この日は、珍しく千尋は暇を持て余していた。午前中に入っていた予定が、相手の都合でキャンセルとなり、それではと、予定を前倒しして用件を片付けたら、午後には体が空いた。
こういうとき、これまでであれば、いそいそと総和会の本部に顔を出しに行っていたのだが、最近はそれもなくなってきた。父親である賢吾が、総和会の建物に出入りすることに、あまりいい顔をしないのは前々からだが、千尋自身、いろいろと思うことが出てきたのだ。
最大の理由は、千尋にとって何より大事で愛しい人である、佐伯和彦だ。
和彦を、長嶺の男たちで共有することに、千尋は異論はない。抵抗がまったくないというわけではないが、和彦を裏の世界から逃がさないためには、頑丈な檻は必要だ。しかも、何重にも。
そう納得し、理解はしているのだが、千尋の中には危機感が芽生え始めていた。
和彦を、祖父である守光に取り上げられてしまう、と。
孫に対しては優しく甘い祖父ではあるが、こと、長嶺組や総和会という組織が絡んでくると、様相は変わる。その二つをより磐石なものとするために、和彦は欠かせない存在なのだと、いつだったか守光が言っていたことがあるが、具体的にどう欠かせないのか、結局千尋は聞くことはできなかった。
なんとなく、自分でも身震いするような底知れない闇に触れてしまいそうな怖さを感じたからだ。和彦は守光によって、その闇に引きずり込まれてしまうかもしれないと、漠然とした不安が千尋の中に巣食っていた。
自室のベッドに転がって、興味もないニュース番組を観ていたが、我慢できなくなって起き上がる。
「先生の声が聞きたくて、禁断症状が……」
聞いている人間もいないのに、そんな冗談を言いながら携帯電話を取り上げる。時間的には、和彦はクリニックを出た頃だろう。
現在、総和会本部に滞在している和彦の生活は、これまで以上に規則正しい。一人で過ごす時間を好み、ほどほどに夜遊びが好きな和彦としては、さぞかし息苦しい生活を送っているのではないかと思う。息抜きとして千尋が頻繁に連れ出せればいいのだが、現在の互いの立場を考えると、軽々しい行動は慎むべきなのだろう。
それでなくても千尋は、総和会会長の孫ということで、総本部でも本部でも特別扱いを受けている。和彦を伴っての目立つ行動は、思いがけない反感を買う恐れがある。
いろいろと気を使うよなー、と心の中でぼやきながら、千尋はいそいそと電話をかける。すぐに呼出し音は途切れ、落ち着いた優しげな声が応じた。
『どうかしたのか、千尋』
この声で名を呼ばれるたびに、いまだに、体の内側を柔らかな手で撫で上げられるような、ゾクゾクするような心地よさを感じる。
「先生の声が聞きたくなったんだよ。――仕事は終わった?」
『ああ、今は帰りの車の中だ』
ここで千尋は、外の異変に気づく。ベッドの上を転がってから床に下り立つと、カーテンの隙間から外を見てみる。いつの間にかどしゃ降りの雨となっていた。
「雨すごいね」
天気の話から、その流れで、今度一緒に出かけようという話になり、思いがけず和彦が承諾してくれる。このとき千尋は、あるはずのない自分の尻尾がパタパタと動く光景を想像していた。
しかし、能天気に喜んでいられたのはわずかな間だった。電話越しに感じていた和彦の穏やかな空気が一変したことを感じ取ったのだ。千尋の全身にピリッと緊張が駆け抜ける。
「先生、何かあった?」
千尋の問いかけに和彦が、困惑と、わずかな怯えを含んだ声で答える。様子のおかしい車が、和彦が乗っている総和会の車の背後を走っているらしい。
それだけではなんとも言えないため、千尋は詳しく聞こうとしたときには、電話の向こうから、和彦の動揺と、不穏な空気が伝わってくる。
「先生、聞いてる? 何かあった?」
千尋が早口に問いかけた次の瞬間、甲高い鋭い音と同時に、和彦のものらしき悲鳴と呻き声が鼓膜に突き刺さる。総毛立つような恐怖を覚えた千尋は、すぐに大声で呼びかけた。
「先生っ、大丈夫っ? 先生っ」
携帯電話を強く耳に押し当て、聞き耳を立てる。少しでも状況を把握するには、今の千尋にはこうするしかないのだ。
「先生っ、答えてっ」
和彦の声は聞こえてこない。代わりに、男たちの怒声が聞こえ、今まさに和彦が襲われているのかと絶望しかけたが、すぐにそうではないとわかった。どうやら、車に同乗している護衛の男たちが、和彦に呼びかけているようだ。
状況がまるでわからないが、それでも千尋は声の限りに和彦を呼ぶ。
「先生っ、先生っ」
微かな音がしたあと、強張った息遣いが聞こえてくる。千尋がもう一度呼びかけると、ようやく和彦が応えた。
『……千、尋……』
震えを帯びたか細い声だった。千尋は、和彦のこんな声を初めて聞いた。安堵していいのかわからないまま千尋は問いかける。
「先生、何があったの?」
『車が、ぶつかってきて――……』
「怪我はっ?」
『……多分、ぼくはない……。すまない、千尋。今は、落ち着いて話せない……』
そう言って電話は切れた。和彦の口調はひどく淡々として聞こえたが、おそらく茫然自失の状態の中、それでも千尋の問いかけに答えてくれたのだろう。
すぐに電話をかけ直すのは酷だと思った千尋は、このまま部屋を飛び出し、和彦のもとへと向かいたかったが、肝心の和彦がどこにいるのかわからない。クリニックから総和会本部に帰る途中だったのは確かだが、それを探すのは時間がかかりすぎる。
千尋はイライラしながら室内を歩き回り、まずすべきことを頭の中で整理する。
和彦が乗った車に、他の車がぶつかったらしいが、寸前の会話では、不審な車がついてきていたということなので、故意である可能性が高い。
なんのために、と自問したところで、千尋は部屋を出る。慌しく一階に下りると、詰め所に向かおうとしたが、この時間だとダイニングのほうが早いと、方向を変える。
夕食の時間を前に、組員の何人かがダイニングのイスに腰掛け、砕けた様子で談笑していた。千尋に気づくなり、笑顔のまま立ち上がろうとしたので、素早く手で制し、厳しい表情で告げた。
「――総和会の車に乗っていた先生が、事故に遭った。電話で寸前まで先生と話していたが、どうやら、何者かの車が故意にぶつかってきたようだ」
組員たちが息を呑んだ気配がしたあと、陶器をぶつけたような音がした。姿を見なくても、キッチンにいる組員の動揺が伝わってくるようだ。
「先生が電話でまともに話せる様子じゃなかったから、俺は総和会のほうに状況の説明を求める。オヤジには、誰か知らせてやってくれ」
「多分、組長は今、携帯の電源を切っていると思います。今日は会合で……」
賢吾の今日の予定を思い出し、千尋は大きく舌打ちをする。電話が通じないどころか、遠出をしているため、連絡を受けてすぐに帰ってこられる距離ではないのだ。
「オヤジ以外の人間には通じるかもしれない。同行している連中の携帯を片っ端から鳴らせ。状況を説明して、なるべく早くオヤジに伝えてやってくれ。それと、総本部に詰めているうちの連中にも連絡を。総和会の動きが知りたい。大事になっていたら、警察の目があって迂闊に動けないからな」
「了解しましたっ」
すでにもう夕食どころではない。組員たちがダイニングを出ていき、千尋は落ち着いて電話をするため、一旦自分の部屋に戻る。
ベッドに放り出したままの携帯電話を取り上げ、大きく深呼吸をしてから総和会本部の番号を表示する。守光に直接連絡しようかとも思ったが、やめておいた。
いくら祖父の守光が総和会会長とはいっても、通すべき筋がある。和彦が、総和会に護衛されている状況で危険な目に遭ったのなら、すべては総和会の仕切りによって行われ、そこに総和会としての面子が関わってくる。
総和会に名を連ねる他の組は、何かあるたびに、会長に直接連絡などしない。その特権は、あくまで血縁者だからこそ許されるものだ。
面子が関わる場で特権を行使することは、反感を覚悟しなければならない。和彦が、総和会会長の側にいる状況で。
もう一度深呼吸をしてから電話をかける。しかし、電話はすぐに留守電のアナウンスに切り替わった。いつもなら、ほぼ時間に関係なく誰かが電話に出るはずなのに。
一度電話を切ってから、かけ直してみたが、やはり同じだ。別の番号――部署にかけてみるかと、携帯電話を操作していた千尋だが、ふと手を止める。あいつにも知らせたほうがいいのだろうと、唐突に思った。
和彦にとって特別な存在である三田村に――。
献身的に和彦を愛し、尽くしている男だ。和彦に何かあったとなれば、情報を知りたがるだろう。たとえ、和彦のもとに駆けつけることができなくても。
このとき千尋の胸の奥で、不快な軋みが起こる。それがなんであるか千尋はよく知っている。対処するのは慣れたが、いつまで経っても慣れない苦しさがある。
千尋は眉をひそめると、自分に言い聞かせる。
中途半端な情報を知らせたところで、三田村を苦しめるだけだろう。少なくとも和彦は無事なのだ、と。
深呼吸を三回繰り返したところで、不快な軋みはなくなる。千尋は何事もなかったように、総和会本部へと電話をかける。
自分にとってかけがえのない人の安全は確保できているのか、確認するために。
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