なんとなく起き上がる気力が湧かず、和彦は大きなベッドに横になったまま、窓の向こうに投げ遣りな視線を向ける。
けぶる景色というのだろう。大降りの雨によって、見慣れつつある眺望はベールがかかったように霞み、今が朝だという感覚さえ狂わせてしまう。
もっとも、囲われの身である和彦には、朝だからといって慌ただしく出勤の準備をする必要もなく、ただ憂鬱な気分と、厭世感をたっぷり味わうぐらいしか、やることはない。すでに朝食の準備はできているのだろうが、食欲もなかった。
本格的な梅雨の時期となり、ここ数日、ずっと雨が続いている。気温も湿度も高く、ひとたび一歩外に出ると、不快さを引きずりながら動くことになる。
クリニックに勤めている頃は、どんな天気であろうが関係なく、時間となれば準備を整え、出勤していたのだが、そのクリニックを辞め、さらにこのマンションに移ってからは、和彦はそういう義務と完全に切り離された。
ただ、たった一人の男の都合によって振り回される生活だ。
おかげで和彦の精神状態は、健全とは言いがたい。何かのスイッチが切り替わるように、突然気分が塞ぎ込むのだ。そして今が、その状態だった。多分。
今日は誰とも会いたくないし、話もしたくない――。
ぼんやりとそんなことを考えながら、漫然と外の様子を眺め続ける。普通の生活を送っている人たちなら、こんなに鬱陶しい天気の日にも、きちんと通勤し、もしくは通学をするのだ。対する自分は、と我が身を振り返り、一層気分が沈み込む。
雨自体は嫌いではないが、こういう状況で眺める雨の景色も、雨音も、陰鬱な気分に拍車をかけるだけだ。
早く止めばいいのにと、短くため息をついた和彦はごろりと寝返りを打ち、目を閉じる。何もやる気が起きないから、とりあえずもう一眠りしようというのは、非常に怠惰に思えるが、とにかくベッドから出たくないのだから仕方ない。
何度かベッドの上を転がっているうちに、緩やかに眠気がやってくる。和彦はウトウトとしながら、夢か現実なのか、雨音を聞いていた。
強い雨が、何かを叩いている。聞き覚えのある音だと、半分眠りながらも、緩慢な思考を働かせた和彦は、やっと記憶を手繰り寄せる。雨が、広げた傘を叩く音だった。
どうしてこんな音が聞こえてくるのかと疑問に感じたが、意識が夢の入り口にあるのだと思ったら、すんなりと納得できた。
そして、広げた傘を叩く雨音に刺激されたように、子供の頃の記憶が唐突に蘇った。
和彦がまだ、小学校低学年だったときだ。梅雨時の曖昧な天気が続く中、図書室に遅い時間までこもっていたため、下校時間が遅くなったことがあった。運が悪いことに、下校途中に雨が降り出し、傘を持っていなかった和彦は、これ以上遅くなるわけにもいかず、雨宿りもせずにずぶ濡れで帰宅した。
ちょうどそこに、中学生だった兄の英俊も帰宅したが、和彦のようにずぶ濡れにはなっていなかった。きちんと傘を差していたからだ。あのとき聞いた英俊の差した傘を叩く雨音が、やけに強烈に耳に残っている。
あとで英俊と母親のやり取りを聞いていたが、母親は朝のうちに、英俊には折り畳み傘を用意していたのだ。
子供ながらに、自分と兄との間にある圧倒的な違いを理解していた和彦は、そのささやかな出来事も、当然のこととして受け止めていた。佐伯家での生活は、そういうことの積み重ねだった。
しかし、いまだに鮮明に覚えているということは、自分が思っている以上にわだかまりとなっているのではないか――と考えたところで、和彦は目を開ける。
憂鬱な気分がさらに荒みそうなことを思い出して、すっかり眠る気が失せた。
「……こんな天気のせいだな」
ぼそりと呟き、ようやく和彦は体を起こす。横になっていると、いくらでも佐伯家での生活が蘇ってしまいそうで、心底嫌になってしまったのだ。
こんな気持ちを引きずって一日を過ごすのかと思うと、すでにもう疲労感を覚える。
何もかもが不愉快で仕方ないと、口中で毒づきながら和彦は、勢いをつけてベッドから下りた。
昼過ぎに部屋を訪れた千尋は、和彦の顔を一目見るなり眉をひそめた。
「――先生もしかして、機嫌悪い?」
土産のケーキを受け取った和彦は、ためらうことなく頷く。
「ああ。正直、誰とも会いたくない。だけど、お前に来られると拒めないから、仕方なく部屋に上げてやった」
「ああ……。その言い方、本当に機嫌悪いんだ」
「だから、ケーキを食べたらさっさと帰れ」
和彦は素っ気なく告げると、キッチンに入る。皿やカップを出していると、なぜか千尋まで側にやってくる。邪魔だと、きつい眼差しを向けるが、かまってもらうことが嬉しくてたまらないという様子で、千尋は笑う。
「けっこう新鮮なんだよなー。ツンツンしている先生って。顔立ち整った人って、表情によっては、ものすごく冷たく見えるだろ? なんか、ドキッとするんだ。先生が知らない人に見えて」
「……こんな生活を送っていたら、嫌でも機嫌は悪くなる。そんなぼくを見て、お前は喜べるんだな」
意識しなくても、刺々しい言葉が口をついて出る。千尋は驚いたように目を見開いたが、次の瞬間には、人懐こい表情を浮かべた。
「ムカつくことがあったら、いくらでも俺にぶつけてよ。大人の先生が感情的になるところなら、いくらでも見たいし、受け止めたい」
和彦は、千尋の頬を抓り上げ、短く一言を発する。
「生意気」
「でも、ちょっとときめいた?」
「……そういうことをすぐに聞いてくるあたりが――」
ガキ、という言葉は寸前のところで呑み込む。これでも、和彦を〈オンナ〉扱いできる男なのだ。見た目は犬っころのように愛想よく振る舞っているが、中身は、獣だ。そして、その獣の父親は――。
和彦は小さく身震いして、持っていた皿をカウンターに置く。思いがけず派手な音がした。
「先生?」
慌てた様子で千尋が顔を覗き込んでくる。その顔をじっと見つめ返し、和彦は重苦しいため息をついた。
「ダメだ……」
「へっ?」
「これ以上お前と一緒にいたら、自分でも嫌になりそうなことを言ってしまいそうだ。十歳も年下のお前を、恥ずかしげもなく罵倒して、なんとか傷つけてやろうとするんだ。……正直、こうして会話をしているのもつらい。何もかも気に障るし、不愉快で仕方ない。わけもなくイライラするんだ」
ほぼ一息にここまで言い切ると、和彦はキッチンを出る。
「先生っ?」
「ちょっと気分転換に、散歩してくる。――一人で」
運悪く、たまたま部屋に立ち寄っただけの千尋に八つ当たりをしていると、和彦自身、わかっているのだ。一方で、今のような生活を送ることになった原因が、千尋にあるのも事実だ。
部屋を出た和彦は、エレベーターに乗り込むまでの間、努めて冷静に、自分の言動を分析する。
たどり着いたのは、なんと大人げないことをしてしまったのか、という後悔だった。
いまさら引き返すのも決まりが悪く、ちょうどエレベーターがエントランスに着いたこともあり、本当に外を歩くことにする。
いつの間にか雨は止んでいたが、生ぬるい湯に浸かっているような気温の高さと湿気に、瞬く間に肌がべたつく。
歩きながら和彦は、マンションの駐車場を覗く。来客用のスペースには、千尋を待つ長嶺組の車が停まっていた。向こうも和彦の姿に気づいたようで、すぐに車を降りようとしたが、平気だと軽く手を振っておいた。
散歩に出たものの、どこを歩けばいいのか知っているわけではない。引っ越してきてからさほど経っていないせいもあるが、移動のときは大半が車で、和彦が一人で出歩くことに、長嶺組の男たちはあまりいい顔をしないのだ。
無意識のうちに和彦の視線は、通りを走っていくタクシーに向いていた。財布は持ってこなかったが、行った先で乗車賃を借りることはできるだろう。
でも、どこに行けばいいのか――。
蘇った記憶のほろ苦さを噛み締めて、実家にだけは帰らないと心に誓う。そもそも本気で、長嶺組から逃れるつもりはなかった。ただ、想像してみただけだ。
頬に冷たい感触が触れ、和彦は空を見上げる。また、雨が降り出していた。
小雨かと思ったのは一瞬で、すぐに降りは強くなる。こんな天気の中、散歩に出たのが間違いだが、傘を持ってこなかった自分の迂闊さに腹が立つ。しかも運が悪いことに、歩道のくぼみにできていた水溜りに足まで突っ込んでしまった。
動くのも面倒になり、この場にうずくまりたい衝動に駆られ、和彦は足を止める。
「先生っ」
突然、千尋に呼ばれて顔を上げる。歩道の向こうから、まるで犬っころが転がってくるように千尋が走ってやってくる。
猛烈な速さで側までやってきた千尋の手には、一本の傘が握られていた。息を弾ませる千尋の顔をまじまじと見つめた和彦は、頭に浮かんだ疑問をぶつける。
「……お前なんで、傘を差してないんだ」
あっ、と声を洩らした千尋が、すぐに照れ笑いを見せる。
「先生、傘持って出てないんじゃないかと思ったら、とにかく届けることしか頭になくてさ。まあいいじゃん。ほら、差して、差して」
千尋は傘を開いて和彦に押し付けると、すぐに来た道を引き返そうとする。和彦は反射的に呼び止めていた。
「千尋、お前はどうするんだ」
「部屋で待ってる。先生、一人になりたいんだろ」
和彦は、開いた傘を見上げる。さきほど夢うつつの状態で聞いた雨音が、今度こそ現実のものとして鼓膜に響く。
去っていく千尋の後ろ姿を眺めていた和彦だが、ハッと我に返り、声をかけていた。
「千尋っ」
振り返った千尋に向けて手招きをすると、待っていたような反応のよさで再び駆け寄ってきた。
「何、先生?」
「……濡れるぞ」
そう言って和彦は、千尋に傘を差しかける。たったそれだけで、千尋は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「もう濡れてるから、いいよ」
「よくない。お前を散歩につき合わせるのに、ぼくだけ傘に入っていたら、人でなしだと思われるだろ」
「散歩、つき合っていいんだ?」
「一人で歩いていてもつまらないからな」
和彦の言葉が終わるか終わらないかのうちに、千尋に傘を取り上げられた。
「俺が持つね」
同じ傘に入り、肩を並べて歩く。和彦を気遣っているのか、千尋はもう話しかけてこない。おかげで、傘を叩く雨音がよく響く。
「――機嫌が悪かったのは、夢見が悪かったからだ。昔の……嫌なことを思い出した。八つ当たりして悪かった」
雨音に紛れ込ませるように早口で和彦が言うと、隣で千尋が短く噴き出す。
「先生、優しいなー」
「優しくない。大人げなかったことを反省しているだけだ」
「だって先生、俺に対して、八つ当たりどころか、正当に怒る理由があるじゃん。なのに、謝ってくれた。俺みたいなガキに」
なんとも答えようがなくて和彦が顔をしかめると、千尋が大胆にも身を寄せてくる。誰かに見られるのではないかと、慌てて周囲を見回した和彦は、十メートルほど背後から、傘を差した男二人がついてきていることに初めて気づく。長嶺組の男たちだ。
慌てて正面を向き、千尋と離れようとする。
「くっつくな。お前は体温が高いから、暑苦しいんだ」
「先生はひんやりしてるから、くっついてると気持ちいいんだけど――」
和彦が歩調を速めると、千尋は傘を差しかけながら、笑って追いかけてくる。
「逃げないでよ、先生」
「逃げてないっ」
広げた傘の下から出ない程度に、千尋とじゃれ合うように歩いているうちに、和彦は自分の中のある変化に気づいた。
あれほど塞ぎ込んでいた気持ちが、いつの間にか楽になっていた。
まるで、重苦しい雲の間から、青空が覗くように。
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