と束縛と


- Extra17 -


 玄関のドアを静かに開けた久保(くぼ)は、三和土に並ぶ靴が一足だけなのを確認して、安堵のため息を洩らす。つまり今、部屋には〈先生〉しかいないということだ。
「――失礼します」
 小声で挨拶をしてから、慎重にドアを閉める。久保は靴を脱ぐと、まっすぐダイニングに向かい、テーブルの上にピクニックバスケットを置いた。
 長嶺組組員として盃をもらっている男が、いかにも少女趣味なフリルがついた籐のバスケットを持つことに、仕事とはいえ最初は抵抗があったのだ。しかし、雛鳥のもとにせっせと餌を運ぶ親鳥のようだと一度思ってしまうと、あとはもう、恥ずかしいという意識は消えてしまった。
 久保は、何より先にエアコンを入れて部屋を暖め始めると、バスケットの中から保温容器を次々に取り出していく。長嶺組本宅の台所を仕切っている笠野が作った朝食が、容器には収まっている。
 この部屋の住人である先生――佐伯和彦という人は、美味いものは好きだが、自分から積極的に食べようという気概には著しく欠けている。誰かが店に連れて行くか、目の前に並べてやらないと、毎日ファミレスで食事を済ませても平気な人だ。
 雛鳥に餌を運ぶ親鳥の心境を誰よりも味わっているのは、間違いなく笠野だろう。久保は、その笠野の下について、本宅での雑用を覚えている最中だ。和彦のもとに食事を運び、部屋を掃除するのも、久保にとっては大事な仕事だった。
 もっとも、和彦は基本的に、自分のことは自分でこなしてしまう。十年以上も一人暮らしをしている男はこれぐらい出来て当然だと、しきりに感心する久保に対して、和彦はやや呆れた様子で言っていた。
 とにかく、手がかからない人なのだ。男の身でありながら、組長の〈オンナ〉ということで、どれだけ高飛車でクセのある人物なのかと身構えていたのも、今となっては懐かしい。
 このマンションに引っ越してきた当初は、他人に世話をしてもらうのは申し訳ないからと、組員の手伝いを断っていたぐらいだ。朝食に関しても、適当に外で食べると言い張る和彦に折れてもらい、こうして届けている。
 先生一人の体ではないから、と久保が言ったときの、和彦の複雑そうな表情の意味がいまだにわからないが――。
 目覚まし時計が鳴るまでまだ少し時間があるため、その間に久保は細々とした用事を片付けることにした。
 まずは冷蔵庫の中を覗き、補充しておくものをチェックする。和彦が料理をすることはまずないので、飲み物が主になる。牛乳にオレンジジュース、アルコール類を各種、といった具合だ。次に、日用品のストックも確認しておく。細かな雑事で和彦を煩わせるなと、笠野から厳命を受けている。久保は、和彦が快適に暮らせるよう細心の注意を払っていた。
 上からの命令というだけなら、体を義務的に動かすことは簡単だ。しかし、朝早くからこうして張り切って働いているのは――やはり、和彦がいい人だと思うからだ。何より、長嶺組にとって大事な人だ。
 ダイニングに戻り、買ってくるものをメモに書き留めたところで、目覚まし時計の鳴る音が微かに聞こえてくる。数分ほどして、パジャマの上から大きめのカーディガンを羽織った和彦が姿を見せた。
「おはようございます、先生」
「おはよう……、久保くん」
 まだ目が覚めていないのか、和彦はふらふらとした足取りで顔を洗いに行き、その間に久保は、朝食の準備を調える。とはいっても、保温容器から食器に移しかえるだけだ。
 ダイニングに戻ってきた和彦がテーブルにつくと、タイミングよく朝食を並べる。味噌汁の入った椀を手に取り、和彦が表情を和らげたのを確認してから、久保は寝室へと向かう。
 シーツを剥ぎ取って、イスにかけてあるワイシャツやスウェットの上下もまとめて洗面室へと持っていき、洗濯するものと、クリーニングに出すものを分ける。マンションからの帰りにクリーニングを出しておけば、今晩には仕上がったものを引き取れる。
 洗濯機のスイッチを入れた久保は、すぐに風呂とトイレの掃除に取り掛かった。


 手を洗って久保がダイニングに顔を出すと、テーブルの上はすでに片付いていた。朝食を終えた和彦がキッチンに立っており、すでに洗い物も済ませている。こういうところは、さすがに久保より手際がいい。
「先生、すみません。あとは俺が――」
「いいよ。あとはもう、コーヒーを淹れるだけだから」
 そう言った和彦の手元には、カップが二つあった。朝、時間に余裕がある日は、和彦は久保の分までコーヒーを淹れてくれるのだ。
 二十歳そこそこのチンピラ上がりの若造のために、組長の大事な存在というだけでなく、社会的に見てエリートでもある人が何かをしてくれるというのは、純粋に嬉しいものだ。それに久保は、和彦が慣れた手つきでコーヒーを淹れる姿を眺めるのが好きだった。
 いつものように和彦が棚からコーヒー豆を取り出そうとしたので、我に返った久保は慌ててバスケットからあるものを取り出した。
「先生っ、今日はこの豆を使ってみませんか?」
 目を丸くした和彦に、コーヒー豆の入った袋を差し出す。
「……これ、買ってきたのか?」
「すみません。味はよくわからないけど、自分でも買ってみたくなって……」
「別に謝らなくてもいいよ。ぼくはいつも決まった豆しか買わないから、たまには違う豆を使ってみるのも楽しいし」
 和彦は袋を開けると、中の香りを嗅いでから顔を綻ばせる。その表情を見てほっとした久保は、イスに腰掛ける。和彦がコーヒーを淹れている間、久保はすることがないのだ。
「俺、ちょっと憧れているんです。コーヒーの味がわかる大人に。まあ今は、先生のところできちんとしたコーヒーを飲ませてもらう以外、缶コーヒーかインスタントばかりなんですが」
「ぼくなんかが淹れるコーヒーで、『きちんとしたコーヒー』なんて言ってもらうと、なんだか申し訳ないな。誰かに淹れ方を習ったわけでもないし、美味しいコーヒーを飲むために通う店があるわけでもないから」
 久保がどんな取り留めのないことを話そうが、和彦は否定しないし、無視もしない。きちんと会話として受け止めてくれる。
「だから正直、人にコーヒーを淹れるのは苦手だ。自分ではそこそこ美味しいと思っているのに、相手に不味いと言われたら――と身構える」
「でも、俺には……」
「久保くんは、初めてコーヒーを淹れてやったら、嬉しそうに飲んでただろ。この子は文句言わないなと確信したんだ」
『この子』という呼ばれ方は、なんだかくすぐったいし、気恥ずかしい。だが、嫌ではなかった。組に入って一年以上経つのに、ハウスキーパーのような仕事ばかりを任されて嫌気がさすこともあるが、それでも久保は、和彦の世話で手を抜いたことはない。
 その理由は、実に単純だ。生意気なようだが、和彦が気に入っているからだ。
 それに和彦のおかげで、思いがけない人から、思いがけない仕事を頼まれた。
 昨夜の出来事を思い返し、久保はつい口元を緩めていた。


 出勤する和彦を見送った久保は、遅めの朝食をとるため一旦本宅へと戻ってくる。
 冬を迎えてすっかり彩りが寂しくなった中庭を眺めつつ、詰め所に向かっていると、廊下の向こうからやってくる人影がある。次の瞬間には久保は、廊下の隅に身を寄せ、深々と頭を下げた。
「――おはようございますっ、組長」
 久保の挨拶を受け、聞き惚れるようなバリトンの声が返ってきた。
「おう。先生のところに行ってきたか?」
 遠慮がちに顔を上げると、組長が軽くあごをしゃくる。久保は素早く姿勢をただし、直立不動となる。若い組員たちは、組長と相対して会話を交わす機会は滅多にない。同じ屋根の下で生活していようが、まるで意識されていないと思っていい。
 だが、和彦の世話をしている組員については、少し状況は変わってくる――ということを、最近久保は知った。
 緊張のあまり顔が強張る久保に対して、組長はニヤリと笑いかけてくる。
「〈あれ〉は、渡したか?」
「はい。組長のご指示通り、わたしが買ったものだと言って、先生にお渡ししました」
「それで?」
 久保はゴクリと喉を鳴らし、必死に言葉を考える。組長を相手に無礼なことを言ってはいけないと、考えれば考えるほど、頭の中が真っ白になっていくようだ。
 そんな久保の様子に気づいたのか、組長は軽く肩を叩いてきた。
「しっかりしろ。――先生は、今朝はコーヒーを淹れてくれたのか?」
「は、はいっ。組長からお預かりした豆で、淹れていただきました」
 慣れない敬語に危うく舌を噛みそうになる。そんな久保の報告を受け、組長はしたり顔で頷くと、こう問いかけてきた。
「美味かったか?」
 思いがけない質問に戸惑いながらも、久保は正直に答える。
「……美味かった、です。コーヒーの味はよくわからないので、俺の感想なんてアテにならないかもしれませんが……」
「そうか? 笠野は、お前は意外にまともな味覚をしていると言っていたぞ」
 一瞬気が緩み、満面の笑みを浮かべかけた久保だが、すぐに表情を引き締める。どうしても、組長に聞いておきたいことがあった。
「組長、お聞きしてもよろしいですか」
「お前に、先生へのコーヒー豆をことづけた理由、か?」
「はい……」
 スラックスのポケットに手を突っ込んだ組長は、どこか楽しげな表情で中庭に視線を向ける。気候が穏やかな間、本宅を訪れた和彦はよく中庭に出ては、のんびりとお茶を飲んでいた。そんな和彦を、組長が今のような表情を浮かべて眺めていたことを、久保は知っている。
「小難しい理由はない。先生はごくたまに、気が向いたときだけ俺にコーヒーを淹れてくれる。それが美味くてな。だから欲が出て、俺が気に入っている豆で淹れて欲しいと思ったんだ」
「……組長が直接おっしゃれば、先生は淹れてくれるのでは――」
「あの先生は俺に対しては素っ気ないが、どうしてだか、俺の組の組員たちには、優しいんだ。俺が、この豆でコーヒーを淹れろと言ったら、露骨に嫌そうな顔をするのは目に見えている。だけどお前が頼んだら……素直に淹れてくれただろ?」
 まさにその通りだったので、久保は頷く。
 組長ほどの人でも、あの優しげな先生を相手に駆け引きをする必要があるらしい。
 久保は、今朝和彦から聞かされた話をしたい衝動に駆られたが、大人の男同士――ヤクザの組長と医者との駆け引きに不粋なマネはしてはいけないと考え直す。
「俺が部屋に行ったとき、先生は新しい豆でコーヒーを淹れてくれるかどうか、今から楽しみだ」
 そう洩らした組長は、もう一度久保の肩を軽く叩いて、何事もなかったように立ち去る。
 久保は広い背を見送りながら、漠然とこんなことを考えていた。
 笠野から、料理を教わってみようかと。単純かもしれないが、味のわかる大人になりたくなったのだ。









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