と束縛と


- Extra42 -


 長嶺組の本宅のキッチンには、大容量の家庭用冷蔵庫と、業務用冷蔵庫が並んでいる。組長たちだけではなく、本宅で寝泊りをしている組員や、訪れる客人たちの飲食を賄うためには、これぐらいは必要なのだ。
 中に何が入っているのかは、冷蔵庫に貼り付けられたメモ用紙に記入されており、それを見て、本宅の台所を仕切っている笠野は献立を考えている。その姿に、密かに久保は憧れている。どの料理には何が必要で、もしくは何を代用して作ればいいか、即座に考えつくということは、知識や経験に裏づけされたものがあってのことだ。
 自分がそこに至るまでには、一体どれだけの時間が必要なのか、まったく想像すらつかない。
 そんな久保だが、現在、笠野の下について掃除などの雑用だけではなく、ちょっとした料理を教わっている。笠野は忙しい立場のため、他の賄い担当の組員に聞くこともあるが、一番わかりやすく、丁寧に教えてくれるのは、やはり笠野なのだ。
 実力はともかく、熱意だけは認めてもらっているのか、それとも、あまりに未熟なままでキッチンでうろうろされては困ると思ったのか、笠野から、冷蔵庫にある食材を一人分、自由に使っていいと、最近許可をもらった。
 以来、久保は毎日、時間を見つけては、自分の分の食事を作っている。ときには笠野に味を見てもらい、アドバイスを受けている。今日も、午前中のうちに雑用を済ませて、再びキッチンに戻ってきた。昼食の準備が始まるまで、まだいくらか時間があるため、キッチンが空いているうちに使わせてもらおうと思ったのだ。
「……今日は何を作ってみようかなー……」
 久保は独り言を呟きながら、すっかり分厚くなったノートをパラパラとめくる。自分なりに、これなら作れそうだと思ったレシピを雑誌や新聞から切り抜き、ノートに貼り付けているのだ。
 ダイニングにも誰もいないということもあり、ついつい鼻歌などを歌っていた久保だが、ふいに物音がして飛び上がるほど驚く。下っ端組員の悲しさだが、本宅に住み込んでいる組員の大半は、久保より年上であり、先輩だ。何を置いても、自分から先に挨拶をするのは基本だった。
 怒声が飛んでくるかもと、首を竦めつつ振り返った久保は、すぐに安堵の吐息を洩らす。ダイニングに姿を見せたのが、怒声とは一番程遠い人物だったからだ。
「――おはようございます、先生」
 驚かせないよう、いくぶん抑え気味の声で挨拶をすると、この本宅の大事な客人である美容外科医――佐伯和彦が、どこかぼんやりとした表情で頷いた。
「うん……。でも、おはようの時間じゃないよね」
 壁にかかった時計は、午前十時を少し過ぎた時間を指している。
「そう、ですかね……?」
「こんにちは、もおかしいから、なんて挨拶するのが正しいんだろう……」
 これは、久保に対する問いかけというより、ほぼ独り言のようだ。それでも久保は律儀に応じる。
「……お疲れ様です、ですか?」
「でもぼく、今起きたところだから、別に疲れるようなことしてないんだよね」
 まだ眠いんだろうなと、久保は苦笑する。日ごろ、和彦が生活するマンションまで、身の回りの世話をしに行っている久保だからこそ知っているのだが、和彦はときどき、こんな取りとめないことを話しながら、頭を正常に働かせようとすることがある。
 基本的になんでもきちんとしている人だからこそ、たまに見せるこういう姿は、組長や跡目には口が裂けても言えないが、妙に可愛い。
 決して変な気持ちはないですと、誰に対してか久保は、心の中で言い訳をしておく。
「先生、朝メシはまだなんですね?」
 組長から朝食時に、先生は疲れているから当分起きそうにないと言われていたのだ。
「まだ寝られそうだったけど、空腹が勝ったんだ。……昨夜から、まともに食事をしていない……。本当に、少しはこっちの負担を考えろと――」
 イスに腰掛けた和彦がぶつぶつとぼやいているが、聞き耳を立てることはやめておく。ただ、なんとなく事情は解した。きっと、組長や跡目に振り回されて大変だったのだろうと。
「じゃあ、何か準備しますね……と、あっ、今、笠野さんは、買い出しに行っていて、少し待っていただくことになります。他の賄い担当の組員も、今は別の仕事をしていて。朝食の残りも、今朝はきれいに食べ尽くしてしまったんです」
「だったら、久保くんがいるじゃないか」
 思いがけない発言に、久保は激しく動揺する。和彦からやけに期待に満ちた眼差しを向けられ、動揺に拍車をかける。できることなら、この先生の期待には完璧以上に応えたいところだが、如何せん。そうするには、今の久保は経験と知識が圧倒的に足りない。
 なんとなく手にした布巾を捻りながら、久保は頭を下げた。
「すみません。俺はまだ、先生に食べていただけるようなものを作れるレベルじゃなくて……」
「大げさだなー。ぼくは別に味にうるさいわけでも、手の込んだものを作ってほしいわけでもないんだから。だいたい、この組と関わる前までは、食生活なんて、かなりいい加減だったんだ」
「そう、なんですか……?」
「仕事が忙しくて、外に食べに行くのも面倒なときは、買い溜めしておいたインスタントラーメンを何日も食べていたこともあったし」
 インスタントラーメン、と口中で反芻した久保は、キッチンの一角に置いてある箱に目をやる。そこには、組員たちの夜食用として買い溜めしてあるインスタントラーメンが詰め込んである。久保の視線の動きに気づいたのか、イスから立ち上がった和彦がススッとキッチンにやってきた。
 箱の中を覗き込んだ和彦が、すっかり眠気が払拭した顔で久保を見た。
「――これがいい」
 言うと思った。内心で嘆息した久保は首を横に振る。
「ダメですよ。先生にインスタントなんて食わせたら、俺が笠野さんに殺されます」
「……大げさな」
「いやいや、マジですよ。笠野さんは、先生に健康的な食事をとらせることに、けっこう命かけてますから。それを、弟子の俺が邪魔したとなったら……」
 和彦は残念そうな表情を一瞬浮かべはしたものの、すぐに、ニヤリと笑みを浮かべた。
「君が作って問題があるなら、ぼくが作ればいい。料理はさっぱりダメなぼくでも、これぐらいならできる」
 そう言って和彦が、さっそく小さな鍋を棚から出そうとしたので、慌てて久保はとめる。今度は、和彦に火傷でもさせたらと、そのことが心配になったのだ。
「わーっ、作ります、作ります。袋ラーメンでいいんですか? カップラーメンもありますが」
「カップラーメンって、なんか味気ないよね」
 わかりましたと頷いて、久保は速やかに和彦をテーブルへと案内する。
 キッチンに戻ると、たかがインスタントラーメンを作るのに、どうしてこんな緊張しないといけないのかと思いながら、久保は準備を始める。ちらりと振り返ると、和彦が期待に満ちた眼差しでこちらを見ていた。
 この先生の期待には、完璧以上に応えたい――。
 笠野の怒声を覚悟しながらも、久保は気合いを入れて作業に取り掛かった。


 麺の量を少し減らし、その代わり、炒めた野菜をたっぷり入れたインスタントラーメンを、和彦は嬉しそうな顔をして啜っている。
 冷たいお茶を出した久保は、おそるおそる尋ねた。
「あの……、味はどうでしょう?」
「美味しいよ。スープは少し薄めにしてくれたんだね。野菜もたくさん入れてくれているし」
「塩分の摂り過ぎには注意しろと、笠野さんによく言われているんで」
 ふふ、と和彦が声を洩らして笑う。
「いろいろと笠野さんから教わってるんだ」
「俺、本当に物を知らないので、よく呆れられてます」
「いいじゃないか。まだ若いんだから、いくらでも覚えられる。教えてくれる人がいるというのは、いいことだ」
 やはり、和彦と話すのは好きだった。年上の組員たちに対するような緊張感は必要なく、だからといって無礼な態度を取らないよう、ありたけの礼儀を示したいという義務感を持ちながらの会話は、久保を普段とは違う世界に爪先だけでも浸らせてくれる。それは、和彦が特殊な立場にいるためだろう。
 和彦に勧められたので、久保もイスに腰掛ける。食事の邪魔にならない程度に他愛ないことを話していると、廊下を歩いてくる慌しい足音が聞こえてくる。久保は反射的に立ち上がり、直立不動の姿勢を取る。和彦が何事かという顔をして、久保を見上げた。
 和彦が何か言いかけたが、ダイニングにやってきた人物が声を発するほうが先だった。
「おや、先生、何を食べているんです?」
 両手にスーパーの袋を提げ持った笠野が、いかつい顔に穏やかな笑みを浮かべてテーブルに歩み寄ってくる。和彦は気づかなかっただろうが、久保はしっかりと見た。笠野の頬のあたりが、ピクリと強張ったのを。
 じろりと鋭い視線を向けられて、久保はテーブルに頭を打ち付ける勢いで頭を下げる。
「すみませんでしたっ」
 和彦がインスタントラーメンを食べている経緯を、つっかえながら説明する。
「しかしお前、この時間からインスタントラーメンじゃなくても……。冷蔵庫の中に、温めたらすぐに食える惣菜もあるし、食パンだってあるんだから――」
「ぼくが食べたいと言ったんだ。嫌がる久保くんに、無理やり作らせた。だから、怒らないでやってくれ」
 ピタリと小言を止めた笠野は、慎重な口ぶりで和彦に尋ねた。
「先生、美味いですか?」
「こういうものは、ときどきむしょうに食べたくなるんだよな。実家暮らしのとき、ほとんど食べたことがなかったから、大学に入って一人暮らしを始めたときに、珍しさもあってよく食べてたんだ。医者になってからは、単なる不精で」
 和彦の機嫌もいいし、美味いと言っているということで、とりあえず笠野は納得したらしい。それはよかったです、と洩らすと、久保をちらりと一瞥してから、キッチンへと向かう。買ってきたものを冷蔵庫に仕舞うのを、久保も手伝う。
「――先生、学生の頃は、食事はどうしてたんです? 医大に通っていたとなると、勉強や実習で忙しかったでしょうから、食事に困ったんじゃないですか。インスタントばかりだと、体ももたないでしょうし」
 買ってきた肉をパックから取り出し、下処理を施しながら笠野が和彦に話しかける。ついでに、ラーメンのスープは飲まないでくださいねと念を押す。器に口をつけようとしていた和彦は、名残惜しそうに器を置いた。その姿があまりにしょんぼりして見えたので、寸前までの緊張も忘れて、久保は必死に笑いを噛み殺す。
「コンビニで買ったもので適当に済ませたり、ファストフードに寄ったり……、まあ、とにかく腹に溜まればいいという感じだった」
「先生でも、そんな感じだったんですか」
「ぼくは基本的に、いつもそうだ。ここでは、誰彼と世話を焼いてくれるから、食生活はまともだけど……。ああ、そういえば、学生時代の途中からは、やっぱり今みたいな感じだったな。しっかり食べろと叱られて、あちこちの美味しい店に連れて行かれて。いつも食事のことで面倒見てもらってたな」
「お友達にですか?」
 反射的に尋ねたのは、久保だ。和彦は数瞬、不自然な間を置いて、曖昧な返事をした。久保よりよほど察しがいい笠野は、それですべてを察したようだ。何も言わず、スリッパを履いた爪先で、久保の足元を軽く蹴りつけてきた。
「……あっ」
 たっぷり数十秒の間を置いて、久保もすべてを理解した。
 笠野の忠告通り、スープだけを残した器を置いて、和彦はダイニングを出ていった。そのとき、また作ってくれと久保に声をかけてくれた。
 器とグラスをシンクに置きながら、久保はつい考えてしまう。現在、長嶺組の組長と跡目すら夢中にさせ、総和会会長からも大事にされているという和彦の学生時代とは、一体どれほどのものだったのかと。
 美味いものをいくらでも食べさせてやろうという人間には事欠かなかったのだろうと、さきほどの和彦の口ぶりから容易に想像できる。
「先生、すげー……」
 思わず声に出して呟くと、再び笠野に足元を蹴りつけられる。しっかりと釘を刺されてしまった。
「お前、今の先生の話、絶対、組長と千尋さんには言うなよ。――いや、誰にも言うな」
「……やっぱり、マズイですか?」
「どうマズイかはわからんが、けっこう面倒な事態にはなりそうだ」
 先生が、と笠野は付け加える。
 久保は、もう一度、今度は心の中で呟いた。
 先生、すげー、と。









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