と束縛と


- 第1話(1)-


「あうっ……」
 熱く濡れた舌にべろりと首筋を舐め上げられて、思わず和彦(かずひこ)は呻き声を洩らす。同時に背には、ゾクゾクするような疼きが駆け抜けた。
 しなやかな体つきと荒々しい気性を持つ獣が、体の上で暴れているようだなと思いながら、和彦は乱れた息の下、小さく笑ってしまう。
「あっ」
 ふいに、和彦の上で卑猥な律動を繰り返していた獣――ではなく、千尋(ちひろ)が声を上げた。和彦は、千尋の茶髪を撫でてから、問いかける。
「どうした?」
「今、先生の中、すげー締まったから、よすぎてイきかけた」
 まじめな顔でそんなことを言った千尋の頬を、汗が伝い落ちている。和彦はてのひらで汗を拭ってやってから、短く言い放った。
「――バカ」
「バカだけど、セックスは上手いだろ、俺」
 悪びれることなくヌケヌケとそう言った千尋が、緩く腰を揺らす。すでに充溢した硬さと熱さを持つ千尋のものが和彦の内奥深くで蠢き、簡単に官能を刺激する。
「うっ、あぁっ……」
 和彦が上半身をしならせると、嬉しそうに目を輝かせた千尋が顔を寄せてくる。野性味たっぷりのよく日焼けした肌が、若々しく端正な顔立ちにはよく映える。引き締まった頬のラインは、どこか粗野さも感じさせはするのだが、強い輝きを放つ切れ上がった目は子供っぽくもあり、顔立ち以上の魅力を千尋に与えている。
 自分が二十歳のときは、こんなに生気を漲らせ、輝く存在だっただろうかと和彦は思う。こんなにしなやかで、熱い体を持っていただろうかとも ――。
 和彦はてのひらで愛でるように、千尋の体を撫でる。律動のたびにぐっと筋肉が硬く引き締まり、千尋の体が、しなやかではあるもののひ弱さとは対極にあるのだと、教えてくれる。
「先生、キス」
 千尋にせがまれ、貪るように唇を重ねて、舌を絡め合う。和彦の中で、千尋のものが力強く脈打っているのがよくわかる。
「はあっ……、先生の中、興奮しまくり」
 ペロッと和彦の唇を舐めてから、熱い吐息交じりに千尋が洩らす。和彦はお返しとばかりに千尋の下唇に軽く歯を立てた。
「興奮してるのは、お前のほうだ」
「若いから、俺」
 ニヤリと笑いかけられて、和彦は千尋の滑らかな背に爪を立ててやる。もちろん本気でないと千尋もわかっており、ぐっと腰を突き上げて、心地よさそうに目を細めた。
 こんな表情をされると、自分より十歳年下の生意気な千尋を甘やかしたい衝動に駆られる。甘やかせば付け上がる生き物だとわかってはいるのだが。
 そして案の定、千尋は付け上がった。
「――……佐伯(さえき)先生」
「断る」
 猫なで声で呼んだ千尋に対して、すかさず和彦はぴしゃりと言う。千尋は顔をしかめながら唇を尖らせた。
「俺まだ、佐伯先生としか言ってないじゃん」
「お前がぼくをそう呼ぶときは、ロクなことを言い出さない」
「ロクなことじゃない。今の俺たちにとっては大事なことだ」
 芝居がかったようにまじめな顔の千尋だが、片手は油断なく和彦の両足の中心に這わされ、中からの強い刺激で反り返り、先端から透明なしずくを滴らせている和彦のものを掴んできた。
「おいっ――」
 力を込めて上下に扱かれ、息が弾む。唇を噛んだ和彦を見て、楽しそうに笑いながら千尋は腰を動かす。すぐに和彦は声を抑えきれなくなり、それどころか自ら腰を揺らしていた。そのタイミングで千尋が囁いてきた。
「ねえ、生でしていい?」
「……そう言って中で出すから嫌だ。後始末が面倒なんだ」
「でも先生、生でするのも、中で出されるのも好きじゃん」
 和彦の内奥から千尋のものが引き抜かれる。小さく声を洩らした和彦の唇に軽いキスを落としながら、千尋が装着したゴムを外し、再び内奥に熱いものを挿入した。
「んうっ」
 和彦が仰け反ると、体を起こした千尋に両足を抱え直され、激しく腰を突き上げられる。たまらず和彦は頭上のクッションを握り締め、欲望が抜き差しされる様子も、開いた両足の間で、律動のたびにはしたなくしずくを垂らして揺れる和彦自身のものも、すべて千尋に見られる羞恥に耐える。ただしその羞恥は、ひどく甘美だった。
「あっ、あっ、ちひ、ろっ……」
「やっぱり、生のほうが反応いいよね、佐伯先生。俺も、こっちのほうがいい」
 一際乱暴に奥深くを突き上げられた瞬間、和彦は声も出せないまま下腹部をビクビクと震わせる。頭の中が真っ白に染まり、強烈な快感に全身を貫かれていた。千尋の見ている前で、直接触れられないまま、和彦は白濁とした絶頂の証を噴き上げ果てたのだ。
 だが、これで終わりではない。
 和彦の反応でさらに勢いを得たのか、千尋の動きに余裕がなくなり、ひたすら欲望を内奥に打ち込んでくる。それだけでも、肉の愉悦を生むには十分だ。
 自らが放った精で下腹部を濡らしたまま、和彦は身を捩り、喘ぐ。千尋が感嘆したように洩らした。
「今みたいな先生を眺めてるの、俺好きなんだよ。俺が年上のこの人を支配してるんだって、実感できて、興奮するっ……」
 ぐっと腰を突き上げて、千尋が動きを止める。一方で和彦の内奥では、千尋のものが震え、熱い精をたっぷり吐き出していた。不快さとは紙一重の陶酔が和彦に襲いかかり、身悶える。のしかかってきた千尋の体を抱き締めて受け止めていた。


 胸元に飽きずに唇を押し当てる千尋の背を、事後のけだるさに身を委ねつつ和彦は撫でる。その手つきは、犬を撫でる仕種にも似ている。というより、そのものだ。ときおり髪をくしゃくしゃと掻き乱してやると、千尋は首をすくめて笑う。
 戯れに唇を啄ばみ合いながら、千尋の腕に手をかけた和彦は、ここであることがいまさらながら気になった。
 千尋は左腕の上のほうにタトゥーを入れている。しなやかな筋肉に覆われた腕に、凝ったデザインの鎖が巻きつき、その鎖には、艶かしく蛇が絡みついているのだ。初めて見たときは、タトゥーの生々しさにドキリとしたのだが、今もまだ慣れない。
 タトゥーに対してイメージがよくないというより、あまりにタトゥーのデザインが千尋の存在感に似合いすぎて、個性的で魅力的ではあるが、単なる二十歳の青年でもある千尋に、どことなく凶悪な空気を嗅ぎ取ってしまう。
 裏を返せば、千尋をより刺激的な存在にしている小道具ともいえる。
「先生、よく俺のタトゥーを撫でるよね。もしかして、気に入ってる?」
 タトゥーを撫でる和彦の手を取って、神経質な性質を表すような細い指先に千尋が唇を押し当ててくる。和彦は手を抜きとると、千尋の引き締まった頬を軽く抓り上げた。
「そんなわけないだろ。……若いときに勢いでこんなもの入れて、将来どうするのかと思っているだけだ。タトゥーは、いざ消すときに苦労するぞ」
「消す気ないし」
「今はそう言ってろ」
 拗ねたように千尋が唇を尖らせたが、顔立ちと仕種がおそろしく似合ってない。和彦は苦笑を洩らすと、子供の機嫌を取るように千尋の頭を撫で、引き寄せられるまま、今度は千尋の上に和彦がのしかかる格好となる。
 千尋の滑らかな肌に舌と唇を這わせると、心地よさそうに吐息を洩らした千尋の体が、再び熱を帯び始める。若くて反応が素直な千尋の体に触れるのは好きだった。
 せがまれるまま千尋のタトゥーに舌先を這わせながら話す。
「さっき、消すとき苦労するって言っただろ。痛いわけ?」
「痛いというのもあるが、きれいに消そうと思ったら、手間と時間がかかる。一回の施術でそう大きな範囲を処置もできないし、一度施術すると、肌の状態が元に戻るのを待たないといけないから……最低でも一か月は間を置かないと、二回目の施術ができない。それを何回も繰り返したところで、本当にきれいにタトゥーが消えるか、絶対とは言えないしな」
 くくっ、と笑い声を洩らした千尋に、後ろ髪を優しく梳かれる。他愛ない行為だが、和彦の中で燻る情欲の火がまた燃え上がりそうになった。
「さすが、先生。美容外科医だけあって、専門だ」
「皮膚のトラブルは、ぼくの専門じゃない」
「じゃあ、先生の専門は?」
 顔を上げた和彦は、ニヤリと笑って千尋の頬を撫でる。
「骨を削るのは上手いぞ」
「……サド全開の表情で、怖いこと言わないでよ」
 笑い合った二人は、再びベッドの上を転がるようにして抱き合い、貪るようなキスを交わす。また高ぶりを見せた千尋のものが腿に擦りつけられ、和彦はゾクゾクするような興奮を覚える。千尋の、底のない欲望も魅力的だった。
 さらに千尋を煽るように背を撫で、喉元を舐め上げやりながら、和彦はタトゥーにちらりと視線を向ける。
「今は軽く考えているようだが、将来、きちんと定職に就くつもりなら、早めにどうにかしたほうがいいぞ、それ」
「将来は、先生に食わせてもらうとか、どう?」
 どうやら千尋は、今は真剣に考える気はないらしい。千尋の保護者ではない和彦としてはあまり強く言う義理もなく、そもそも千尋が将来を考え始める頃まで、関係を続けているとも思えない。
「まあ……、ぼくの体じゃないから、お前がどう扱おうと知ったことじゃないんだけどな」
「ひでー言い方」
 千尋が低く声を洩らして笑いながら、和彦の片足を抱える。その拍子に、簡単にティッシュで拭っただけの内奥から、さきほど千尋に注ぎ込まれた欲望の名残りが溢れ出してきて、思わず和彦は眉をひそめる。しかし千尋は気にした様子もなく、熱いものの先端を擦りつけてきた。
 意識が〈そちら〉に向きそうになったが、なんでもないふりをして和彦は会話を続けた。
「他人のぼくはともかく、親は何も言わないのか?」
「うち、片親なんだよね。俺が小学校入る前に、母親はオヤジを罵倒して出ていった。で、現在に至るまで父子家庭。そして俺も、オヤジの面を見たくなくて、大学中退したあとはフリーターしながら、こうして一人暮らししてるわけ。だからまあ、先生も呼べるんだけど」
 あっけらかんとした口調で千尋が言い、咄嗟に和彦は反応できなかった。その隙に、といわんばかりに、千尋のものがゆっくりと内奥に挿入される。
 ひとまず会話を打ち切って、和彦は呻き声を洩らしながら千尋にしがみつき、千尋は荒い息を吐きながら腰を進める。
「あっ、あぁっ」
「いつも思うけど、何度入っても、いいよ、先生の中……」
 深く繋がったあとは、得られる陶酔感を二人は分かち合う。手を繋ぎ、抱き合い、唇を重ね、一度目の交歓にはない感覚を楽しんでいた。
 千尋の頭を片腕で抱き締めながら和彦は、自分たちが少し前まで交わしていた会話をようやく思い出す。指先で千尋のタトゥーを撫でてから、口を開いた。
「――で、お前のオヤジさんは、このタトゥーのことは知ってるのか?」
「えっ……、ああ、思い切り目の前で見せてやったら、露骨に嫌そうな顔しやがった」
「それはまあ、普通の親としての反応じゃないか」
「普通の親、か……」
 次の瞬間、千尋が見せた表情は印象的だった。皮肉っぽくて苦々しげ、そして、わずかな自嘲も込められた笑み。悩みもなく、この世に怖いものすらないように見える千尋とは思えない表情だ。
 もしかすると千尋は、年齢には見合わないものを背負っているのかもしれない――とまで思いかけた和彦だが、すぐにそれはないと思い直した。
 にんまりと笑みを浮かべた千尋が、実にロクでもないことを言ったのだ。
「もしかして、俺のオヤジに興味津々? 俺がイイ男だから、オヤジもイイ男だろうと思ったんでしょ、先生。残念、俺のほうが何倍もイイ男だよ。だいたいオヤジなんて、勃つのかどうかすら怪しいおっさんだぜ?」
 千尋が緩やかに腰を揺らし、内奥を刺激してくる。危うく嬌声を上げそうになった和彦だが、なんとか息を喘がせただけで堪える。
「バ、カっ……。誰が、そっちの話をしている。ただ、お前みたいなやんちゃ坊主を男手一つで育てるのは大変だったろうと思っただけだ」
「オヤジはなんもしてねーよ。俺を育てるのなんて、人任せ。そのくせ、何かあるとオヤジの強権を発動するんだ。それが嫌で、俺は家を出た」
 基本的に和彦と千尋の関係は、会えばベッドに直行して、享楽的な時間を貪ることで大部分が成り立っている。個人的な事情はさほど重要視していない。恋人と呼べるほどべったりとした関係ではないのだ。
 和彦は千尋の頭を撫でてから、唇にキスしてやる。
「能天気そうに見えて、意外に苦労してるな」
「俺にメロメロになった?」
「……どうだろうな」
 和彦の答えにニヤリと笑った千尋は、本格的に行為に没頭する気になったようだ。和彦の両足を左右に押し開いて、腰の動きを大きくする。
「はあっ」
 気まぐれに胸の突起に噛みつかれ、和彦はビクリと体を震わせてから、千尋の背に両腕を回した。
「きれいな体をしてるんだから、あまり無茶はするなよ」
 息を弾ませての和彦の忠告に、顔を上げた千尋が表情を綻ばせる。
「俺の心配してくれるのなんて、先生ぐらいだよ」
 思わず和彦も唇に笑みを浮かべ、千尋の頬を撫でてやる。
 若くてしなやかで野生的、粗暴でない程度に強引でありながら、甘える様は可愛くもある。囁いてくる言葉は恥知らずなほど直情的だが、耳に心地いい。何より、セックスが上手いのがいい。
「ねえ、また中に出していい?」
 千尋の熱っぽい囁きに、和彦は掠れた声で応じる。
「今度は、後ろからがいい」
 簡単に煽られた千尋のものが、内奥でまた硬くなる。
 和彦は、セックスフレンド以上恋人未満の十歳年下の千尋を、かなり気に入っていた。千尋が調子に乗るので、絶対本人には言わないが――。




 午前中の最後の患者を診察し終えた和彦は、午後に入っている手術の予約を確認する。基本的に和彦は、午後からは大半の時間を手術室で過ごし、手術を行っている。派手な宣伝を打っている大手のクリニックだけあって訪れる患者は多く、若手の医者といえど、否応なく経験を積まされるのだ。
 医者が若かろうがベテランであろうが、実績のあるクリニックに勤め、誠実なカウンセリングを行っていれば、それが患者からの信頼へと繋がる。あとは、患者のニーズを手術で応えられるかが、すべてだ。幸いにも、和彦は手術で結果を出し続けていた。
 もともとは外科志望だったのだが、現場の大変さを知るにつれ、なんとなく美容外科へと流れ着き、今に至っているのだが、職場の環境にも待遇にも不満はなかった。三十歳の医者としては、十分恵まれた位置にいる。
 仕事が上手くいけば、必然的に私生活も充実する。和彦が今のところ気にかけていることといえば、午後から手がける目頭切開の女性患者のことだ。何度もカウンセリングを重ねたが、ここにきて友人からのアドバイスでナーバスになっている。
「……今になって手術を取り止めると言い出しそうだなー」
 不安そうなら延期したほうがいいだろうと思いながら、和彦は診察室を出る。
 別フロアにある医局に戻った和彦が自分のデスクにつこうとすると、隣のデスクの澤村(さわむら)が、パソコンに向き合ったまま声をかけてきた。
「佐伯、これから昼飯食いに行こうぜ」
「ああ。いつものところでいいだろ」
「遠出するのも面倒だしな」
 イスに腰掛けた和彦は、ずっとつけたままだったマスクを外す。ふいにこちらを見た澤村が、真剣な顔で言った。
「お前、クリニックの中をうろうろするときは、マスクは外せよ」
「……いきなり意味がわからんことを言うな」
「せっかく持って生まれた顔を活用しろってことだ。今度うちのクリニックのホームページをリニューアルする予定があるらしいが、そのとき男前の先生たちの顔写真を使うって話がある。俺はもちろん、お前の顔写真も使われるぞ」
 自分の周りには、自意識過剰な男が多いのだろうかと思った和彦だが、もちろん声には出さない。案外、澤村が言っていることは外れてはいないのだ。
 和彦の一年先輩である澤村とは、このクリニックでは一番親しいつき合いをしている。甘い笑みがよく似合うすっきりと整った顔立ちをしており、それに白衣を羽織って颯爽と歩く姿は、かなり人目を惹く。口も上手く、女性関係も派手だが、どこか憎めないところがあり、女性の患者受けは抜群だ。
 そんな澤村に認められる和彦の容貌は――客観的に言うなら、どこか冷たく見える顔立ちをしている。造り物めいているというのだろう。世間の評価としては上等なハンサムという部類に入るらしいが、和彦はよくわからない。ただ、自分の顔立ちは嫌いではない。
 昔から女性に言い寄られることが多いのは、この仕事に役立っているといえるだろう。しかし和彦が自分の容貌を評価している最大の理由は、一欠片でも同性に性的な興味を持っている男の目を惹きつけられるからだ。
 よくわからないが、和彦からはそういう空気が立ち昇っているらしい。その空気に惹きつけられた一人が、千尋というわけだ。
「ぼくが目立つと、澤村先生の人気を奪いそうだから、ぼくの顔写真の使用は遠慮してもらおう」
「おう、よく先輩を立てる術を知ってるな。昼飯を奢ってやる」
 勢いよく立ち上がった澤村が白衣を脱ぎ、笑みをこぼしながら和彦も倣う。ありがたく、今日の昼食は奢ってもらうことにした。
 さっそく二人が医局を出ようとしたとき、背後から呼び止められた。
「佐伯先生、電話だよ」
 澤村に待ってもらい、和彦は一番近くの電話に出る。
「お電話代わりました、佐伯です」
 咄嗟に和彦の頭に浮かんだのは、午後から手術をすることになっている女性患者の存在だった。やはり、今日の手術は延期したいと言ってきたのだろう。そう思ったのだが――。
 電話から返ってくる声はなかった。このとき和彦の中に、ヒヤリとした感覚が駆け抜ける。
 またか、という言葉が頭に浮かんだ。
 また、無言電話がかかってきた。この一週間ほど、和彦の元には無言電話が毎日かかってきている。不気味なのは、その無言電話が病院にだけかかってくるわけではないことだ。
 最初にかかってきたのは、自宅の固定電話だった。次が、携帯電話。そして病院に。まるでローテーションでも組んでいるように、毎日一回、こうして違う電話にかかってくる。
「もしもし?」
 念のため呼びかけて返答がないことを確かめると、すぐに受話器を置く。澤村を促して、足早に医局から離れた。


 春の暖かな陽気を浴びながら、せっかくのテラスでの昼食だというのに、和彦は憂うつだった。昼食に出かける前にかかってきた無言電話のせいだ。
 無意識のうちに周囲に鋭い視線を向け、他のテーブルの客や、カフェの外を行き交う人たちを観察する。無言電話の犯人が、どこかで自分を観察しているようで落ち着かない。
 澤村の話に適当な相槌を打ちながら、頬杖をついた和彦は犯人の心当たりがないか、じっと考えていた。人から恨まれるほど深い人つき合いはしていないし、唯一何かありそうな仕事絡みにしても、クリニックでの人間関係に問題はない。手術の結果が気に入らない患者が恨んで、というパターンが一番ありえそうなのだが、生憎、和彦が手がけた手術に関して、それらしいクレームは入っていなかった。
 ただ、逆恨みで、密かに和彦を憎んでいる〈誰か〉となると、見当をつけるのはお手上げだ。
 順風満帆な日常において、ほんのわずかについたシミのようだった無言電話が、まさか一週間ほどで、ここまで危機を感じるものになるとは予想外だった。
 和彦がそっとため息をついたとき、ふいに傍らに誰かが立つ。
「――今日は調子が悪そうですね、佐伯先生」
 丁寧で柔らかな口調で話しかけられ、条件反射で和彦は姿勢を正す。視線を上げると、テーブルの横にこのカフェのウェイターが立っていた。日焼けした端正な顔に、人好きのする笑顔を浮かべている。この笑顔見たさに常連になる女性客もいるだろう。
 三日前、ベッドの中で和彦を貪り尽くしながら、満足そうに浮かべていた笑顔とは大違いだ――。
「佐伯先生は、アレの日なんだ」
 品のない受け答えをした澤村の足を、テーブルの下で軽く蹴りつける。大げさに痛がる澤村を見てウェイター――千尋が小さく笑い声を洩らす。白と黒を基調にした上品な制服を着ていると、笑い方まで品がよくなるらしい。
 千尋を見上げながら、和彦はそんなことを考える。和彦も最初は、千尋のこんな表情にすっかり騙されたのだ。まさか、あんなに〈やんちゃ〉だったとは、想定外だ。もちろん、いい意味で。
 和彦の視線に気づいたのか、サービスというには過剰すぎる色気たっぷりの流し目を千尋が向けてくる。
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」
 そう問いかけられ、頷いた和彦は空になったカップを千尋のほうに動かす。
「長嶺(ながみね)くんに妙に懐かれてるな、佐伯先生」
 千尋が次のテーブルに移動すると、澤村が笑いながら言った。すらりとした千尋の後ろ姿を漫然と目で追っていた和彦は、露骨に顔をしかめて見せる。ちなみに長嶺というのが、千尋の姓だ。
「犬っころだな。彼を見ていると、くしゃくしゃと頭を撫で回したくなる」
「あはは、尻尾振って、大喜びしそうだな」
 実際千尋は、似たようなものだ。甘えるのが好き、甘やかされるのが大好き。そのくせ、和彦にのしかかりながら、野性味たっぷりの獣に変わる。
「だけど、あの手のタイプはモテるだろうな。女の母性本能をくすぐるというか」
「かもな。このカフェで働き始めたときは危なっかしく見えたが、慣れてくると、客の扱いが上手い。それを勘違いする女性客がいても不思議じゃないだろうな」
 千尋が、和彦が行きつけとしているこのカフェでアルバイトとして働き始めたのは、三か月ほど前だ。店が暇になるとさりげなく和彦に話しかけてきて、美容外科医だとわかると、親しげに『佐伯先生』と呼ぶようになった。そして携帯電話の番号を渡され、気まぐれに連絡を取り、外で頻繁に会うようになった。
 体の関係を持ってから、そろそろ二か月になるが、二人の関係はきわめて良好だ。体の相性はそれ以上。
 千尋は、いままで和彦が関係を持った誰よりも、刺激的で魅力的な遊び相手だ。面倒が起こればすぐに関係を断つつもりだったが、今のところそれもない。
 まだ当分、千尋との関係は楽しめるだろう。
 コーヒーにミルクを入れて掻き混ぜながら、和彦がそれとなく視線を向けると、先にこちらを見ていた千尋と目が合った。さりげなく、千尋は自分の左腕に手をかけた。ちょうど、タトゥーがある部分だ。
 和彦は思わず、艶然とした笑みを浮かべていた。




 仕事を終え、外で食事を済ませて戻ってきた和彦は車から降りると、肩に手をやる。今日は少々厄介な手術を立て続けにこなしたので、肩から腕にかけての筋肉がいまだに緊張して強張っている。
 明日はクリニックは休みなので、久しぶりにスポーツジムで体を動かしてこようかと思いながら、ゆっくりと腕を回す。そうしながらマンションのエントランスに向かおうとした和彦は、扉の陰で闇に紛れるようにして立っている男の存在に気づいた。
 何か確信があるわけではないが、ふいにゾクリと寒気を感じた。この瞬間頭に浮かんだのは、連日かかってくる無言電話のことだ。
 和彦は男の存在に気づかないふりをして、エントランスに入ろうとしたが、突然、背後から駆け寄ってくる数人分の足音を聞いて素早く振り返る。
 何もかもあっという間だった。
 いつの間にか、エントランスの陰から男が飛び出してきて、和彦の側にやってくる。首筋に何かが押し当てられ、嫌な音がした。それがなんの音であるか考える前に、和彦の頭の中で閃光が弾けた。
 痛みと、全身を駆け抜ける強い衝撃に、声も出せないままその場に卒倒しかけたが、寸前で誰かに体を受け止められ、一気に引きずられる。
 全身が痺れて力が入らない。何かが自分の身に起きたと自覚できる程度には意識はあるのに、何もできない。
 まるで荷物のように扱われ、スライドドアを開けて待っていた大型ワゴン車の後部座席に乗せられる。すぐにドアは閉められて、乱暴に車が発進した。
 和彦の体はシートに押さえつけられ、車内の様子を認識する前に目隠しをされ、両手も後ろ手できつく拘束される。
 このときになって和彦はようやく、自分が拉致されたのだとわかり、息も詰まるような恐怖を覚えた。









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