佐伯の姿がエントランスに入って見えなくなるのを確認してから、鷹津は素早く周囲へと視線を向ける。こちらに対する合図のつもりか、マンションからやや離れた場所に停まっている車が、ライトを二回点滅させた。
マンション前に車を停めたときから、こちらを見張っている存在には気づいていた。もちろんそれが、長嶺組が佐伯につけている護衛だということも。蛇のような男は、自分の〈オンナ〉を見守ると同時に、鷹津を威嚇しているつもりなのだ。
胸糞の悪さを覚えた鷹津は、すぐに自分の車に戻ってその場を去る。
だが、マンションから数分ほど車を走らせたところで、二十四時間営業のファミリーレストランの駐車場に入った。
携帯電話を取り出すと、ある人物にかける。堅気の人間なら、とっくに寝入っていても不思議ではない時間だが、そんな心配をするまでもなく、三回目のコール音が鳴る前に相手は出た。
「――俺だ。ちょっと頼みたい仕事がある」
挨拶も前置きもなく切り出すと、相手は気を悪くした様子もなく応じた。
『久しぶりだな。あんたからこうして連絡をもらうのは。交番から、県警本部勤務に戻ったと聞いてはいたから、しばらくはおとなしくしていると思ったが……』
「おとなしく、まじめな刑事として仕事している」
鷹津の言葉を額面通りに受け止めていないのか、電話の向こうから意味ありげな笑い声が聞こえてきた。
『そんな刑事が、俺に何を頼みたいんだ』
電話の相手は、鷹津と昔馴染みの調査事務所の所長だ。表向きは浮気調査を専門としており、荒っぽい仕事とは無縁なところだ。
しかし、ときには厄介事に巻き込まれることもあり、いくらか金を掴まされた鷹津が、警察手帳をちらつかせて問題解決に乗り出すこともあった。一方で、鷹津が調査を依頼することもあり、いわゆる持ちつ持たれつの関係だ。
「今から言う男の、身辺調査だ。真っ当な勤め人だから、一日の行動も把握しやすいはずだ。尾行をして、どこに住んでいるかも調べてほしい」
話しながら鷹津は、ポケットに入れたペーパーナプキンを取り出す。医者らしい、というべきか、読めないことはないが癖のある字が並んでいる。この字を書くのに、佐伯はどんな気持ちを込めていたのかと考えると、微かな苛立ちを覚える。
「数日ほど行動を追ってくれたら、あとは俺がやる。それと、顔がはっきりわかるような写真も撮っておいてくれ」
『と、いうことは、あんたも顔を知らないのか』
「ああ。本当は俺が頼まれた仕事だが、その前にまず下調べをしておきたくてな」
『……また、ヤクザ連中とつるんでいるじゃないだろうな、鷹津さん』
つき合いが長いとはいえ、信頼関係で結ばれているとも言いがたい相手だ。迂闊になんでも打ち明けられるわけもなく、鷹津は唇に皮肉げな笑みを刻んでいた。
「ある意味、ヤクザより厄介な奴からの頼みだ。俺は、そいつから頼みごとをされると断れない」
ああ、と納得したように相手は声を洩らした。
『その口ぶりだと、〈女〉か』
「まあ、そんなところだ……」
鷹津は、ほんの数十分ほど前まで抱いていた佐伯の姿を脳裏に描く。滅多にいないような色男で、一見して優しげな風情を漂わせているが、中身はしたたかで、どんな女よりも多淫だ。厄介な性質を、清潔感のある青年医師という仮面で隠しているのだ。
表の世界ではそれでも無難に過ごせていたのだろうが、ヤクザに目をつけられ、裏の世界に引きずり込まれた時点で、素を晒すしかなくなった。
そんな佐伯は、物騒な男たちを惹きつける。ヤクザどころか、難ありの刑事まで――。
「自分を口説きたかったら、自分のために働いて尽くせと言うような、怖い〈オンナ〉だ……」
『あんたがそこまで言うんなら、よっぽどいい女みたいだな』
「……さあ、どうだろうな」
思わず鷹津が浮かべたのは、苦い笑みだった。
浮気調査を専門にしているのには、相応の理由がある。
レポート用紙数枚にまとめられた調査結果に改めて目を通しながら、調査事務所の仕事ぶりに鷹津は素直に感心していた。そもそも仕事ができない相手なら、こうもつき合いが続くはずがないのだ。
張り込みと尾行を得意としている、という宣伝文句は、決して大げさではない。引退した刑事を何人か雇っているのも、調査員たちに技術的な指導をするためだ。
ちなみに、一度は刑事をクビになりかけた鷹津だが、調査事務所の所長から勧誘されたことはない。長年、暴力団組織を相手にしてきた刑事は独特の空気を放ち、堅気の人間に紛れての尾行には向かないのだそうだ。
あまり腹の足しにならないサンドイッチを口に押し込み、缶コーヒーを飲み干して、味気ない昼メシは終わりだ。早めの昼休みをとると言って本部を抜けてきたので、のんびりとはできないのだ。
レポート用紙を助手席のシートに放り出し、鷹津は車を移動させる。
車の出入りが激しいコンビニの駐車場から、ある大きなビルの正面玄関がよく見える車道脇へと場所を移し、一旦車のエンジンを切る。途端に、外の冷たい空気がじわじわと車内へと侵入してきた。
寒い思いをして、忙しい刑事が平日の昼間から何をしているのか――。
自分の行動を振り返り、鷹津は皮肉っぽく唇を歪める。割りに合うか合わないかと自問すれば、迷うことなく、十分な見返りはあると即答できた。
性質の悪いオンナを思う存分抱き、遠慮ない憎まれ口を叩かれるのだ。それだけで、彩りも潤いもない鷹津の生活はマシになってくる。
だからこそ、その性質の悪いオンナ――佐伯が気にかけている男の存在は、目障りだった。もっと率直に言うなら、胸糞が悪い。
佐伯から聞かされた〈初めての男〉の話は、鮮烈だった。ひどく興奮したと同時に、どす黒い感情に胸を突き破られそうだった。そして、そういった感情に翻弄される自分が、新鮮でもあった。
佐伯の頼み事を素直に聞く気になったのは、鷹津自身、興味があったからだ。
高校生だった佐伯を最初に抱いた、里見という男に。
十二時となり、各ビルからどっと人が出てくる。目的の人物の姿を見逃すまいと、瞬きすら忘れて目を凝らす。そんな鷹津の視界に、一人の男の姿が飛び込んできた。
ビジネス街の中にあって、スーツ姿の男など掃いて捨てるほどいるが、その男は、嫌になるほど鷹津の目を惹いた。あらかじめ写真で顔を把握していたというのもあるが、それだけが理由ではない。
「――……なるほど、この男が……」
ビルから出てきた男を里見と確信して、無意識に鷹津は呟く。
里見は、どこか学者然とした雰囲気が漂っている男だった。気難しげというわけではなく、見るからに知的だ。顔立ちそのものも悪くなく、同僚らしい男と話す口元には穏やかな笑みが浮かんでおり、それが里見をより紳士的に見せている。
身長は高めで、スーツの上からでもわかるが、不摂生とは無縁そうな体つきをしている。四十二歳としては、十分すぎるほど魅力的な外見の持ち主だ。
だが、と鷹津は心の中で付け加える。
年齢が近い男に対して僻んでいるわけではなく、刑事の勘として、鷹津は里見に何か得体の知れないものを感じていた。
佐伯も言っていたが、里見はしたたかに官僚の世界で生きてきて、実力者である佐伯の父親からも目をかけられている人物だ。ただ有能というだけではないだろう。
なんといっても、あんな性質の悪い〈オンナ〉の素地を作った男だ。
このとき鷹津は、組み敷いた佐伯の体の感触を思い出していた。掠れた悦びの声が耳元に蘇り、ゾクゾクするような欲望の疼きを覚える。今の佐伯とのセックスがいかに最高か、里見は知らないのだ。そう考えると、食べたばかりの昼メシを押し上げてくる胸の悪さが、少しだけ紛れるようだ。
里見が車の横を通り過ぎると、後ろ姿をバックミラーで見送る。調査事務所である程度のことは調べさせたが、今日からは鷹津自身が動いて、より詳細な里見の行動パターンなどを把握するつもりだ。
里見の存在を知らされたことで、鷹津は佐伯に対して切り札を握った。長嶺も知らない、佐伯の秘密だ。その秘密をたっぷり愛でたい心境だが、やはりどうしても、里見の存在は気に障る。
こういう気持ちをなんというか鷹津は知っているが、認めるわけにはいかなかった。まるでガキだと、自分自身に唾棄したい気持ちになるからだ。
それでも鷹津は、つい口元を緩めていた。もし里見の弱みや汚い部分を調べ上げ、それを佐伯に報告したとき、どんな顔をするだろうかと想像すると、加虐的な興奮が湧き起こるのだ。きつい眼差しで鷹津を見据えてくるか、それとも取り澄ました表情を崩さないか――。
佐伯のことを考えていると、それだけで鷹津は楽しい。自分の薄汚れた刑事生活が、とてつもなく価値あるもののように思えてくる。
だからこそ認めざるをえない。
性質の悪い〈オンナ〉に、自分は心底ハマってしまったのだと。
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