と束縛と


- Extra51 -


 まだ、夢の中にいるようだった。
 甘く掠れた声で何度も名を呼ばれ、そのたびに背筋にゾクゾクするような疼きが駆け抜けた。耳朶を掠めた唇や吐息の感触に、興奮しすぎて気が遠くなりそうだった。
 抱き締めた体は細身ではあったが華奢ではなく、滑らかな肌の下に、しなやかな筋肉が張り詰めていた。これが男の体なのだと実感しながら、不思議なほど抵抗感はなかった。
〈あの人〉の汗の匂いをもう一度嗅ぎたいなと思っているうちに、無意識に鼻を鳴らす。そんな自分に気づいた玲は、誰も見ていないというのに、誤魔化すように鼻を擦った。
 昨日、連休は終わったが、玲の意識はいまだに、その連休中の思い出に囚われている。もっと正確に言うなら、佐伯和彦という一回り以上年上の同性に、のぼせ上がっていた。
 大げさではなく、世界が一変したようだった。
 たった一つの経験を経ただけだというのに、自分が変わり、そんな自分の目を通して見る世界が、とんでもなく楽しいことに満ちているような、そんな感覚に陥っている。
 連休中の出来事を、もう何度、頭の中で繰り返したかわからない。気がつけば、〈あの人〉のことを考えているのだ。
 いつの間にか手が止まっており、我に返った玲は、慌てて紙袋から土産を出して並べていく。
 御堂に発送を頼んでおいた土産が今日届き、さっそく開けているところだった。
 紙袋ごと、わざわざ段ボールに詰めてくれており、さらに、玲が買った覚えのない菓子まで入っている。押しかける形で滞在したうえに、何から何まで御堂に世話になってしまった。
 あとでお礼の電話をしておかなければと思いながら、小分け用の袋に、土産を入れていく。明日、友人や、部活の後輩たちに配るためだ。それだけではなく、日ごろ、何かとお裾分けをくれる近所の人たちにも持っていかなければならない。
 父親である龍造の仕事が仕事なので、周囲から孤立しても不思議ではない環境なのだが、組の根回しが効いているのか、龍造の人徳なのか、居心地が悪い思いをしたことはない。
 そのため玲としては、良好なご近所つき合いのために相応の努力を怠るわけにはいかなかった。
 もっとも、玲が大学進学を果たしたときには、このマンションを引き払うことになっているのだが。
 紙袋を引っ繰り返すと、底から小さなぬいぐるみがコロコロと転がり出てくる。それを見た瞬間、玲の胸に甘く苦しい感覚が広がる。ゲームセンターで、〈あの人〉の見ている前で獲った景品だった。
 ぬいぐるみを手に取り、玲はため息交じりにぼやく。
「ダメだっ……。とてもじゃないけど、勉強が手につかない……」
 格好をつけて、地元に戻ったら受験勉強をがんばらないと、などと言ったが、今の自分は完全に腑抜けていると、誰かに指摘される前に、玲自身が痛感している。
 もう少し時間を置けば、多少はマシになるのだろうかと、本気で不安になってくる。
 もう一度ため息をつこうとしたとき、インターホンが鳴った。今日は春江は来ないはずだがと思いながら、慌てて部屋を出る。
 インターホンに応対すると、画面に映ったのは、春江同様、玲にとっては馴染み深い人物だった。
『坊っちゃん、開けてください』
「……瀬名(せな)さん、いい加減、その呼び方はやめてくれませんか」
『オヤジさんに言われたら、考えます』
 さらりと返され、玲は反論を考えるのも面倒で、エントランスのオートロックを開ける。ついでに玄関のドアも開けておくと、数分ほどしてにぎやかな声がした。
「坊ちゃん、相手を確認するまで、玄関のドアは開けちゃダメですよ。もしかすると、エレベーターの中で俺が襲われて、別の奴がこの部屋に来る可能性だってあるんですから」
 派手な足音とともに、ダイニングに瀬名が姿を見せる。短く刈った髪を金色に染め、スーツをちょっと崩して着た姿は、見るからに堅気ではないのだが、妙に愛想がいいせいか、ギリギリのところで相手に警戒心を抱かせない。
 伊勢崎組の組員で、まだ二十代前半ということで、主に雑用のような仕事ばかりをしているらしいが、その仕事の中に、玲の世話係というものがある。
 たいていのことは自分でできるし、龍造の愛人である春江もいろいろ手伝ってくれるから必要ないと言っているのだが、清々しいほど聞き流されている。
 瀬名をマンションに通わせることで、玲の安全に気を配っているとわかってはいるのだが、いつまで経っても改まらない『坊ちゃん』呼びには、少々辟易していた。
 瀬名は、玲を感慨深そうに見つめてから、にっこりと笑いかけてくる。
「連休中は疲れたんじゃないですか。オヤジさんに同行して」
「父さんのお守り自体は大変だったけど、それ以外では自由に動き回れたから、楽しかったですよ」
 ここで玲は、あっ、と声を上げてから、一旦自分の部屋に行く。土産を入れた紙袋を手に、再びダイニングへと戻った。
「これ、組の人に。土産です。帰りに空港で父さんに聞いたら、何も買ってないって言ってたし」
 大げさなほど礼を言って受け取った瀬名が、しみじみといった様子で洩らす。
「本当によく気が利きますね、坊ちゃんは。それだから、オヤジさんはいろいろと期待するんですよ」
「……それらしいこと、言われたことはないけど」
 だが、他人の口から聞かされた。
 龍造は、何かを始めようとしており、そこに玲も巻き込もう――加えようとしている。向こうでの行動も、御堂の口から玲に伝わることを計算してのものかもしれない。なんといっても、食えない男だ。
 地元に戻ったらさっそく問い詰めようと考えていたのだが、昨日龍造は、一旦マンションに戻ってはきたものの、すぐに出て行ってしまい、今日はまだ顔も合わせていない。とにかく、忙しそうなのだ。
「土産……、本当は組の分は買わなくてよかったのかな。向こうで父さんに、誰かついていたんでしょう?」
 玲としては鎌をかけたつもりなのだが、瀬名はヘラヘラと笑って首を横に振る。
「若頭たちが、何度も言ってたんですけどね。護衛を連れて行ってくれって。結局、みんな置いてけぼりです」
 瀬名は、何もかも知ったうえでとぼけているのか、本当に何も知らされていないのか、愛想がいい顔から読み取ることはできない。組長の息子である玲の世話係を任されているだけあって、見た目通りの男ではないのは、周囲の噂から、なんとなく察しているのだ。
「……まあ、とにかく、父さんに話があるから、さっさと家に戻って来いと言っておいてください。俺が携帯にかけても、出ないんで」
「忙しいんですよ、オヤジさん。バタバタと事務所を出たり入ったりして。昨日から泊まり込んでいて――」
 そこまで話した瀬名が、ポンッと手を打つ。
「あっ、そういえば、土曜日に、お祝いをすると言ってましたよ」
「なんのです」
 玲の問いかけに、にんまりと笑みを浮かべた瀬名が、こちらを指さす。
「俺……?」
「玲が〈男〉になったと、オヤジさんが喜んでました。俺の息子なんだから、女から可愛がられないはずがないと、よくぼやいてましたから。けっこう本気で心配していたんだと思いますよ。父親の仕事のせいで、人間不信になっているんじゃないかとか」
 我がことのように嬉しそうに話す瀬名を無視して、玲は低い声で呟く。クソオヤジ、と。
 自分の身に起こったことを、当然玲は龍造に打ち明けていないし、誰にも打ち明けるつもりもなかった。
 厄介な大人の事情があることは理解しているため、とにかく〈あの人〉にだけは迷惑をかけたくなかったのだ。
 だからこそ、龍造の前では平静を装っていたのに――。
「――……瀬名さん、スマホ持ってますよね。ちょっと貸してください」
「へっ? あっ、ああ、持ってますけど、どうするんですか?」
「さっき言った通り、俺のスマホからかけても出ないので、瀬名さんのスマホからかけたいんです」
 戸惑った様子ながら、大事な組長の息子からの頼みということで、瀬名はあっさりと貸してくれる。
「……念のため聞きますが、オヤジさんが電話に出たら、どうするんです?」
「家に呼び戻します。無理だと言うなら、俺が事務所に押しかけます」
「それで……?」
「シメます。いや、あのキザったらしい髪を、切り落としてやってもいいかな」
 真顔で語る玲から何か感じたのか、慌てた様子で瀬名が諭してくる。曰く、何事も、暴力を振るう前に、まずよく語り合うことが大事だと。
 説得力があるのかないのか、よくわからないなと思いながら、スマートフォンを耳に当てる。
 さきほどまで、甘い夢の余韻に浸っていたというのに、あっという間に自分にとっての日常に引き戻される。これで思うさま龍造を怒鳴りつけたあとは、否が応でも受験勉強に身が入りそうだった。
 来春、確実に〈あの人〉に会うために。









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