閉店時間だというのもあるだろうが、空き店舗も目につく。今の時間なら、ホテル裏の路地のほうがまだ人気があるようだ。いわくありげな一団が歩いていても注目されないのは、ある意味ありがたいが。
「――今の時間までずっと、飲んでたのか?」
 賢吾と並んで歩いていて、なんとなく間がもたないと感じて会話を振る。
「そのつもりだったが、予定が変わった。マッサージを呼んで、腰を揉んでもらってた」
「……本当につらかったんだな」
「来たのは、じいさんのマッサージ師だったぞ」
「うん……?」
 なぜそんな説明を付け加えるのかと、和彦はちらりと視線を向けたが、賢吾は澄まし顔だ。なんとなく理由を察したが黙っておいた。
 静かな商店街を吹き抜けていく風はひんやりとはしているものの、肩をすくめるほど寒いわけではなく、ダウンコートしか羽織るものがなかったとはいえ、大げさだったかもしれない。昼間までは、雪が残った地域にいたというのが信じられないほどだ。
「――静かなもんだな」
 商店街を通り抜けたところで、ぽつりと賢吾が洩らす。車は一台も通っておらず、暗い道を街灯が照らしている。
「なあ、どこに――」
 向かっているのかと、さすがに問おうとしたとき、和彦の鼻先をほんのりと甘い匂いが掠める。最初は気のせいかと思ったが、風に乗って確かに匂っている。きょろきょろと辺りを見回す和彦に、賢吾がふっと表情を和らげた。
「お前の鼻を頼りに、目的地に着けるかもな」
「ぼくは犬じゃないぞ。……で、どこに向かってるんだ」
「たぶん、あっちのはずだ」
 なんとも頼りにならないことを言って、賢吾が左の道を指さす。
「根拠は?」
「ホテルの俺の部屋から見えた。角を曲がったら着くはずだ」
 賢吾の言葉は正しかった。角を曲がってすぐに和彦の視界に飛び込んできたのは、暗い中でもぼんやりと浮かびあがる赤い鳥居で、にんまり笑って賢吾が頷く。
「ほらな」
 どうやらホテルの部屋の窓から、和彦と賢吾は同じものを見ていたようだ。
 小さな神社だが、長い石階段が続いており、足元が暗い中、ここを上がる気には到底なれない。もっとも、賢吾の目的は神社で参拝することではないようだ。石階段の横にある小道に向かいだしたので、和彦もあとをついていく。すぐに戻ってくるという賢吾の言葉を受け、組員たちは鳥居の側で待機だ。
 さきほど鼻先を掠めた甘い香りの正体は、すぐにわかった。小道に沿って植えられた梅の木が花をつけていた。ただ、もう時期は終わりに近いのか、地面には梅の花びらが大量に落ち、特別な模様のように小道を彩っている。
「――今年は忙しくて、梅の花が咲いてたかどうかも気にしてる余裕はなかったが、ようやく見られた」
 枝の先に残った梅の花に顔を寄せ、賢吾がそんなことを言う。何気なく寄越された眼差しに、和彦は身を震わせた。小さな梅の花程度では、この男が持つ華には到底敵わない。闇に覆われつつある状況ではなおさらだ。
 凄まれたわけでもないのに臆した和彦は、無意識に後退りかけたが、それを許さないように賢吾に手招きされる。逆らえるはずもなく、側に寄る。
「〈向こう〉に戻ったら、一度ぐらいのんびりと花見をやりたいな。満開の桜の下で」
「……のんびりじゃない花見はあるんだろ、あんたは」
「今年の花見会は、例年より少し遅くに開かれる。主に総和会内での事情のせいだが、なぜか、俺のせいになっている。俺とオヤジが揉めたせいだってな。いい迷惑だぜ。この際だからと思ったんだろうが、俺を目くらましに使いやがって」
 さすがに今年は、和彦への花見会の参加要請はなかったと告げられ、苦笑で返す。父子の揉め事の原因が何であるかも知られているだろうから、好奇の目に晒される事態は避けられるというわけだ。
「ヤクザの組長なんてやっているくせに、苦労性だよな」
「今のご時世、どこの組の組長もこんなもんだぞ」
「でも、あんたが今抱えている苦労は、本来ならしなくていいものだ」
 和彦が言おうとしていることを汲み取ってくれたのか、賢吾は短く笑い声を洩らした。
「おまえを迎えに行くことぐらい、苦労なんて思っちゃいねーがな」
 そういう意味で言ったのではないが、賢吾もわかったうえで、あえて軽い言い方をしたのだろう。組員が離れた場所で待機していてよかったと、心底、和彦は思った。賢吾のこんなセリフを他人に聞かれたら――。
 知らず知らずのうちに熱くなった頬を強く擦ってから、ぼそりと呟く。
「……大蛇の執着は怖い」
「とっくに骨身に染みてたはずだろ。それとも、離れている間に忘れたか?」
 ふわりと風が吹き、梅の花が一瞬強く香る。和彦は乱れた髪を掻き上げようとして、その手を賢吾に掴まれた。
「今日ずっと思っていたが、伸びた髪も、なかなかいい」
「クリニックを再開する前に切りに行く。……寝癖が目立って仕方ない」
 もったいないと呟いた賢吾に促され、来た道を引き返そうとしたとき、和彦はさりげなく切り出した。
「――……本当は、今日のうちに帰ろうと思えば帰れたんだろ。止められたとか言ってたけど。多少の無茶なら簡単にやる男揃いなのに、事故が怖いとか……」
 運転の交代要員もいて、それで一泊すると聞かされたときから、違和感はあったのだ。賢吾なりの目的があるかと思って何も言わないでいたが、梅の花の香りと、賢吾のまとう空気が優しくて、気が変わった。
「ヤクザだって、事故は怖いぜ。腰も痛くなるしな」
「それで納得しろというなら、かまわない。別に文句があるわけじゃないし」
 沈黙は、十歩も歩かないうちに破られた。
「――俺としては冷静なつもりだったが、行きの車の中で考えてな。お前を連れ戻すにしても、時間が必要じゃねーかって」
「なんの時間が……?」
「俺が聞きたい。お前の内面は複雑すぎて、ときどき俺は見守るしかできなくなる。迂闊に手を出して、壊したくないからな」
 複雑すぎるといいながら、和彦の内面を見抜いている節のある賢吾は、きっと予感していたのだろう。鷹津から引き離した和彦が、その鷹津の元に心の一部を置いてきてしまうことを。
「お互いが冷静になる時間、とでも思っておけ」
「……ごめん」
 和彦の謝罪の意味を、賢吾は問うてこない。
 組員たちと再び合流すると、和彦の当初の目的であったコンビニへと向かう。一人真剣にヨーグルトを選んでいると、さりげなく隣に立った賢吾に耳打ちされた。
「ケーキがあるぞ。買ってやろうか?」
「どうしてケーキなんだ」
「今年のお前の誕生日に、何もしてやれなかったからな」
 咄嗟に何も言えず、ただ賢吾の真意を探ってしまう。すると賢吾は苦笑した。
「そう身構えるな」
「別に……、身構えて、ない」
 組員たちがカゴに次々と、売れ残っていたおにぎりやパンを入れているのを見て、和彦はホットスナックのコーナーを指さす。
「だったら、コロッケを買ってくれ」
「他には?」
「……ちょっと高いアイス」
 賢吾は惚れ惚れするような笑みを浮かべる。和彦のささやかなワガママが嬉しくて仕方ないといった様子で。




 ヤクザの朝は早い――。
 そんな言葉を心の中で呟きたくなるほど、和彦の寝起きは不本意なものだった。
 いきなり部屋のドアを乱暴に叩かれ、浅い眠りの只中にあった和彦は飛び起き、わけがわからないままベッドから転がり出た。ドアを開けると賢吾が立っており、当然のように言い放ったのだ。
「出発するぞ。早く準備をしろ」
 子供を急かすように賢吾が手を打ち鳴らし、和彦は頭が完全に覚醒しないまま身支度を整えると、部屋をあとにした。
 早朝のためか朝もやが立ち込めていたのが印象的で、乗り込んだ車の中からぼんやりと景色を眺めていた。寝てていいぞと賢吾に言われたが、もう二度と訪れることのない場所かもしれないと思うと、素直に従う気にはなれなかった。
 昨夜買っておいたパンを缶コーヒーで流し込み終えた頃、車は高速道路に入る。車内の様子は昨日とほぼ同じで、賢吾は絶えずスマートフォンを操作し、助手席の組員と合間に打ち合わせをする。予定が立て込んでいるようだ。
 すっかり手持ち無沙汰の和彦は、賢吾たちの邪魔をしないよう極力口を閉じ、なんなら存在感すら消してしまおうと、窓側に身を寄せていた。高速道路から見る景色はあまり変わり映えがせず、反対側に視線を向ける。相変わらずスマートフォンに視線を落としている賢吾に、つい声をかけてしまっていた。
「……ずっと見ていて酔わないか?」
 顔を上げないまま賢吾は口元をわずかに緩めた。
「酔わないな。気分転換に、お前を見ているから」
 さらりとこういうことを言えるから、この男は性質が悪い。一人うろたえる和彦を、やっと顔を上げた賢吾がニヤニヤしながら眺めている。ひとまず機嫌は悪くなさそうだ。
 和彦は逡巡してから、切り出した。
「――なあ、相談したいことがあるんだ。スマホを見ながらでいいから、聞いてくれないか」
「かまわねーぜ」
 そう言って賢吾はすっとスマートフォンを置いた。
「昨日のあんたの苦労話を聞いて、こういうことを言うのは心苦しいんだが……」
「苦労話?」
「ぼくの父のことだ。基本的に、興味のない相手には物腰が柔らかいし、愛想もいいんだが、たぶんあんたには……、違っただろ?」
 賢吾の返事は、苦笑いだった。
「……事情があって、ときどき、実家や和泉の家に顔を出すことになるかもしれない」
「それは、お前が行かないとダメなのか?」
 賢吾の声が突き放すような冷たさを帯びたように感じるのは、申し訳なさゆえかもしれない。まともに賢吾の顔が見られず、和彦は反射的に視線を伏せていた。
「ぼくが行かないと、ダメなんだ」
 こみ入った家庭の事情があり、一つずつ解決していかなければならなくなった。そのためには、和彦が直接出向くのが適切だ。まさか、高齢の総子に移動してもらうわけにはいかない。俊哉にしても、外で会う場合の段取りの多さを、賢吾は身を持って知っているはずだ。
「――……お前の実家だけでも厄介なのに、和泉家も絡んでくるなんてな。疎遠になっていたはずが、つき合いが復活した理由は、お前のオヤジから聞いた。祖父君の体調が思わしくないようだな」
 俊哉のことは雑に呼んでいるくせに、会ったこともない和彦の祖父に対しては、礼儀を払ってくれるのだなと、些細なことに気がつく。よほど、俊哉と会ったときの印象が悪かったのかもしれない。
「それもあって、会えるうちにできる限り会いに行きたいんだ。疎遠だった理由も、結局ぼくが原因のようなものだったから……」
「俺はそこまで立ち入る気はない。お前から話したいというなら別だが、俺の上の世代ががっつり手を組んで対応したというなら、相応の重い理由があるんだろう。お前が和泉家を大事にしたいというなら、俺も配慮する。行きたいというなら、止めはしない」
 ほっとした和彦だが、同時に、不穏さも感じ取る。
「ぼくの実家については……」
「佐伯俊哉という男にとって、お前は大事な〈部品〉なんだと、顔を合わせてわかった。理屈じゃねーんだ。なんとなく感じたんだよ。俺だって、でかい息子がいる身だからな。お前のオヤジが語ることに、言葉として理解はできたんだが、気持ちがついていかなかった。おそらく向こうも、共感や同調というものを俺に求めちゃいなかったんだろうがな。――いままで生きてきて、うちの古狐以上に尊大な人間に、初めて会った」
 ここまで言われて、今度は和彦は苦笑いをする。俊哉は、長嶺賢吾という男を、本性を見せなければならないほどの存在だと認めたということなのだろう。守光に対抗しうると賢吾が判断されていなければ、即座に話し合いは打ち切られていたはずだし、和彦を長嶺の本宅に預けるという結論には至らなかったはずだ。
「……難解な人なんだ。でも義理堅いとは思う。一度した取り決めは、守るはずだ」
「義理堅い、か。それがつまり、お前が実家にも顔を出したいという根拠になるのか?」
「和泉の家に行って、いろいろわかったことがある。それを踏まえて、家族とまた話がしたいんだ。……向こうが、ぼくを家族と認めてくれるなら、だけど」
 悲しいことを言うなと、賢吾に手荒く頭を撫でられた。
「わかった。お前がやりたいようにすればいい。ただし、行動するなら、事前に予定を知らせろ。それは絶対だ」
「――……実は、和泉の家で紹介された人からも、会社に一度来てほしいと言われてて……」
 賢吾が大仰に眉を動かす。
「ずいぶん交友関係が広がったな」
「自分でもびっくりしている」
「和泉家と繋がるというのは、そういうことだろうな。佐伯家は、官僚として特殊な世界で力を振るってきた一族で、一方の和泉家は、ある意味対照的だ。調査書類を読んだだけだが、昔から手広く商売をやって成功してきたらしいな」
「おばあ様の話だと、その商売を畳んだりしたみたいだけど」
「和泉家が今扱っているものは、一つだけだと言っていい。だがその一つが、強力だ」
 実のところ、和彦はまだ和泉家というものを把握しきれていない。広大ではあるものの、周囲を田畑に囲まれた土地に老夫婦が静かに暮らしている様子をこの目で見てきた。だが、総子から渡された、和彦に譲るという財産目録はあまりに凄まじかった。そこに、和泉家が持つ力の一端を見た気がしたのだ。
「和泉の家に厭われると――……」
 ふっと、俊哉に電話越しに言われた言葉が口を突いて出る。訝しむように賢吾がこちらを見たので、なんでもないと和彦は首を横に振る。和泉家からの相続に関しては、まだ話せる段階になかった。いくつかの手続きは進めているとはいえ、和彦自身にまだ実感は乏しいし、本当に自分が継いでいいものなのか戸惑いがある。
 和泉家になんの貢献もしていないのに、という思いが拭えないのだ。しかし、自分たちに残された時間は少ないと総子に言われてしまうと、無碍にはできなかった。
 これもまた血の呪いだとは思うが、そこには確かに〈母親〉との繋がりが存在する。
「――賢吾」
 呼びかけると、微かに賢吾の肩が揺れる。和彦は抑えた声で問いかける。
「本当に、いいのか?」
 何が、とは聞き返されない。賢吾は当然のように察している。
「大蛇の貪欲さを舐めるなよ、和彦。お前が抱えている厄介事も全部、呑み込んでやる。長嶺の家も大概だからな、お前こそ覚悟しておけよ」
「……怖いな」
 そう呟きながらも頷くと、賢吾にさりげなく手を握り締められた。
 休憩を取ることなく車は走り続け、特にやることのない和彦は、賢吾にスマートフォンの使い方を軽く教えてもらう。やはりというべきか、賢吾は和彦と同じ機種で揃えたらしい。あとでそのことを知った千尋がどんな行動に出るか、和彦には手に取るようにわかる。
 車内から見る景色が見覚えのあるものに変わったところで、和彦は姿勢を正す。いまさらながら緊張していた。
「――ようやく着いたな」
「ああ……」
 建ち並ぶ住宅の中、異質な存在感を放つ鉄製の高い塀にすら懐かしさを覚える。すでに長嶺の本宅の前には数人の男たちの姿があり、一行を待ち構えているようだ。
 車は門扉の前にぴたりと停まると、速やかに後部座席のドアが開けられる。恭しい動作で示され、賢吾に軽く肩を叩かれたこともあり、和彦はおずおずと車を降りる。ドアを開けてくれたのは、三田村だった。
 基本的に仕事中は淡々とした物腰の男だが、今は――緊張しているように見える。声をかけたいが、他人の目があるこの場でそんなことはできない。和彦は何事もないように、他の組員に促されるまま門扉の内側へと連れ込まれた。
 玄関では千尋が待っており、和彦の顔を見るなり、一瞬泣きそうな表情となったあと、満面の笑みを浮かべた。見えない尻尾をブンブンと振っているようだ。
「おかえりっ、和彦っ」
 第一声はこれしかないとばかりに、大きな声で言われる。和彦は一気に肩の力が抜けるのを感じながら、こう応じた。
「――ただいま」


 実家に置いていった和彦の荷物は、すべて客間に運び込まれていた。里帰りをしたときは年末だったため仕方ないが、そのとき持っていた着替えはすっかり季節外れとなっており、改めて、自分が不在の間に流れた時間について実感する。
 長嶺組の男たちに抜かりはなく、新しい春物の衣類が用意されており、ありがたく和彦は着替えを済ませた。
 文机の上には、里帰りに持って行った着替え以外の細々としたものが、整理して置かれている。文庫の一冊を開くと、三田村からクリスマスプレゼントとして贈られた栞が挟まっていた。それだけではなく、賢吾からの香水と、千尋からの名刺入れもきちんと戻ってきている。鷹津との生活で切り離していたものが、一つ一つ自分の中に戻ってきているような、不思議な感覚だった。
 足を伸ばしてぼんやりしていると、廊下のほうで抑えた足音がして、客間の前で止まった。
「――先生、お茶はいかがですか」
 笠野の声に、知らず知らず顔が綻ぶ。玄関からまっすぐ客間に向かったため、和彦が本宅で一番世話になっていると言っても過言ではない笠野の顔をまだ見ていなかったのだ。
「いただくよ」
 そう応じると、障子が開いて笠野が盆を手に姿を現す。文机の上にスペースを作ると、そこにお茶の入ったカップが置かれた。
 笠野は軽く室内を見回してから、和彦が着替えた服に目を留める。
「もうダウンの上着は使わないでしょうから、クリーニングに出しましょうか」
「うん、そうしてくれ」
 ダウンコートのポケットに入れてあった図鑑は、文机の引き出しに仕舞ってある。ログハウスに置いてきてしまった野鳥の図鑑を、鷹津は忘れず送ってくれるだろうかと、ふと気になった。
「お昼は何かリクエストはありますか?」
 服を抱えた笠野に問われ、和彦は少し考え込む。
「……卵焼きが食べたい。少し甘めの。あとは、おにぎり。具は任せるよ」
 卵焼きに何度か挑戦してみたが、どうしても上手くできなかったので、もう自分に才能はないのだと諦めた。やはり人に作ってもらったほうが美味しい。
「それぐらいお安い御用ですが、でしたら、汁物もつけましょうか。具沢山の豚汁がいいですかね」
「あー、いいなあ、それ……」
 笠野とのんびりと会話をしていると、前触れもなく――まさに蛇が忍び寄るように、唐突に賢吾が客間に現れる。
「少しいいか。俺は午後から出かけるから、その前に話しておくことがあってな」
 賢吾の言葉を受け、笠野は速やかに客間から退出した。
「忙しいな。さっき帰ってきたばかりなのに。無理すると、本格的に腰を悪くするぞ」
「そうならないよう、夜はお前に腰を揉んでもらうか」
 賢吾は自分で座布団を引っ張り出してくると、和彦の側に置き、どかっと腰を下ろした。胡坐をかいた賢吾はすぐには用件を切り出さず、じっとこちらを見つめてくる。静かな、しかし獰猛さも感じさせる眼差しに、取って食われそうだなと内心で思う。本宅での、賢吾を前にしての緊張感が懐かしくもあり、和彦は息を詰める。
「――お前はもう、総和会本部で生活する必要はない。オヤジが性急に、お前を取り込もうとしたことが発端でゴタゴタしたが、結果として、佐伯俊哉が介入してきたのは正解だったんだろうな。みっともない言い訳のようだが、俺がオヤジに啖呵を切るのは簡単……とまでは言わないが、やろうと思えばできた。ただ、俺の動き次第で、ことは長嶺組だけじゃなく、総和会に名を連ねる他の組にも波及していた」
 賢吾は大きく息を吐き出すと、珍しく苛立ったようにガシガシと髪を掻き乱す。
「物心ついたときから叩き込まれた習性ってやつだろうな。組を守ることが何より優先。組のために最善となる方法を取る。そうであれと、オヤジからさんざん言い聞かされて、努めてきた。そのために総和会にも献身してきた。あの組織は面倒くさい一方で、確かに組を守ってもくれるんだ。従順であるうちはな」
「互助会、だったな」
「今の総和会は、オヤジそのものだ。長嶺守光の持つ執念と愛情が、あのでかい組織を動かしてる」
 長嶺組を守るために――と、賢吾は苦々しげに呟く。和彦はそこに、賢吾を生かし、縛り付ける血の鎖を感じた。
 およそ賢吾らしくない、迂遠で歯切れの悪い物言いは、守光と膝を突き合わせて話しているうちに、嫌でも実感させられたものがあるのかもしれない。和彦が、俊哉や総子と話して感じたものがあったように。
「だからといって、こちらの執念や愛情が踏みにじられるいわれはない。……もっとも、俺もさんざん、お前を踏みにじってきたんだがな。悪いことはできねーな。オヤジを責めることで、俺はお前から責められることになる」
「それは……」
 この男(ひと)は、自分よりさらに窒息しそうなほど重いものを背負っているのだと思うと、和彦は身を乗り出さずにはいられなかった。
 大きな手を握ると、賢吾が驚いたように目を見開く。
「おい――」
「……大蛇の化身みたいな男が、こんなに優しいなんて思わなかった」
 きまり悪そうに顔をしかめたあと、賢吾は意を決したようにこう告げた。
「今回のことは三者円満とはいかないが、痛み分けとしてカタをつけるために、オヤジがある条件を出してきた。お前を月に一度は、本部に派遣するようにと。一度といいながら、何日もお前を拘束するんじゃないかと思ったが、本部で一泊過ごしてくれればいいと言っていた。形が必要なんだそうだ。長嶺の男たちが、一人の〈オンナ〉を共有して、大事にしているという」
 和彦は、数か月前、総和会の別荘で守光に言われたことを思い出す。総和会の力を認めながらも、取り込まれることを警戒している賢吾に対して、守光は和彦を利用するつもりだ。そのため、和彦個人が総和会と距離を置くことをなんとしても認めないだろう。仮に逆らおうとしたところで、おそらく守光は俊哉を通して働きかけてくるはずだ。
 賢吾と守光と俊哉の思惑が絡み、牽制し合うことで、平穏は保たれる。それが、苦い毒を口に含んだうえでのものだとしても。
 自分は理屈のわからぬ幼子ではないという気持ちを込めて、和彦はじっと賢吾の目を見つめる。
「あんたは将来、総和会会長の座に就くのか?」
 単刀直入な和彦の問いかけに、賢吾は苦笑いを浮かべる。
「オヤジに余計なことを吹き込まれたんだな。――ああいうもんは、就きたいからといって就けるものじゃない。俺はまだ四十代の若造だから、端から話にならない。それなりに実績と力のある人間を、周りが盛り立てた結果に、肩書きがついてくる。俺は盛り立てるのも盛り立てられるのも、正直面倒に感じる性質だ。うちの組の安泰のために、ある程度総和会には手を貸すが、それ以上は、な……」
「自分が引退したあとのことを、会長は心配していた」
「さあ、どういう状況になることを心配しているんだか。オヤジとしては、新しい会長のもとで盤石さが引き継がれるよりも、揉めて派手に荒れる状況を望むかもな。対立を煽る存在を用意して、影響力が特定の勢力に偏らないようコントロールし続けて――。そうこうしているうちに時間が経って、俺も渋いジジイになってるかもな」
 賢吾の口元に浮かんだ冷笑に、さっと和彦の肌が粟立つ。
「……そんなことを考えるなんて、やっぱり長嶺の男は怖い」
「今さっき、優しいと言ってくれたじゃねーか」
「前言撤回だ」
「だったらついでに、お前にとって嫌な話をしておく。――南郷のことだ」
 反射的に身が竦む。咄嗟に和彦の脳裏に浮かんだのは、おぞましい百足の姿だった。
「総和会でのお前の後見人という決定は覆らなかった。お前の立場を思えば、あの男ぐらいの番犬は必要だと、押し切られた」
「番犬……」
 和彦にとってはある意味、思い入れのある言葉でもあり、ほろ苦い気持ちにさせられる。
 微妙に表情を曇らせた和彦の変化に、賢吾は座布団から下りて正座をすると、深々と頭を下げた。
「おそらくお前が希望していたことを、ほとんど叶えてやれなかった。俺の力不足だ。すまなかった」
 これまで見たことのない賢吾の姿に、和彦は激しく動揺する。頭を下げたまま賢吾は続けた。
「お前を連れ戻しておきながら、この体たらくだ。騙したなと詰ってくれてもいい。……これ以上長引けば、お前を鷹津に持って行かれると焦っていた。なりふりかまっていられなかった。お前が古狐どもに振り回されるとしても、俺の側に置くことを優先したんだ」
 和彦がため息をつくと、賢吾がわずかに頭を上げる。謝罪しながらも、上目遣いの眼差しには狡猾さとふてぶてしさが覗いている。
「あんたみたいな男に頭を下げられて、そこまで言われたら、ぼくは何も言えない」
「遠慮なく言ってくれていいんだぜ。あんたみたいな男、と言うが、俺は案外狭量だ。たとえば、鷹津の隣に立つお前を一目見て、嫉妬して、八つ当たりするぐらいにはな」
「……あれ、八つ当たりだったのか。あんたを怒らせたんだと思った……」
「つまり俺は、その程度の男だってことだ」
 賛同しかねる言葉だが、言ったところで屁理屈で納得させられるのが目に見えているため、曖昧な表情を返しておく。
 今後の予定について軽く相談してから、今はとにかく環境に慣れるよう念を押される。意味がわからず首を傾げると、賢吾は真剣な顔つきで説明した。
「お前はもう、山奥でひっそりと息を潜めて暮らしていたただの堅気じゃなく、長嶺の男たちの〈オンナ〉に戻ったということだ。そして、長嶺組のシノギに貢献する医者でもある。振る舞いには気を配れ」
 和彦がいまだに地に足のついていないふわふわとした状態なのを、賢吾は感じ取っていたのだろう。言葉で頬を張られたような衝撃を受け、和彦は目を見開く。そして、小さく頷いた。
「――お前は面倒な人間を引き寄せすぎる。自覚なく、というのが一番性質が悪い。息苦しくならないよう自由にさせてやりたいが、そうするにはお前は価値がありすぎる。……檻に閉じ込めないだけ、感謝してもらいたいぐらいだぜ」
 自嘲気味に呟いた賢吾が腕時計に視線を落とす。小言を言い足りないらしいが、今はここまでにしてくれるようだ。
 少しだけな、と前置きした賢吾に、和彦は腕を掴まれて引き寄せられる。厚みのある胸板に触れると同時に、むせ返るような雄の匂いに包まれ、眩暈がした。
 一瞬にして屈服させられた和彦は、熱を孕んだ賢吾の眼差しに戦きながら、懸命に見つめ返す。そうしなければ、この男は機嫌を悪くする。
「……大事で可愛い俺のオンナが、ようやく手元に戻ってきた」
 魅力的なバリトンの魅力を際立たせるような囁きとともに、あごのラインを指先でなぞられる。強い疼きが背筋を駆け抜け、意識しないまま喉が鳴る。気がついたときには賢吾の顔が眼前にあり、互いに視線を逸らすことなく唇が重なっていた。
 何かを確かめるようにじっくりと、上唇と下唇を吸われる。和彦は小さく喘ぎながら、同じ行為を賢吾に返してから、口腔に熱い舌を迎え入れる。蠢く舌の動きに必死に応え、流し込まれる唾液を受け入れてから、引き出された舌に慎重に歯が立てられる。このまま噛み千切られるかもしれないという恐怖は、とてつもない淫らな衝動も伴っている。
 堪らず鼻にかかった声を洩らすと、きつく抱き締められる。何度も切ない声で賢吾の名を呼び、再び口腔に差し込まれた舌に吸い付く。賢吾の興奮は、強くなる腕の力や、荒い息遣い、高い体温から伝わってくる。もちろん、和彦もこれ以上なく興奮していた。
 その果てに、賢吾の腕の中でビクビクと身を震わせる。
「――……キスだけでイッたのか? いやらしいオンナだな、お前は」
 獲物を弄ぶ獣の残酷さを含んだ声で、賢吾が囁く。
 ログハウスでの生活で、和彦と鷹津との関係がこれ以上なく深まっていると察しているうえで、そんなことは関係ないとばかりに賢吾は口づけで迫ってくる。和彦の中にある感傷も罪悪感も、すべて呑み込むかのように。官能の高ぶりに、和彦の目尻に涙が浮かんでいた。
 濃厚な口づけを堪能して、ようやく唇が離れる。和彦は息を乱しながら賢吾の肩に額をすり寄せると、手荒く後ろ髪を撫でられた。
「この手触りはなかなか惜しい気もするな。どうする、伸ばし続けてみるか?」
「……昨日言っただろ。時間ができたら、切りにいく」
 どうする、と聞いておきながら、和彦の返事に賢吾は満足げに目を細める。
 賢吾が自室に戻るタイミングで、昼食の準備ができたと笠野から内線がかかってきたため、一緒に客間を出る。久しぶりにダイニングで食事をしようと思ったのだが、なぜか賢吾もついてくる。
「出かける準備をしなくていいのか?」
「お前の顔を見ながら、茶を飲む時間ぐらいはある」
「……好きにしてくれ」
「ついでに、千尋も呼ぶか。自分の部屋でウズウズしてるだろうからな」
 廊下を歩きながら、中庭に視線を向けていた和彦は、あることに気づいた足を止める。
「なあ、中庭のあれ――」
 和彦が指さした先では、広い中庭の一角が整地され、土が剥き出しとなっている。樹木は常に手入れが行き届き、季節に合わせてさまざまな花が植え替えられているような場所だが、和彦が本宅に出入りするようになって、こんな光景は初めて目にした。
「大きな木でも植えるのか?」
「いや、小さな砂場を造る。それに、すべり台にブランコ……。鉄棒もあったほうがいいかと考えている。中庭は遊具で遊べるようにして、庭のほうは地面がコンクリートだから、自転車を走らせるのに具合がいいんじゃねーか、とかな」
「ちょっ……、なんの話をしてるんだ」
「――千尋が小さいときも、そうしていた。中庭が有効利用できる機会なんて、滅多にないからな」
 和彦は、賢吾の顔と中庭を交互に見てから、目を見開く。誰が中庭で遊ぶことになるのか、ようやく理解できた。
「春は、変化の季節だ。お前はようやく戻ってきたし、千尋はガキの時期から脱却するのにいい頃合いだ。それに、何か企んでいる連中は、もぞもぞと蠢き始めてるんじゃねーか」
「心当たりが?」
 賢吾は薄く笑むだけで、答えてくれなかった。









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