と束縛と


- Extra1 -


 人生を左右する出来事に巻き込まれ、茫然自失の状態にあるというのに、世間の常識から外れたヤクザには、そんな和彦の精神 状態を慮る親切心は皆無らしい。
 だから平気で、こんな言葉をかけてくる。
「――食わないのか」
 見惚れるほど 優雅な手つきでナイフとフォークを扱う男は、目を剥くような値段のステーキを見事な速さで平らげていく。ただ食事をしている だけだというのに、嫌になるほど活力と精力に溢れていた。
 和彦はなんとか肉を切り分けはするのだが、口に運ぼうとする たびに胃が締め付けられるような痛みを発し、結局ほとんど食べられない。
 予約を取るのが難しいと言われる人気の高級レ ストランで、テーブルについている誰もが食事を楽しみ、味わっている。苦痛に耐えているような顔をしているのは、ざっと見た 限り、和彦ぐらいのものだ。
「食べられるわけがないだろう……」
「どうしてだ」
「……正面にあんたが座っている から」
 隣のテーブルについている賢吾の護衛たちの耳を気にしながら、和彦は低い声で告げる。すると賢吾が、ニヤリと笑 った。
「いくら俺でも、この場でお前を食ったりしないぜ」
 ムキになってはいけないと思いつつ、勝手に顔が熱くなっ てくる。賢吾のこの発言で、自分が、今目の前で悠然としているヤクザの組長に組み敷かれ、強引に体を繋がれたのだと嫌でも認 識させられる。それどころか――。
「そろそろ覚悟は決まったか?」
「覚悟……」
「組に飼われる覚悟だ。正確には、 俺の〈オンナ〉になる覚悟だがな」
 もともとなかった食欲だが、食べ物の匂いを嗅ぐのも嫌になってきて、和彦はナイフと フォークを置く。
 逃げるようにクリニックを辞めてから一週間が経った。その間、和彦はひたすら悲嘆に暮れた生活を送っ ていた――わけではなく、目の前の男に振り回され続けていた。電話一本で外に呼び出され、買い物や食事につき合わされるのだ。
 怖くてたまらず、逃げ出したくて仕方ないが、始終自分に監視がついているようで、正直、一人で外を出歩く気にもなれな い。皮肉だが、こうして賢吾に呼び出されることが、苦痛である反面、気分転換にもなっていた。
「……あんたなら、別に相 手がぼくでなくてもいいだろ。それこそ、息子を使えば、美人で優秀な女医だって引っ掛けられる」
「俺の大事な一人息子に、 そんな汚れ仕事をさせるのか」
「男のぼくを拉致して、あんなひどいことをするのは、汚れ仕事じゃないのか」
「〈大事 な仕事〉だ、あれは」
 ヤクザの理屈は、堅気の人間に容易に理解できるものではないようだ。和彦は眉をひそめると、グラ スの水をぐいっと飲み干す。さきほどからワインを勧められているのだが、この男の前でアルコールをとる気にはなれない。
「チンピラを拉致るのとは、わけが違う。息子がベタ惚れしているうえに、貴重な医者だ。怪我をさせることは絶対に許されない し、精神的に追い詰めるにしても、再起不能なほど痛めつけるわけにもいかない。――ヤクザなりに細心の注意を払った〈大事な 仕事〉だ」
 聞いていて、ゾッとしてくる。和彦が身震いすると、おもしろがるように賢吾が口元を緩める。
「その後の フォローも行き届いているだろ? 毎日一回は連絡を入れて機嫌をうかがい、閉じこもりっきりはよくないと、こうして連れ出し ては、メシを食わせたり、先生に似合いそうな服を買ってやる」
「――……そうやって、心理的にプレッシャーをかけている んだろ。いつでも見張っていると思わせるために」
 賢吾はおどけたように肩をすくめてから、鋭い光を放つ目でまっすぐ見 据えてくる。獰猛でありながら怜悧な目は、いつでも和彦の心の中を容赦なく抉ろうとする。嫌な目だが、なぜだか視線を逸らせ ない。
「自覚はないだろうが、先生は見た目によらず、タフだ。ヤクザに見張られているかもしれないというプレッシャーだ けで、神経がズタボロになっても不思議じゃないのに、俺の目の前にいる色男の医者は、ストレスでやつれるどころか、顔色まで いい」
 和彦は眉間のシワを深くして、賢吾を睨みつける。
「どうしようもないから、開き直っているんだ。……怖くな いはずがないだろ」
「開き直れるのは、その人間が持っている強さだぜ、先生。つまり、肝が据わっている」
「……いま まで生きてきて、ぼくのことをそんなふうに言った人間はいない」
「いままで、ヤクザと関わったことがあるのか?」
  ぐっと言葉に詰まった和彦は、ニヤニヤと笑う賢吾の顔を見たくなくて、結局また、ナイフとフォークを手にしていた。


 レストランを出ると、和彦は半ば逃げるように先に歩き出そうとしたが、素早く賢吾に腕を掴まれた。振り返ると、唇だけの物 騒な笑みを向けられる。
「メシを食わせたんだ。ドライブにつき合ってくれてもいいだろ」
 嫌だ、という一言を許さな いほど、賢吾の静かな口調には凄みがあった。このとき和彦は、漠然とながら予感のようなものがあった。きっと今晩は、単なる ドライブでは帰してもらえないと。
 最初に強引に体を繋いできて以来、今日まで賢吾は、和彦にセクシャルな接触はしてこ なかった。こちらの精神状態や体調を慮っての親切心からではなく、和彦が逃げ出す素振りを見せるかどうか、観察しているため だろう。
 そして今晩、賢吾はなんらかの見定めをしようとしいる。
 和彦が返事をせず、じっと見つめると、賢吾は掴 んでいた腕を離した。
「どうする?」
「――つき合って、やる」
 言葉では尊大さを装ってみたが、肝心の声が震え を帯びる。賢吾は満足そうに頷き、自分の片腕を差し出してきた。意味がわからず和彦は首を傾げる。
「なんだ?」
「色 男の先生は、腕を絡めるほうが多いのか、絡められるほうが多いのか、実に気になるところだな」
 これみよがしにさらに腕 を突き出され、思わず和彦は周囲を見回す。ここは高級レストランの前で、人が行き来している。だが、そんなことは賢吾には関 係ないのだ。
 ためらう和彦に対して、賢吾は妙に優しげな声で言う。
「そう、難しい顔をするな。ここから、車までだ」
 服従心を試されているのだろうかと思いながら、仕方なく和彦は、賢吾の腕に自分の腕を絡める。スーツ姿の男二人の異様 な光景に、周囲の人々の視線が一斉にこちらに向けられたが、和彦と賢吾を囲む男たちの迫力にただならぬものを感じたらしい。 素早く視線は逸らされた。
 賢吾と腕を組んだまま、駐車場へと移動する。すぐにでも腕を振り払いたいが、ギリギリのとこ ろで、賢吾に対する恐怖からその気持ちを抑え込む。
「……こうするのが、あんたのオンナの義務なのか?」
「いや、単 なるお遊びだ」
 横目で睨みつけると、流し目で返された。
 車まで行くと、護衛だけでなく運転手も兼ねている三田村 が外に立って待っていた。賢吾の姿を見るなり、素早く周囲に視線を向けてから、流れるような動作で後部座席のドアを開ける。
 やっと解放されたと、和彦はパッと腕を離す。しかし、それは甘かった。
 二人並んで後部座席に座ると、当然のよう に賢吾に肩を抱かれる。そんな光景にまったく頓着せず、三田村は車を出した。
「――そろそろ、始めるか」
 ふいに、 前触れもなく賢吾が口を開く。
「始めるって、何を……」
「俺のオンナとしての生活だ」
「……今は違うのか」
「オンナらしいことはしてないだろ。少なくとも、俺はまだ、先生に尽くしてもらっていない」
 意識しないまま和彦の頬は 熱くなってくる。なんとも恥知らずな会話だと思ったのだ。
「無理やり、人の人生をめちゃくちゃにしておいて、まだぼくに 選択権があったのか」
「選択権はない。ただ、先生の覚悟の問題だ。俺はこの先、先生を押さえつけて好き勝手やりたくはな いからな。楽しんでやるものだろ、ああいうことは」
 ヤクザの理屈を聞いていると、胸がムカムカしてくる。そして、それ に逆らえない自分にも。
 和彦が乱暴に息を吐き出した瞬間、何げなくバックミラーを通して三田村と目が合った。
 何 があっても表情を変えない、賢吾の忠実な犬。和彦を、おもちゃで辱めた男でもある。ただ、この男は不思議な存在感を放ってい た。凄みも迫力もあるのだが、一方で、まるで影のように自分の存在を消してしまう。
 今も、和彦と目が合った次の瞬間に は、スッと視線を逸らしてしまった。それだけで三田村は、ハンドルを握ってはいるものの、単なる置き物と同様の存在になるの だ。
 賢吾は、常にこんな男たちに囲まれ、護衛されている。そんな男のオンナとして、生活する――。
 絶望感から、 意識が遠のきかけるような現実だ。だが、それはもう眼前に突きつけられており、拒否することはできない。必要なのは、覚悟だ けだ。
 何も選びたくないのに、和彦は唇を震わせながら答えていた。
「――……好き勝手言うな。誰が、ヤクザの組長 のオンナなんて立場、受け入れられるか」
「ほう」
「だけど……、受け入れてやる」
 賢吾にきつく肩を抱き寄せら れ、あごを掴み上げられる。唇を塞がれそうになる寸前、和彦はこれだけは念を押しておいた。
「ヤクザ相手の約束は信用し てないが、これだけは守ってくれ。――絶対、ぼくに手を上げるな。ぼくは、痛いことが何より嫌いなんだ。これさえ守ってくれ るなら、覚悟を決めてやる。あんたのオンナとしてな」
「上出来だ。痛めつけるなんて冗談じゃない。――溺愛してやるぜ、 先生」
 口づけを受け入れながら、覚悟を決めた和彦は両腕を広い背に回す。
 賢吾のオンナとして、まずはこの男の好 む口づけの仕方を覚えることにした。









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