佐伯がシャワーを浴びている水音を聞きながら、鷹津は裸のまま冷蔵庫を覗き込む。いつもの癖で缶ビールを取り出そうとしたが、〈医者〉の注意を思い出し、舌打ちして水のボトルに替えた。
体には疲労感が溜まっているというのに、胸の内ではいまだに激しい欲情が渦巻き、出口を求めて暴れている。おそらく、思いきり他人を殴った興奮も残っているのだろう。
普段であれば、冷たい水を頭から浴びるのが、冷静になる方法として手っ取り早いのだが、さすがに今夜は無理だ。縫ったばかりの傷口が疼いていることもあり、あまり無謀なことはできない。
分厚い包帯を巻いた右手を見下ろしてから、利き手ではない左手で、ぎこちなくボトルの蓋を開ける。水を喉に流し込みながら、ベッドのある部屋へと戻ると、聞き覚えのない着信音が耳に届いた。
一瞬何事かと思った鷹津だが、足元から聞こえてくることに気づき、佐伯の携帯電話が鳴っているのだとわかった。反射的にバスルームのほうを見るが、当然佐伯に聞こえるはずもない。
放っておこうかとも思ったが、魔が差した。
鷹津はボトルを床に置くと、佐伯のパンツのポケットを探り、携帯電話を取り出す。表示されている名は、意外性の欠片もなかった。
欲情が渦巻いていた鷹津の胸の内に、さまざまな負の感情を孕んだ塊が生まれる。電話をかけてきた相手――長嶺賢吾を、鷹津は心底嫌っているのだから仕方ない。
嫌ってはいるが、互いに利用できる存在だと認識はしている。その長嶺が、あえてこの時間、わざわざ電話をかけてきたのには、理由があるだろう。一番考えられるのは、鷹津に対する牽制と、脅しだ。
胸糞が悪い、と心の中で呟いて、鷹津は電話に出ていた。
「――自分のオンナが、他の男の腕の中で喘ぎまくっているか、確認したくてかけてきたのか?」
前置きなしの鷹津の挑発に対して、電話の向こうで長嶺は笑った。
『なんだ、もう、済んだのか』
数秒、返事に詰まった時点で、鷹津の負けだ。
「お前のオンナを壊したら、あとでどんな報復があるか、わかったもんじゃないからな」
『ほお。俺のオンナに対してだけは、妙に優しいお前なら、そんなことはしねーだろ』
「……こんなくだらないやり取りがしたくて、電話をかけてきたのか、クソヤクザ」
『先生の電話に出たのはお前だろ。俺は、先生の声が聞きたくて、電話をかけたんだぜ』
携帯電話を壁に向かって投げつけたい衝動に駆られたが、実行に移す前に、口調を一変させた長嶺に言われた。
『うちの組の厄介事で、お前に迷惑をかけたな。手を怪我したとなると、当分不便だろ』
「大したことはない。ヤクザ相手に暴れてきた身としては、かすり傷みたいなものだ」
長嶺に限って、なんの思惑もなく、善意のみでこんな殊勝なことを言ったりはしない。電話の向こうにいる男の本質は、蛇だ。身を潜め、残酷な本性を押し隠しながら、常に獲物を狙っている。
佐伯がいつシャワーを浴びて出てくるかわからないため、鷹津はあえてズバリと切り込んだ。
「――お前、秦を使って何かしようとしているだろ」
『なんのことだ?』
「ちょっと手広く水商売をやっている胡散臭い色男を、長嶺組はやけに大事に扱っている。佐伯の遊び相手にさせているぐらいだ。信用もしているんだろう。なら、理由があるはずだ。秦は出自がややこしいうえに、実家絡みで、妙なルートを持っている――と俺は踏んでいる。それがなんのルートかは知らん。ただ、ヤクザと元中国人という組み合わせは、きな臭い匂いしかしない。そこに、秦を狙った今夜の襲撃だ」
話しながら鷹津は、冷たい殺気のようなものを電話越しに感じていた。巨体でありながら、思いがけない素早さで獲物に襲いかかり、弱い部分に牙を突き立てる大蛇の姿を想像してしまう。
急に首筋が冷たくなり、鷹津は口を閉じる。それを待って、長嶺が応じた。
『鷹津、それは牽制か? いつでも自分は調べるぞ、という』
凍りつくように冷たい声だった。さすがの鷹津も息を呑み、無意識のうちに右手に力を入れようとして、痛みで我に返る。
『秦は、先生に命を救ってもらったようなものだ。だから、先生に対して忠実で、安心できる遊び相手というだけだ。長嶺組も、あいつの商売で少々美味しい思いをさせてもらうから、ケツ持ちをしている。それだけだ』
「……俺に、それを信用しろと?」
『お前の信用を得たいなんざ、俺は欠片ほども思ってないが』
「言っておくが、俺は佐伯の番犬ではあるが、いつでもお前の喉を狙っているからな。何かあれば、食らいついてやる」
『だがそれは、今じゃねーだろ、鷹津。俺に何かあれば、先生はとっとと堅気の生活に戻って、お前の手の届かない存在になる。――もっと、先生と楽しみたいだろ?」
「自分のオンナに、自信があるんだな」
長嶺が低く声を洩らして笑った。
『俺が、あれこれ考えを巡らせて、必死にこの世界に留めているぐらいだからな。お前は、そのおこぼれに預かっているんだ。堅気の世界に身を置く先生に、お前みたいな男は手を出せないし、そもそも知り合えもしなかっただろ』
この言葉は効果的だった。すべてを見透かされていることに対しての悔しさを噛み締めながら、鷹津は感情を押し殺した声で問いかける。
「佐伯に用があってかけてきたんじゃないのか?」
『先生が出たら、こう言いたかっただけだ。――働いた番犬をしっかり甘やかしてやれ、とな』
こう言って、電話は切れた。感じる胸の悪さは、敗北感というのかもしれない。しかしそれを認めたくなくて、鷹津は何事もなかったように携帯電話をポケットに戻し、ボトルの水を勢いよく飲む。
ベッドに腰掛けると、半ば無意識のうちにテレビをつける。深夜のスポーツニュースを漫然と眺めながら、頭の中を駆け巡るのは、さきほどの長嶺とのやり取りだった。
殺してやりたいと思う一方で、それができないともわかっている。忌々しいほどにあの男は、強靭で強大だ。
そんな男でも、自分の大事な〈オンナ〉を壊されたら、さすがに感情を露わにするのだろうか。
危険な衝動が、じわりと鷹津の中で湧き起こる。そこに、佐伯の声が響いた。
「おい、着替えをどこにやった――」
足音も荒く、腰にバスタオルを巻いた佐伯が部屋に入ってくる。その姿を見た途端、鷹津はもう、寸前の長嶺とのやり取りもどうでもよくなり、目の前の生き物のことしか考えられなくなる。
品よく整った顔立ちと、育ちのよさが滲み出た物腰をしていながら、外見からは想像できない多淫さを持つ、性質の悪い〈オンナ〉という生き物だ。
どいつもこいつもこいつに骨抜きだと、内心で毒を吐きつつ、その毒に鷹津自身浸かっている。
鷹津がペットボトルを差し出すと、一瞬戸惑った表情を浮かべて佐伯は歩み寄り、受け取った。
ペットボトルに口をつけた佐伯の白い喉元が、水を飲むたびに上下に動く様が艶かしくて、鷹津は目が離せなかった。考えることは、その喉元に食らいつく自分の姿だ。
寸前まで鷹津が何をしていたのか気づいた様子もなく、少し怒った表情で佐伯が睨みつけてくる。本人に自覚があるのかないのかは知らないが、佐伯のこの表情は、ひどく欲望を刺激する。
「……着替え、持っていっただろ」
水を飲み干した佐伯に問われ、鷹津は挑発的に笑いかける。
我ながら厄介だが、佐伯の突き放したような冷たい口調も気に入っていた。この口調が、数分後には悔しげな響きを帯び、さらに何分か後には甘さを含むと知っているからこそ。
何人もの男たちの思惑や欲望に搦め取られながら、よくも悪くも、佐伯は性質の悪いオンナでい続ける。そんな佐伯の番犬でいることに、鷹津はどうしようもない愉悦を覚えている。
手の傷の痛みすら、気にならないほど。
Copyright(C) 2012 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。