座卓に頬杖をついた千尋は、広げた写真を一枚ずつ手に取って眺める。
写っているのは、すべて同じ人物だった。年齢は四十二歳ということで、千尋の父親とさほど差はない。だが、外見から受ける印象はまったく違う。
知的で穏やかそう――。端的に男を表現するなら、こうだ。若々しくて男前だとも感じたが、素直に認めるのは癪だ。
とにかくこの写真の男が、里見真也であることに間違いはない。写真と一緒に添付されていた調査書にも目を通したが、腹が立つほど恵まれた経歴で、まさに絵に描いたようなエリートだ。
「この男が先生と、か……」
胸の奥で渦巻くドロドロとした感情に、たまらず千尋がぼそりと洩らすと、向かいに座っている父親が揶揄するように言った。
「いつまでも写真を睨みつけたところで、そいつが先生の〈初めての男〉という過去は変わらんぞ、千尋」
新聞を読んでいるとばかり思っていたが、しっかりと千尋の様子を観察していたようだ。
千尋は、ニヤニヤと笑っている賢吾を睨みつける。
「なんだよ」
「いや、あんまりお前が真剣な顔をしているからな。そんなに、先生の昔の男が気になるか?」
「……今みたいな先生になる、きっかけになったかもしれない男だから、そりゃ、少しは気になる。それに先生自身、俺たちに隠れて、会いに行ったぐらいだ。きっと、特別なんだ」
和彦が、里見という男に会っていた件は、一応ケリはついた。賢吾がしっかりと、和彦に罰を与えたのだ。そして千尋は、ささやかな罰を。
しかし、長嶺の男としては、和彦に対して怒りはなくとも、里見という男に対しては、やはり何かしらの感情を抱かずにはいられない。それは千尋だけではなかったらしく、今日届いた里見の身辺調査の結果は、千尋とは比較にならないほど怖い男である賢吾の気質を表しているようだ。
この調査書を読んで、賢吾は何を感じたのだろうか。千尋はそんなことを考えながら、写真を素っ気なく投げ置く。
大事な〈オンナ〉の害にならないのであれば、それでよし。そうでないなら――。
胸の奥で渦巻くのは、嫉妬という感情だ。品がよく、優しげな面立ちからは想像もできないほどの奔放さを持つ和彦は、過去に何人もの男たちとつき合ってきただろう。現在ですら、複数の男と体の関係があるぐらいだ。
今の世界で生きていくうえで必要だから、和彦はそうしている。千尋との関係もそうだ。
だが、ヤクザと関わることなく、堂々と陽の下を歩ける世界で今も生活していたとしたら、和彦はたった一人の男を選び、その男のためだけに体を開いていたのかもしれない。いや、本来はそうあるべきなのだ。
里見の写真を眺めて嫉妬に駆られるのは、この男が、和彦が表の世界で生きていたことを象徴している存在だと思えるからだ。
「――……先生って、年上のインテリが好きなのかな……」
里見という男は、あまりに自分とは――今和彦がいる世界の男たちとはタイプが違う。さきほどからずっとそう考えていた千尋は、ついそんな疑問を口にする。別に意見を求めたつもりはないのだが、新聞を捲りながら賢吾が応じた。
「どうだろうな。先生の話だと、中学生の頃から家庭教師をしていたそうだ。多感な時期に与える影響は大きいだろうな。写真を見る限り、なかなかイイ男だ。実の兄より兄らしい存在だと言いながら、そんな相手と寝たということは――」
「……なんだよ」
「よっぽど、好きだったんだろうな」
この瞬間、千尋を襲ったのは、奇妙な焦燥感だった。そんな特別な相手に勝てない、とも思ったかもしれない。
慌てて写真をかき集めると、調査書と一緒に封筒に突っ込む。ここでふと、妙に落ち着いている賢吾の様子が気になった。執念深く、嫉妬深くもある千尋の気質は、間違いなく賢吾譲りなのだ。その賢吾が、悠然としすぎている。
「オヤジまさか、自分はインテリだからと思って、余裕かましてるのか?」
「自分の息子ながら、ときどきお前の発想が、おもしろくてたまらないときがある」
そう言って賢吾が、新聞からちらりと視線を上げる。
「そんなに気になるなら、本人に聞けばいいだろ。意外性の塊のような先生のことだから、おもしろい答えが返ってくるかもしれないぞ」
「――……そんなみっともないこと、できるわけねーだろ」
千尋は顔をしかめ、ぼそぼそと答えた。
風呂上がりで濡れ髪の和彦が、牛乳の入ったグラスを片手にリビングに入ってくる。いつも通りの寛いだ姿を、ソファに腰掛けた千尋はぼうっと眺める。
今日の昼間、本宅で賢吾と会話を思い出し、急に緊張してくる。
和彦と外で夕食を済ませ、その足でマンションのこの部屋に転がり込んだのだが、ずっと、どう切り出そうかと悩んでいるのだ。
「何かおもしろい番組をやっているか?」
隣に腰掛けた和彦が、つけたままのテレビに視線を向ける。さきほどまでニュース番組を放送していたのだが、いつの間にかテレビから流れてくるのは、にぎやかな音楽番組へと変わっていた。
「いや……、なんとなくつけてた」
ふうん、と返事をした和彦が、やや身を乗り出すようにしてテレビを観る。映っているのはアイドルグループだ。
和彦はこういう曲が好きなのだろうかと思った千尋だが、よくよく考えてみれば、和彦の好みというものを、実はあまり把握していない。読書家だということは知っていても、どんなジャンル、どの作家が好きなのかということも知らない。
和彦に謎が多いのか、それとも自分のリサーチ不足なのか――。
千尋は、まじまじと和彦の横顔を見つめる。そんな千尋の視線に気づいたのか、ふいに和彦がこちらを見た。
「どうした、千尋?」
「俺、先生のことを、まだよく知らないなと思ってさ」
「突然だな……」
そう洩らした和彦は牛乳を一口飲んでから、表情を和らげた。
「知り合ってまだ一年ぐらいなんだから、仕方ないな。ぼくも同じぐらい、お前のことは知らない」
「でも先生、俺の家族全員と顔見知りだろ。だけど俺は、先生の家族は一人も知らない。これだけでも、ずいぶん違うと思う」
「……どういう状況でそういうことになったのか、お前は自分の胸に手を当てて、よく考えたほうがいいぞ」
「えー、でもさ――」
千尋はさりげなく手を伸ばし、和彦の濡れた髪に触れる。
「大事な人のことって、気になるもんだろ。特に先生って、謎が多いし」
「失敬な。ぼくはこれでも、長嶺の男たちに目をつけられるまでは、普通の医者として、平凡に生きていたんだ。そういう人間に、謎なんてあるわけないだろ」
「そう思っているの、本人だけだったり……」
ここで和彦は何か察したのか、突然、警戒心も露わな顔で千尋をじろりと見た。
「お前、ぼくがまだ隠し事をしていると思っているんだろ。……まさか、里見さんのことで、まだ何か隠していると思っているんじゃないだろうな」
「違うよっ。いや、違わなくもないけど――」
和彦から厳しい目を向けられ、上手い誤魔化しの言葉も思いつかない千尋は、早々に降参した。たった一年ほどのつき合いとはいえ、和彦が本気で怒りつつある気配を感じたからだ。
ソファに座り直し、千尋は告げる。
「……里見って人、めちゃくちゃ頭いいんだろ。官僚なんてしてたぐらいだし、今の仕事も難しそうなことしてるし。顔もいい……みたいだし」
「だからなんだ」
和彦の声がさきほどより少し冷たくなっていることに気づき、千尋は早口で続けた。
「先生が本当に好きなタイプって、そういう男なのかなって思ったんだ。……俺と、全然違うタイプ。いや、この世界で生きている人間の中には、いないタイプ、かな」
和彦から返事はなかった。勢いで話した千尋は顔が上げられず、足元をじっと見つめる。リビングに響くのは、最近CMでよく耳にするアーティストの歌声だけだった。
ふいに、和彦がため息をつく。
「お前この間、ぼくがどんな男とつき合っていようが、自分との将来には関係ないとか、カッコイイこと言っていただろ。あれは、あの場の勢いで言ったのか?」
「そうじゃない。過去は過去だと思ってるし、この間言ったことは、今も変わってない。ただ俺が気になるのは、先生の好きなタイプが、あんまり極端に俺と違ってるとしたら……」
「ぼくの好きなタイプというのが、里見さんみたいな人だということか」
頷くと、また和彦はため息をついた。コトッと音がして、反射的に顔を上げると、和彦がグラスをテーブルに置いたところだった。こちらを見た和彦が、呆れた表情を浮かべている。
「先生――」
「あまり、変な心配をするな。ぼくは、里見さんのようなタイプにこだわっているわけじゃない」
話す和彦の声が優しくなっていることに、千尋は内心でほっとする。つい、いつもの甘え癖を発揮して、和彦ににじり寄り、肩に頭をすり寄せる。和彦は、そんな千尋の頭を少し乱暴な手つきで撫でてくれる。
「ぼくはもともと、タイプにこだわるほうじゃないしな」
「雑食」
一言洩らした途端、和彦に頭を押しのけられた。それでも千尋は嬉しくて、今度は和彦の肩を抱き寄せる。素直に体を預けた和彦は、思いがけないことを話し始めた。
「ぼくが二番目につき合った男のことを知ったら、お前も余計な心配をしなくなるだろうな」
「……教えてくれるの?」
「医大に入って少し経った頃に知り合った〈奴〉だ。ぼくの四つ上だったけど、精神年齢は、今のお前以下だった」
ひどい言われようだなと、会ったこともない男に対して、千尋は少しだけ同情してしまう。だがそれ以上に、好奇心を刺激される。
「学生?」
「フリーターだった。バイトで生活しながら、バンドをしていたんだ。上手いのか下手なのかわからなかったけど、顔と声はよかった……と思う。当時のぼくは、世間知らずのうえに、対人スキルも極端に低かったからな。それに、初めての一人暮らしで浮かれてもいたし、人恋しくもあった。だから、初めて会うタイプの人間に強引に振り回されているうちに……」
「好きになった?」
どうだろう、と答えて和彦は笑った。照れているようにも見え、千尋はその表情に見惚れる。十歳も年上の人が浮かべるには、あまりに可愛い表情だったからだ。
過去は過去と思いながらも、和彦のこんな表情を堪能できるなら、多少の嫉妬は押し殺して、もっと過去の話を聞きたくなってしまう。
誘われるように和彦のこめかみに唇を押し当て、頬にも触れる。今この瞬間、和彦を独占しているのは自分だと、和彦の過去の恋人たちに心の中で宣言しながら。
「先生の二番目の恋人、今何やってるんだろうな。バンドやめて、普通の勤め人かな、やっぱり」
「――……さあ、どうだろうな」
笑いを含んだ声でそう応じた和彦が、ちらりとテレビを一瞥した。
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