第一遊撃隊長である御堂が数年におよぶ休養を経て、ようやく現場復帰を果たしたという事態は、多少、という表現が控えめに思えるほどの波紋を総和会の内部に広げている。
十一も組があると反応はさまざまで、警戒心や敵意を露わにするところがあれば、対照的に好意的な反応を見せるところがある。一番多いのは、第一遊撃隊の動きを見定めるため、表向きは無関心を装うというものだろう。
では、総和会で最大勢力を誇っている長嶺組はというと――。
マンションの一室に足を踏み入れた千尋は、まだほとんど荷物を解いていない状況に目を丸くする。
「ここに引っ越してきたのって、一週間前じゃなかったの? 全然片付いてないんだけど」
率直な感想を口にすると、シャツの袖を捲り上げた御堂が苦笑いを浮かべる。四十歳という年齢のわりにずいぶん若々しい容貌なのに、灰色の髪だけは老成した印象を見る者に与えてくる。
きっと計算したうえで、あえて髪を染めていないのだろうなと思いながら、千尋は抱えた観葉植物を一旦足元に置いた。
「これ、オヤジからの引っ越し祝い。それと、これも」
ジャケットの内ポケットからふくさに包んだ祝儀袋を取り出して、御堂に手渡す。軽く眉をひそめて御堂が洩らした。
「大げさだな。別に新居を建てたわけでもなく、マンションに引っ越してきただけだっていうのに」
「引っ越し祝いは、いい口実だって言ってたよ、オヤジ。おおっぴらに、第一遊撃隊に資金援助するわけにはいかないから」
賢吾から預かった祝儀袋は、けっこうな厚みがあった。引っ越し祝いとしては常識外れの額を包んでいたのだ。
御堂の色素の薄い瞳が一瞬鋭い光を湛える。人当たりがよさそうに見えて、ときおり苛烈な気性の地を覗かせるのは、昔から変わっていない。そのことに千尋は安堵しながら、袖を捲ったシャツから出ている御堂の手首をさりげなく見る。もともと細身ではあったが、一層痩せたようだ。
ただ、痩せ衰えたわけではない。余計なものを削ぎ落としたような、ある種の凄みのようなものを感じる。
総和会に戻る決断をしたということは、まだまだ若輩者の千尋には想像もつかないような覚悟があってのことなのだ。御堂のその覚悟に対して、賢吾は個人としてささやかな支援を行うのだという。守光が総和会会長である限り、長嶺組は表立って第一遊撃隊と友好関係は結べないためだ。
千尋の今日の役割は、父親の昔からの友人のもとに、使いとしてやってきたということになる。とはいっても、堅苦しいものではない。千尋は物心ついた頃から御堂を知っており、遊びに連れて行ってもらったり、勉強を教わったこともある。
勧められてソファに腰掛けると、御堂がキッチンに立って湯を沸かし始める。千尋は呆れながら声をかけた。
「誰か置いてないの? 御堂さんみたいな人が手ずからお茶を入れなくてもさ……」
「静養しているときは、お茶ぐらい自分で入れていたよ。それにここは、あくまでプライベートを保つための部屋で、うちの隊の人間を常駐させるつもりはない。とにかく今は、隊に必要な物件を手当たり次第に当たっているところで、まずはわたしの寝る場所を、というわけだ」
「ホテル暮らしは?」
「あまり気が休まらなくて、体調に障りそうだったんだ。長い滞在は無理だね」
ごつい体格をした組員などが言ったら鼻先で笑うところだが、御堂が言うと、なるほどと納得するしかない。
千尋が知る限り、〈オンナ〉という生き物はタフであると同時に、繊細だ。
ふとそんなことを思った千尋は、脳裏にある人物の顔が浮かび、つい苦々しい顔となっていた。
「――体調を気遣っているわりには、復帰早々から精力的に動いているって、オヤジが言ってたけど。さっそく、うちの先生とも仲良くなっちゃってさ」
「妬けるかい?」
肩越しに振り返った御堂に楽しげな様子で問われ、対照的に千尋はムッと顔をしかめる。
「その程度で妬いてたら、俺の身がもたない。先生は、人気者だから」
「基本的にしっかりしているけど、変なところで鷹揚というか、おっとりしているから、構いたくなる気持ちもわかるよ、彼は」
「構いたくなる、で済めばいいんだけどさー。……暴走した奴がいたんだよ」
千尋の声にわずかな憎々しさがこもる。和彦が鷹津に連れ去られたと聞かされたときの怒りと動揺が蘇り、いまだに冷静さを失いそうになるのだ。
おそらく事情を把握しているであろう御堂は、千尋の前にお茶の入ったカップを置くと、隣に腰かけた。そして、なぜか手荒く頭を撫でてきた。
「……何?」
「拗ねているように見えたから」
拗ねてないと強弁したが、頭から信じていないらしく、御堂は笑っている。この人にかかると自分もまだまだ子供扱いだと、千尋はそっと嘆息する。御堂だけではない。誰も彼もが、千尋を一人前とは見ていないのだ。和彦ですら。
「もしさあ、御堂さんが、今の先生の立場だとして、俺の存在をどう思う?」
「なんだ。引っ越し祝いはついでで、愚痴をこぼしにきたのか」
「愚痴じゃないよ。意見を聞きたいだけだ。人生経験豊富な人に」
千尋としては本気で言っているのだが、御堂にまた頭を撫でられた。
「お前は可愛いよ。子供の頃から周囲に大事にされて甘やかされてきたのは、それなりに理由がある。長嶺組の大事な跡目だというのもあるが、お前自身がそうされる資質があるからだ。だから、焦らなくていいだろ。今は子供扱いされていても、そのうち絶対に変わってくる」
「……うちのオヤジより、ありがたみのあるアドバイス……」
「まあ、お前のオムツを換えていたぐらいだから。こんなときぐらい偉そうなことを言ってみたくなるよ」
はあ、とため息をついた千尋は、お茶を啜る。御堂が療養している間、ずっと顔を合わせていなかったが、こうして並んで話していると、あっという間に昔の頃の空気に引き戻される。
おかげで、言いたくもない弱音を吐いていた。
「待っていてくれるかなー、先生。俺が一人前になるまで」
「傲岸不遜な長嶺の男らしくない発言だ」
「ときどき、先生が誰かに連れ去られて、二度と会えなくなる日が来るんじゃないかって、怖くなる。そんなことになったら、俺は――」
危うく物騒な言葉が口を突いて出ようとしたとき、聞き慣れない着信音が鳴り始める。御堂が素早く立ち上がり、棚の上の携帯電話を取り上げた。
抑えた声で二言、三言話した御堂が、うかがうようにこちらを見た。察するものがあった千尋は、もう一口お茶を飲んでから立ち上がる。
すぐに電話を終えた御堂にこう告げた。
「オヤジのお使いも済んだから、帰るよ。何か用事ができたんだろ?」
「まあ、そんなところかな……」
御堂の歯切れの悪い物言いが気になったが、深く問い詰めるほどのことでもなく、慌ただしく玄関へと向かう。
買ったばかりの革靴を履くのに四苦八苦していると、御堂が靴べらを差し出してくれた。
「千尋、今度はこっそりと外で食事しよう」
「こっそり?」
なんとか革靴を履いて顔を上げた千尋は、つい破顔する。
「そう。第一遊撃隊隊長が、総和会会長の孫を懐柔していると噂が立つのも嫌だろう。だから、こっそり」
「昔からのつき合いなんだから、堂々とメシぐらい行こうよ」
御堂は返事をせず、ひらひらと手を振って千尋を見送った。
エレベーターホールに向かいながら、千尋はネクタイを緩める。ふと、〈恋愛相談〉の途中だったことを思い出したが、引き返すわけにもいかない。また別の機会に、とひっそりと心の中で呟いた。
護衛の組員に今から降りると連絡をしてから、エレベーターに乗る。唐突に、和彦に会いたいと思った。いや、いつだって会いたいとは思っているのだが、何かの拍子に理性の箍が弾け飛びそうになる。
鷹津に丸一日連れ去られたあと、一人で戻ってきた和彦は、以来、ずっと人を遠ざけている。塞ぎ込んでいるというより、おそろしいほど淡々としているのだ。だからこそ、誰もが言い知れぬ危惧を抱き、和彦をそっと見守っている。さすがの千尋も、今の和彦には迂闊に近づけなかった。この世の誰よりも、嫌われたくない人だ。
エレベーターが一階に到着し、扉が開く。すでにもう組員たちが待機しており、何も言わないまま千尋を守るように囲む。いつもより護衛が大げさなのは、ここが第一遊撃隊隊長が住むマンションだからだ。誰が見ているかわからず、長嶺組として警戒しているというポーズは必要だった。
「……本当に、面倒だな……」
小さく洩らした千尋は、正面玄関に停まった車の後部座席に乗り込む。
シートにもたれかかり、千尋はなんとなくウィンドーの外へと視線を向ける。車が静かに動き出したとき、対向車が近づいてくるのに気づいた。ハンドルを握る人物がたまたま視界に入った次の瞬間、反射的に姿勢を戻す。
すれ違った車がどこに向かうのか、振り返って確認する。思った通り、御堂のマンションの駐車場へと入っていた。気づいたのは千尋だけではない。ハンドルを握る組員が口を開いた。
「千尋さん、今のは――」
「ああ」
清道会の組長補佐である綾瀬が乗っていた。なぜ、とは思わない。
御堂が若い頃、綾瀬のオンナであったのは、公然の秘密のようなものだ。その関係は、御堂が療養に入ったときに解消されたとなっているが、互いの立場が変わっても続いていたようだ。そのことに驚きはなく、千尋はシートに座り直す。
考えていたのは、和彦が今の御堂と同じ年齢になったとき、自分たち――自分のオンナでいるだろうかということだった。それ以前に、同じ場所にいてくれるだろうか、と。
和彦は御堂とは違う。自ら望んで今の立場にいるわけではなく、男たちが寄ってたかって情と打算で雁字搦めにした結果だ。
そこまでしても、ふいに和彦がどこかに行ってしまいそうで、千尋は不安だった。また、鷹津が和彦の前に現れるかもしれない。もしくは、鷹津のような男が。
「面倒だな……」
千尋はぽつりと呟き、つい甘い夢想に浸る。
自分の独占欲と執着心を満たすためだけに、誰も知らない場所に和彦を閉じ込めてしまえないだろうか、と。
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