縫合した傷口を消毒してから、滅菌ガーゼを当ててしっかりテープで押さえる。これで、一通りの手当ては終えた。無事に弾を取り除き、傷ついた腸を縫って出血を止めたのだ。
患者の脈拍は少し落ちてはいるが、許容範囲だ。話しかけても意識の混濁も見られず、ひとまず手術は無事に終わったといってもいい。怖いのは、こんな場所で手術したことによる感染症だ。
そのときはそのときだと自分に言い聞かせ、和彦は大きく息を吐き出す。どれだけ緊張していたのか自覚はなかったが、ワイシャツは汗でぐっしょりと濡れている。それだけでなくテーブルや床も、消毒でさんざん使った生理食塩水で水浸しだ。
すっかり嫌な記憶が染み付いてしまった血塗れのラテックス手袋を外すと、傍らのバケツに放り込む。
「患者の傷が開くから、慎重にベッドに運んでくれ。裸のままでもいいが、傷の周囲は清潔な布で覆っておくこと。それともちろん、シーツもきれいなものに。準備できたら、点滴をする」
そう指示を与えると、ふらつく足取りで和彦はキッチンに行き、手を洗う。ワイシャツもところどころ血で汚れているため、帰ったら処分しないといけない。
和彦が手を洗い終えて振り返ると、怪我人が運ばれたあとのダイニングは組員たちによって原状回復が行われている最中だった。
準備ができたと呼ばれ、最後の一仕事のため和彦はベッドに運ばれた患者の元に行き、点滴をする。そして、患者についている組員に、どの輸液パックを、どのタイミングで取り替えるか説明し、麻酔が切れたあとに痛みを訴えるのは目に見えているため、鎮痛剤の服用についても注意を与えておく。
「――終わったか」
突然、背後から声をかけられて和彦はビクリと体を震わせる。存在を忘れていたわけではないが、患者に意識を集中していたため、不意を衝かれた。
振り返った和彦は、いつの間にか背後に立っていた賢吾を見上げる。
「ああ……。ぼくの用は済んだから、これで帰らせてもらう。……明日の夜、ぼくが様子を見にくるまで点滴を――」
「帰る必要はない。今夜はここにいろ」
無慈悲に告げられ、大きく目を見開く。和彦の反応を見て、賢吾は唇を歪めるようにして笑った。
「なんだ。患者を放って帰る気か。せっかく助けた患者に何かあったらどうするんだ」
「このまま安静にしておけば、命に別状はないはずだ」
「万が一、何があるかわからないだろ。それにお前には、もう一仕事してもらうぞ」
えっ、と声を洩らしたときには和彦は腕を掴まれていた。強引に立たされて、引きずられるようにして連れていかれたのはリビングで、待機してる組員たちの中に三田村の姿もあった。
気にした様子もなく賢吾はずかずかとソファに歩み寄ると、引きずっていた和彦の体を素っ気なく放り出した。ソファに半身を倒れ込ませた和彦の上に、容赦なく賢吾がのしかかってくる。尋常ではない空気を感じ取り、すぐにソファの上を後退ろうとしたが、腿の上に座り込まれてしまうと、動けない。
「……なんの、つもりだ……」
「血を見て、体がざわつかないか?」
「ぼくは医者だ。毎日見ている」
「そうか。だが、俺は違う。案外ヤクザは、そうそう血は見ないものなんだ」
ワイシャツの襟首に賢吾の手がかかり、あっという間に引き裂かれる、ボタンが千切れ飛び、フローリングの床の上に落ちた音がする。和彦は愕然としながら、まばたきも忘れて賢吾を見上げる。
「あんた……、息子が男とつき合っていることを、嫌がってたんじゃないのか……」
「つき合う相手によるな。手塩にかけて育てた大事な息子が、性質の悪い男に弄ばれて、バカに拍車がかかったら困る。うちの組絡みで、千尋を利用しようとしているのかもしれないしな。だが実際は、千尋がつき合っていたのは悪い男なんかじゃなく、遊び好きの美容外科医だった。しかも、俺たちに協力的な」
それが、今のこの状況にどう繋がるのかと言いたかったが、どんなとんでもないことを言われるのかと思い、和彦はこう言っていた。
「……バカだ、バカだと言っているが、千尋は頭が切れる。勘がいいというのかもしれないが」
「俺の息子だからな。――俺に似て、男を見る目がある」
引き裂かれたワイシャツの前を大きく開かれて、賢吾が覆い被さってくる。首筋に唇が押し当てられ、怖気立った和彦が顔を背けた先には、二人の様子を無表情で見守っている三田村の姿があった。
一瞬、助けを求めたくなったが、この部屋に来るまでの三田村の説明を思い出して諦めた。三田村が、賢吾の意に沿わないことをするはずがないのだ。
「息子とつき合って、その父親とも関係を持つなんて、滅多にできない経験だろ」
「……稀有な経験なんて求めてない。特に、ヤクザと関わりがあることは」
すかさず髪を鷲掴まれ、和彦が痛みに呻いたときには、賢吾に唇を塞がれていた。口腔深くを舌で犯されながらベルトに手がかかり、乱暴に緩められる。スラックスと下着をまとめて引き下ろされる頃には、和彦は抵抗をやめていた。
辱めてきたときですら、痛めつけることはしなかった連中だが、それは和彦が抵抗らしい抵抗をしなかったからだ。とにかく和彦は、痛い思いだけはしたくなかった。他人の体にメスは入れられても、自分が傷つくのは嫌なのだ。
和彦の体から力が抜けたのがわかったらしく、満足そうに笑った賢吾が一度体を起こし、ジャケットを脱ぎ捨ててネクタイを抜き取る。再び和彦の上に覆い被さってきて、いきなり胸の突起をベロリと舐め上げてきた。
背筋にゾクゾクするような疼きが駆け抜ける。肉体的なもの以上に、被虐的な状況に精神的な高ぶりを覚えていた。
「あっ」
小さく声を洩らした和彦は、瞬く間に硬く凝った突起を激しく吸われながら、顔を横に向ける。待機していた組員たちはリビングのドアの近くに移動しているが、出ていこうとはしない。特に三田村は、和彦が顔を向けた真正面にいるのだ。
「……人がいる」
和彦の言葉に、平然と賢吾が応じる。
「いまさら、恥ずかしくもないだろ」
思わず賢吾を睨みつけると、唇を塞がれて両足の間をまさぐられる。ラテックス手袋越しではない、ごつごつとした大きな手に直に敏感なものを握られ、和彦は賢吾の下で身を捩っていた。両足を開かされ、腰が割り込まされる。その状態で手早く和彦のものは扱かれていた。
「うっ、ああっ……」
「うちの息子を骨抜きにした体がどんなものか、たっぷり味わわせてもらうぞ。お前も、初めての相手に愛想よくしろ。――可愛がってやるから」
もう片方の手が胸に這わされると、突起を指で挟まれて強く抓り上げられる。痛みとも疼きともつかない感覚が胸に生まれ、その感覚が消える前に賢吾の口腔に含まれて、歯を立てられていた。
男二人が横になっているため、いくら大きいとはいえ窮屈に感じるソファの上で自由に動くこともできず、和彦は片手を伸ばして背もたれに掴まる。そうしないと床に転げ落ちそうだった。
賢吾に唇を吸われながら、否応なく反応することを要求された和彦のものは集中的に先端を責められる。ビクビクと腰を震わせると、腿から尻にかけて撫で回された。
「俺は前戯にあまり時間をかけない性質だ」
唐突な賢吾の言葉に、息を喘がせながらも和彦は軽く鼻を鳴らす。
「……最初からそんなものを期待していると思ったのか」
「不満なら、今度じっくり堪能させてやる」
意味深な言葉に目を見開いたが、薄く笑った賢吾が指を舐めている姿を見て体が熱くなり、真意を問うどころではなくなった。
「あっ、ううっ」
濡れた指に内奥の入り口をまさぐられ、容赦なく挿入される。痛みと異物感に呻かされながら和彦は、性急に内奥を湿らされて、広げられる。重量のある賢吾の体の重みによって、ソファに埋まりそうになり、たまらず賢吾の肩に片手をかけた。
ねっとりと内奥を指で撫で回され、腰から背筋にかけて痺れるような感覚が這い上がってくる。長い指が出し入れされると、思わず腰が揺れていた。異常な状況に、確実に自分の理性はおかしくなっているとわかってはいるが、どうにもならない。
いっそのこと考えることをやめてしまえば楽になれると、和彦は前回辱められたときに学習してしまっていた。考えることをやめ、与えられる感覚だけに従順になってしまえば、とりあえず現状は耐えられる。
ヤクザの一方的な愛撫に感じつつある自分の姿にも。
「反応がいいな。もうひくつき始めた」
指を付け根まで突き入れられて息を喘がせた和彦に、賢吾が囁いてくる。円を描くように指が蠢かされるが、和彦を感じさせるためというより、手っ取り早く内奥を柔らかくするためだろうが、強引な指の動きに和彦はときおり痛みを感じながらも、官能を刺激される。
「あっ――」
戯れのように内奥の浅い部分を指の腹で押し上げられた瞬間、和彦はソファに足を突っ張らせていた。腰が震えるような快感が生まれたのだ。
「おもちゃで遊ばれている姿を見ながら感じていたが、お前がつき合ってきた男は、きちんとここを開発してくれていたようだな」
喉を反らして感じる和彦に対して、賢吾は容赦なく内奥の浅い部分を攻め立てながら、汗ばんだ胸元を舐め上げてくる。生理的な反応から涙を滲ませながら、和彦は緩く首を左右に振る。このときまた、三田村と目が合っていた。
同性と体を重ねる以外で、特殊な性癖は持ち合わせていないつもりの和彦だが、このときから自信がなくなる。見られることが、もう一つの愛撫になっているようだった。
「こっちを見ろ」
賢吾に言われ、反射的に従ってしまう。すかさず唇を塞がれた和彦は、賢吾と舌を絡め合いながら、内奥から指を出し入れされる。
体を起こした賢吾がベルトを外し始め、さすがにじっくりと観察する気にもなれず、和彦は片手で両目を覆う。
「……一応、恥らっているのか?」
からかうような言葉を賢吾からかけられ、力なく応じる。
「うるさい……」
低い笑い声に続いて、ベルトの金属音とファスナーを下ろす音が聞こえた。
両足を抱えられて胸に押し付けられるようになって、やむなく和彦は両目を覆った手を外す。目の前の光景の何もかもが生々しくて、圧倒される。
両足を開いた自分の姿も、高められるだけ高められて放置された自分のものも、腰を密着させ、今まさに自分の中に押し入ってこようとしている男の姿も、その男の凶器も。
「うっ」
片足だけを抱え直されてから賢吾のものが擦りつけられ、ぐっと内奥に押し込まれてくる。
征服されていると、頭ではなく、体で実感した。熱く硬いものにゆっくりと内奥を埋め尽くされ、犯されていきながら、和彦は賢吾の圧倒的な存在感を味わわされていた。
「あっ、あっ、あぁっ――」
一番太い部分を呑み込まされ、苦しさに喘ぐ。そんな和彦を、賢吾は唇に笑みを湛えて見下ろしていた。
「喘いでるな、先生」
そう言って賢吾の指先に唇を擦られてから、懸命に太いものを呑み込んでひくついている内奥の入り口をなぞられた。和彦は小さく悲鳴を上げて腰を揺する。
「上の口も、下の口も」
腰を突き上げられて侵入が深くなる。被虐的な悦びが、内奥を犯される苦しみをあっという間に上回っていた。
賢吾がさらに腰を進めたとき、和彦の体に異変が起こる。ソファの上で背を反らし、強く背もたれを掴んだまま、絶頂に達していた。賢吾が見ている前で噴き上げた白濁とした精が、下腹部から胸にかけて飛び散る。
内奥に賢吾のものを迎え入れただけで、自分が達したのだとわかったとき、初めて和彦の中で羞恥心が湧き起こり、激しくうろたえる。同時に、内奥の高ぶりをきつく締め付けていた。
軽く腰を揺すった賢吾が、荒い呼吸を繰り返す和彦の髪を撫でてから、首筋を伝い落ちる汗を指先で拭ってきた。
「行儀が悪いな。入れられただけでイクなんて。――もっと俺を楽しませろ」
あごを掬い上げられて唇を吸われながら、賢吾に内奥の奥深くをゆっくりと突き上げられる。達したばかりだというのに和彦は、熱い快感のうねりを感じていた。
「は、あぁ――……」
「ここが、悦んでいる。よく締まってる。同じ感触を自分の息子が味わったのかと思ったら、興奮するな。俺の下で喘いでるのが、お前みたいな男だというのも、いい」
力強い律動を刻まれ、和彦は声を抑えきれない。ソファの背もたれを掴むのをやめ、両腕を賢吾のワイシャツ越しの背に回してしがみつく。
「あっ、あっ、ああっ……、うっ、うあっ」
乱暴に内奥を突き上げられるたびに腰が弾み、卑猥な音が室内に響く。もちろん、獣じみた息遣いも。
両足を押し広げられ、賢吾のものが内奥の奥深くを抉ってくる。
「うっ、くうぅっ、んんっ」
「――中に出すぞ」
当然のように賢吾が言い、完全に屈服させられた和彦は小さく頷く。数度突き上げられてから、熱い精がたっぷり注ぎ込まれた。
ビクビクと脈打つ賢吾のものを、まるで媚びるように和彦は締め付けてしまう。このとき和彦の体は、気持ちはともかく、賢吾に犯されて歓喜していた。それだけでなく、絶頂の証を体内に残されたことも。
荒い息を吐き出した賢吾に、唇と舌を貪られる。
「……お前は、俺の〈オンナ〉になった」
キスの合間の賢吾の言葉に、和彦は軽く眉をひそめる。
「ぼくは男だ」
「体や気持ちのことじゃない。お前の立場が、そうなったという意味だ」
「ヤクザのオンナなんて、悪趣味にも程がある」
「そう言うな。けっこうなメリットがあるぞ」
まだ繋がったままの部分を揺すられて、和彦は熱い吐息をこぼして締め付けてしまう。
「どんなメリットがあるにせよ、ヤクザと関わりがあるというデメリットは、帳消しにはならない。……ぼくは、ご免だ」
「強情だな。下の口はすぐに蕩けたのに」
思わず和彦が睨みつけると、体を起こした賢吾がゆっくりと内奥から自分のものを引き抜いた。賢吾が放ったものが内奥から溢れ出し、ソファを汚す。唇を噛む和彦を見下ろして、すでに冷徹な顔となった賢吾が言った。
「三田村、先生の後始末を手伝ってやれ。それと、風呂を使わせてから、着替えも用意しろ。あと、寝床も。先生は、今晩はここに泊まってくれるそうだ」
何かを言い返す気力もなく、和彦はソファに仰向けになったまま前髪に指を差し込む。こうなってしまっては、賢吾に従うしかなかった。
自分の格好を手早く整えた賢吾が立ち上がり、リビングを出て組員たちに何か指示を出している。入れ違いのようにソファに寄ってきた三田村に濡れタオルを手渡され、和彦は体を起こす。
三田村は、和彦の後始末を手伝うのは初めてではない。辱められたとき、動けない和彦の後始末をしてくれたのは、この男だった。眉一つ動かさず、和彦の下肢を綺麗にしたのだ。
「……組長の親衛隊っていうのは、こんな仕事ばかりさせられるのか。ご愁傷様としか言い様がないな」
嫌味でもなんでもなく、本当にそう思った和彦の言葉に、三田村は淡々と応じた。
「同じ言葉を、俺は先生に言いたい」
和彦は三田村のその言葉を、今の自分の状況に対してのものだと思った。
うわべだけとはいえヤクザに同情されたようで、それがひどく不愉快だった。
数日ほど和彦は、撃たれた組員がいるマンションの部屋に朝と夜の二回、顔を出すようにしていた。傷口の癒着と感染症の兆候を確かめるためで、ガーゼや包帯の交換に関しては、元看護師だという組員の妻が手伝ってくれている。
一刻も早くヤクザと関わりを絶ちたい和彦だったが、医者としての義務感から、手術を施しただけで放っておくことができなかったのだ。やることはやったと、堂々と主張する根拠が欲しかったというのもある。
とにかく患者の容態は急変することもなく、あとは安静にして順調に傷口が塞がれば、抜糸すればいいだけだ。それまでの間、和彦はヤクザの巣窟に顔を出さなくて済む。
部屋に通っているうちに、普通に会話が交わせる程度の仲になった組員の一人に、もう来ないからなと言い置いた和彦だが、実は患者以外のことで気がかりがあった。賢吾のことだ。
強引に体を繋がれた日以来、まだ賢吾とは会っていない。気負って部屋に出かけていた和彦としては、肩透かしを食らわされ続けた格好だ。
最後にもう一度だけ賢吾に会いたかった。別れを惜しむために――というわけではなく、念を押すためだ。
できることなら、ビデオで録られたものが消去されるのを、目の前で確認したかった。コピーされていれば意味のないことだが、約束の履行がなされたという事実は大事だ。和彦自身の精神の安寧のために。
組員から賢吾に連絡を取ってもらったのだが、忙しくて会うことはできないと、素っ気なく言われてしまった。こちらから連絡するということだが、それはいつだと問いかける間もなく、電話は切られた。
ヤクザとの約束には、やはり最低限、念書を取っておくべきだったと後悔しながら、和彦は表面上は何事もなく、いつも通りクリニックに出勤した。
異変は、すぐに感じた。
ロビーで顔を合わせた看護師たちからじろじろと見られ、嫌な感じのする笑い声が小さく上がったりもする。何事だろうかと思いながらも、和彦はあえて理由を問うたりはしなかった。
だが、医局のあるフロアに上がると、自分がなんらかの騒動の渦中にあると実感した。騒然とした空気が場を支配し、和彦の姿を見るなり、同僚である医者たちが不自然に視線を逸らしたからだ。
何が起こったのだと、急いで医局に入った和彦がまっさきに目が合ったのは、澤村だった。いくぶん青ざめた顔をしてはいるが、それでも他の同僚たちとは違い、目を逸らしたりはしない。
「……何が、あったんだ……」
歩み寄った和彦が問いかけると、澤村は口ごもったあと、視線を和彦のデスクの上に向けた。つられて和彦も視線を向けると、デスクの上に大判でプリントされた写真が散乱していた。
何がプリントされているか確認した瞬間、和彦はザッと全身の血が凍りつく気がした。わずかな間だが、意識も遠のいていた。
「これ――」
「今朝、同じ荷物が何個も配達されてきたらしい。うちの医局の先生たち全員と、看護師の何人か。それに事務局にも。さすがに不気味なんで、中身を確認したら、それが……」
少し画質は粗いものの、写真に写っているのは和彦だった。しかも、裸で両足を開いている姿で。見たくはないと思いながらも、確認せざるをえず、おそるおそる写真を手に取る。
間違いなかった。写真は、和彦が長嶺組の人間に辱められているときのものだ。写真を撮っている様子はなかったので、ビデオカメラで録ったものをプリントアウトしたのだろう。
言い訳のしようがない、内奥に道具を挿入された写真まであり、さらには、苦しげなのか恍惚としているのかわからない表情で自分の名刺を咥えている和彦の顔の写真まであった。
「お前、一体、これ……」
こんなものを見たうえで、それでもなお声をかけてくるのは澤村の優しさだろう。しかし今の和彦は、答えられなかった。答えたくなかった。自分が、ヤクザに拉致された挙げ句に辱められ、そのときの様子をビデオカメラで撮影されたなど。
この場で頭を抱えてうずくまりたいところをなんとか踏みとどまる。これ以上の醜態を晒せるわけがなかった。
「――……悪い、今日のぼくの手術は、全部キャンセルにしてくれ……。いや、この先の手術も、全部……」
「おいっ、佐伯、大丈夫かっ?」
澤村の制止を振りきった和彦は、ふらつく足取りで医局を出る。そのままエレベーターに乗り込むと、一階に降りた。あの写真を見た人間と、同じ場所にいたくなかった。
いやむしろ、見た人間のほうが、和彦にいてほしくないと思っているだろう。
もう終わりだと、そんな言葉が頭の中を駆け巡っていた。あんな写真を見られては、もうこのクリニックで働き続けることはできない。仮に和彦が鋼のような神経を持っていたとしても、クリニックのほうが和彦を切るはずだ。
なぜ、こんなことに――。
呆然としながらロビーを通ってビルを出た和彦の目に飛び込んできたのは、正面に停められた高級車だった。その車の前に直立不動で立っているのは三田村だ。まるで、和彦がビルから飛び出してくるとわかっていたようなタイミングだが、もちろん偶然ではないだろう。
和彦が睨みつけると、三田村は相変わらず、憎たらしくなるほど眉一つ動かさず、スモークフィルムの貼られた後部座席のドアを開けた。悠然とシートに腰掛けているのは、賢吾だ。
「あんたがっ……」
ぐっと拳を握り締めると、賢吾は薄い笑みを口元に湛えながら、指先で和彦を呼んだ。乱暴に息を吐き出した和彦は大股で車に歩み寄り、乗り込む。すぐにドアは閉められ、三田村が助手席に乗り込むのを待ってから、静かに車は走り出した。
「――〈あれ〉は見たようだな」
口を開いたのは賢吾が先だった。和彦はキッと賢吾を睨みつける。
「本当はもっときれいに印刷できるんだが、臨場感が出たほうがいいだろうと思って、少し画質を粗くしておいた」
「……約束したはずだ。録ったものは消すと」
「お前は、ヤクザが約束を守ってくれるなんて、本気で信じていたのか?」
言葉に詰まった和彦の動揺を見透かすように、賢吾がちらりとこちらを一瞥する。
「お前はもう、あのクリニックにはいられないだろうな。女相手の商売だ。いくらハンサムでも、尻におもちゃを突っ込まれて悦んでるような医者がいたら、イメージが悪すぎる。しかもバックには、性質の悪いヤクザが控えている……」
賢吾がくっくと低い笑い声を洩らす。その様子を見て、和彦は一瞬本気で、この男を殺したくなった。そんなことができるはずがないと、わかっていながら。
「だからといって、他の美容整形クリニックに移ったところで、無駄だぞ」
「また同じことをする、か」
「そうだ。お前がどこのクリニックに行こうが、俺はお前のあの写真をばら撒くよう、指示を出す。映像をそのまま流してやってもいい。そうやって、お前の行き場を奪ってやる」
あまりの怒りで満足に呼吸もできなくなる。何度も肩を上下させ、なんとか空気を体内に取り込もうとする和彦の頬を、賢吾の指がくすぐるように撫でてきた。手を振り払いたいが、できなかった。強い憎悪の一方で、奇妙な諦観の感情も込み上げてくるのだ。
「――……何が、目的だ……。たかが美容外科医にこんなことをするぐらいだ。理由はあるんだろう」
聞いてしまえば、従わざるをえないだろう。わかっていながら聞いてしまうのは、多分、理由が欲しいからだ。こうして賢吾と会う理由が。
賢吾は、和彦が欲しがっている理由を与えてくれた。
「お前は、うちの組専属の医者になれ」
「専属……」
「美容外科医というのは、願ったり叶ったりだ。女だけじゃなく、顔を弄る必要がある男は、いくらでもいる。特にうちのような仕事をしている場合はな。組同士の繋がりで、まず患者に不自由することはないぞ。指の皮膚を弄って指紋の偽造ができるようになれば、あっという間に売れっ子だ」
和彦は視線を逸らし、賢吾に言われた言葉を頭の中で反芻する。混乱した頭でも、これだけははっきりしていた。
「……あんたの組に飼われるということか」
「まあ、そうだな。いい場所を見つけて、お前にクリニックを持たせてやる。そこで嫌というほど経験を積め。細かなトラブルに煩わされることもないぞ。長嶺組どころか、総和会が後ろ盾についているんだからな。自分の名前を表に出したくないというなら、どこかで死にかけている医者の名義でも買えばいい。俺や組に協力する限り、お前は守ってやる。俺の〈身内〉としてな」
見えない檻の中に追い込まれている気がして、和彦は小刻みに体を震わせる。そんな和彦に対して、賢吾が意味ありげな笑みを向けた。
「いや、どちらかというと、俺の〈オンナ〉だな」
気がついたときには和彦は、賢吾の頬を平手で打っていた。しかし、車中にいる和彦以外の男たちは誰も動じない。賢吾は打たれた頬を軽く指先で撫でて、相変わらず笑っていた。
「お前に俺を殴らせるのは、これが最初で最後だ。次はないぞ。俺を殴るってことは、組の面子を汚すのと同じだからな」
和彦は間近から賢吾の目を見据える。掴み所のない、迂闊に探れば容赦なく食らいついてきそうな獰猛さが静かに息を潜めている、嫌な目だった。だけど、目が離せない。きっともう、自分は捕えられてしまったのだと、和彦はようやく現実を受け入れた。そうするしかなかったのだ。
「……ぼくを〈オンナ〉と言うな」
「わかった。――約束してやろうか?」
賢吾が低く笑い声を洩らした意味は、すぐにわかった。和彦は吐き出すように言う。
「誰が、ヤクザの約束なんて信じるかっ」
「気づくのが遅かったな」
あごを掴み寄せられ、当然のように賢吾の唇が重なってくる。痛いほど唇を吸われたとき、和彦は自分から口を開け、熱い舌を受け入れていた。箍が外れたように唇と舌を貪り合い、力強い腕に体を抱き寄せられる。
「――俺は、否という返事は聞かないからな」
激しい口づけの合間に賢吾に囁かれ、甘い眩暈を感じた和彦は、抗えないまま頷いていた。
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