と束縛と


- Extra65 -


 いかにも築年数が経っている、全体に薄汚れた鉄筋アパートを見上げた鷹津は、目的の部屋のカーテンが開いているのを確認する。
 明け方まで、その部屋の電気は煌々とついており、閉められたカーテン越しに住人の影がちらちらと見えていたのだが、どうやらやっと出かけたようだ。
 こちらも仕事の時間だと、鷹津は大きなナイロンバッグを肩にかけ直し、肩を竦めるようにして歩き出す。
 平日の昼間ということもあって、アパート全体はひっそりと静まり返っていた。ただ、周辺には工場やスーパーなどがあり、アパートの前の通り自体には、人や車の往来は多い。つまり、くたびれたスーツを着た男がうろついていたところで、さほど悪目立ちはしないということだ。
 鷹津は階段を使って三階まで上がると、軽く周囲を見回す。奥まった部屋に向かいながら慎重に気配を探ってみたが、どの部屋も人の気配は感じられない。
 おかげで、ゆっくりと〈仕事〉に取り掛かれそうだった。
 ジャケットのポケットから、金属製の細い棒を取り出す。古い知人から借りたもので、無茶をして折らないでくれと念を押されたが、あまり自信はなかった。初心者ではないつもりだが、年式が新しいものなら、挑戦する前に撤退したほうがいいとも忠告されたのだ。
「――クソがっ。現職刑事に、コソ泥の真似事をしてこいなんて、正気の沙汰じゃねーな」
 低く毒づいた鷹津だが、引き返すという選択肢はない。
 もう一度周囲の様子をうかがってから、ドアの前に屈み込み、鍵穴をじっと観察する。ありふれたシリンダー錠で、本職に言わせると、ありがたいほどチャチな鍵。
 鷹津はニヤリと笑みをこぼすと、金属の棒――ピッキング道具をくるりと指で回してから、さっそく鍵穴に差し込んだ。


 ゴシップ誌にヤクザ関連の記事を書き、ときには組事務所にも入ってインタビューを取ってきて、何冊もの本も出版している、裏社会専門のジャーナリスト。
 鷹津が侵入した部屋の住人の肩書きは、一応そうなっている。鷹津も記事を何度か読んだことがあるが、ヤクザの世界のほんの一端を、仰々しい言葉で書き連ねていた。取材力には定評があるらしく、ヤクザの側から何か情報発信をしたいとき、この手のジャーナリストは使い勝手がいいということで、取材のときも邪険には扱わないのだという。
 持ちつ持たれつといえば穏やかな表現だが、ダニ同士、親和性が高いのだろうなと、皮肉っぽく鷹津は思う。
 狭いワンルームを見回し、軽く鼻を鳴らす。ここが仕事部屋として使われていることも調査済みだ。壁一面を隠すように置かれたスチールラックには、ファイルやスクラップブックが並んでおり、職業柄らしい几帳面な性質がうかがい知れた。
 デスクの上のノートパソコンが気になるが、まずはその前に、スチールラックのほうを調べることにする。鷹津は革手袋をはめると、ファイルを一冊抜き取る。ファイルの背表紙にきちんと、取材した組の名を記してあり、しかも五十音順に並べてある。おかげで探す手間が省けた。
 鷹津は、ある組の名が記されたファイルを取り出す。組によっては、取材の成果の表れか分厚いファイルもあるが、鷹津が手にした組のファイルは極端に薄い。組織としては大きいが、内情が表に出ることは少ない組だ。つまりそれだけ、歴代の組長が抜け目なかったということだ。
 ざっと中身に目を通してから、自分のほうがまだ、この組には詳しいだろうなと思う。もちろん、そんなことに優越感を覚えるはずもなく、むしろ胸の悪さを覚えつつ、鷹津は次の仕事に取り掛かる。
 スチールラックに並んだファイルやスクラップブックを、片っぱしから床の上に落とし、踏み荒らしていく。まさに、いかにも侵入者が荒らしていったという状況を、あえて作り出しているのだ。
 さほど楽しくない作業はすぐに終わり、ようやく軋むイスに腰掛けて、デスク上のノートパソコンの電源を入れる。思わず舌打ちが出たのは、パスワードを要求されたからだ。ジャーナリストとして、最低限の用心深さは持っているということだろう。
 想定された事態ではあったので、焦りはなかった。鷹津は、ノートパソコンと外付けのHDDの接続を外してから、足元に置いたナイロンバッグに詰め込む。ついでに、デスクの鍵がかかった引き出しをドライバーでこじ開けて、きれいに整理されて並んでいるフラッシュメモリーや、デジタルカメラ用のものらしい何枚ものSDカードも、同じくナイロンバッグのポケットに入れた。
 他にそれらしいものはないだろうかと、本棚に並ぶ本の間や、小さな下駄箱、冷蔵庫の中まで探ってみたが、思わせぶりに何かを隠している様子はなかった。
 ひとまず、侵入者によって徹底した家探しが行われたという状況は演出できただろう。鷹津は室内をぐるりと見回し、自分の仕事の成果を確認する。部屋の住人がいつ戻ってくるかわからず、長居はできない。
 さっさと部屋を出た鷹津だが、一歩踏み出したところですぐに回れ右をして、ドアのノブを拭いておく。ヤクザと関係の深いジャーナリストの仕事部屋に空き巣が入り、徹底的に荒らされた状況を目の当たりにした警官が、事情を察しないことはまずありえない。その日のうちに、鷹津が所属する暴力団担当係に事情を聞きにくるだろう。
 ヤクザのおかげで美味しい思いをしているジャーナリストだ。どこの誰に反感を買っているか皆目見当がつかないと説明すれば、どれだけ熱心な捜査が行われるのか――。
 訪れたときより、いくらか重くなったナイロンバッグを肩にかけ、それでも軽い足取りで鷹津は階段を下りていく。〈仕事〉を終えて緊張から解放されたこともあり、皮肉っぽく独りごちる。
「警官を辞めたら、これを本職にするのもありかもな」
 そのあとに、こんな仕事を押し付けてきた男に対して毒づくことも忘れない。
 目立つことなく速やかにアパートから離れた鷹津は、事前に調べておいた停留所からバスに乗り込む。そこから十分ほど移動して駅前で降りると、近くのコインパーキングに停めた自分の車に乗り込んだ。
 一息つく間もなく、何より嫌な用事を済ませるため、さっそく携帯電話を取り出すと、ある番号へとかけた。
 呼出し音はなかなか止まず、もともと気が長いほうではない鷹津は猛烈に苛立ってくる。時間を置いてからかけ直すという選択肢はなかった。ただひたすら、相手が出るのを待つだけだ。電話をかけている鷹津も苛立っているが、電話をかけられている相手も、こうも長々と鳴らされると、多少なりと苛立つだろうという思惑もある。
 ようやく呼出し音が途切れ、わずかな怒気を含んだため息が、まず聞こえてきた。
「ムカつくなら、留守電ぐらい設定しておけ」
 先制攻撃とばかりに注文をつけると、背筋が寒くなるような低い声が返ってきた。
『物騒な用件を吹き込まれて、万が一にも警察に聞かれる事態になったらヤバイからな』
「……そのヤバイ用件を、刑事にさせた奴が何を言ってる」
 ここで、電話の相手である長嶺賢吾が、短く笑い声を洩らした。
『〈お使い〉はできたか?』
「ぶち殺すぞ、クソヤクザ」
『おっかねーな。――先生のためだと思えば、そう腹も立たないだろ』
「あいつの口から直接頼まれるなら可愛げがあるが、お前が、主人ヅラして命令してくるのが、心底ムカつく」
『だが、それでも引き受けざるをえないわけだ。よく働く番犬だと、頭を撫でてもらいたくてな』
 もう一度、今度は口中で、クソヤクザ、と毒づく。
 長嶺組の本宅の様子を探っている男がいると、半月ほど前に前触れもなく連絡をしてきたのは、長嶺本人だった。鷹津としては心底どうでもいいことだったので、返事もせずに電話を切ろうとしたのだが、次に長嶺から言われた言葉で動きを止めざるをえなかった。
 先生が目をつけられたかもしれない、と。
 相手がどこまで佐伯の情報を掴んでいるのか一切不明だが、本宅に出入りする佐伯の姿を目撃されたのは間違いないということで、鷹津は速やかに動き始めた。長嶺の本宅周辺に設置された防犯カメラを、刑事の肩書きを利用してチェックしたのだが、そこに映っていた不審人物がたまたま見知った男だったというのは、ある意味、幸運だっただろう。
 身元調査の結果を知らせてやると、当然とばかりに長嶺は、鷹津に次の命令を下してきた。それが、コソ泥の真似事というわけだ。
「仕事道具のいくつかは持ち出してきたから、調べるのはそっちでやれ。俺は機械の操作は苦手だ」
『あとで、うちの者を遣る。渡してやってくれ』
「――……本当に、佐伯を狙っていたのか?」
『どうだろうな。実は別のものが狙いだったのかもしれない』
「おい――」
『俺は、確かめたかったんだよ。お前がどこまで、〈うちの〉先生のためにやれるのか。俺に対する嫌がらせ目的で、先生にちょっかいを出しているだけなら、さすがに二の足を踏むだろうと思ったんだが……。いやいや、お前の番犬ぶりは、大したもんだ。刑事が、ヤクザの依頼を受けて、不法侵入に、窃盗までやらかしたんだ。ヤクザに弱みを握られることを、お前は少しも恐れちゃいねーな。肝が太いのか、単なるバカなのか、よくわからん男だ』
 自分のオンナ可愛さに、刑事にそこまでやらせる男に言われたくないと、鷹津は心の中で反論しておく。どう足掻いたところで、長嶺に口で勝てる気がしない。声に出した途端、毒が滴る皮肉で返されて、胸が悪くなるのは目に見えていた。
『おっと、この件では、先生に餌を求めるなよ。何も知らず、本宅ではのんびりおっとりと過ごしているんだ。怖がらせたくない』
「過保護なもんだな」
 鷹津が吐き捨てるように言うと、なぜか長嶺が楽しそうに笑い声を洩らす。
「なんだ」
『お前がそれを言うかと思ったら、おもしろくてな』
 電話を切ってやろうかと思ったが、今度も絶妙のタイミングで長嶺が言葉を続ける。
『件のジャーナリストには、いい警告になっただろう。ヤクザを使って小金を稼ぐ程度なら見逃してやれるが、調子に乗るとどうなるか――。どこの組が自分を狙っているのかわからない状況は、なかなか不気味だろうな』
 蛇の見えない尾を踏んだジャーナリストに対して、ささやかながら同情心が湧くかと思えば、そんなことはなく、鷹津は短く息を吐き出す。
 長嶺の口ぶりからして、佐伯が目をつけられていたのは間違いないだろうと、確信が持てた。嫌われ者の蛇蝎同士だからこそ通じる、勘のようなものがあるのだ。
「ジャーナリストなら、取材活動用のモバイルを持っているはずだ。部屋にはカメラが見当たらなかったから、多分一緒に持ち歩いているんだろう。それはどうする気だ?」
『車上荒らしや引ったくりまで、お前にやれとは言わねーよ。そういう仕事のプロに任せる』
「さすがに、人材が豊富だな」
 皮肉でもなんでもなく、本音だ。
『お前みたいな奴まで飼っていることだしな。否定はできん』
「勘違いするなよ。俺は、佐伯の番犬にはなったが、お前の飼い犬になったつもりはない。何かありゃ、いつでも、噛みついてやるからな」
 鷹津の牽制に対する長嶺の返事は、とことん人を舐めきったものだった。クソが、と低く罵ってから、乱暴に電話を切る。
 そんな日が来ることを、楽しみにしているぜ――。
 たった今、長嶺から言われた言葉が、忌々しいことに耳元で何度も繰り返される。
 一度は金と女で飼いならした鷹津を、今は特別なオンナで骨抜きにしたと確信しているからこそ、言える言葉だ。傲慢だが、長嶺の読みは正しい。
 長嶺から距離を取ってしまえば、鷹津は佐伯に触れることは許されない。触れたいからこそ、せめて憎まれ口を聞きたいからこそ、鷹津は犬として駆け回り、薄汚い仕事ですらこなすのだ。
「今は、な」
 ぽつりと洩らした鷹津は、大きく息を吐き出すと、胸糞の悪い男のことはさっさと頭の片隅へと追いやり、長嶺組から入るであろう臨時収入の使い道について思いを巡らせる。
 とりあえず、美味い酒をしこたま飲んでから、心が蕩けるようないい夢を見たかった。









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