肩を揺さぶられて目を覚ましたとき、圭輔はじっとりと汗をかいていた。寝苦しいほど暑い夜――というわけではなく、厚手のトレーナーを着て、毛布を二枚重ねて包まっていても寒い。
つまり今かいているのは、冷や汗と呼ばれるものだ。
瞬きもしない圭輔を見て異変を感じたのか、腰を屈めた秦が間近に顔を寄せてきた。
「――息、してるか?」
真剣なのだろうが、妙に間が抜けているようにも思える問いかけに、やっと圭輔は顔の筋肉を動かすことができる。
「今は、してます」
「それはよかった。寝ているお前が苦しそうな声を上げて、体を強張らせていたから、びっくりしたぞ」
ああ、と声を洩らした圭輔は、多少苦労して起き上がる。ソファで身を縮めるようにして眠っていたせいで、体の節々が痛んでいた。そんな圭輔を見下ろして、秦が呆れたように言う。
「そんなところに寝ないで、ベッドで寝たらいいだろう」
圭輔は小さく笑って髪を掻き上げた。
「この部屋、ベッドは秦さんが使っている一つしかないでしょう」
「だから、一緒に寝ればいい」
さすがに返事に詰まると、秦は食えない笑みを浮かべ、圭輔の髪をくしゃくしゃと掻き乱した。
秦がキッチンのほうに行って姿が見えなくなると、圭輔は毛布に包まったままソファに座り直す。部屋の電気は消えているが、ブラインドの隙間から外の明かりが入り込むおかげで、歩き回るのに困らない程度には明るい。
秦が生活しているこの部屋は雑居ビルの最上階にあるせいで、近隣のビルのサイン広告や看板照明の明かりがよく届くのだ。部屋が真っ暗だと眠れないという秦は、この部屋との相性はいいようだ。一方の圭輔は――。
「嫌な夢でも見たか?」
姿を見せないまま、キッチンから秦が話しかけてくる。もう一度髪を掻き上げた圭輔は、大きく深呼吸をしてから応じた。
「金策に駆けずり回っている頃の自分が、夢に出てきました」
「だったら、最悪な夢だな。その頃のお前はどん底だったからな」
「ヤクザの世界の厳しさを、骨身に叩き込まれていましたよ」
仕事のミスで借金を背負い、そのうえケジメとして指を落とせと迫られた出来事は、いまだに圭輔の中でトラウマとなっている。当時は、表面上はふてぶてしく振る舞っていたが、気を抜くと足が震え、体力以上に精神力を磨耗していた。まさに、ギリギリの状態だ。
そんな圭輔に救いの手を差し伸べてくれたのが、秦だ。
あの頃の秦は、圭輔にとって頼れる先輩であり、憧れの男でもあった。秦に近づき、少しでも親しくなることに必死で、それがいつしか好意に変わり、強い執着となった。一方で、心地のいい距離感を縮めることに躊躇もしていた。
それがいまや、長嶺組が提供しているという秦の〈隠れ家〉に週に数回は転がり込み、ソファを占領しているのだ。おかげでこの部屋には、圭輔の私物が目に見えて増えていっている。足りないものといえば、ベッドぐらいだ。
部屋に戻ってきた秦からカップを受け取り、ありがたくコーヒーを一口啜る。舌先を火傷しそうなぐらい熱いコーヒーだが、たっぷり冷や汗をかいた体には、これぐらいがちょうどいい。
「……俺が起こしておいてなんですけど、もう寝てもらってかまいませんよ」
ぼそぼそと圭輔が言うと、秦は芝居がかったような艶やかな笑みを浮かべた。
「嫌な夢を見て落ち込むお前を放って、おれだけ寝られるわけがないだろう」
「そのわりには、楽しそうな顔してますね……」
「今のお前を見ていると、何年も前に、ホスト見習いで雑用ばかりしていた、顔はいいがクソ生意気なガキを思い出すんだ。おれが、笑い方から叩き込んでやった」
秦の遠慮ない物言いに、つい圭輔は苦笑を洩らす。当時の秦には、もっと自然な笑顔を作れと、何度となく頭を小突かれたのだ。おかげで圭輔は、人当たりのいい笑顔だけは立派な大人になれたのだ。
その秦の紹介でヤクザになったというのも、皮肉な話だが。
隣に腰掛けた秦が、当然のように圭輔の肩に腕を回してくる。ピクリと体を震わせた圭輔は、ぎこちなく力を抜き、秦にもたれかかった。
秦との関係は、恋人同士などと甘いものではない。だからといって、互いの肉欲を淡白に処理する相手では絶対にない。むしろ、抱える欲望も執着も強すぎて、自制を必要とするほどだ。一度繋がってしまえば、あさましい獣のように貪り合うのは目に見えている。
「意地を張らずに、この部屋にベッドを運び込め。なんなら、おれが明日にでも買って、配達してもらう――」
「長嶺組が管理するこの部屋で、総和会の人間の俺が、要注意人物のあなたと半同棲ですか」
「ドキドキするだろ?」
本気で言っているのだろうかと、圭輔は横目で秦をうかがう。表向きは複数の飲食店経営を手がける実業家だが、裏ではいくつもの組と関係を持ち、今は長嶺組を後ろ盾に動いている、実に胡散臭い人物だ。
こうして部屋に泊まり、深い仲になりつつある圭輔ですら、秦が長嶺組と組んで何をやっているか知らない。長嶺組絡みの仕事を、秦は絶対、この部屋で処理しようとはしないのだ。
「……ベッドは、まだいいです。俺が居ついて、秦さんが悪事を働けなくなっても困るでしょう」
鎌をかけてみると、秦は意味ありげな眼差しを向けてくるだけで、それについては何も答えなかった。
少し前までの圭輔なら疎外感に苛まれるところだろうが、極上のハンサムである美容外科医にいろいろとぶちまけ、妖しい関係を持つことによって、よくも悪くもふてぶてしくなってしまった。
秦と美容外科医――佐伯和彦は、ある部分がよく似ていると圭輔は思う。優しげで誠実そうに見えて、底知れない快楽主義者。だがその内面は複雑で、妙にモラリストな一面を持っている。ヤクザによく馴染む性質ながら、ヤクザではなく、また堅気でもない。
和彦は否定するかもしれないが、秦と相性はいいだろう。物騒な世界で生きる〈同志〉として。
「どうせなら、大きいベッドを一つだけ、この部屋におけばいいと思うんですよ」
「お前はセックスの最中に、暴れるタイプなのか?」
真顔で聞いてくる秦は本気で性質が悪いと思いつつ、圭輔はもう一口コーヒーを飲む。
「大人の男三人が楽しむには、それなりに大きなベッドがいいでしょう」
「――……先生、か。大胆だね、お前」
「先生と約束しているんです。俺があなたと寝るときは、先生に手を握って付き添ってもらうと」
「お前と先生が、普段どんなことを話しているのか、気になるな」
「俺としては、秦さんと先生が何を話しているのかが、気になります」
わざとらしい声を洩らした秦が、圭輔の手からカップを取り上げてコーヒーを飲む。その間も圭輔は、じっと秦の横顔を見つめて返事を待つ。
思わせぶりな手つきでカップを返してきた秦は、ヌケヌケとこう言った。
「もちろん、お前のことを」
「……俺はそんなこと言われても、照れたりしませんから」
「本当だ。なんなら先生に聞いてみろ。顔を赤くしながら、教えてくれるぞ」
「セクハラみたいなことしていると、先生の周りにいる怖い男たちに締め上げられますよ」
秦と和彦が二人きりのとき、どんな会話を交わしているか気になるのは本当だ。ただ、理性を危うくするほどの嫉妬は、どこかにいってしまった。人と肌を合わせるというのは、それだけすごい行為なのだ。
もしくは、嫉妬すら消し去ってしまうぐらい、圭輔が和彦に惹かれている証拠なのか――。
「お前も、その一人だろ」
肩を撫でながら秦に言われ、圭輔は我に返る。
「えっ?」
「先生の周りにいる怖い男たちの一人。少なくとも長嶺組長は、お前にその役目が務まると思っている。だから、長嶺組の本宅への出入りを許した。何より、先生自身と〈仲良く〉することも」
そう言う秦は秦で、長嶺組組長から何かしらの命令は受けているはずだ。ソフトな物腰と艶やかな美貌を持つ一方で、たっぷりの秘密を抱えた秦は、やはり和彦と〈仲良く〉している。
荒事向きではない秦を、あえて和彦の身近に置いておく。長嶺組長の何かしらの意図を感じ取ることができないなら、この世界で野心など抱くべきではないだろう。そして圭輔は、自分が野心家であると自負している。
コーヒーを飲み干してカップをテーブルに置くと、秦が間近から顔を覗き込んできた。
「――気は紛れたか?」
圭輔は軽く眉をひそめ、首を傾げる。
「コーヒーのことですか?」
「おれとの会話だ。……お前はもう、ガキの頃のつまらない失敗を引きずるな。したたかで食えない人間に囲まれて、上を目指せ。総和会に入ったのは、そのためだろ」
テーブルに置いたカップと秦を交互に見て、圭輔は小さく笑いかける。
「もしかして、俺の頭を小突かないで励ましてくれたのって、初めてじゃないですか?」
どうかな、と素っ気なく答えて秦が立ち上がる。ベッドに向かっていると知り、一瞬ためらいはしたものの、圭輔もあとをついていく。
「お前が出世したら、おれはお前に食わせてもらう予定だからな。メンタルケアぐらいしてやらないと」
「つまり、俺が出世しても、側にいてくれるということですね」
ベッドに上がろうとした秦が動きを止めたあと、こちらを振り返る。圭輔は素知らぬ顔をして先にベッドに入り、残っている秦のぬくもりを全身で感じる。やはり、ソファで寝るよりずっといい。
秦が隣に潜り込んできて、大きな男二人、ベッドの中で身を寄せ合う。
「……ベッドの件、考えておいてくださいね」
ひそっと圭輔が話しかけると、秦は声を洩らして笑った。
「だったら先生とおれとお前で、ベッドを選びに行くか?」
「二人揃って、本当にセクハラで締め上げられそうですね。――三田村さんは、怒らせたら怖そうだ」
「ああ……、あの人は、な」
圭輔は、外からの明かりで浮かび上がる秦の横顔を、じっと見つめる。
さきほど見た嫌な夢のことなど、もうどうでもよくなっていた。今、圭輔の胸にくすぶる不安は、秦とこの先、いつまで一緒にいられるのかということだ。
考えたくはないが、考えてしまう。だがきっと、朝にはこの不安は消え去り、いつものように総和会の人間としての一日が始まるのだ。
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