書棚に本を戻した玲(れい)は、外から聞こえてくる掛け声に気づき、ふと窓のほうを見る。校舎二階の端にある図書室は、窓を開け放っているおかげで、グラウンドからの音がよく聞こえる。
誘われるように窓に寄って見下ろすと、グラウンドの一角では陸上部が練習をしていた。ここ数年は競技によっては全国大会にも出場しているため、それに伴い練習にも熱が入っている。
玲も、およそ三か月前までは、部員の一人としてあの中で練習していたのだが、高校総体を最後に引退した。今は受験生らしく、とりあえずまじめに勉強に励む日々だ。
鞄を小脇に抱えて図書室をあとにする。玲は廊下を歩きながら、名残り惜しく陸上部の練習風景を眺めていた。現役の頃は、何が楽しくて走っているのだろうかと自問することもあったが、いざ競技から離れてしまうと、体を動かしたくてウズウズする。これは、体育の授業ぐらいではどうにかなるものではない。
こんな感覚も、夏休みを終える頃にはなくなっているのだろうかと思いながら、スマートフォンを取り出して時間を確認する。
「やべっ、もうこんな時間か……」
小走りで階段を駆け下り、校舎を出る。途端に、容赦ない陽射しが頭上から降り注いできた。
暑い、と呟いて顔をしかめる。それは玲だけではなく、補習を終えて帰路につく生徒たちは似たような表情となっている。
夏休み期間中とはいえ、気楽さとは程遠い。玲自身は、厳しいプレッシャーをかけられる環境にいるわけではないのだが、自分の同級生たちがピリピリしていると、どうしても引きずられる部分がある。
明日は補習をサボってプールにでも行こうかと、ぼんやりと考えていたが、今はそれどころではないことを思い出して駆け出す。
高校近くのバス停に向かうまでの間にも、半袖シャツから出た腕がじりじりと陽射しで焼かれる。もうすぐ来るバスを逃すと、次は三十分後だ。しかも、日よけすらないバス停で待つことになる。
元陸上部の脚力を活かして、なんとかバスには間に合ったが、乗り込んで座席についたときには、全身から汗が噴き出していた。
車内の冷房はあまり利いているとはいえず、ぬるい風がときおり肌に触れるぐらいだ。玲はあくびをしてから、車窓の向こうを流れる景色を眺める。
ごくありふれた街並みだった。間違っても都会と呼べる規模ではないが、だからといって田舎というほどではなく、それなりに何もかもが整っており、にぎわってはいる。ただし、玲を含めた同年代の人間の大半は、やはりどうしてもこう感じるのだ。刺激が少ない、と。
求める刺激は人それぞれだろうが、玲が何より味わいたいのは、開放感だった。この街は、とにかく顔見知りが多すぎて、どこに行くにも気をつかう。
ようやく汗が引いてきたが、その代わり、自身の汗臭さが気になってきた頃、バスを降りる。再び汗をかきながら、自宅マンションへと帰り着いた。
鍵を開けて玄関に入ると、いい匂いが鼻先を掠める。玲は鼻を鳴らしながら、まず先にダイニングを覗く。
ちょうどテーブルに皿を並べていた春江が、玲に気づいて笑いかけてきた。
「お帰りなさい。晩ご飯は一人分でいいって言われてたんだけど、少し多めに作っておいたから、冷めたら冷蔵庫に入れておいてね。あの人が、食べたいと言い出すかもしれないから」
「わかりました……、けど、今日、父さん帰ってくるんですか?」
「玲ちゃんに話があるそうだから、そのつもりでしょう」
玲が微妙な表情を浮かべると、春江が悪戯っぽい表情を浮かべる。三十代後半になるはずだが、こういうときの表情は妙に少女っぽい。化粧っ気のなさが特にその印象を強めるが、これで数時間後には、高級クラブのママとして、艶やかな微笑みを浮かべて客を接待しているのだから、女の変わり様は怖い、と玲は内心で思う。
「……春江さん、何度も言いますが、俺のことを『ちゃん』付けで呼ぶのは――」
「玲ちゃんが、わたしに敬語を使うのをやめたら、『くん』付けで呼んであげる」
玲が微妙な顔となると、春江が楽しげに声を上げて笑う。
「もしかして、恋人に呼ばれてる? 玲くん、って」
「いませんよ、そんなの。俺は父さんと違って、モテないので」
「あなたのお父さんは、モテすぎ。あなたは……顔立ちは十分いいんだけど、ちょっと愛想が足りないのかしら。あと、目つきが悪い。唇もへの字に曲げないほうがいいかな」
「――……けっこう手厳しいっすね」
苦笑いした玲は、一度自分の部屋に行って鞄を置き、着替えを持ってダイニングへと戻る。春江は洗い物をしており、その姿を玲は眺める。
春江はいわゆる、玲の父親の愛人だ。玲が中学に入った頃から、この家に出入りするようになり、家事だけではなく、玲の世話もしてくれている。父親は今のところ独身なので、籍を入れないのだろうかと思わなくもないが、これは余計なことだろう。
なんといっても玲の父親は、モテすぎる以外に、いろいろと問題を抱えている。
玲が立っていると気づいていたらしく、背を向けたまま、柔らかな声で春江が言った。
「玲ちゃん、早くシャワー浴びてきなさい。忘れずに、シャツは洗濯機に入れておいてね」
「わかってます。春江さん」
春江がちらりと振り返ったが、そのときどんな表情をしていたか、あえて確認しなかった。
机に向かって勉強をしていた玲は、物音を聞いて顔を上げる。卓上時計は午後十時を少し過ぎた時間を示していた。
短く息を吐き出して立ち上がり、軽く屈伸をすると、体中の関節が鳴る。ここでまた、ドアの向こうで物音がして、ついでに人の声もした。
ドアを開けると、案の定、父親が廊下に転がっていた。
「――……おい、こんなところで寝るな。ベッドに行け」
「連れて行ってくれ」
玲は小さく舌打ちする。
「送ってきてもらったんなら、ついでにベッドまで運んでもらえばいいだろ。オヤジさんのためなら、って、みんな喜んで世話してくれるんじゃないのか」
「そのみんなが、気をつかってるんだよ。ご子息が勉強なさっているのに、騒いで邪魔するわけにはいきません、と言って」
「……それで、父親が一番邪魔してるんだから、笑えねーよな」
玲は屈み込み、父親の腕を取って肩に回させる。なんとか抱え起こすと、半ば引きずるようにして寝室へと運んでいく。
高そうなスーツがシワになるのもかまわず、ベッドの上に放り出す。寝苦しければ、自分で勝手に脱ぐだろうと判断してのことだ。実際、もそもそと身じろいでから、父親はジャケットを脱ぎ始める。せめてもの親切心から、玲は冷房を入れてやる。
さっさと部屋を出ていこうとして、酔っ払っているとは思えない明瞭とした声で父親が言った。
「――玲、明日、俺と出かけるぞ」
「明日、補習あるんだけど」
「一日ぐらいかまわねーだろ。お前の頭のよさなら」
父親は、息子の学力を過大評価しているきらいがある。一言いっておこうとしたが、父親はさらに続けた。
「お前にスーツを作ってやる。パリッとした、いいやつをな」
「……なんか、あるのか?」
父親の説明は端的だった。恩人の祝いの席が設けられることになり、そこに玲を伴って出席するのだという。
ここ最近の父親の仕事ぶりについては、それとなく玲の耳にも入っている。導火線に火をつけたがる性分が、そろそろ疼き始めているのではないか、と父親をよく知る人たちが噂していることも。
こういうことが自分の耳に入るから、この街には少しうんざりしているのだ。
「俺は別に、行かなくてもいいだろ。父さんの仕事とは関係ないんだから……」
今度こそ部屋を出ようとしたが、息子のツボを知り抜いている父親の言葉に、また足を止めていた。
「お前がガキの頃から気にしていた奴に、会わせてやる」
玲が振り返ると、いつの間にか父親は起き上がり、意味ありげな笑みを見せている。
「誰?」
「――俺の、可愛い〈オンナ〉だ」
その言葉を聞いた瞬間、玲の鼓動が一度だけ大きく跳ねる。なんとか感情が表に出るのは堪えたが、玲の胸の奥に広がった波紋が見えたかのように、父親の笑みが一層深くなる。
「もう……、何年も、連絡取ってなかったんじゃないのかよ」
玲が発した声は、微かに掠れていた。
「そういうことは関係ない。そんなことじゃ、俺とあいつの仲は切れない」
「ずいぶんな自信だな」
「それぐらい、可愛がってやったからな」
「あんたは会いたいだろうが、俺は別に――」
「会いたくないか?」
父親の問いかけは、すべてを見透かしたうえでのものだ。玲は、じろりと睨みつけると、乱暴にドアを閉めて自分の部屋へと戻る。すぐに机に向かう気にはなれず、乱暴にベッドに横になった。
天井を見上げながら玲は、しみじみと思うことがあった。自分の父親は、ぶっ飛んでいると。
離婚歴三回、愛人は複数。自宅への出入りを許しているのは春江だけだが、父親は別宅を持っており、そこには複数の女が出入りしている。とにかく、性愛に対して自由奔放なのだ。――六十歳を過ぎているというのに。
玲はそんな父親を間近で見続けており、当の父親も悪びれることなく明け透けにしているため、父子間で後ろ暗さはない。到底、健全とは言いがたいが、家庭環境を考えれば、瑣末なこととも言える。
玲はそんな父親から、まるで童話代わりのように、昔から繰り返し話し聞かされていることがあった。
唯一、一目惚れして、強引に自分のものにしてしまったという、〈オンナ〉の話だ。
子供の頃はよくわからないまま聞き入っていたが、さすがに中学生になる頃には、父親の言うことがどれほどとんでもないことか理解できた。
しかし不思議と、嫌悪感は湧かなかった。それどころか、知識が増えた分、さまざまなことを想像するようになった。それはもう、妄想と言っていいかもしれない。
父親の〈オンナ〉はどんな顔立ちをしているのだろうかと、数えきれないほど脳裏に思い描いた。優しげなのか、冷たいのか、それとも凡庸か。体つきは、性格は――。
繰り返すうちに、玲の中で一つのイメージが生まれ、根付き、閉じた瞼の裏にはっきりと浮かび上がるほどになった。だが、想像は想像だ。どれだけ鮮明に描いたつもりでも、目を開けた瞬間、曖昧な輪郭となって溶けてなくなってしまう。
そのとき噛み締めるもどかしさが、次第に手に負えないものになりつつあることを、密かに玲は自覚していた。
父親の誘いは、こんな状態を断ち切るには、いい機会なのかもしれない。一度会ってみて、こういう人なのかと、軽い失望のようなものを味わって、それで終わりだ。
玲はゆっくりと目を閉じて、いつものように想像の中にいる人の姿を呼び起こす。
自分だけが知る〈オンナ〉の姿を。
「……会って、みたいな」
何もかも父親の思惑通りのようで悔しいが、これが今の玲の偽らざる気持ちだった。
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