ガードレールに浅く腰掛けた圭輔は、目の前を通りすぎるカップルを一瞥して、向かいの建物を見上げる。
小ぎれいな裏通りは、いわゆるホテル街と呼ばれる一角で、景観もへったくれもない、目立てば勝ちといわんばかりの建物が並んでいる。さらに派手なネオンが輝いており、裏通りはさまざまな色彩で照らされている。
目的がはっきりしている場所ともいえるので、独特の雰囲気が漂っているのだが、吸い込まれるように建物に入っていくカップルたちは平然としたものだ。むしろ、そんなカップルたちを眺めている圭輔のほうが、あれこれと考えて複雑な心境に陥っているかもしれない。
「寒っ……」
白い息を吐き出して呟くと、ブルッと大きく身震いする。二月中旬ということもあり、寒さは厳しい。ダウンジャケットのポケットに突っ込んであるカイロがささやかな温もりを伝えてくるが、冷えきった体には物足りない。
せめて熱い缶コーヒーでも買ってこようと、普段であれば行動に移すところだが、実は今、圭輔は気の抜けない仕事の最中だった。
指先でカイロをまさぐっていると、反対側のポケットの中で携帯電話が震える。素早く電話に出ると、〈仲間〉が短く告げた。
『これから捕獲に入る。中嶋、変わったことはないか?』
「平和なもんです――と、いつもよりは盛り上がってますか」
『ああ……、今日はバレンタインだったな。俺たちには関係ない話だが』
短いやり取りの間、電話を通して伝わってくるのは、殺伐とした空気だ。
『数分のうちに片をつける。終わり次第、また連絡する』
電話が切れると、圭輔は慎重に辺りをうかがいつつ、携帯電話をポケットに仕舞う。
平和なカップルたちは気配すら感じ取れないだろうが、このホテル街のある場所では現在、捕り物が行われている。ただし、捕らえるほうも捕らわれるほうも、ヤクザだ。
総和会第二遊撃隊はその名の通り、状況に応じてどんな仕事でもこなす。幹部会のための情報収集が主となっているが、総和会会長のために〈猟犬〉となることもある。今夜の仕事はまさにそれだった。
総和会に名を連ねているある組から不義理者が出たのだが、権力抗争の火種となりうる状況から、処断は総和会へと一任された。つまり、組の中で禍根を残さぬよう、総和会が憎まれ役を引き受けたのだ。逃げた不義理者は所在を点々としていたが、とうとう居場所を突き止めて、今夜、身柄を確保することになった。
愛人の元に転がり込んでいたようだが、よりによってバレンタインの日に永遠の別れを迎えるというのも、皮肉な話だ。
圭輔はそんなことを考えながら、新たにやってきた、場の空気に気後れした様子の若いカップルを眺める。このまま裏通りを抜けていくかと思われたが、ぎこちなく建物に入っていった。明らかに慣れていない姿が微笑ましい。
五分ほどしてまた携帯電話が鳴る。一方的に告げられた用件は短かった。
『終了した。撤収しろ』
返事をする間もなく電話は切られ、圭輔はようやくガードレールから離れる。
幹部の危機を嗅ぎつけて、組の人間が駆けつける恐れがあったため、ずっと見張りとしてこの場にいたのだが、どうやら杞憂で済んだようだ。一人、二人相手なら体を張れる度胸はあるつもりだが、さすがに集団相手だと分が悪い。圭輔なりに緊張して、裏通りを観察していたのだ。最後はほとんど、カップルばかり眺めていた気もするが。
強張った肩を片手で揉みながら、あくまで自然な素振りで歩き出す。これで圭輔の今日の仕事は終わりだが、一度事務所に顔を出し、仕事の報告をしなければならない。
同じ隊でも、荒事に慣れた者たちは、これからが仕事の本番だ。
確保した不義理者を、総和会らしく処断する仕事だ。実際何が行われるのか、新入りである圭輔は知らないし、知ろうとも思わない。時期がくれば、血の匂いが染み込むほどこなすことになるはずだ。
裏通りを抜け、コインパーキングへと向かう。すでにそこには隊の人間数人がたむろしており、その中心に、一際目を引く偉丈夫の姿がある。第二遊撃隊を率いる南郷だ。
南郷は、ヤクザとしてのカリスマ性に溢れている。華があるのだ。ただしそれは、凶暴性を秘めた外見や、粗暴なヤクザらしい言動に裏づけされたものだ。つまり、ヤクザらしいヤクザだということだ。
圭輔はそんな南郷が怖いというより――苦手だった。
圭輔に気づいた南郷が、唇をめくり上げるようにして凄みのある笑みを見せる。そして、こんな言葉をかけてきた。
「――よお、色男。せっかくのバレンタインだってのに、冴えない仕事で潰れたな」
元ホストという経歴は、この世界では悪目立ちする。ホストとは名ばかりで、女のヒモをしていたような男はいくらでもいるが、圭輔はいまだに外見はヤクザらしくなく、どう見てもホストと名乗ったほうが通りはよい。そのため仲間内でもよく揶揄されるのだ。特に南郷の場合、顔を合わせればこの調子だ。
「お疲れ様です……」
圭輔は表情を変えずに頭を下げ、まず思ったのは、やはり現場に出向いてきたのか、ということだった。
総和会会長のお気に入りであり、実は隠し子ではないかという噂まである南郷は、幹部会の人間ほどではないにしても、ある程度の規模を持つ派閥を形勢しつつある。そういう人間は必然的に、物騒な現場に足を運ばなくなるものだ。
だが、まだ四十歳になっていない南郷は、血が騒ぐようだ。少しは立場を考えてくれという周囲の意見に耳も貸さず、荒々しい気配を振りまきながら、第二遊撃隊の先頭に立っている。
今夜もこれから、不義理者の処分に最後まで立ち合うつもりらしい。隊の人間に促され、悠然とした態度で車の後部座席に乗り込もうとする。すると南郷は再び圭輔を見て、やけにしみじみとした口調で洩らした。
「バレンタインか」
南郷の口から出るには、やはり不似合いすぎる言葉だ。一体何事かと思った圭輔に、南郷は思いがけない話題を振ってきた。
「お前と仲のいい先生、熱を出して寝込んだそうだ」
「……先生って、佐伯先生のことですか?」
「せっかくのバレンタインで、罪作りな色男の本領発揮ってところだろうに、ツイてねーな。あの先生は。もっとも、ツイてねーから、ヤクザに目をつけられたんだろうがな」
圭輔が何も言えないでいると、南郷は意味ありげな一瞥を寄越してから、次の瞬間には圭輔に興味を失ったように車に乗り込む。
単なる世間話、ということはないだろう。なんらかの意図があって南郷は、圭輔と〈仲のいい〉和彦の話題を持ち出してきたのだ。もしかすると、圭輔と和彦の特殊な関係を把握しているのかもしれない。
体は冷え切っているというのに、じっとりと嫌な汗で滲んでくる。
南郷を乗せた車が走り去るのを見送ってから、ぎこちなく息を吐き出した圭輔は、もう一台の車の運転席に回り込む。
ドアを開けたところで、ふとあることに思い至った。
長嶺組との連絡役は、現在圭輔が担当している。よほどの重大事でない限り、まず圭輔の元に長嶺組から連絡が入り、必要があれば長嶺組の本宅や事務所に出向くことになっている。何より、和彦に何かあれば、長嶺組のほうが気を回し、圭輔に〈個人的〉に知らせてくれるのだ。
それなのに今回、和彦が体調を崩したという連絡が、なぜか先に南郷に入った。
なぜ、と圭輔は考える。南郷が、和彦の体調について知る必要があるのだろうか、と。
「おい、中嶋、早く帰るぞ」
声をかけられ、我に返った圭輔は慌てて運転席に乗り込んだ。
日付が変わる前に詰め所を出た圭輔は、身を切るような寒さに首をすくめる。少し離れた場所にある駐車場へと向かいながら、どうやって夜を過ごそうかと考える。
せっかくのバレンタインに、まっすぐ部屋に帰って寝るだけなのも味気ない。明日は、昼から事務所に顔を出せばいいことになっているのだ。
圭輔はわずかに唇を緩めると、ポケットから携帯電話を取り出す。この時間、電話をかけられる相手は限られている。
登録してある番号にさっそくかけると、長い呼出し音のあと、やっと相手は出た。
『――仕事は終わったのか』
秦の優雅な声とともに聞こえてきたのは、深夜とは思えないにぎやかな歓声だった。
「盛り上がってますね。というか、店に出ているんですか?」
『稼ぎ時だからな』
一瞬、秦の言葉の意味が理解できなかった圭輔だが、すぐに理由に思い当たる。
「ああ……、バレンタインですか」
『なんだ。わかっていてかけてきたんじゃないのか。だとしたら、お前のホストの感覚もすっかり鈍ったな』
「……俺が今、ヤクザだってこと、忘れてませんか」
『お前なら、すぐにでもホストに復帰できるぞ』
冗談とも本気ともつかないことを言って、秦が機嫌よさそうに笑い声を上げる。その声を聞いていると、圭輔は少しだけ、ホスト時代が恋しくなる。だがそれも、わずかな間だ。
仕事を終えてから圭輔の頭の中ではずっと、南郷と和彦の顔がちらついている。この二人の間には、一体どんな関係が築かれたのか、もしくは築かれつつあるのか、ついあれこれと推測してしまう。野心家を自負している圭輔の性といってもいいかもしれない。
『それで、どうかしたのか。用があってかけてきたんだろ』
「用というほどじゃ……。ただ、一緒に飲めないかなと思っただけなんですけど、秦さん自ら店に出ているようじゃ、無理みたいですね」
そう言いながら圭輔は、秦から欲しい返事を引き出そうとしている自分のズルさ――というより、甘えを自覚していた。もちろん秦は、そんなことは見抜いている。
『本店のほうに来い。店を閉めるまで、オフィスにいればいい。そのあと、二人で飲もう』
「いいんですか?」
『山のようにチョコレートをもらったから、お前にもお裾分けしてやる』
圭輔は小さく笑い声を洩らして応じた。
「すぐに行きます」
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