と束縛と


- Extra12 -


 イスに腰掛けた三田村は、買ったばかりのTシャツやスウェットの上下の値札を外しながら、キッチンに立つ和彦の姿を見つめる。
 和彦は、やはり買ったばかりの食器類を、丁寧に洗っているところだった。
 三田村の仕事が休みの今日、ようやく二人揃って出かけ、部屋に置いておく生活用品などを買い込んできたのだ。買い物好きの和彦は、こちらの予想以上にこの時間を楽しんでくれたようで、始終機嫌がいい。そんな和彦を見て、三田村も顔を綻ばせていた。
 この部屋で暮らすわけではなく、ほんのわずかな時間をともに過ごすだけなので、必要なものは限られる。着替えと食器、日用品に生活雑貨を少々といったところだ。
 三田村一人である程度のものを買ってはいたが、やはり和彦が欲しがるものを揃えておきたい。そういう想いもあって、今日は時間を作った。
 和彦が選んだものがこの部屋に置かれることでやっと、二人が過ごすのに相応しい空間になれるのだと、そう三田村は信じていた。
 食器を洗い終えた和彦が真新しい布巾を取り上げたところで、急に頭を左右に振る。そしてすぐに、肩の辺りに頭を擦りつけるような仕種をした。何事かと、三田村がじっと見つめていると、その視線に気づいたのか、和彦が顔を上げた。見ていたのか、と言いたげに照れたような笑みを向けられ、つられて三田村も目元を和らげる。
「どうかしたのか、先生」
「いや……、前髪が伸びて、目に入るんだ。ここのところ忙しくて、美容室に行くのを忘れてたから」
 クリニックの開業準備のため、和彦はあちこちを飛び回る一方で、書類仕事にも追われている。それでも、髪を切りに行く時間ぐらい本人が望めば融通が利くはずだが、律儀にスケジュール通りに行動しているようだ。
 立ち上がった三田村は、静かに和彦の傍らに歩み寄る。人目があるところでは考えられないが、二人きりのときだからこそ、和彦の髪にそっと触れてみた。
「気になるようなら、今から予約を入れて、俺が連れて行く――」
「これから明日までは、あんたとこの部屋で過ごす予定だ。髪なんて、わざわざ今日切りに行かなくてもいい」
 そうか、と頷いた三田村だが、和彦の髪から手を離す気になれないどころか、もっと触れたい衝動に駆られる。
 後ろ髪を撫で、うなじにもさりげなく指先を滑らせる。肩越しに振り返った和彦の眼差しは甘さを含み、強烈に三田村を惹きつける。たまらず、背後から和彦を抱き締めて、うなじに唇を押し当てていた。
 蒸し暑い外から戻ってきたばかりのため、微かに汗の匂いがするが、それすら三田村にとっては興奮を煽る媚薬となる。
「――なんだか、浮かれているみたいだ」
 和彦の言葉に、髪にも唇を押し当てながら三田村は応じる。
「何が?」
「三田村が、浮かれているみたいだと思ったんだ。いつもと変わらない、渋い無表情のように見えるけど、でも違う」
 一度動きを止めた三田村に対して、和彦は首を傾け、顔を覗き込む仕種を見せた。
「自覚がなかった、という顔だ」
「……先生はやっぱり、俺の表情を読むのが上手くなっているみたいだ」
「一緒にいるときは、真剣に見ているからな。ぼくも学習するんだ」
 和彦のさりげない言葉が、思いがけず三田村の心をくすぐる。こういうときはどんな顔をするべきなのだろうかと考えながら、和彦を抱き締める腕の力を強くする。
「先生は怖いな」
 苦笑交じりで三田村が洩らすと、和彦はこう応じた。
「だから、ぼくを怒らせるなよ」
 もちろん三田村としてはそのつもりだが、人づき合いが不器用だという自覚がある三田村としては、何かの拍子に和彦を怒らせ、傷つけるのではないかと、実は内心で恐れている。もともと、住む世界が天と地ほども違っている人だ。
「ああ……。先生を怒らせないためにも、目一杯わがままを言ってもらうと助かる。俺はあまり気が利かないからな。――先生が望むことなら、なんでも叶えてやりたい」
 三田村の腕の中でじっとしていた和彦だが、突然タオルで手を拭いたかと思うと、体を離してしまった。
「先生……?」
「さっそく、わがままを言わせてもらう。これからぼくのために、大仕事をしてほしい」
 目を丸くした三田村は、すぐに表情を和らげて頷く。
「それはかまわないが、なんだか怖いな。先生の希望通りにできればいいが」
「簡単なことだから、大丈夫」
 大仕事と言っておきながら、簡単と言い切るあたりに多少の矛盾を感じなくもないが、指摘するのは野暮だろう。三田村は、部屋を行き来して何かの準備を始めた和彦を目で追う。
 工具類をまとめて入れてある箱を引っ張り出してきたかと思うと、三田村にハサミを出すよう言って、本人はゴミ袋とスポーツ新聞を抱え、ブラシを握って持ってくる。
 スポーツ新聞を床の上に広げ、ゴミ袋をハサミで切り開くと、和彦は使ったハサミを三田村に差し出してきた。
「――三田村、前髪を切ってくれ」
 さすがに意表をつかれた三田村は、少し動揺する。あまりに意外な頼みごとだったからだ。
「俺が?」
「ぼくのわがままは聞いてくれるんだろ。自分で鏡を見て切っても、上手くできないんだ」
「いや、しかし、そんな大事なこと……」
 三田村がまごつく間にも、和彦は新聞紙の上に座り込み、ゴミ袋を自分の首に巻いている。妙に楽しげに。
 急かすように床を叩かれ、仕方なく三田村は和彦の正面に座り、ハサミを手に取る。自ら髪をブラシで梳いた和彦が、伸びた前髪の間からじっと見つめてくる。その目を見ると、やはり無理だとは言えなかった。
「……髪を少し濡らしたほうがいいじゃないか、先生」
「いい。切ったらすぐにシャワーを浴びるから。遠慮せず、ばっさりやってくれ」
 バランスの難しい前髪を切るのに無茶を言わないでくれと、内心でささやかに反論しながら三田村は、和彦の前髪に慎重にハサミを入れる。このとき和彦が目を閉じ、艶かしい表情にドキリとしてしまう。
 ナイフすら平気で握れる三田村だが、ハサミを持っている今のほうが、緊張するし、怖くもある。
 目に入らないようにと気をつけながら、少しずつ前髪を切っていく。ときおり手を止め、顔についた髪を指先で払ってやるが、その間も和彦は、無防備に目を閉じたままだ。それを見つめる三田村は、愛しいという気持ちはこうもくすぐったいものなのかと、胸の中で自問する。
 二人きりだからこそ、恥ずかしげもなくはしゃいで、こうしてママゴトのようなことをして、それが例えようもなく楽しい。
「あっ」
 予想外にざっくりと前髪を切ってしまい、思わず三田村は声を上げる。目を閉じたまま和彦が笑った。
「クールな若頭補佐がそんな声を上げるなんて、鏡を見たときが楽しみだな」
「俺としては、鏡を見た途端、先生が泣き出すんじゃないか、それが心配だ……」
「そのときは、あんたの頭を丸刈りにしてやる」
 そんな会話を交わしつつ、なんとか前髪を切り終えると、和彦が首に巻いたゴミ袋を外してやる。パッと目を開けた和彦は、意味ありげに三田村に笑いかけてくると、まっすぐバスルームに向かった。
 バスルームから悲鳴が聞こえてくるのではないかと身構えつつ、三田村は手早く後片付けをして、財布と部屋の鍵を取り上げた。
「先生、ちょっとスーパーに行ってくる。食い物と冷たい飲み物を買ってくるから」
 ドアの向こうにそう声をかけると、水音とともに、わかった、という返事がかえってきた。
 玄関を出ると、ムッとするような熱気が一気に襲いかかってきた。外からドアに鍵をかけた三田村は、念のため周囲をうかがう。
 三田村自身、仕事柄どこで敵を作っているかわからないが、それ以上に和彦は、誰から狙われるかわからない。長嶺組長の〈オンナ〉という存在は、人によってはとてつもない価値を感じるだろう。長嶺組を快く思わない人間や組織にとっては、特に。
 ただ、賢吾が和彦を自由に出歩かせるということは、差し迫ったトラブルが起きていないことを物語っている。三田村が気をつけることはあっても、ピリピリと神経を尖らせることはない。
 短く息を吐き出すと、やっと肩から力を抜く。もっと平和的なことを考えようと思って三田村の頭に浮かんだのは、部屋にはやはり、小さな冷蔵庫が必要だということだ。


 汗だくになってスーパーから戻ってきた三田村が見たのは、Tシャツにジーンズ姿でベッドに横になった和彦の姿だった。
 シャワーを浴びて出て、三田村の帰りを待っているうちに、眠くなったようだ。前日は遅くまで患者を診ていたようなので、疲れてもいるのだろう。
 エアコンもつけておらず、ほとんど風が入ってこない窓を開けただけの部屋は、外とほとんど変わらない暑さだ。三田村は買ったものをテーブルに置くと、すぐに窓を閉めてエアコンをつけた。そして、ベッドに腰掛けて和彦を見つめる。
 髪が濡れて乱れているため、前髪の具合はどうなのか確認することができない。そっと前髪を梳いてやると、前触れもなく和彦が目を開けた。
 三田村は、できる限り優しい声で問いかける。
「前髪はどうだった?」
「明日、帽子を被って美容室に行ってくる」
 なんとも答えようがなく三田村が苦笑を洩らすと、和彦はニヤリと笑った。
「冗談だ。今度から、前髪が伸びたら若頭補佐に切ってもらおう」
「……勘弁してほしいな。先生の反応が気になって、俺の心臓がどうにかなりそうだ」
「ぼくは、多少変な髪形にされたところで、怒ったりしない」
 和彦が片手を差し出してきたので、その手を取って引っ張り起こす。三田村はすかさず、和彦の髪を手櫛で丁寧に整えてやり、自分の散髪の腕前を確認する。――思ったより悪くなかった。
 このとき自分がどんな表情を浮かべたのか、三田村には自覚はなかった。ただ、三田村の顔をじっと見つめていた和彦は、どこか嬉しそうだ。
 それだけで心が蕩けそうになりながら三田村は、和彦の前髪を指で掬い上げ、顔を近づける。前髪に唇を押し当てた。
 今の和彦の体は、すべて長嶺父子のものだ。三田村はあくまでひと時、和彦の身を預かっているに過ぎない。だが、ほんのわずか――三田村が今日切った前髪の分だけ、和彦の一部が手に入ったような気がする。
 らしくない激情に駆られた男の戯言だと、他人は嗤うかもしれないが、それでも三田村はたまらなく幸せなのだ。
「――さあ、メシを食おうか、先生」
「食べたら、一緒に昼寝だ。買ってきた枕とタオルケットの使い心地を確かめたい」
 和彦のささやかなわがままに、笑って三田村は頷いた。









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