と束縛と


- Extra54 -


 世間は盆休みで、帰省だ旅行だと頻繁にニュースが流れる中、真也は普段と変わらない日常生活を送っていた。これは、公務員としては仕方のないことだ。
 他人が優雅に夏休みを満喫しているからといって、特に羨ましいという気持ちにもならない。仕事で関わりのある民間企業から、問い合わせの電話がかかってこないというだけで、とりあえず快適な土日は過ごせるのだ。
 特に、〈彼〉と一緒に過ごしている間は、これは非常に大事なことだ。
 シャワーを浴びて出た真也は、オレンジジュースを注いだグラスを手に部屋に戻る。さきほどまでテレビを観ていた彼――和彦の姿は、ベランダにあった。
 一体何をしているのかと窓に近寄ると、空気が震えるような重々しい音が聞こえてきた。そこで、ああ、と真也は声を洩らす。今夜は近くで花火大会が催されているのだ。あいにく真也のマンションの部屋からは、まったく観ることができない。
 もしかして行きたかったのだろうかと、やや不安を覚えながら、タンクトップを着た和彦のほっそりとした後ろ姿を見つめる。
 今日は朝から和彦と一緒に過ごしている。ここぞとばかりにドライブに連れ出してあちこち見て回り、買い物と食事をしてから、少し前に部屋に戻ってきた。こんな機会は滅多になく、和彦よりもむしろ、真也のほうがはしゃいでいたかもしれない。
 知らず知らずのうちに頬が緩む。すると、何かを感じたように前触れもなく和彦が振り返り、真也に気づいて目を丸くする。次の瞬間、屈託ない笑顔を浮かべた。
 真也は窓を開けて声をかける。
「気になるなら、花火大会に行ってみる? 多分、人も車も多すぎて、会場には入れないと思うけど、雰囲気は味わえる」
「行かない。もうシャワー浴びたから、また汗かくの嫌だし。それに、夜はのんびりしたいな」
 意味ありげな流し目を寄越されて、真也は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。高校生になった和彦との〈特別な関係〉はますます深くなり、比例するように、真也は和彦にのめり込んでいた。
 和彦を大事に慈しみたいという気持ちは出会った頃から変わらない。ただ、当初の頃に持っていた純粋な庇護欲はわずかで、今は利己的な欲望による部分が大きい気がする。
 部屋に入ってきた和彦の剥き出しの肩に手をかける。夜になっても外はまだ気温が下がっていないらしく、滑らかな肌は汗ばんでいた。
 テーブルについた和彦がオレンジジュースを美味しそうに飲み、傍らに座った真也は、そんな和彦を眺める。横顔も腕も、日焼けした様子はほとんどない。
 和彦に、今日までの夏休みの過ごし方を聞いたが、無理もないといえる。高校での補習の他に、予備校にも通い、それ以外ではほとんど家から出ないのだという。もともと活発に出歩くタイプではない和彦だが、もしかすると家族――佐伯家の人たちに何か言われているのかもしれない。
 佐伯家での和彦に対する寒々とした扱いを思い出し、真也はそっと眉をひそめる。粗雑に扱われているとか、虐待されているとか、そういうわかりやすいものではないのだ。率直に表現するなら、和彦は佐伯家の中で、家族の一員という扱いを受けていない気がする。
 そもそも今、和彦が真也の部屋にいるのも、そのことが関係あった。
 昨夜、真也の上司でもある佐伯俊哉から電話がかかり、土日の間、和彦を預かってほしいと言われたのだが、理由を聞いて、首を傾げずにはいられなかった。
 グラスを空にした和彦の髪を、そっと指先で梳く。真也から言わずとも、和彦がまるで猫のようにするりと身を寄せてきたので、すぐに両腕の中に閉じ込める。
 和彦の髪に唇を押し当て、真也は問いかけた。
「――法要があるんだってね」
 和彦が、小悪魔的な雰囲気の漂う上目遣いで見上げてくる。
「父さんたち?」
「電話でそう言われていた。だから君を、預かってくれと」
「母さんの実家でね。曽祖父の何回忌って言ってたかな……。ぼくには教えてくれないから、よくわからないな」
 さらりと言う和彦のことが不憫に思え、真也は抱き締める力を強くする。
「別に……、母親の実家に連れて行くことぐらい、かまわないじゃないかと、おれは思うんだけど。今は夏休み中だ。それでなくても君は、家と学校と予備校を往復するだけなんだし。君が家族とどこかに出かけたなんて話、いままで聞いたことがない」
「そうだったかな……」
「佐伯家は、君を放置してるのか、過保護なのか、よくわからないんだ。君を置いて行く一方で、おれには面倒を見てくれと頼む」
 密かに和彦の保護者のつもりでいる真也は、そのこと自体は嫌ではない。純粋に、佐伯家にとって和彦はどんな存在なのか、疑問なだけだ。しかし、佐伯家の事情に立ち入るなと、和彦の父親からしっかりと釘を刺され続けている。彼に忠実であることで、真也は省内での立場を確固たるものにしていた。
 佐伯俊哉は、権力の化け物だ。その化け物に気に入られているということは、望む道を容易に選べるということである。
 真也は、出世を望むふりをして、和彦の側にいる立場を得ているともいえる。この立場を失いたくない故に、佐伯家の事情には立ち入らない。
 自分のこのずるさを和彦には知られたくないと思いながら、そっとため息をつく。真也を気遣ったのか、まるで子猫がじゃれついてくるように和彦が頬ずりをしてきて、さらに、唇の端を舌先でちろりと舐めてきた。
 唐突に示された和彦の媚態に、真也は目を丸くしたあと、苦笑を洩らす。
「急にどうしたの?」
「里見さん、怖い顔してるから。……心配しなくていいよ。ぼくは別に、ひどい目に遭っているわけじゃない。少し変わっているかもしれないけど、大事にしてもらってるよ。――もちろん、里見さんにも」
 無自覚でこんなことを言っているのだとしたら、末恐ろしい。真也は、和彦の静かな目を覗き込みながら、汗の引いた肩先を撫で、次いで唇を押し当てる。
 タンクトップの下に片手を忍び込ませると、それだけで和彦は小さく声を洩らした。快感を期待している声だ。真也は白い耳に唇を這わせながら、熱い吐息とともに言葉を注ぎ込む。
「嬉しいことを言ってもらったばかりだけど、少しだけひどいことをしていいかな」
 数秒の間を置いて、コクリと和彦が頷いた。


 しばらく続いていた花火の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。和彦の乱れた息遣いも。
 真也が隣に視線を向けると、クッションを抱えるようにしてうつ伏せとなった和彦は、じっと正面の壁を見つめていた。こちらに注意を払っていないのをいいことに、ここぞとばかりに真也は、無防備に投げ出されている和彦の体を眺める。
 しなやかな背から腰にかけてのラインには、さきほど何度も唇と舌を這わせた。小さく締まった尻を優しく両手で揉むと、伸びやかな声を上げ、内腿にてのひらを滑り込ませると、微かな湿りを感じた。
 快感だけを与え続けて蕩けた体を抱き締めて、それだけで真也は満足した。別に、自分の欲望を散らそうという気にはならなかった。和彦が悦ぶことが、真也にとっての悦びなのだ。
 ふと真也は我に返る。クーラーで部屋が冷えすぎていることが急に気になり、和彦の体にタオルケットをかけてやろうとする。すると、前触れもなく和彦が言った。
「――母さんの実家にぼくを連れて行くのを、父さんがすごく嫌がってるんだ」
 少し前まで甘く喘いでいたとは思えない、怜悧な声だった。
「どうして?」
「ぼくを養子に欲しいと言われるから。……母さんの実家、大地主っていうのかな、山とかたくさん持ってるらしいんだ。今はいいけど、将来、そこを管理する人間がいなくなるから、とにかく姓を継いでほしいって」
「それは……、なかなか複雑な問題だな。ああ、じゃあ、君のお母さんは、一人娘ということか」
「一族のお姫様だって聞いたことがある」
 真也はもう何年も佐伯家に出入りしているため、和彦の母親とも当然面識がある。佐伯兄弟とよく似た面立ちをしてはいるのだが、女性的な優しさを感じさせない、少し冷たい雰囲気が漂っている。そういう部分は、和彦の兄である英俊と一層似ているといえた。
「……母さんと兄さんは乗り気なんだ、ずっと。佐伯の家は兄さんが継ぐんだから、ぼくは――っていうこと。だけど父さんが、いままで見たことがないほどすごく怒って、少なくとも家の中でその話が出ることはなくなった」
 ここで真也は、率直な疑問を口にした。
「君のお母さんの実家がそんなに立派なら、婿養子になれという話にはならなかったのかな。それとも、そんな話を断ったうえでの、君のお父さんの反応になるのかな」
 それは、と和彦が呟く。快感の余韻が完全に消えた、冴えた横顔を見せられて、真也はわずかに動揺する。ありえないことだが、さきほどまで愛撫に蕩けていたのは実は演技だったのではないかと、一瞬疑ったほどだ。
「いたんだ。お姫様はもう一人。だから母さんは反対されることなく、父さんと結婚して、佐伯姓になった」
「えっ……、いた、って?」
「――もういない。ずっと前に、いなくなった」
 どういうことなのか、もっと聞いてみたかったが、和彦はうつ伏せのままクッションに顔を埋めてしまう。眠くなったのかもしれないが、真也にはどうしても、しゃべりすぎたことを和彦が自省しているように見える。
 確信はないが、佐伯家の深い事情の一端に触れたと思った。人によっては、〈闇〉と表現するかもしれない――。
 和彦の体にタオルケットをかけた真也は、気にしなくていいと伝えるため、汗で湿った髪を黙って撫で続ける。和彦が微かな寝息を立て始めるまで。









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