車に酔った、と和彦がぽつりと洩らしたとき、表情に出さないまま、三田村は動揺していた。
反射的にバックミラーに視
線を向けると、和彦はウィンドーの外を眺めている。柔らかな黒髪を鬱陶しそうに掻き上げ、三田村が知る誰よりも色男という表
現が相応しい顔を思いきりしかめて。
体調が悪いというより、機嫌が悪そうだ――。三田村は心の中でそう判断を下す。
和彦の護衛兼世話係となってそろそろ半月になるが、少々理屈っぽいところがある彼は、口ではとやかく言いながらも、基本的
に従順だ。それは、賢吾や長嶺組に対する恐怖や諦観といった感情からくるものだろうが、やはり頭がいいのだと三田村は思う。
言動すべてに神経を張り詰めた和彦は、自分を取り巻く環境や人間との距離を測っているのだ。そうすることで、自分が安
心できるスペースを確保している。感情的な人間にはできない芸当だ。なのに今日は、張り詰めたものがいくらか緩んでいる気が
した。
そこに、車に酔ったという発言だ。三田村としては、自分が気づかないうちに、とうとう和彦の精神力に限界がきて
しまったのかと考えたのだ。
組長からの大事な大事な預かりものに何かあっては大変だ。三田村は車のスピードをぐっと落
としてから問いかけた。
「先生、気分が悪いなら、車を停めて休むか?」
移動のとき、目的地以外で車を停めることは
ない。先生の好きなようにさせてやれと賢吾からは言われているのだが、当の和彦は、ヤクザの運転する車でうろうろするのは気
に入らないらしく、決してどこかで降ろしてくれとは言わない。
自分のような強面の男を張りつかせて出歩くのが、そもそ
も嫌なのだろう。三田村はそう解釈していた。
てっきり今の申し出も断られるかと思ったが、和彦がふとこちらを見て、バ
ックミラー越しに目が合う。
和彦は、柔らかな眼差しをしているくせに、どこか底冷えするような、静けさを湛えた独特の
目をしている。その目が、快感と屈辱によって潤むさまは、男だとわかっていても肉欲を刺激するものがあった。
ますます
不機嫌そうに眉をひそめた和彦が、スッと前方を指さした。
「あそこに寄ってくれ」
三田村の視界に飛び込んできたの
は、ある施設を示す案内板だった。
すでにもう夏ではないかと思いながら、陽射しの強さに三田村は目を細める。じっとりと汗が滲む暑さだが、目の前に広がる光
景そのものは、悪くなかった。
昼下がりの児童公園は、陽気のよさもあってか、親子連れでにぎわっている。中に入るま
ではこぢんまりとしたものを想像していたのだが、実際は、かなりの広さと豊富な遊具があり、子供なら丸一日いても飽きないだ
ろう。もしかすると大人も――。
三田村はちらりと視線を隣に向ける。ベンチに腰掛けた和彦は、出入り口横で買ったソフ
トクリームを舐めながら、人工の小川を眺めていた。数人の幼児が足を浸し、無邪気な歓声を上げて水遊びをしている。
あ
まりに平和な光景で、だからこそ自分の場違いぶりを痛感する三田村は、和彦がここに立ち寄ったのは、ヤクザである自分に対す
る皮肉なのだろうかと邪推もする。だが、和彦の淡々とした横顔を見てしまうと、深読みしすぎだろうかとも思う。
「――三
田村さん、結婚は?」
唐突な質問に、缶コーヒーを握ったまま三田村は硬直する。それでも表情は変えないまま答えた。
「してない」
「なら、子供とこんなところに遊びにくるということはないわけだ」
それは和彦も同じだろう。身元調査
をしたが、和彦は結婚歴はないし、どこかで誰かとの間に子供を作っているという報告もなかった。
「……先生は、どうして
ここに寄ろうと思ったんだ」
「別に。ただ、〈普通の人たち〉の空気を吸いたかったんだ。児童公園なんて、その目的に一番
適しているだろ?」
ああ、と三田村は小さく声を洩らす。
やはり和彦の精神状態は、危ういところまできていたのだ。
少し前まで医者として恵まれた人生を送っていた男が、いきなりヤクザの世界に放り込まれ、挙げ句、組長のオンナにされてしま
った。平気なはずがない。
ここで和彦が小さく笑い声を洩らした。どこか皮肉げな響きを帯びた笑い声だ。
「まあ、ぼ
くも、こんな場所で味わう空気がどんなものなのか、よくわかってないんだ。子供の頃、家族で遊びに出かけたことがないからな。
こうして眺めていても、記憶が刺激されることはないし、とことん他人事だ」
三田村は、和彦の家族構成を思い出す。確か、
両親は健在で、少し年齢の離れた兄が一人いたはずだ。家族どころか親戚まで、職業だけ見ると、見事にエリート揃いだった。そ
の中で、和彦の医者という職業だけはひどく浮いていた記憶がある。
和彦はちらりと横目で三田村を見て、微かに唇を歪め
た。
「身元を調べてその報告書を見ただけじゃ、わからないことだってある。ぼくは、両親も兄弟も揃っているが、けっこう
家庭環境は最悪だ。だから、ヤクザに囲われて連絡を取らなかったとしても、当分は異変に気づかれない。気づいたとしても、心
配はしないだろう。半ば縁が切れているようなものだ」
「先生の父親は、確か――」
口にしようとした途端、和彦から
すごい目で睨まれた。
人それぞれ、家庭の事情はある。恵まれているように見えて、実はそうでないとしたら、なお他人に
触れられたくないのかもしれない。
三田村は缶コーヒーに口をつけてから言った。
「家族と縁が切れているなら、こっ
ちにとっては都合がいい。余計な工作をしなくて済む。ヤクザなら簡単だと思っているかもしれないが、世の中から、生きている
人間一人を消すのは、案外難しい」
「ヤクザらしい意見だ。……こっちも、家族の縁がもう少し強かったら、もっと表の世界
にしがみついてみたかもしれないが……。現実は、話すだけで憂鬱な気分が増すような存在だ」
つまり、和彦を憂鬱にした
くなければ、家族の話題は出すなと言うことだ。
何事もなかったようにソフトクリームを再び食べる和彦を見つめながら、
別に慰めるつもりなどなかった三田村だが、ついこう切り出していた。
「――家庭環境が最悪だというなら、俺もそうだな。
最悪の種類もいろいろあるが、少なくとも先生からは、育ちのよさが感じられる。俺は……見た通りだ」
ドキリとするよう
な舌の動きでソフトクリームを舐めた和彦が、興味を惹かれたようにじっと三田村を見つめてきた。本人に自覚があるのかないの
か知らないが、和彦の眼差しは強烈な磁力を帯びている。見つめられると、妙に胸がざわつく。
「俺のあごの傷跡は、どうし
てついたものかわかるか?」
「……さあ。ヤクザの顔に傷跡があったところで不思議じゃないから、理由なんて考えたことも
ない」
「ガキの頃、俺の父親につけられた。酒に酔ってようが酔ってまいが、息子の顔に刃物を突きつけるような、イカれた
クズだった」
こう語ることに、三田村の心はまったく揺れなかった。組に入ると決めたとき、その父親を半殺しの目に遭わ
せたと同時に、忌まわしい自分の家族の記憶もぶち壊した。
和彦は、痛ましげな顔をするどころか、初めて楽しげに笑った。
すると、この男は単なる色男などではなく、眼差しどころか、存在そのものがとてつもない磁力を帯びているのだと気づかされる。
だから、千尋だけでなく、賢吾も惹きつけたのかもしれない。
「話し飽きたエピソードだって顔だな」
思わず和彦に見
入っていた三田村は、その言葉で我に返る。
「ああ……。実際、飽きている」
「ということは、もうあんたの中でケリが
ついてるんだろ。最悪な家庭で生きてきた過去ってのは。――ぼくは、まだだ。普通に生活していても、ときどきむしょうに憂鬱
になる」
和彦は、外見や身元調査ではうかがい知れないほど、ずっと複雑な内面を持っている。そして多分、したたかだ。
確信めいたものを感じる三田村の目の前で、和彦はどこか清々したような表情を浮かべた。
「だけど、その憂鬱とも縁
が切れるかもな。男のぼくが、ヤクザの組長のオンナになる以上の憂鬱な出来事なんて、そうないだろ?」
「……それは、俺
には答えられない質問だ、先生」
和彦がソフトクリームを食べ終えるのを待ってから、三田村は立ち上がる。ベンチの傍ら
にあるゴミ箱に空き缶を捨てたとき、ふいに和彦に呼ばれた。
「――三田村さん」
「なんだ」
「この先もぼくについ
ているなら、一つ約束してくれ」
「先生の望みは最大限叶えてやるよう、組長から言われている」
生まじめに三田村が
応じると、和彦は軽く鼻を鳴らし、小声でぼそりと言った。
「家族の話題は、この場限りだ」
「ああ……。お互い、そう
話せることもなさそうだしな」
もう見るべきものはないとばかりに、二人はその場を離れる。
歩きながら三田村は、
自分の中に起こっている不思議な変化を認めていた。
組に入ってから、どんな仕事を任されようが一切の私情を捨てて務め
てきたが、和彦の護衛に関しては別だ。常に平常心を心がけようとする気持ちとは裏腹に、仕事を超えた興味から、和彦を観察し
てしまうのだ。
だがこの興味も、護衛を続けていくうちに薄れていくはずだ。きっと――。
そう、三田村は自分に言
い聞かせた。
Copyright(C) 2009 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。