さきほど首筋に押し付けられたのは、スタンガンだろう。痺れて動かない体をシートに押さえつけられたまま和彦は、今となってはどうでもいいことに結論を出す。体では、車の振動を感じていた。思考がまとまらないながらも、頭に浮かぶのは最悪の状況だけだ。
理由もわからないまま、重しでもつけられて海に沈められるのだろうか。それとも山中で生き埋めにされるのか。自殺に見せかけて首を吊らされることも――。
自分で自分の想像に吐き気がしてきた。和彦が思わず身じろぐと、有無を言わさず体をまた押さえつけられた。
車内には、和彦を除いて四人の男が乗っていた。運転席と助手席に二人、後部座席で和彦を押さえているのが二人。他の車に仲間がいるのかもしれないが、咄嗟の状況で和彦が把握できたのはこれだけだ。
男たちの行き先はすでに決まっているらしく、車中では一切会話を交わさない。
おそらくもう一時間近く車を走らせているが、外の様子も見えない中で、時間の感覚など簡単に麻痺してしまう。もしかすると三十分も経っていないのかもしれないし、実はとっくに一時間など過ぎているのかもしれない。
それに、どこか遠くに連れて行かれているようで、本当は同じところをぐるぐると回っているような気もしてくる。
和彦は懸命に考え続ける。脱力感と、体を押さえつけられているせいで全身が痛いが、せめて思考ぐらい働かせていないと、恐怖のあまり声を上げてしまいそうだ。声を上げると、きっとこんな扱いでは済まないだろう。だから和彦も黙り続けているしかない。
いつまでこんな時間が続くのか。和彦がぐっと奥歯を噛み締めたとき、車がカーブを曲がり、少しまっすぐ走ったあと、ふいに体が浮くような感覚を味わった。何事かと思ったが、音が反響しているのを聞き、どこかの地下に入ったのだと推測する。
地下駐車場だとわかったのは、車のエンジンが切られてスライドドアが開けられたからだ。和彦は車から降ろされ、また荷物のように引きずられる。
エレベーターに乗せられて何階かまで上がるが、その途中の階で停まることはなかった。目隠しをして両手を拘束された男を引きずって歩くぐらいだ、普通のビルやマンションではないのかもしれない。
通路らしい場所を引きずられてから、どこかの部屋に連れ込まれた。前触れもなく体を放り出されたが、マットレスらしい感触に受け止められる。
和彦は小さく呻き声を洩らしてから、全身の神経を研ぎ澄ませて辺りの気配をうかがう。ピリピリと突き刺すような空気が漂っていた。マットレスの周囲に何人かの人の気配は感じるが、無闇に和彦を威嚇するようなことをしないため、かえって不気味だ。
ゆっくりと強張った息を吐き出し、和彦は拉致されてから初めて口を開いた。
「――……誰なんだ。どうして、こんなことをする」
いきなり殴られるかもしれないと覚悟したうえでの発言だったが、そうはならなかった。ただし、和彦の問いかけに対する答えもない。
本当に自分を取り囲んでいるのは人間なのだろうかと、あまり現実的とはいえない不安が和彦を襲う。実際に和彦をここに連れてきたのは、確かに人間――男たちだった。
後ろ手に拘束されているせいで体のバランスが取りにくいが、それでも懸命に身じろぎ、なんとか体を起こそうとする。しかし、肝心の体にはまだ痺れが残っており、力が入らない。すぐにマットレスの上に転がったが、前触れもなく誰かに体を抱き起こされ、両手の縛めを解かれた。
ただしこれは救いにはならず、むしろ最悪の状況に向かう前振りといえた。
「何っ……」
ジャケットを強引に脱がされ、和彦は混乱する。本能的に身を捩ろうとしたが、背後からしっかり肩を押さえられた。
シャツのボタンが外されながら、スラックスのベルトにも手がかかる。和彦はやめさせようとしたが、緩慢にしか動かせない両腕は簡単に掴み上げられ、目的を問う前に、身につけていたものすべてを奪われていた。
純粋な恐怖でもう声が出なかった。再び後ろ手で拘束されたが、手首にかかったのはひんやりとして重量のあるものだった。手錠だとわかり、微かに歯が鳴る。
殺されたあと、死体は何も身につけていないほうが身元がわかりにくい。これで指を切り落とし、歯をすべて砕いてしまえば、あとは海に捨てるなり、山に埋めてしまえばより完璧に近づく。
マットレスの上に茫然自失となって座り込む和彦は、ふいに肩を押されて後ろ向きで倒れそうになったが、誰かの胸で受け止められた。一方で、前にいる別の人間には両足を掴まれたかと思うと、左右に大きく開かれた。
「やめろっ」
咄嗟に声を上げて両足を閉じようとしたが、背後にいる人間の手によって両足を抱え上げられる。前にいる人間たちに、秘部をすべて晒す屈辱に満ちた姿勢を取らされてしまったのだ。
何か様子が違うと、ここに至ってようやく和彦は気づく。自分を拉致した男たちの目的は、すぐに殺すことではなく、まずは辱めることにあるのではないか、と。
その証拠に――。
「ひっ……」
胸元に手が押し当てられ、まるで検分するかのように肌の上を滑る。断言はできないが、医者である和彦には馴染みのあるラテックスの手袋をしているようだった。妙に生温かな手が胸元から腹部へ、さらに下腹部へと這わされる。
恐怖と生理的な嫌悪感から、たまらず和彦は抱えられた足を振り上げようとしたが、その前に、素早く弱みを握り締められていた。
「あうっ」
体の力が一気に抜ける。手に力を込められたら、という想像だけで、何もできなくなる。それでなくても大半の抵抗を封じられ、何も見えていない状況なのだ。今の和彦はあまりに無防備だった。冷たい液体を下腹部に垂らされても、唇を噛むことしかできないぐらい。
この場にいる男たちの目的もわからないまま、和彦のものは、ゴムの感触も生々しい薄い手袋を通して上下に擦られる。滑る感触と、グチュグチュという濡れた音で、自分の下腹部に垂らされた液体がローションだとわかった。
ひたすら気持ち悪くて仕方なく、吐き気すらしてくる。男を犯すことだけが目的なら、こんな行為は不要だ。ようは、必要な場所に、必要なものを突っ込めば済む話なのだ。
機械の手に弄られているような錯覚を覚え、この程度の行為なら耐えられるかもしれないと和彦が思ったとき、和彦の一瞬の油断を嘲笑うように、もう一本の手に柔らかな膨らみをまさぐられ、やや力を込めて揉まれる。
「うっ、うっ……」
意識しないまま腰が震える。感じる、感じないの問題ではない。一番の弱みを無防備に晒して、弄られ、無反応でいられるわけがなかった。
「い、やだ……。やめろっ――……」
和彦がようやく洩らした言葉に対する返答のつもりか、握られたものの先端にローションが垂らされ、括れをきつく擦り上げられる。
「ああっ」
ビクリと背を反らして、腰を揺らす。追い討ちをかけるように柔らかな膨らみを揉みしだかれ、和彦は喉を鳴らす。恐怖も嫌悪感も、しっかりと和彦の体を支配している。しかし、こんな形で体を攻められると、感情だけの問題ではなくなるのだ。
和彦の体を弄っている人間は、明らかに快感を引きずり出そうとしていた。だからこそ、体が刺激に反応するという醜態を見せられないと頭ではわかっているのに――。
柔らかな膨らみをさんざん刺激した手に、当然のように内奥の入り口をまさぐられ、またローションがたっぷり振りかけられる。
「うっ、あっ、あっ、ううっ」
内奥に容赦なく指を挿入され、和彦はビクビクと腰を震わせる。痛みや異物感を覚える前に、ローションの滑りを借りた指が内奥から出し入れされ、犯される。その間も和彦のものは上下に擦られ続け、ときおり先端を撫でられる。
痺れていた体が、いつの間にか熱くなって汗ばんでいた。鈍くなっていた感覚も元に戻るどころか、鋭敏さを増している気さえする。自分を取り戻そうと足掻くように、肩を動かしてみるが、背後から和彦の両足を抱え上げて押さえている人間はびくともしない。
和彦の気力を奪い尽くそうとしているのか、内奥を擦り上げていた指に、ふいに浅い部分を強く押し上げられ、強烈な感覚が腰に広がった。
「うあっ……」
わざと濡れた音を立てるように内奥を掻き回され、否応なく反応させられて熱くなったものも強く扱かれる。顔を背けた和彦は、屈辱と羞恥と、否定できない快感に呻き声を洩らす。
容赦なく和彦は攻め立てられ、的確な刺激を与えられて快感を自覚させられる。
目隠しをされているのは、実はせめてもの救いなのかもしれない。少なくとも、どんな人間に自分の痴態を見られているのか知らなくて済むし、そもそも、自分自身の痴態を見なくて済む。
胸の突起を二つとも抓るように弄られながら、和彦は内奥にゆっくりと、指とは比較にならない大きさのものを挿入されていく。淫らにくねるそれは、見なくても、どこよりも感じやすい内奥の粘膜と襞でなんであるか知ることができた。性器を模った道具だ。
「んんっ、うっ、くうぅっ……ん」
意識しないまま、内奥を押し開くようにして挿入される道具を締め付ける。異常な状況での異常な行為によって、次第に和彦の理性も危うくなっていた。このまま何もわからなくなれば楽かもしれないという、本能の逃避なのかもしれない。体が積極的に快感を貪りだしている。
「ううっ、うっ、うっ、ううっ――」
捩じ込まれた道具が内奥深くで大胆に動き、さんざん掻き回されたあと、引き抜かれる。次に挿入されたのは指で、和彦は自分ではどうすることもできずに締め付けていた。
指と道具で交互に内奥を犯されながら、欲望の高まりを忠実に表している熱く反り返ったものを扱かれ、胸の突起も執拗に弄られる。
和彦は息を喘がせながら、何人の人間に体に触れられているのだろうかと頭の片隅で数えていた。ラテックスの手袋越しでは、同じ人間の手だと判断するのは不可能で、混乱してしまう。それに、さらに思考力を奪う事態になっていた。
「嫌、だ……。もう、やめろ……」
弱々しく訴えたときにはもう遅く、両足を大きく開かされ、内奥を道具で突かれながら、和彦は半ば強引に高みへと押し上げられていた。ローションですでに濡れている下腹部に、自分が放った絶頂の証が飛び散る。
今この瞬間なら、殺されても抵抗しないかもしれない――。
ふっとそんなことを考えたとき、突然、目隠しが取り去られた。
絶頂の余韻でぐったりとした和彦は、すぐには何が起こったのか呑み込めなかった。ただ、自分を見下ろしている男たちの姿を緩慢に見回してから、開いた両足の間にいる男に目を止める。
あごにうっすらと残る細い傷跡が印象的な、精悍な顔立ちをした三十代半ばの男で、ワイシャツ姿だ。そのワイシャツの袖を捲り上げ、手にはラテックス手袋をしているのを見て、和彦は納得した。自分の内奥を指と道具で犯していたのは、この男なのだ。
次の瞬間、和彦はおそろしいものを見て目を見開く。男の隣に、もう一人男が立っており、手にはビデオカメラを持っていた。何を撮っていたか、考えるまでもない。道具はまだ、和彦の内奥深くに収まったままで、淫らにうねり続けている。それを内奥は懸命に締め付けており、その様子を男たちに晒しているのだ。
ずっと和彦の両足を背後から抱え上げ続けていた男の顔も、振り返って確認してから、改めて自分が置かれた状況に混乱する。
「――どっちなのかと思っていたが、尻にそんなおもちゃを突っ込まれてよがりまくっている姿を見ていると、入れられるほうが専門らしいな」
腹にズンと響くようなバリトンが、声に似つかわしくない卑猥な言葉を紡ぐ。和彦の死角に立っていたらしく、重々しい足音がして、ようやく和彦はバリトンの声の主を見ることができた。それは一方で、和彦の痴態も見られるということでもある。
和彦の内奥を的確に指と道具で犯す男の背後に立ったのは、高そうなダブルのスーツをこれ以上なく見事に着こなした中年の男だった。四十代半ばぐらいだろうが、一目見て圧倒される存在感を持っていた。
全身から漂う空気は剣呑としており、それでいて威嚇するような攻撃的なものではなく、ただ静かな凄みを放っている。衰えを知らないような厚みのある体つきに相応しいといえた。何より、彫像のように表情が動かない顔は、冷徹そのものではあるが、端整だ。
だが、容貌はさほど重要ではない。男が持つ独特の鋭さや冷ややかさ、年齢を重ねているだけでは醸せない落ち着きが、男の存在自体を圧倒的なものにしていた。
まともな人間ではない。この男だけでなく、この場にいる男たち全員が、普通ではないと和彦は見抜いた。
それを裏付けるように、男が言った。
「総和会、という名前を聞いたことがあるか? ときどきニュースで流れることがあるから、もしかして聞いたことぐらいはあるかもな」
和彦は、体の熱がわずかに下がるのを感じた。
男が口にした『総和会』という名を、確かに聞いたことはある。テレビのニュースや新聞で、ときどき見聞きすることがあるのだ。だが、その名が出るときは、絶対に不気味さや怖さがつきまとう。それというのも――。
「暴力団組織だ。総和会というのは十一の組から成り立っていて、俺は、その一つの組を任されている。もっとも、一般人からしたら、下っ端だろうが組長だろうが、ヤクザはヤクザだ。忌まわしくて、できることなら関わりたくない存在だろう」
男の冷めた視線が、ローションに塗れ、道具を含まされたままの和彦の秘部に向けられる。羞恥心は芽生えなかった。ただ、屈辱に打ちのめされるだけだ。
いきなり拉致されて裸に剥かれ、挙げ句にこんな仕打ちを受けているのだ。理不尽にもほどがある。もちろん、この場でそんな訴えをする無益さと無謀さだけはわかっている。
「俺の背負っている組は、総和会では特別だ。跡目となる人間が限られている」
ここまで言って男が膝を折り、目線の位置を近くした。たったそれだけの動作で、簡素で殺風景な室内の空気が大きく動いたようだった。男がそこにいるだけで、ひんやりとした空気が独特の熱を帯びる。
そんな男の口から放たれる言葉は、氷のように冷たかった。
「――長嶺組をまとめ上げるのは、長嶺の姓を持つ男だけだ。そして、今の総和会の会長は、長嶺組の前組長だった」
組の名そのものには何も感じなかった。だが、『長嶺』という響きは、和彦の記憶を強く刺激した。
「まさ、か……」
和彦は声を洩らし、脳裏に〈彼〉の顔を思い描く。長嶺千尋という名の青年の顔を――。
「お前には、俺のバカ息子が世話になってるようだな。キズモノにしてくれた、と言うべきかもしれないが」
和彦は、千尋と出会ってからのことを目まぐるしく思い返す。どこにでもいそうだが、どこにもいない存在感を持つ千尋と、ほんの三か月ほどのつき合いだ。交わした会話もセックスも、すべて覚えているといってもいい。
千尋の素性を知った和彦は、あまりに衝撃的な出来事と事実に、この瞬間、確実に精神がおかしくなっていた。
「ふっ……」
和彦の口から洩れたのは、抑えきれない笑い声だった。さすがに男が――千尋の父親が軽く眉をひそめる。動作だけでなく、表情の一つ一つが芝居がかっているように様になっている。こうやって、粗暴な本性を隠しているのかもしれない。
「……見た目は優男なのに、肝が据わってるな。ヤクザに囲まれて、その姿で笑える奴は、そういないだろ」
千尋の父親が軽くあごをしゃくり、和彦の内奥深くに収まっている道具がゆっくりと引き抜かれる。短く息を吐き出して声を堪えた和彦は、千尋の父親にあごを掴み上げられた。燃えそうに熱い手だとまず思った。
千尋とはまったく似たところのない顔が真正面に迫る。
「今、どうして笑った?」
あごを砕かれそうなほど指に力が込められる。痛めつけられてまで秘密にするようなことでもないので、和彦は答えた。
「笑ったのは……千尋だ」
「どういう意味だ」
「つい先日、千尋が親のことをちらりと話してくれた。そのときぼくが、『普通の親』と言ったら、千尋が笑った。……あいつらしくない、皮肉っぽくて苦い笑い方が印象的だった。それでぼくの今の状況だ。千尋が笑った意味がわかったんだ」
千尋の父親は、『普通の親』などではなかった。むしろ対極の存在だ。
「それがおかしくて笑ったのか。確かに普通じゃない、と思って」
ふっとあごにかかった指の力が緩み、代わってくすぐるように撫でられた。思いがけない行為に、和彦の背筋に疼きが駆け抜けた。半分引き抜かれた道具を締め付けると、すかさず深々と埋め込まれ、腰が揺れる。
「――俺の、親としての評価はどうでもいい。大事なのは、バカはバカでも、千尋は大事な跡目だということだ。そして俺たちは、面子を大事にする。大事な跡目が、年上の、しかも男に弄ばれているなんてことを、許すわけにはいかない」
これはケジメだと、千尋の父親が恫喝するように囁いてくる。それが合図のように、和彦のものは再びラテックスの手袋越しに握り締められ、上下に擦られ始める。内奥では、挿入された道具によってグリグリと奥を抉られる。痺れるような肉の愉悦が下肢から這い上がってきた。
危うく声を上げそうになって必死に声を堪え、ひたすら千尋の父親の顔を見つめる。
「お前は無事に帰してやる。お前が姿を消したり、妙な傷を作ったりすると、千尋はすぐに組の関与を疑って、さらに家を避けるようになるだろうからな。……俺がお前に望むのは、息子と縁を切ることだけだ。もちろん、余計なことは言わずに。せいぜい派手に、あいつを振ってやれ」
返事ができない和彦が洩らしたのは、震えを帯びた吐息だった。千尋の父親が話している間も、和彦を攻める手は少しも緩まないのだ。それどころか、千尋の父親の手がスッと胸元に這わされ、凝った突起を指先でくすぐられる。見計らったようなタイミングで内奥から道具が引き抜かれ、興奮の度合いを確かめるように指を挿入されていた。
「うっ、ううっ……」
呻き声を洩らす和彦の顔を、胸の突起を弄りながら千尋の父親はじっと見下ろしてくる。
「忠告はしてやっていたはずだ。恨むなら、察しが悪かった自分を恨め」
最初はなんのことを言っているのかわからなかったが、ここ最近の出来事を素早く思い返してから、ようやく、何日も続いていた無言電話に行き着いた。つまりあれが、目の前の男たちなりの忠告だったのだ。
そんなものでわかるはずがないと、いまさら言ったところで仕方がない。和彦は、こうして捕えられてしまった。
「お前は、こちらの命令に逆らえない。そのために、こうしてビデオに録画している。もし逆らうようなマネをしたら――わかるな?」
和彦が浅く頷くと、千尋の父親が男の一人に片手を差し出す。
「こいつの名前がわかるものはないか」
和彦がわずかに視線を動かすと、拉致されたときに落としたと思ったブリーフケースが男の手にあり、中から名刺入れを取り出していた。滅多に外で配ることはないが、そこには和彦の名刺が数枚収まっている。
そのうちの一枚を受け取った千尋の父親に、名刺の端を唇で挟むよう言われ、従った。
ビデオカメラが、また道具を呑み込まされてひくつく秘部から、再び欲情の兆しを見せて身を起こしかけた和彦のものを舐めるように撮っていき、さらに胸元まで上がる。ビデオカメラに見せつけるように胸の突起を弄られてから、とうとう顔の前にレンズが寄せられる。
和彦は体の熱はそのままに、絶望的な気持ちになった。辱められる姿を、顔を、名まですべてビデオカメラに収められたのだ。痛めつけられなくても、今の生活を守りたいのであれば逆らえない。
息もかかるほど間近に千尋の父親が顔を寄せ、声だけは優しくこう言った。
「時間はあるから、しばらく楽しんでいけばいい。たまには生身の男じゃなく、おもちゃで犯されるのも変わった趣向でいいはずだ」
ぐうっと内奥深くを道具で突き上げられて、和彦はきつく目を閉じて顔を背けた。
仕事に復帰できる精神状態になるまでに、五日かかった。手首に残った手錠の痕が消えるまでにはもう少しかかった。
いままでのようにクリニックで医者としての仕事をこなしながらも和彦は、ときおりふと、手術中といえどもメスを持つ手を止め、自分は辱めを受けたのだという現実を噛み締める。辱めてきた相手が、ヤクザだという現実も。
肉体に傷はつけられなかったが、精神はズタズタに切り裂かれた――という意識はなかった。徹底的に尊厳というものを踏みにじられてしまうと、その汚らわしいものを自分から切り離してしまおうとする防衛本能が働いているのかもしれない。
現実は現実として受け止めながらも、一刻も早く忌まわしい出来事を忘れるよう努力するほうが、生産的だ。
「――最近、あのカフェに昼飯食いに行ってないみたいだな」
医局に戻ってきてカルテを書き込んでいた和彦に、澤村が軽い調子で話しかけてくる。ひどい風邪を引いたと言って五日も休んだ和彦が、やっとクリニックに顔を出したとき、澤村はひどく心配してくれたが、同時に気もつかってくれた。休んでいた間のことを、何も聞かないでくれたのだ。
「ああ……。さすがに通いすぎて、飽きてきた。今は別の店を探している最中だ」
「あの犬っころ――じゃなくて、長嶺くんがひどく寂しがってたぞ、先生が来ないって」
デスクに肘をついた和彦は薄い笑みを浮かべ、苦々しく洩らす。
「……別の店で、可愛い店員を見つけることにする」
「見つけたら教えてくれ」
澤村らしい言葉に軽く手を上げて答えると、和彦は仕事を再開しようとしたが、すぐに気が変わって、デスクの引き出しを開ける。中に仕舞った携帯電話を手に取った。
あの日、拉致されて辱められてから解放されたあと、和彦は携帯電話の番号を変更する手続きを取り、そのとき千尋に関するものをすべて削除した。千尋の父親の忠告に従い、関係を絶ったのだ。
あんな連中に歯向かってまで、千尋と情熱的な関係を続ける気はない。何より命が惜しいし、その次に、今の生活が大事だ。
「察してくれよ、千尋……」
口中で小さく呟いた和彦は携帯電話を再び引き出しに仕舞う。あの夜の記憶が蘇るたびに、心臓が押し潰されそうなプレッシャーを感じ、息苦しくなる。同時に、屈辱と羞恥と淫靡さに満ちた行為の生々しい感触に、体の奥で何かが蠢くのだ。
特に、あごを撫でてきた千尋の父親の指の動きと、冷徹な顔を思い出すと――。
仕事を終えてクリニックのビルから出た和彦は、すぐにあることに気づいて歩調を緩めそうになる。だがすぐに気を取り直し、何も見なかったふりをして駐車場に向かおうとしたが、すかさず呼び止められた。
「待てよっ、先生っ」
周囲に響き渡るような千尋の大声に、あえなく和彦は無視することをやめる。千尋なら、和彦が相手をするまで叫び続けると思ったからだ。
立ち止まり、千尋のほうを見る。車道の向こう側にいた千尋は、素早く左右を見てから、まだ車が走ってきているというのに一気に突っ切るように駆け出す。見ているほうがヒヤヒヤする光景に、無事に車道を渡り終えたときには、和彦は本気で安堵の吐息を洩らしていた。
目の前までやってきた千尋がキッと鋭い視線を向けてくる。
「……なんで、俺のこと無視しようとするんだよ。連絡だってくれない。それどころか、携帯の番号も変えただろ。澤村さんも、新しい番号はまだ教えてもらってないって……」
「澤村から、お前に伝わるのを避けるためだ」
「どうしてっ――」
和彦は何度も周囲に視線を向ける。千尋の父親が、監視として誰か差し向けていることを警戒しているのだ。
「先生……?」
「……ぼくの反応で、察しろ。もう、お前との遊びは終わりだ。もう二度と、ぼくに話しかけるな」
それだけを言い置いて和彦はまた歩き出したが、すぐに千尋が前に回り込み、腕を掴んでくる。今にも食らいついてきそうな激しい表情に、さすがに和彦は臆する。普段とは打って変わった凄みに、血筋なのだろうかと、皮肉半分、感嘆半分で思った。
「そんなんで、納得するはずないだろ。俺が何かして先生を怒らせたなら謝るから、きちんと話してくれよ」
今度はすがるような目で見つめてきた千尋だが、腕を掴む手の力は増すばかりだ。和彦はもう一度周囲を見回してから妥協した。
「話すのは、場所を移動してからだ」
「だったら、俺の部屋で――」
「ダメだっ」
和彦の反応に驚いたように目を見開いた千尋だが、次の瞬間にはスッと目を細めた。
「……いいよ。だったらどこか店に入ろう」
千尋の提案に、やむなく和彦は頷いた。
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