と束縛と


- Extra15 -


 駐車場から雑居ビルに駆け込んだ三田村は、ジャケットについた水滴を手で払いのける。朝から空模様は怪しかったが、とうとう我慢できなくなったようだ。
 なんとも梅雨らしい、生ぬるい雨とまとわりつくような湿気が非常に不快だが、それ以上に不快なのは、左手の甲の醜い傷跡が微かに疼くのだ。
 滑る足元に気をつけながらエレベーターに乗り込み、三階の詰め所に向かう。今日は午前中のうちに、仕上げておきたい書類があった。それを若頭に目を通してもらってから、組長である賢吾の元に向かわなければならない。おそらくそこには、和彦もいるだろう。
 和彦のことを考えた途端、傷跡の疼きがまったく気にならなくなる。代わりに、胸の奥で奇妙なざわつきを感じた。
 三田村はわずかに眉をひそめたものの、エレベーターが三階に着くまでに完璧な無表情を取り戻していた。
 玄関に足を踏み入れると、若衆がタオルを手にすっ飛んできて、大きな声で挨拶をする。差し出されたタオルを受け取り、頭を拭きながら奥の部屋へと行く。
 空いているデスクにつくと、さっそく受話器を取り上げる。現在は賢吾の側近として動くことが多い三田村だが、本来は、若頭補佐という肩書きが示す通り、あくまで若頭の下に就いて動くものなのだ。いくら賢吾に目をかけてもらっているとはいえ、いい加減な仕事をするわけにはいかない。
 縄張り内に点在している各事務所に連絡を取り、若頭のスケジュールの確認をする。細かな指示を与える一方で、自分の手帳にもメモを取る。
 電話を切るとすぐに、側に控えている組員に銀行に行くよう告げた。
「今日、明日と義理場が重なっている。若頭が参列するから、喪服の準備もしておいてくれ」
「……確か明日は、結婚披露宴の出席も……」
「そっちは、俺が祝儀を持っていく。こんな不景気な面下げて行って、相手には申し訳ないがな」
 三田村としては冗談を言ったつもりはないのだが、組員には清々しいほど思いきり笑われた。
 まず一つ仕事を片付けてから、三田村はパソコンの電源を入れる。泥臭い仕事ばかりをしていた若い頃、まさか自分が、組員たちに指示を与える立場になり、一端の会社員のようにパソコンを使って仕事をすることになるとは、考えもしなかった。自分という存在が爪弾きにされない世界に身を置けるなら、それだけでいいと思っていたのだ。
 黙々とキーを叩いていると、つけっぱなしのテレビからレポーターの声が流れてくる。興味のない三田村は内容などまったく気にかけていなかったが、若頭が姿を見せるまで暇を持て余すしかない組員たちは違うようだ。
 世間のヤクザのイメージから大きくかけ離れた、なんとものんびりとした世間話をしている。非常事態に見舞われ、ピリピリとするような緊張感に晒されるより遥かにいいことだが、だからといって緩みきっていいわけではない。
 テレビの音を少し小さくしろと言いかけた三田村は、ちょうど流れている映像に目を留めた。
「――……もう、そんな時季か……」
 テレビには、薄闇のなか乱舞している蛍が映っていた。はしゃぐ子供が危なっかしい手つきで蛍を手にのせ、目を輝かせている。三田村が子供の頃は、気温が高くなってくると近所の川でよく飛んでいたが、いつの間にか気にもかけなくなり、そうしているうちに存在そのものを見かけなくなった。
 三田村としては独り言を呟いたつもりだが、周囲にしっかりと聞こえていたようだ。
「テレビに出ているようなきれいな川じゃなくても、ここの近くを流れている川では、今週に入ってから蛍が飛び始めてますよ。まあ、目を凝らさないとわからないぐらい、数は少ないですけど」
「……全然気づかなかった」
「車で移動しているとわかりにくいですしね。俺も、たまたま気づいたんですよ」
 そうなのか、と応じて、三田村はもう一度テレビに目をやる。
 あれだけの数の蛍が飛んでいる場にいれば、さぞかし幻想的な気分に浸れるだろう。浴衣を着た恋人同士が立っていれば、絵としては完璧かもしれない。
 そんな、使い古されたようなシチュエーションを頭に思い描こうとした三田村だが、貧困な想像力では無理だった。光を発する小さな生き物を見たところで、情緒的なものに浸れる感性など持ち合わせていないと、改めて思い知らされてもいた。
 似合わないことを考えるものではないと、三田村は唇の端に一瞬微笑を刻んだあと、再びキーを叩き始めた。


 一見してわかるほど、和彦は機嫌が悪かった。正確には、気分が沈み込んでいるというべきかもしれない。
 ほんの二か月ほど前まで、表の世界で医者として恵まれた生活を送っていた和彦は、ときおりひどく塞ぎ込むことがある。そういうとき、武骨で不粋なヤクザは何もできない。下手なことをして、さらに精神的に追い込んでしまうのが怖いのだ。
 これは三田村だけではなく、長嶺組を堂々と背負っている賢吾や、その賢吾の跡継ぎである千尋も同じようだ。和彦の体が衰弱しない限り、そっとしておく。それが今のところ、最善の手のようだ。
 せめて、周囲に八つ当たりでもしてくれたら、和彦の内面がどうなっているか知ることもできるのだが――。
 ハンドルを握る三田村は、バックミラー越しに気遣う視線を後部座席に向ける。賢吾と和彦が並んで座っているが、さきほどからまったく会話を交わさない。
 ホテルのレストランで夕食を終えて帰路についているところだが、最初は賢吾もあれこれと話しかけていたが、聞いているこちらがヒヤリとするような素っ気なさで和彦が応じるため、とうとう賢吾も黙り込んでしまった。
 だからといって、決して車中の空気が険悪なわけではない。
 この二か月、こうして賢吾と和彦を後部座席に乗せて走っていると、なんとなく感じ取れるものがあった。例えば今、バックミラーには映っていないが、賢吾がしっかりと和彦の手を握っていることなどだ。
 組事務所の手前で信号待ちをしていると、前触れもなく後部座席で人が動く気配がした。三田村は反射的にバックミラーを見る。賢吾が和彦の肩を抱き寄せ、唇を塞いでいた。礼儀として、すぐに視線を逸らしたが、微かに濡れた音はしっかりと耳に届く。三田村は強くハンドルを握り締めた。
 運転に集中し、無事に組事務所の前で車を停めると、すぐに組員たちが出迎えのため外に出てくる。
 何事もなかったように賢吾は車を降り、車中には三田村と和彦の二人きりとなる。
「――……これから、まっすぐ帰るのか?」
 うんざりした声で和彦に問われ、三田村はわずかに緊張する。
「途中寄りたいところがあるなら、どこにでも行くが」
「別に……寄りたいところがあるわけじゃない。ただ、もう少し車に乗っていたいだけだ」
 三田村は意識しないまま口元を緩める。
「だったら先生の気が済むまで、適当に車を走らせよう」
「すまない」
「ただし俺は、気のきいたドライブコースなんて知らないから、本当にこの辺りを走るだけだ」
「それで十分だ」
 車を走らせるだけで和彦の気が紛れるなら、それこそ一晩中でもつき合うつもりだった。
 わずかにアクセルを踏み込みながら三田村は、どの道を走ろうかと考えていた。渋滞にはつかまりたくないので、あまり街中には近寄りたくない。だからといって暗い道をひたすら走ったところで、景色を眺めていてもおもしろくないだろう。
「……本当は、自分で運転したいんだが……」
 さりげなく和彦が洩らした言葉に、即座に応じる。
「それは諦めてくれ。事故にでも遭ったら大変だ。先生の足には、俺を含めた組員たちがなる」
「行きたいところに行けない」
「俺に言ってくれれば、どこにでも行く」
 ここで〈キレて〉くれればいいのに、と一瞬期待したが、和彦は行儀がいい。あからさまなため息をつくだけに留めてくれた。
 和彦はそのまましばらく黙り込み、それにつき合って三田村もただ車を走らせる。
 すると唐突に、和彦が声を発した。
「さっき――」
 三田村はバックミラーを一瞥する。
「さっき?」
「言っただろ。どこにでも行くと」
「可能な限り、と付け加えさせてもらっていいかな、先生」
 和彦から返ってきたのは、微かな笑い声だった。その反応にほっとして、三田村も表情を和らげる。
「どこに行きたい?」
「……午前中、テレビで観たんだ。蛍狩りの様子を」
「奇遇だな。俺もたまたま、同じ番組を観ていた」
「この辺りで、蛍が飛んでいるところなんてあるか? ぼくは、ずいぶん小さい頃に一度見たきりなんだ」
「心当たりはある」
 そう答えた三田村は車線変更した。


 住宅街の中を窮屈そうに流れている川沿いに車を走らせ、ようやく蛍が居そうな場所に目星をつけた。
 脇道に車を停めて、川にかかる小さな橋の上から蛍を捜すことにする。
 橋の手すりから身を乗り出している和彦を気にかけつつ、三田村は周囲の様子をうかがう。誰も、こんな場所で飛んでいる蛍になど関心はないらしく、周囲に人の姿はない。街灯もないため、夜は避けたい場所だろう。
 辺りが薄暗いからこそ、蛍のほのかな光を見つけられたのだから、これは感謝すべき環境なのかもしれない。
 梅雨らしい湿気を含んだ風が吹き、首筋を撫でる。べたついて不快な風だが、さすがに昼間よりは涼しい。
「――いた」
 背の高い草の合間をじっと見つめていた和彦が、声を洩らす。このとき、本人に自覚はないのか、三田村の腕に手をかけていた。その感触に三田村は内心で動揺し、体を強張らせる。すると和彦が、パッとこちらを見た。
 普段、底冷えするような静けさを湛えた和彦の目が、今は子供のように活き活きとしている。蛍よりも珍しいものを見られたかもしれないと思った次の瞬間、三田村はつい笑みをこぼしていた。
 和彦が不機嫌そうに眉をひそめる。
「なんだ。人の顔を見て笑ったりして」
「いや……。こんなに喜んでくれるとは思っていなかったから、つい」
「ぼくとしては、まさかヤクザと並んで蛍を見ることになるとは思わなかった。――この状況は、おもしろいと思わないか?」
 和彦から向けられる挑発的な眼差しは、三田村にとっては蛍の発する光よりよほど魅力的だった。心が、引き寄せられる。
「……俺みたいな朴念仁には、蛍の光がきれいだと感じるのが精一杯だ。先生が何を感じて、おもしろいと言っているのかは、よくわからない」
 和彦は、しっかりと三田村の腕を掴んできた。
「そうか。三田村さんは、蛍の光をきれいだと感じるんだな。正直ぼくは……よくわからない。でも、きれいだと感じるのが普通なんだろうな」
 複雑な人だなと、率直に三田村は思った。
 恵まれた容貌を持ち、裕福な家庭で育ち、さらには立派な職業に就いて順調な人生を歩んできたはずの和彦だが、どうしてこんな複雑な内面を持つ必要があったのか、三田村には想像もつかない。
 ただ、和彦の持つ複雑さと繊細さを知れば知るほど、放っておけなくなる。
 和彦が喜ぶなら、すぐに弱って死んでしまう蛍を、何匹だろうが捕ってきてやろうと思うほどに。
 そんな三田村の心の内を読んだわけではないだろうが、笑いながら和彦は言った。
「蛍は、こうして眺めるに限るな。――きれいだから」
 三田村は、和彦の肩を抱き寄せたい衝動を必死に抑えた。









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