と束縛と


- 第1話(3) -


 自分の車に千尋を乗せて和彦が向かったのは、繁華街の中にある、飲食店ばかりが入った雑居ビルだった。とにかく人目を避け、なおかつ人に紛れ込みたかったのだ。これだけ飲食店があれば、仮に尾行がついていたとしても、二人の姿を容易に見つけ出せないはずだ。
 もっとも、千尋と二人きりになった時点でアウトな気もするが、肝心の千尋が和彦から離れないのだから仕方ない。
 混み合うエレベーターを途中で降り、階段を使って上がる。入ったのは、個室が使える居酒屋だった。すでに盛り上がっているグループやカップルを横目に、二人は黙り込んだまま個室に案内してもらう。
 和彦は車の運転があるためもちろんアルコールは飲めないが、千尋もそんな気分ではないらしく、ソフトドリンクといくつかの料理を頼んだ。
「それで、何があったんだよ」
 飲み物が先に運ばれてくると、さっそく千尋が声をひそめて詰問してくる。和彦はグラスの縁を指先で撫でながら、まっすぐ見つめてくる千尋から目を逸らす。
「何もない……。ただ、終わらせたくなっただけだ」
「理由になってねーよ、それ」
「理由は必要ないだろ。もともとぼくとお前は、気が向いたときに寝るだけのわかりやすい関係だ」
「……先生は、そう思ってたのか?」
 千尋の目を見るつもりはなかったのに、切実な言葉の響きに、つい視線を向けてしまう。顔立ちとは裏腹に、強い輝きを放つ子供っぽさを宿した目が、今はきちんと大人の男の目をしていた。雄弁な想いを、目で語っていた。
 ズキリと和彦の胸は痛む。その痛みで、遊びのつもりだと自分に言い聞かせながら、実は自分が、千尋との関係をいとおしんでいたことを痛感させられた。できるなら、最後まで気づきたくはなかったことだ。
「お前は、十も年の離れた男のぼく相手に、本気で恋人だとでも思っていたのか?」
「悪いかよ」
 きっぱりと言い切られ、さすがに和彦もすぐには言葉が出なかった。知らず知らずのうちに頬が熱くなってきて、うろたえる。ちょうどいいタイミングで料理も運ばれてきて、テーブルに並べられる。
 その間に和彦は落ち着こうとしたが、千尋はお構いなしだ。
「――俺が、普通の家に生まれて、普通の親に育てられたんだったら、先生にこうして振られても、悔しくても納得はしたと思う」
 和彦はハッとして千尋を凝視する。テーブルの上で千尋は固く手を握り締めていた。
「千尋……」
「こういうことは、初めてじゃない。俺がどういう家の人間か知ると、みんな怖がって逃げていく。だけど、俺もバカなりに観察しているんだ。……オヤジは、俺がつき合う人間を選定している。厄介な人間を、力をちらつかせて俺から遠ざけているんだ。もしくは、直接脅しをかけている」
 急に鋭い視線を向けられると同時に、千尋に手を掴まれた。
「組の人間に、何か言われたんだろ、先生」
「……なんのことだ」
「その答えは、いままで俺から離れていった人間と同じだ。誤魔化してるようで、全然誤魔化してないぜ」
 和彦は唇を引き結び、答える気はないと態度で示したが、千尋はさすがに、あの父親の息子だった。
「――答えないなら、オヤジに直接聞くからな。先生に何をしたか、何を言ったか、全部聞いてやる。それに、俺が先生と別れる気がないことも言ってやる」
「やめろっ」
 そう叫んだ和彦は、自分でも顔から血の気が引くのがわかった。あの男に、和彦が千尋を唆して行動を起こさせたと思われたら、そこで和彦のすべてが終わる。今度こそ、殺されるかもしれない。
 千尋の父親からすれば、息子のおもちゃを取り上げるような感覚だろう。
 恐怖で震える和彦の手を、痛いほど千尋は握り締めてくる。
「何、された……? こんなに怖がってる」
「何も……、何もされてない。ただ、お前とは会わないよう、言われただけだ。それよりもぼくは、お前の家がああいう感じだとは思ってもいなかったから、それが怖い」
 まさか、辱められて、その光景をビデオカメラで録画されたなどと言ったら、千尋は怒り狂い、何をしでかすかわからない。和彦は千尋の父親も怖いが、千尋の暴走も恐れているのだ。
「……先生、隣に行っていい?」
 目が据わった千尋に言われ、嫌とは言えない。和彦が頷くと、千尋は隣に移動してきて、すぐに肩を抱いてきた。さすがに個室とはいえ、両隣の客の声や、薄い障子に隔てられただけの通路で行き来する人の気配が気になる。離すよう言いたかったが、肩にかかった千尋の手は、頑是ない子供のように力強い。
「うちの組のことは聞いた?」
 耳元に唇を寄せて千尋が尋ねてくる。足を崩して座布団の上に座り直した和彦は軽くため息をついた。
「少しだけ。……すごいところらしいな」
「すごいと言っても、所詮はヤクザだ。嫌われて、怖がられるだけの存在だよ」
「でもお前、跡継ぎなんだろ。将来、跡を継ぐんじゃ……」
「継ぐよ」
 あまりにあっさりと千尋が答えたため、和彦はひどく驚いた。千尋が家を出ていることや、父親に対する微妙な発言から、ヤクザというものを忌避しているのかと思い込んでいた。だが――。
「オヤジになんでも強いられるのが嫌なんだ。だけど、自分の道は自分で選ぶ。俺は、長嶺を継ぐ。嫌われようが、怖がられようが、長嶺の名前は魅力的だ。その名前が持つ力も。俺はガキの頃から、総和会の会長――俺のじいちゃんが、長嶺組の組長として組を引っ張っているのを見てきた。豪放なんだよ。だけどオヤジは……俺の憧れとは違う」
「嫌いなのか?」
「好きとか嫌いじゃない。オヤジは、俺の目指すものじゃない。だから、オヤジに組のことで命令されるとムカつくんだ。俺はまだ、組のことには関わらない。それに、どうせ関わるなら、総和会の本部で動きたい」
 その辺りの組織の構成がどうなっているのか、和彦にはよくわからないし、知りたいとも思わない。
 ただ、和彦が知らないことを熱のこもった口調で話す千尋を見ていると、強く実感できることがあった。やはり、あの男の息子だと。
 暴力団組織を継ぐということに、一切のためらいがない、それどころか抗いがたい魅力を感じている節すらあり、和彦の理解を超えていた。千尋もまた、和彦が関わっていい相手ではないのだ。
「だけど今は自由でいたい。組とは関係なく、いろんなことをしたいし、好きな人と一緒にいたい……」
 手が頬にかかり、千尋のほうを向かされる。
「俺のせいで先生が嫌な目に遭ったんなら、俺はオヤジを許さない。例え、俺のためだとしても」
 個室の外の気配をうかがいつつ、和彦は懸命に千尋を宥める。最初から千尋にどうこうしてもらうつもりはなかったが、状況としては変なことになっていた。和彦は、自分をひどい目に合わせた千尋の父親を、千尋から庇おうとしているのだ。もちろん自分のために。
「お前は、ぼくのために何もするな。……今はそっとしておいてもらいたい。お前たちの事情に巻き込まれるのはご免だ」
「オヤジが監視をつけていると思っているなら、俺が言って――」
「しばらく一人で過ごしたいんだ」
 和彦がわずかに口調を荒らげると、途端に千尋は傷ついた子供のような顔をする。今さっき、組を継ぐと言い切った人物と同じとは思えない表情に、和彦は胸の疼きと同時に腹立たしさも覚える。千尋に感情を掻き乱されていると、自分でも感じているからだ。
「わかってくれ。ぼくはいままで、お前がいる世界のことなんて何も知らなかったし、関わったことすらないんだ。普通の生活を送ってきた人間なら、怖くて怯える」
 諭しながら和彦は、両手で千尋の頬を挟む。
「今こうしているのだって、本当は怖くてたまらないんだ」
 千尋は考え込む表情を見せてから、おずおずと切り出してきた。
「少しの間なら、会うのは我慢する。でも、電話とメールは許してよ……」
 和彦が感じている危機感を、肝心なところで千尋はわかっていない。もっとも、生まれた頃から跡継ぎとして育てられてきた千尋に、一般人の感覚を理解しろというほうが無理なのだ。
 千尋と出会って三か月、関係を持ってからの二か月は楽しかったが、命や生活と引き換えにするほどのものではない。
 とにかく一刻でも早く千尋と別れることを考え、和彦はこう返事をした。
「……わかった。だけど、ぼくがいいと言うまで、絶対に会いに来るな」
「約束する。でも先生も、約束して」
「なんだ……?」
「――俺との関係を一方的に終わらせないってこと」
 和彦は顔を強張らせ、まばたきすら忘れて千尋の顔を見つめる。心の内を見透かされたと思った。
 千尋はしたたかな笑みを浮かべると、和彦の唇に軽くキスした。
「俺、組やオヤジが絡もうが、先生を諦める気は全然ないよ」
 そう囁いた千尋にぐいっと肩を引き寄せられ、噛み付くように激しく唇を吸われる。最初はされるがままになっていた和彦だが、千尋の情熱に圧されるようにして受け入れ、舌を絡め合っていた。
 状況がますます複雑になっていることに危機感を覚えながら――。




 千尋と会ってから二日が経った。その間、千尋と、千尋の父親――長嶺組との要求に挟まれて、和彦は対応策も考えついていない。
 いっそのこと、このまま無為に時間が流れ、千尋が十歳も年上の男のことなど忘れてくればいいのにと、都合のいい、半ば自棄ともいえる事態を望んでしまう。
 ハンドルを握る和彦の目に、自宅マンションが入る。拉致されてからの習慣にしているが、常にマンション周辺に不審な車が停まっていないか、まず確認するようになっていた。それから駐車場に車を停める。
 車をロックして歩き出そうとした瞬間、背後で別の車のドアが開く音がした。和彦の背に冷たい感覚が駆け抜け、もう一歩も動けなくなった。どうやら、本来ならマンションの住人しか停められないスペースで、車のエンジンを切って和彦の帰りを待っていたらしい。
「――組長が会いたいと言っている」
 声をかけられ、やはり、と思わず絶望から目を閉じる。一度奥歯を噛み締めてから、和彦はやっと言葉を絞り出した。
「嫌だ……」
「頼みがある。……組として」
 淡々としていながら、どこか切実な響きを帯びたハスキーな声に、わずかに和彦の心は動く。ゆっくりと振り返ったが、相手を見た瞬間には激しく後悔して、走り出そうとする。
「待てっ」
 車の前に立っていた男が素早く駆け出し、あっという間に和彦は腕を掴まれて引き止められる。
「離せっ」
 必死に手を振り払おうとするが、男は動じない。和彦は敵意を剥き出しで男を睨みつける。
 当然だ。男は、拉致された和彦を道具で弄んだ本人だった。あごにうっすらと残る細い傷跡を忘れるわけがない。
「暴れられると、縛り上げてでも連れて行くことになる」
「……スタンガンは?」
「連れて行ってすぐ、先生には役に立ってもらわないといけない。だからあれは使えない」
 まともな会話が成り立ったことで、ようやく和彦は少し気持ちを落ち着ける。
「役に立ってもらうって……」
「時間が惜しい。とにかく来てくれ」
 肩を抱かれるようにして強引に車まで連れて行かれる。車には他にもう一人男が乗っていたが、先日のあの場にいたかどうかはわからない。和彦がはっきりと覚えているのは、今肩を抱いている男と、千尋の父親の顔だけだ。
 助手席に押し込まれ、すぐに運転席に乗り込んだ男が車を出す。やむなくシートベルトを締めた和彦だが、できることなら車から飛び降りたい心境だった。頭の中を駆け巡るのは、二日前、千尋と会った出来事だった。あのことが知られ、また報復を受けるのではないかと思うと、指先が震えてくる。
「ぼくを……どうするつもりだ」
「どうする、じゃない。今日は先生に、どうにかしてもらいたいことがあるんだ」
「ぼくにあんなことをしておいて、どうにかしてもらいたいことがあるなんて、ムシがよすぎるんじゃないか」
「言いたいことがあるなら、すべて組長に言ってくれ。ただ、俺個人としては、頭を下げて頼みたい。面子の問題で、今の先生相手にそれはできないけどな」
 面子、と呟いた和彦は、軽く鼻を鳴らす。ヤクザの面子など、どうでもよかった。面子と言いながらやることと言えば、一般人を拉致して、何人もの男たちで取り囲みながら辱めることなのだ。
 和彦の尊厳はとことんまで踏みにじられてしまった挙げ句、面倒な事態に巻き込まれたままだ。
 言いたいことは山ほどあるが、さすがに、痛めつけられたくはない。
 それに――。千尋の父親の顔を思い返したとき、和彦の心臓の鼓動は恐怖以外のものでわずかに速くなっていた。
 道具で内奥を犯される和彦の姿を、顔色一つ変えずにずっと見下ろしていた男だ。冷たい質感を持っていそうでありながら、あごを掴んできたのは熱い手だった。千尋とは違う、ごつごつとして厚みのある、年齢を重ねてきた男の手だということも覚えている。
 組長という立場にある男が、自分にどうにかしてもらいたいことがあると言うのだ。千尋の件でどうこうしたいというのなら、そもそも理由など必要としないはずだと考え、渋々和彦は覚悟を決めた。


 連れて行かれたのは、先日のビルとは違う、普通のマンションだった。住人もいるらしく、ちらほらと部屋に電気がついている。やや拍子抜けして、駐車場からマンションを見上げる和彦に、あごに傷跡のある男が声をかけてきた。
「――先生、急いでくれ」
 和彦はハッとして、男を見る。車中で素っ気なく自己紹介されたが、男は三田村といい、若頭補佐という肩書きが一応あるらしい。ただし組長である千尋の父親が、三田村を若頭から預かる形となっており、組長直属という形でさまざまな雑事を処理しているのだそうだ。
 三田村の説明を聞いて、わけがわからないという顔をした和彦に対して、三田村は生まじめな顔で、組長の親衛隊のようなものだと理解すればいいと言葉を付け加えた。
 ヤクザ同士の関係などわかりたくもない和彦は、三田村の話を半分聞き流しながら、適当に頷いておいた。
 とにかくはっきりしたのは、この連中は今のところ、和彦に何かをやってもらいたいがために、迂闊に手出しができないということだ。先日より、ほんのわずかながらマシな立場になったようだが、あまり救われた気持ちにはなれなかった。
 急かすように三田村に背を押され、マンションに連れ込まれる。エレベーターで最上階まで上がりながら、さらりと言われた。
「このマンションの住人は、大半がうちの組の関係者だ」
 驚きよりも、うんざりした。和彦は冷めた視線を隣に立つ三田村に向ける。
「……つまり、いくら暴れて叫んでも無駄だと言いたいのか?」
「いや、単なる事実を言っただけだ」
 精悍だが、感情というものをごっそりとどこかに置き忘れたような三田村の横顔をじっと見つめてから、ふいっと顔を背ける。
 エレベーターを降りると、廊下には数人の男たちの姿があった。三田村の姿を見るなり一斉に姿勢を正して頭を下げた。
 考えているより状況は深刻なのかもしれないと和彦は思う。エレベーターを降りたときから、空気が殺気立っているのを肌で感じていた。無意識に首筋を撫でてから、顔をしかめる。
 一番奥まった場所にある部屋のインターホンを押すと、すぐにドアが大きく開けられた。振り返った三田村に手で促され、仕方なく玄関に入る。何人いるのか、広めの玄関には靴が散乱していた。
 重い足取りでリビングに連れて行かれた和彦は、その場にいる一人の男を見て、ビクンと体を震わせる。和彦が逃げるとでも思ったのか、三田村の手がいつの間にか肩にかかり、ぐっと押さえられた。
「――来たな」
 大きな革張りのソファの真ん中に腰掛けた千尋の父親が、まっすぐこちらを見据えてくる。目が合った瞬間、和彦の背筋に鳥肌が立つような熱い感覚が駆け抜け、恐怖や不安すらどこかに飛んでいってしまう。ただ、存在に圧倒されていた。
 返事をしない和彦に苛立った様子もなく、悠然とした動作で千尋の父親が立ち上がり、こちらにやってくる。
「先日は、きちんとした自己紹介をしてなかったな。――長嶺組組長の、長嶺賢吾だ」
 実は、知っている。知りたくなどないと思いながら、インターネットで調べてみたのだ。普段はインターネットの情報などさほど信用していないのだが、案外、噂程度のものでもときにはあてになるようだ。
「今日は長嶺組の組長として、お前に頼みたいことがある」
 千尋の父親――賢吾がさらに一歩踏み出してきたので、反射的に和彦は一歩後退る。それを見た賢吾は唇を微かに歪めると、いきなり和彦の腕を掴んで引っ張る。
「何っ……」
「まずは見てもらったほうが早いな」
 賢吾の行き先を察したように、組員と思しき男が先回りしてリビングを飛び出し、廊下に面した部屋のドアを開けた。賢吾とともにその部屋を覗いた和彦は、大きく目を見開く。
 部屋の中央に置かれたベッドの上に男が一人横たわっていたが、様子が尋常ではなかった。苦しげに喘ぎ、ときおり呻き声を洩らしている。その理由は一目見てわかった。腰の辺りにタオルを当てているが、そのタオルが血に染まっている。ベッドの傍らには二人の男がいて、汗を拭ったり、声をかけてやっていた。それしかできないのだ。
 締め切った部屋の中には、ムッとするような血と汗の匂いがこもっている。目の前の異常な光景も相まって、和彦は軽い眩暈に襲われていた。
「……何、してるんだ……」
 誰に向けたものでもないが、和彦の呟きに応じたのは賢吾だった。
「うちの若衆の一人だ。ちょっとした揉め事で撃たれた」
「ちょっとしたって――」
 ここで和彦は、自分がこの場に連れて来られた理由を理解した。賢吾にきつい眼差しを向けると、やっとわかったかと言いたげに賢吾が頷く。
「弾傷の人間のために救急車は呼べない。もちろん、そこいらの病院に運び込むこともできない。医者がすぐに通報して、警察が喜んでガサ入れにくる。そこで、口が堅い医者が必要になるというわけだ」
「ヤクザの内部がどうなっているか知らないが、診てくれる医者の心当たりぐらいあるんじゃないのか」
 ヤクザ相手に敬語を使う気にもなれず、強気というわけではないが、和彦はあえてぞんざいな口調で応じる。これで殴られでもして追い出されたほうが、状況としては遥かに楽だ。賢吾が和彦に求めているのは単なる救護処置ではなく、犯罪に目をつぶれということだ。つまり、和彦は共犯者にされてしまう。
「確かに、心当たりはある」
「だったら――」
「運が悪いことに、少し前に脱税で挙げられて、そのときうちの組との関係を疑われた。今も警察が目を光らせているから、迂闊にその病院には近づけないし、警察の尾行が張り付いているせいで、医者を呼び出すこともできない。総和会の手は借りたくないしな。そこで思い当たったのが、うちのバカ息子がのぼせ上がっている医者というわけだ」
 賢吾が薄い笑みを浮かべ、一瞥してくる。和彦は唇を引き結ぶと、一度は賢吾を睨みつけてから、ベッドの上で苦しんでいる男にも視線を向ける。気がつけば、リビングの前の廊下に三田村が出てきており、こちらを見ていた。
「……ぼくは美容外科医だ……。かすり傷程度なら喜んで治療するが、弾傷をどうにかしろなんて無理だ」
 そう言って和彦は顔を背けたが、すかさず賢吾にあごを掴み上げられ、残酷な笑みを間近で見せられた。
「謙遜するな。お前はもともとは外科志望だったはずだ。研修医時代は、救急で治療にもあたっていた。今も美容外科医として骨を削って、血管も弄っているのに、何を心配することがある?」
「調べ、たのか……」
「現在のことを調べるなら、当然、過去のことも調べるだろう。何が使えるかわからないからな」
 自分が医者だからあんな目に遭わされたのだと、嫌というほど和彦は思い知らされた。千尋の件もあっただろうが、いかに効果的に和彦を支配下におくか、それも念頭にあったはずだ。実際、この状況において和彦の答えなど、限られていた。
「手術するにしても、道具はどうする気だ」
「ふん。それで逃げ道を作ったつもりかもしれないが、心配するな。立派な設備は無理だが、人間の体を切って縫うぐらいの道具は用意してある。あと、点滴セットも。必要な輸液があれば持ってこさせる。血液は、ここに活きのいいのが何人も揃っているしな」
 完全に逃げ場を断たれた。和彦は大きく息を吐き出して目を閉じると、動揺のため速くなっている自分の鼓動の音を聞く。頭に血が上り、頭痛すらしている。
 近くにいる男たちの視線を痛いほど感じながら和彦は、懸命に思考を働かせる。少しでも、自分の立場を安全なものにするために。
「――条件がある」
 和彦は覚悟を決めて目を開けると、前を見据えたまま切り出す。賢吾は低く笑い声を洩らした。
「本当に、見た目は優男のくせして、度胸があるな。この状況でヤクザに取引を持ちかけるなんて、開き直りにしても大したものだ」
 いいだろう、と言った賢吾にまた腕を掴まれて、別の部屋へと押し込まれた。脱衣所も兼ねた洗面室で、洗濯機の横に置かれたカゴには洗濯物が山積みとなっており、浴室に通じる扉の前にはマットが敷いてある。
 ヤクザが何人も待機しているという、和彦にとっては非日常的な場所の中で、ここは妙に生活感が溢れている。人が住んでいるのであれば当然の風景だが、なんだか妙な感覚だ。
「それで、条件は」
 賢吾に声をかけられ、和彦は我に返る。いつの間にか、白い壁を背にする形で追い詰められ、威圧するかのように賢吾が傍らに片手を突く形で和彦の顔を覗き込んでいた。
 むせ返るような雄の匂いを賢吾から嗅ぎ取り、半ば本能的に顔を背ける。
「……ビデオで録ったものを消してほしい……」
「それだけか?」
「それと、ぼくを脅すな。千尋にはもう関わらないんだから、必要ないはずだ」
 スッとあごを賢吾に撫でられ、和彦は体を硬直させる。耳元に熱い息遣いがかかり、卑猥な言葉を囁かれた。
「〈あれ〉を消すのは、惜しい気もするな。おもちゃをケツに突っ込まれて、お前みたいな色男がよがり狂う様は、なかなかの見ものだった。お前にとっても、新たな刺激に目覚めるいい経験だっただろ」
 和彦は屈辱と羞恥で体を熱くしながら、賢吾を睨みつける。すると突然、体を壁に押し付けられた。真正面から賢吾を見つめ、和彦は思う。
 この男にだけは捕まってはいけないと。捕まったら、何もかも終わる。
 頭ではそう思いながらも、あごを掴み上げられた和彦は抵抗できなかった。賢吾を怖いと思いながら、いままで誰に対しても感じたことのない圧倒的な存在感を、よりリアルに知ってみたいという衝動がある。
「……お前の言いたいことはわかった。要求は呑んでやる」
「本当、に……?」
「念書は書いてやれないが、もっと確かなものをやる」
 そう言って賢吾が威圧するように体を寄せてくる。あごを押さえられたまま有無を言わさず唇を塞がれていた。
「んんっ」
 喉の奥から声を洩らした和彦は、咄嗟に賢吾の厚みのある胸を押し退けようとしたが、あごを掴む指に力が込められ、痛みに喘いだ拍子に、無遠慮に舌が口腔に差し込まれた。煙草の苦味を感じて眉をひそめるが、かまわず賢吾に口腔を犯すように舐め回され、唾液を流し込まれる。
「お前が応えないと、約束を交わしたことにはならないぞ」
 唇を触れ合わせたまま、おもしろがるような口調で賢吾に囁かれ、睨みつけながらも和彦は応えないわけにはいかなかった。立場はあくまで、賢吾が上なのだ。
 たっぷりと賢吾に唇を吸われ、口腔に差し込まれた舌にぎこちなく自分の舌を絡める。妙な気分だった。
 ほんの何日か前まで十歳年下の青年と関係を持っていて、その青年の父親の逆鱗に触れた。ここまでは理解できる。そこから先の展開が、あまりに和彦の想像を超越していた。ヤクザに拉致された挙げ句に辱められ、それをネタに青年との関係を絶つよう言われて従うつもりだったはずが――なぜか今、青年の父親と唇と舌を貪り合っている。
 体の奥でじわりと情欲の種火が点る。和彦を威嚇する気満々の、粗野で乱暴な口づけだが、舌に歯を立てられる痛みすら、厄介な疼きを伴う。
 賢吾の舌をきつく吸うと、後頭部に大きな手がかかり、後ろ髪を撫でられてからうなじをゆっくりと揉まれる。この瞬間、和彦は腰が砕けそうになった。咄嗟に賢吾の肩を強く押すと、和彦の異変に気づいたのか賢吾がゆっくりと唇を離す。
「約束は守ってやる。録画したものは消すし、お前を脅すようなこともしない。ただし、うちの人間を助けたら、の話だ」
「……医者として、できることはやる」
「いいだろう。交渉は成立だ」
 和彦がほっとした瞬間を見計らったように、賢吾にもう一度唇を吸われてから、なんの余韻もなく体が離れた。
「――さっそく、患者の命を救ってもらおうか、先生」
 そう言って、賢吾がニッと笑いかけてくる。年齢よりずっと若々しい笑みは、当然のことなのかもしれないが、千尋にそっくりだった。


 組員たちに必要なものを揃えるよう指示を出しながら、ワイシャツの袖を捲り上げた和彦は丁寧に石けんで手を洗う。さすがに病院のようになんでも揃っているわけではないため、足りないものについては、代用となりそうなものを急いで買いに行かせて、揃える側からアルコールで消毒していく。
 急場ながらなんとか手術の準備を調えると、柔らかなベッドの上では下手に患者の体に触るのもためらわれ、どこかの部屋から外してきた引き戸を担架代わりにして、ダイニングのテーブルの上に運んでもらうと、傷口を検分してから、局所麻酔をする。麻酔薬などどうやって入手したのか、面倒なのであえて考えないことにしていた。
 部屋は汚してもかまわないと言われているため、遠慮なく傷口の血を洗い、消毒する。撃たれた弾がまだ体内に残っているので、その弾を取り除いたときの出血が心配だが、今のところは大きな血管に傷はついていない。ただし、見立てでは腸は無傷とはいかないようだった。
 人間の臓器を見るのはいつ以来だろうかと思った和彦は、天井を見上げると、手術の手順を頭の中で整理する。この程度の手術なら、救急にいた頃に何度も手がけている。おろおろしていた研修医時代とは違うのだ。
 ふとダイニングの隅に目を向けると、腕組みをした賢吾が難しい顔をして立っていた。他の組員たちも同じだ。和彦がやることを、ただ見ているしかない。
 今のこの場を支配しているのは自分だと思うと、不思議な力が湧いてくる。
 早く手術を終えて、こんなところから出ていってやると思いながら、和彦はメスを手にした。









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