三田村の腕の中で、横向きとなっている和彦の体がわずかに身じろぐ。つい先ほど寝入ったと思ったのに、もう目が覚めたのだろうかと、三田村は背後からそっと和彦の様子をうかがう。聞こえてきたのは、微かな寝息だった。
ほっとした三田村は枕に頭を預け直す。このとき、和彦の白いうなじが目に入り、誘われるように顔を寄せる。まだ汗ばんでいるうなじに唇を押し当て、和彦の体に回した腕の力をほんの少しだけ強めると、行為のあとの気だるさを上回る充実感が、手足に満ちてきた。
この感覚を〈幸せ〉と呼んでもいいのだろうかと、いつも三田村は心の中で自問する。もちろん、答えは決まっていた。
鷹津が行方知れずになってから、和彦が重いものを胸の内に抱え込んでいることは、気づいている。それは三田村に限ったことではなく、おそらく和彦の周囲にいる男たちすべてが、何かしら感じ取っているはずだ。和彦が必死に押し隠そうとしているから、静観しているということだ。
和彦の何もかもを知りたいとは願うが、強引に暴き立てたいとは思わなかった。しなやかでしたたかではあるが、三田村を〈オトコ〉と呼んでくれる人は、ひどく繊細でもあるのだ。
現状、心穏やかな生活とは無縁であるだけに、和彦がほんの一時でも安らげるのであるなら、三田村はなんでもするつもりだった。突き詰めれば、その感情は独占欲に限りなく近い。
自分だけが、和彦の安らげる存在でありたいという――。
和彦の体温を感じながらこんな思索に耽られるのも、ある意味幸せなのだろうと、三田村は複雑な想いを込めて唇に笑みを浮かべる。このとき、再び和彦が身じろぎ、肩が揺れた。
無意識に腕の力を強めていただろうかと、密かに三田村は動揺する。静かに腕を引こうとしたが、その腕に和彦の指が食い込んだ。
「先生?」
低く抑えた声で問いかけた三田村は、すぐに和彦の異変に気づいた。いつの間にか息遣いが荒くなり、その下から苦しげな細い声が洩れ出ている。
三田村は素早く上体を起こすと、腕に食い込む和彦の指をなんとか引き剥がしてから、宥めるように髪を撫でてやる。その合間にライトをつけ、背後から和彦の顔を覗き込む。
ドキリとしたのは、眠っているとばかり思った和彦が、しっかりと目を開けていたからだ。
何かを見つめている、と感じたのは一瞬だ。三田村は、慌てて和彦の肩を揺さぶる。
「先生、どうかしたのか?」
怖いものから目が離せないかのように、和彦は瞬きをしていなかった。三田村はこの瞬間、和彦の意識を〈何か〉に連れ去られたのではないかと、本能的な恐怖に襲われていた。
和彦の肩を掴んで仰向けにすると、軽く頬を叩きながら何度も呼びかける。荒く浅い呼吸を繰り返しながら呻いていた和彦が、ようやく言葉を発した。
それを耳にした三田村は、悲鳴に近い声で呼びかけた。
「先生っ」
ようやく和彦が、こちらを見た。両目にはっきりと意思が宿り、三田村を認識している。
連れ戻せた――。
強くそう思った瞬間、自分がじっとりと嫌な汗をかいていることに三田村は気づいた。
翌日、本宅に顔を出した三田村は、待たされることなく応接間に通された。
ソファに腰かけた賢吾の姿を目にした途端、背にピリッと緊張が走る。背後でドアが閉まって二人きりになると、三田村は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。組長をお待たせしてしまいまして――」
「気にするな。さっきまで客が来ていて、わざわざ自分の部屋に引っ込むのが面倒だっただけだ。それに、大事で可愛い〈オンナ〉について気になることがあると言われればな」
艶と冷ややかさを含んだ流し目を向けられ、三田村は胸の奥を掻き回されるような感覚を味わう。一言では言い表されない感情の塊が蠢いているのだ。
賢吾に手で示されて、向かいに腰かける。前置きもそこそこに、まず最初の話題を切り出す。城東会顧問である館野のことだ。
三田村としては、恩義を感じている館野のことを、こんな形で賢吾に報告するのは本意ではない。しかし、自分が何か言われるのであれば大抵のことは腹に呑み込めるが、言われたのが和彦となると話は別だ。
館野にとって腹に据えかねてのことだと理解しているが、三田村にとってもまた、腹に据えかねていた。
三田村の話を聞き終えた賢吾は、口元に微苦笑を湛えてぽつりと言った。
「――……先生らしいな。誰にも言うなと口止めをしたか」
「先生が願うことならなんでも叶えたいと思ってはいますが、これだけは、自分の胸に仕舞っておくことはできませんでした」
「お前の判断は正しい。俺に話して正解だ」
三田村は黙って頭を下げた。
「もう少し、横着になってくれてもいいんだがな。あの先生にそれを望むのは、無理か」
これは問いかけではなく、独り言なのだろう。そう判断した三田村は返事はしなかった。
「館野顧問のほうには、俺から話しておく。あまり、うちの大事なオンナを苛めてくれるなと。まあ、そのつもりはないんだろうがな。あの人はいつだって、組が大事、預かった若頭が大事、だ。それでも、わかってもらわなきゃいけないこともある」
「わたしが先生から無理やり聞き出して、勝手に行動したことです。お叱りは、わたし一人が受けると――」
「その言葉は必要ない。きっと、俺に対する苦言も込めて言ったんだろう。城東会の安定には、長嶺組の安定が不可欠だ。さながら先生は、傾国の……、と思われているのかもな。とにかくお前は、館野顧問の件は何も心配するな」
ここで一旦言葉を切った賢吾が、ずいっと身を乗り出してきた。いくらか険しさを増した怜悧な眼差しは、容赦なく三田村の心の奥底まで穿ってくる。隠し事は許さないと、その目は言っていた。
「まだ、気になることがあるようだな。今日は、こちらが本題か?」
ごくりと喉を鳴らしてから、三田村は返事をする。
「……はい」
「深刻そうだな。何があった」
賢吾に促され、三田村は今朝の和彦の様子を思い返す。少し顔色が悪く、どこか思い詰めているようにも見えたが、三田村が話しかけるといつものように受け答え、別れ際には口づけも求めてくれた。
その余韻が完全に払拭されていることを願いつつ、三田村は話し始める。
「もしかすると、そんなことと言われるかもしれませんが、昨夜、先生がうなされていたんです。怖い夢を見たと言ってはいましたが、とにかく、尋常な様子ではなくて……。瞬きもせずに目を見開いていました。どこを見ているのかわからない目をしていて、なんとか正気に戻らせたんですが、そのときに、気になる言葉を呟きました」
「なんと?」
「――『父さん』と、一言だけ」
ソファの背もたれにもたれかかった賢吾は、何か考え込むようにあごに手をやる。三田村は息を詰め、そんな賢吾の反応を待つ。
和彦には、本人が洩らした一言を告げていない。実家のこと――というより家族のことを話すのを、和彦があまり好んではいないというのもあるが、和彦自身が自覚していないのなら、あえて知らせる必要はないと考えたのだ。
「三田村」
再び身を乗り出してきた賢吾が指先を動かしたので、三田村も倣って密談の姿勢となる。
「鷹津が今どこにいるか、気にならねーか?」
思いがけない質問に、三田村は顔を強張らせる。咄嗟に答えを口にできなかったが、気にしたふうもなく賢吾は続けた。
「俺はずっと考えている。あの男が尻尾巻いて俺たちの前から逃げ出すことは、まずありえない。先生を連れ出すなんて突拍子もない行動だって、とち狂ったからなんて理由が納得できるか? あの男は、サソリだ。鋭い一刺しの瞬間を狙っているはずだ」
「鷹津の考えていることが、わかるんですか?」
「いや……。だがな、俺たちは厄介な男を野放しにしちまった。総和会が追っかけ回したせいでな。――鷹津の強みは、元警官っていう経験以上に、いろんな情報を持っているということだ。俺たちの情報だけじゃなく、俺たちが大事にしている〈オンナ〉の情報もな。さあ、その情報を今、誰が一番高く買い取ると思う?」
三田村も、鷹津がおとなしく身を隠しているとは考えていない。いつだって、和彦の存在を陰から見つめているのではないかと、気にかけている。
和彦が鷹津に連れ去られたと聞かされたときに味わった絶望感と喪失感は、あまりに強烈だった。いまだに三田村の心を苛むほどに。
賢吾の質問に、心の中で答えた瞬間、どす黒い感情が湧き起こるのを抑えられなかった。
「……鷹津は、そこまでするでしょうか。あの男も、先生と家族の間に確執があることを知っているはずです。そんな……、先生を苦しめるようなことを――」
「それに関しちゃ、俺も偉そうなことは言えない。最初に先生にとんでもない苦しみを経験させて、こちらの世界に引きずり込んだからな」
「それは……」
「実際のところ、鷹津はとっとと遠くに逃げ出したのかもしれない。が、俺は臆病だから、あらゆる可能性を考える。最悪な事態ですらな」
『最悪な事態』がなんであるか、賢吾は具体的には言わなかった。三田村も薄々予測はついたが、口にした途端、現実のものとなりそうで、黙っていた。
「先生は、鷹津に連れ去られたあとからずっと、何かを胸に抱え込んでいる。隠し事が下手なくせに、隠し事が次々できるから、性質が悪い。俺たちで気を回してやらないと、パンクする」
「わたしは、先生が必要としてくれるときに、寄り添うだけです。それしか、できないんです」
賢吾は薄い笑みを浮かべた。蛇の気質を表すような酷薄そうな笑みだ。
「――三田村、お前は一度でも考えたことはないか? 鷹津のように、先生を連れ去ることができたら、と」
三田村は、完璧な無表情を保ちながら、賢吾に対する恭順を示すように視線を伏せる。
「わたしは、先生を連れ去るなんて、怖くてできません。きっとあの人は、俺という鎖を引き千切って、あっという間に元の世界に戻ってしまうでしょうから」
「俺は、お前がそう考えられる男だから信頼している。先生も預けられる。――命を張って守れよ」
普段からそのつもりで和彦の側にいるが、改めて賢吾から言われたことによって、使命感に火がつく。
三田村は両膝に拳を置いて頭を下げた。
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