和彦はその場に立ち尽くし、空を見上げる。つい一時間ほど前まで、目を射抜きそうなほど鮮やかな青空が広がっていたという
のに、今は灰色の雲に覆われ、雨が降り出していた。
最初はぽつぽつとした降りだったが、和彦が空を見上げているうちに、
あっという間に降りは強くなってきた。周囲を行き交っていた人たちの足取りが速くなり、人気が乏しくなってきたが、和彦だけ
はその場から動かない。
暗い灰色の空から水滴が無数に落ちてくる光景に、一時心を奪われていた。夏の、湿気を含んだ空
気は嫌いだが、いざ雨が降ってくると話は別だ。
またたく間に顔や体が濡れていき、目を細めた和彦は前髪を掻き上げる。
もう少し雨の勢いが強くなると、さらに気持ちいいかもしれない、と考えたそのとき、頭からバサッと何かが被せられた。
「何してるんだ、先生」
傍らから、怒ったような声がかけられる。驚いた和彦は目を丸くしながら、頭から被せられたもの
を引っ張って確認する。それは、見覚えのあるジャケットだった。
「風邪を引くぞ」
そんな言葉とともに、肩に回され
た腕にぐいっと引き寄せられ、半ば強引に歩かされる。和彦はジャケットの位置をずらして、隣を歩く三田村を見た。仕事中は絶
対にジャケットを脱ぐことのない男だけに、野外でのワイシャツ姿というのは新鮮だ。
和彦の視線に気づいたのか、三田村
は軽く眉をひそめて言った。
「人が昼メシを買っている間にふらっといなくなるから、心配した」
三田村の手には、フ
ァストフードの袋がある。昼食は抜くつもりだった和彦だが、なんでもいいから腹に入れたほうがいいと三田村に言われ、外出先
から帰る途中、店に立ち寄ったのだ。
三田村が注文をする間、和彦は傍らでおとなしく待っていたのだが、天候が気になっ
てしまい、一人ふらりと外に出て雨に濡れていたというわけだ。
「知らない誰かに、ついていくと思ったか?」
和彦が
冗談交じりに言うと、真顔で三田村が応じる。
「知らない誰かに、連れて行かれたかと思った」
「……冗談は冗談として
受け流してくれ。あんたが言うと、笑えない」
「俺は本気で言った」
肩にかかった三田村の手に、ぐっと力が加わる。
表面上はいつもと同じ無表情だが、自分が護衛している和彦の姿が急に見えなくなり、三田村は一瞬でも動揺したのかもしれない。
車まで向かう間にもどんどん雨は強くなり、自然と二人は小走りとなる。肩にかかっていた三田村の手は、いつの間にか和
彦の腕を掴んで引っ張っていた。
ジャケットを頭から被っているせいで視界が狭くなっていた和彦だが、ふと、先を行く三
田村の背が目に入る。白いワイシャツが雨に濡れ、肌に張り付いている。そのせいで、三田村の背にある存在がうっすらと浮かび
上がっていた。
和彦は慌ててジャケットを取ると、三田村の肩にかける。訝しむように振り返った三田村だが、和彦の様子
からすぐに察したらしい。何も言わずジャケットに腕を通した。
「すまない。先生が濡れて――」
「ぼくは自業自得だか
らいい」
強い雨音に掻き消されないよう、声を張り上げて話す。三田村が唇だけの笑みを浮かべたような気がするが、見間
違いかもしれない。
ようやく車にたどり着くと、迷うことなく和彦は助手席に座る。改めて互いの格好を見て、二人とも顔
をしかめていた。
「ずぶ濡れだ……」
呟いた和彦は、自分の濡れたTシャツを引っ張る。すると三田村に、濡れた髪を
丁寧な手つきで掻き上げられた。その感触にドキリとしてしまう。
三田村は自分のハンカチを出し、和彦の髪先から滴り落
ちるしずくを拭きながら言った。
「昼メシを買ったら、まっすぐ事務所に向かうつもりだったが、着替えたほうがいいな」
「だったら、どこかに寄って着替えを買わないと」
和彦も自分のハンカチを出して、三田村の髪を拭く。目元を和らげ
た三田村は、自分のことは構わないでいいと言いたげに、和彦の手を押し戻そうとする。それを無視して三田村の髪を拭いている
と、さりげなく切り出された。
「――わざわざ買わなくても、部屋に着替えが置いてある」
『部屋』とは、和彦と三田村
が逢瀬のために使っている部屋のことだ。確かに二人の着替えは置いてあるし、シャワーも使える。何より、ここから事務所に向
かう途中にあるため、回り道をしなくていい。
「でも、約束の時間が……」
「先生一人がシャワーを浴びて、髪を乾かす
時間ぐらいある」
濡れた髪を再び三田村に掻き上げられ、和彦は小さく微笑んで頷いた。
部屋に入った三田村は自分のことなど一切頓着せず、何より先に、和彦が置いてある着替えをクロゼットから取り出してきて、
渡してくれた。
「体が冷えただろ。時間は気にしなくていいから、しっかり温まってくれ」
三田村に促されるまま、サ
ニタリールームに入った和彦は、濡れて体に張り付いたTシャツをさっそく脱いでカゴに入れる。
バスタオルを取り出しな
がら、数日に一度ぐらいしか訪れないこの場所に、生活感が漂い始めるのはいつになるだろうかと、つい考えていた。必要なもの
を買い揃えてはいるものの、ここで生活しているわけでもないので、洗面所も浴室も、まだどこかモデルルームのようなよそよそ
しさがある。
だからといって居心地が悪いというのではない。和彦にとってこの部屋は、すでに大事な場所だった。
パンツのベルトに手をかけようとして、手を止める。急に、三田村が何をしているか気になり、和彦は足音を殺してサニタリール
ームを出ていた。
三田村は、フローリングの床の上にあぐらをかいて座っていた。傍らには、濡れたワイシャツが丸めて置
いてあり、上半身裸となって首にタオルをかけている。大きな窓を流れ落ちていく雨を眺めているのか、身じろぎもしない。
和彦は、そんな三田村の後ろ姿を眺める。広い背にある刺青の虎は、じっとこちらを見据えているようだった。三田村の呼吸に
合わせて、その虎まで呼吸をしているようで、賢吾の大蛇の刺青とは違った迫力がある。
虎の眼差しに誘われるように、和
彦はふらりと三田村に歩み寄り、すぐ背後に座り込む。さすがに三田村も、和彦に気づいた様子だが、振り返りはしない。三田村
の代わりに和彦を見つめているのは、虎だ。
三田村の背にてのひらを押し当てると、ぴくりと体が揺れる。かまわず和彦は
三田村の腰に両腕を回すと、しなだれかかるようにして背に唇を押し当てた。
雨に濡れてひんやりとしている三田村の肌は、
和彦が背に唇を押し当てるたびにじわじわと体温を取り戻していく。それどころか、和彦が虎の姿を舌先でなぞり始めると、肌が
熱を帯び、筋肉が張り詰めていく。
ようやく振り返った三田村の力強い両腕に引き寄せられ、和彦はきつく抱き締められる。
和彦も抱擁に応えながら、両てのひらで三田村の虎を撫でる。
「――先生は、刺青に惹かれているみたいだな」
和彦の
唇を吸い上げて、三田村がこんなことを言う。和彦は目を丸くしてから、眉をひそめて見せた。
「刺青を入れる気はないから
な」
「違う。そういう意味じゃない。先生の刺青の触れ方は、特別だ。愛しくてたまらない、という感じなんだ」
和彦
は、三田村の物言いが不思議だった。刺青と自分は一心同体――というより、自分の一部であるにもかかわらず、三田村はまるで、
自分の存在と刺青は別であるような言い方をしているのだ。
今度は和彦のほうから三田村の唇を吸い上げ、しがみつく。
「その虎の刺青を入れている〈オトコ〉が、ぼくの特別だから仕方ない」
「……こういうとき、なんと答えたらいいんだ」
「虎の鳴きマネでもしてみるか?」
三田村が低く喉を鳴らして笑い、しっかりと抱き締めてくれる。
「虎はなんと
言って鳴くんだ」
「猫の仲間だから――」
和彦が何を言い出すかわかったらしく、三田村に唇を塞がれる。二人は次の
瞬間には、唇と舌を貪り合っていた。
このまま冷たい床の上に倒れ込みたいところだが、約束の時間が迫っている。和彦は
最大限譲歩して、こう提案した。
「――三田村、一緒にシャワーを浴びよう」
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