この人は何者だろうかと、イスに腰掛けた圭輔(けいすけ)は、ベッドに横たわる秦静馬という男をじっと見下ろす。
妙な胸のざわつ
きを覚えるほど端麗な顔立ちをしており、それに輪をかけて、艶っぽい空気をまとっている秦だが、さすがに今は、暴行を受けた
痛々しさばかりが際立っている。
顔を殴られたせいで、唇が切れて、頬も腫れ、くすんだように顔色も悪い。ただ、見た目
に派手な顔の怪我よりも、全身打撲と折れた肋骨、ざっくりと切れた右てのひらの傷のほうが痛むだろう。
職業柄、他人が
怪我をした光景には慣れている圭輔だが、相手が秦となると話は別だ。心配で、側を離れられない。
「……怪我した〈おれ〉が、
そんなに珍しいか。――中嶋」
眠っているとばかり思った秦に突然話しかけられ、圭輔は目を見開く。すると、ゆっくりと
目を開いた秦が、唇の端をわずかに動かした。本人なりに、いつもの艶やかな笑みを浮かべたつもりのようだ。
イスから腰
を浮かせた圭輔は、秦の顔を間近から覗き込む。
「痛むなら、痛み止めを持ってきますよ。先生から、効き目が強いものを教
えてもらったんで、買い直してきたんです」
「先生、か……。言葉はきついが、優しいというか、甘いな、あの先生は」
そう呟いた秦が、今度は明らかに苦笑する。今の秦の脳裏には、極上のハンサムで、澄ました表情がよく似合う美容外科医の顔
が浮かんでいるだろう。
「ええ。だから、ヤクザなんて性質の悪いものに付け込まれる」
「それは、あの先生の性質みた
いなものだな。付け込んだはずが、いつの間にか……こちらが誘い込まれたような状態になる。その結果が、今の立場だ。チンピ
ラに毛が生えた程度のヤクザなんて、もうお近づきになれない」
話しながら秦が眉をひそめたので、圭輔は立ち上がる。
「それは、俺に対する当て擦りですか」
そう言い置いてから部屋を出ると、グラスに水を汲み、鎮痛剤を持って戻る。
秦は、ぎこちない動きで体を起こそうとしているところだった。慌てて駆け寄り、背を支えてやる。
胸が痛むのか、ようや
くベッドに座った秦は低く呻き声を洩らし、きつく目を閉じる。普段の余裕たっぷりの姿を知っているだけに、こういう秦を見る
のは、圭輔にとっては新鮮だ。
知り合ったときから秦に助けてもらってばかりだったが、初めて、その秦の役に立てている
と実感もしていた。
「――チンピラどころか、生意気なホストだったお前が、今じゃ総和会の人間なんだから、何が起こるか
わからないな」
ゆっくりと大きく息を吐き出した秦の言葉に、圭輔は我に返る。すっかり、秦が浮かべる苦痛の表情に見入
っていた。
「俺の、ヤクザとしての才能に目をつけてくれてたんじゃないですか? だから、組へ口利きをしてくれたと思っ
ていたんですが」
「お前みたいに頭が切れて、他人を見下す傾向が強い奴は、組の中でどこまでやれるか興味があったん
だ。……おれが知る限り、お前みたいなタイプは大抵、妬んだ奴に潰されていた」
ひどいな、と笑いながら、圭輔はまた考
える。
この人は何者なのだろう、と。
怪我をした秦を、昨日、自分の部屋に運び込んでから、同じ疑問がずっと頭を
駆け巡っている。秦のことをよく知っているわけではないが、暴行を受けて苦しむ秦を見つめながら、ますますこの男がわからな
くなった気がする。
秦は、今は事業家として成功しているが、その前は圭輔と同じホストクラブでホストをしていた。当時
から、華があるという以上に独特の存在感を放ち、如才なく組関係者とも渡り合っていた。その秦のおかげで圭輔は、組に〈転
職〉できたのだ。
今は、その組から送り出される形で総和会に属し、雑用のような仕事を任されている。総和会という肩書
きは特別で、圭輔のような若造でも、どの組に顔を出そうがそれなりに丁重に扱われる。
すべてが秦のおかげとは言わない
が、確実な助けとなってくれたのは事実だ。秦がいなければ、圭輔は組の下っ端として、いまだに蹴られ、殴られながら、先が見
えない生活を送っていただろう。
ほんの数年の間に、圭輔が身を置く環境は急変した。だが、秦との関係だけは変わってい
ない。
圭輔が渡した鎮痛剤を水とともに飲んだ秦が、顔をしかめながら横になる。
「秦さん、腹減ってませんか? 何
か買ってきますけど」
「まだ、しばらくいい……。おれのことは気にせず、お前は食いに行ってこい。それと、携帯を一つ貸
してくれ」
仕事上、圭輔は複数の携帯電話を持っている。その中には当然予備として契約しているだけのものがあり、一台
を貸したところで困りはしない。
頷き、すぐに携帯電話を取ってくると、秦の枕元に置いた。
「好きに使ってください」
「……悪いな」
秦は、携帯電話をすぐに使うつもりはないらしく、苦痛に眉をひそめながら目を閉じる。少しの間、秦
の顔を見下ろしていた圭輔だが、ようやく察した。自分がここにいる間、秦はどこにも電話をかけられないのだと。
自分の
店に連絡をするのなら、圭輔がいようが気にはしないだろう。だが――。
圭輔はわずかに苦い笑みを浮かべると、秦に声を
かけた。
「じゃあ、ちょっと出てきます。買い物もしてくるので、一時間ほどかかると思います」
外に出た圭輔は、し
っかりと玄関のドアに鍵をかける。秦が誰に暴行を受けたのか知らないが、用心するに越したことはない。
歩き出しながら
圭輔は、自分がプライベートで使っている携帯電話を取り出し、素早くある人物宛てのメールを打つ。送信すると、エレベーター
で一階に降りたところで、着信音が鳴った。
電話に出ると、前置きもなく問われた。
『――彼の様子は?』
極上
のハンサムである美容外科医は、患者相手には柔らかな物腰と声音を惜しまないが、それ以外の相手には案外素っ気ない。今も、
電話越しに聞く声は、どことなくひんやりとした響きを持っている。しかし、冷たいというわけではない。ヤクザ相手にしっかり
と警戒しているのだ。
彼の、こういうところは嫌いではない。圭輔は口元にちらりと笑みを浮かべる。
「たった今、鎮
痛剤を飲ませたところです。本人は口にしないですが、全身が痛んでいるようですね」
『まあ、当然だな。全身打撲に、肋骨
骨折。それに、てのひらの刃物傷だ。一晩寝て、全身の筋肉が悲鳴を上げてるだろうな。――それで、用件は?』
「秦さん、
昨日から何も食べてないんです。食欲もないみたいで。だけど、何かは胃に入れてもらわないといけないと思って。これから買い
出しに行くところです」
『ああ……。食欲が湧くまでは、ゼリータイプの栄養食でも与えておけばいい。あれなら、体を起こ
さなくても食べられるだろ。腹が減ったと言い出したら、普通食を与えてもかまわない』
つまり、お粥を作って口元まで運
んでやる甲斐甲斐しさは必要ないということだ。別に、そこまでする自分の姿を想像していたわけではないが、圭輔は少しだけ残
念な気持ちになる。
これまでさんざん秦に世話になってきたが、ようやく自分が秦の世話を焼けると、自覚もないままはり
きっていたのかもしれない。
駐車場に停めた自分の車に向かいながら、念のため圭輔は尋ねた。
「先生、他に何か気を
つけることはないですか」
『彼は、昨日からトイレに行ったか?』
思いがけない返事に、車のドアを開けようとした圭
輔は動きを止める。
「はい?」
『……内臓に異常があれば、尿に血が混じることがある。何か言ってなかったか』
「あー、いえ……。そもそも、トイレに行ったかどうかも意識してなかったんで」
『いい大人なんだから、異変があれば君に
話すだろ。さすがに内臓に何かあったら、ぼくの手にも負えない。そのときは素直に病院に行くんだな』
数秒考え込んだ圭
輔だが、気が変わってマンションに引き返す。
「俺、これから秦さんに確認してきます」
『確認って、トイレに一緒に入
る気か』
「必要があれば」
電話の向こうから返ってきたのは、呆れたようなため息だった。いろいろと圭輔に対して言
いたいことを、ため息一つで勘弁してくれたらしい。
「また聞きたいことがあれば、メールをします」
『ああ。電話でき
る状況なら、折り返し連絡する』
頼りになる美容外科医は、勝手に患者を診られる立場にはない。秦を診てもらったのも、
圭輔が情に訴え、必死に頼み込んだからなのだ。こうして連絡を取り合うのも、人目を気にして大変だろう。
「――先生、感
謝しています」
圭輔の率直な言葉に対して、嫌というほどヤクザの手口を味わっているであろう美容外科医は、こう答えた。
『ヤクザの感謝の言葉ほど、高くつくものはないな』
相手の弱みに付け込むのは、ヤクザの常套手段だ。自分もヤクザ
だからこそ、それがよくわかっている圭輔は声を洩らして笑ってしまう。相手も微かに笑った気配を感じさせてから、電話は切れ
た。
圭輔はすぐに自分の部屋へと戻る。
すでに秦は眠ったかもしれないと思い、気をつかって静かにドアを開ける。
足音を殺して部屋に近づくと、中から話し声が聞こえてくる。テレビの音かと思ったが、すぐにそれが秦の声だと気づく。圭輔が
置いていった携帯電話で、誰かと話しているようだ。
普通なら、立ち聞きはよくないと自制心が働くのだろうが、相手が秦
となると別だ。何年親しくつき合おうが、本名すらはっきりしない秦のことは、なんでも気になる。
閉まっているドアに顔
を近づけ、聞き耳を立てる。耳を澄ませた圭輔が聞いたのは、いつになく荒い口調で話す秦の言葉だ。だが、何を言っているのか
はわからない。
圭輔はそっと息を呑み、眉をひそめる。秦が話しているのは、日本語ではなかった。
「中国語……」
知り合いに中国人もいるため、まったく聞き慣れない言語ではない。だからといって聞き取れるわけではないが。
ただそ
れでも、中国語を聞いて初めて、独特のイントネーションが耳に心地いいと圭輔は思った。秦が中国語を話せるなどと初めて知っ
たが、驚くほど流暢だ。まるで、母国語のように。
素性の知れない秦にまた謎が加わったが、圭輔は冷静に受け止める。謎
すらも含めて、『秦静馬』という男を作っているのだ。その名すら、本名ではないのだろうが。
圭輔は再び足音を殺して、
玄関に向かう。部屋を出て通路を歩きながら、また考えていた。
あの人は何者なのだろう、と。
夜、ダイニングで一人静かにビールを飲みながら、圭輔の耳の奥で繰り返されるのは、昼間聞いた秦の中国語の響きだった。
中国語が話せる日本人がいたところで、何も不思議ではない。だが、秦が話していたあの言葉は、不思議という以上に、ひどく
魅力的だった。おそろしく秦に似合っている。
そもそも、秦は日本人なのだろうか。ふとそんな疑問が脳裏を過ったとき、
隣の部屋から圭輔を呼ぶ声が聞こえてきた。
部屋を覗いてみると、秦が体を起こし、うんざりとした顔をしている。
「秦
さん?」
「……起き上がるのも一苦労だ。全身がバラバラになりそうなほど痛む」
「それで、起き上がって、どうしたん
ですか」
自分たちが話しているのは日本語なのだと、当然のことを圭輔は、心の中で確認する。
秦は、自分が中国語
を話していたことを、おくびにも出さない。圭輔も、電話を立ち聞きしたとは言っていない。これまで隠していたということは、
秦にとって知られたくない事実なのだろう。余計なことを言って、秦との関係を崩したくない。
「腹が減ったんだ。悪いが、
カップラーメンでいいから、作ってくれないか」
食欲がないという秦に、昼と夕方はゼリータイプの栄養食を食べてもらっ
たが、どうやら胃が正常に動き始めたようだ。
「簡単なものでよければ、俺が作りますよ」
圭輔の言葉に、秦はニヤリ
と笑う。
「だったら、ビールもつけてくれ」
「大丈夫ですか。アルコールなんて」
「しばらく鎮痛剤を飲まなきゃ、
平気だろ」
圭輔は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、プルトップを開けて秦の元に持っていく。ぎこちなく左手で缶を受け
取った秦は、さっそく口をつけた。
「……美味い」
「おとなしく飲んでいてください。チャーハンを作ってきますから」
そう言い置いてキッチンに向かった圭輔は、冷蔵庫の残り物を掻き集め、手早く刻んでいく。
ホストになる前、短い
間だがレストランで働いていたことがあり、そこで簡単な料理の作り方を覚えたのだ。さすがに今は毎日自炊というわけにはいか
ないが、それでも気が向けば、キッチンに立つことはあった。
圭輔がフライパンを温めていると、秦が部屋から出てくる。
缶ビールをダイニングテーブルに置いてから洗面所に向かうのを見て、つい声をかけた。
「トイレに行くたびに、血尿が出て
ないかチェックしてくださいね」
秦が怪訝そうな顔をしてこちらを見たので、圭輔はニヤニヤと笑いながら説明した。
「先生がそう言ってたんですよ。内臓が傷ついてないか、確認してみろと」
「ああ。先生の命令なら、逆らえないな。――今
のところ、出血はない。ついでにおれは、顔を洗いに行くだけだ」
「風呂はしばらく入れませんよ」
「口うるさいね、お前」
冗談めかした口調で言って、秦の姿が洗面所に消える。次の瞬間、圭輔は、秦が使っている部屋に素早く行き、枕元にある
携帯電話を取り上げる。リダイヤルをチェックしたが、秦は自分の分の履歴を消していた。
さすがに抜け目ないなと、素直
に圭輔は感心する。携帯電話を元に戻してキッチンに戻ると、フライパンはちょうどよく温まっていた。
材料を炒めている
ところに秦が戻ってきて、そのままダイニングテーブルのイスに腰掛ける。
「横になってなくていいんですか」
「寝ても
起きても体が痛いなら、起きているほうがいい」
「……どういう理屈ですか、それ」
ふふ、と声を洩らして笑った秦が、
ビールを飲む。圭輔は肩をすくめると、チャーハン作りを続ける。
「中嶋、お前明日は仕事に行けよ。おれのせいで、総和会
の中でお前の立場が悪くなるのは、申し訳ない」
「――そうですね。俺の価値は、総和会にいるという一点だけですから」
思わず出た自虐的な言葉に、圭輔自身が驚いた。秦も軽く目を見開いたあと、淡く苦笑した。
「らしくないな、そういう言
い方は」
「秦さんに頼られたのは初めてで、舞い上がってるんです。……俺にも利用価値はあったんだなって、実感できたと
いうか……」
「そういうお前も、おれを利用価値があると思っているだろ。これでも一応、実業家だからな」
「普通の実
業家は、人に襲われて、そこまでボコボコにされませんよ」
お互い視線を交わし合い、性質の悪い笑みを見せる。ホストク
ラブで秦と知り合ったときから、二人のこのやり取りは変わらない。
「俺を利用したら、高くつきますよ、秦さん」
材
料とご飯を一緒に炒めながら、冗談とも本気ともつかない口調で圭輔が言うと、痛みに顔をしかめて秦は頷いた。
「それで
こそ、ヤクザだな、中嶋」
「ええ、ヤクザは怖いですよ」
多分このとき、口元では笑みを浮かべながらも、圭輔の目は
笑っていなかったはずだ。それに気づいているのかいないのか、秦はからかうように言った。
「――少なくとも、チャーハン
を作りながら言う台詞じゃないな」
「じゃあ、あとで言い直します」
秦は声を洩らして笑ったが、それが胸の傷に響い
たらしく、すぐに顔をしかめて呻く。しゃもじを動かしつつ、そんな秦を眺めて圭輔が思うのは、やはり同じことだった。
この人は何者なのだろう、と。
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