と束縛と


- Extra64 -


 予備校のビルから外に出た玲は、切りつけてくるような風の冷たさに肩を竦める。日が落ちてから一層気温が低くなったようで、吐き出した息が一気に白く染まる。
 寒くて堪らないが、限界まで酷使してぼうっとした頭には、ちょうどいい刺激だ。やっとまともに神経が働き出したのか、猛烈な空腹を自覚し、夕飯をどうしようかと考えていた。
 今日は春江が来ない日なので、外で食べるか、弁当を買うことになる。どちらにしても面倒だなと思っていると、突然、車のクラクションが鳴った。玲は反射的に顔を上げ、ビルの前の駐車スペースに並ぶ車列に目を向けていた。生徒たちを迎えに来た親たちの車が待機しているのだ。
 その中に、ツーシーターの青のスポーツカーを見つけ、玲は大きく息を吐き出す。その車を乗り回している人物を、よく知っているからだ。足早に近づくと、すぐに運転席側のウィンドーが下ろされる。
「――お疲れ様です、坊っちゃん」
 瀬名がかけてきた言葉が聞こえたらしく、周囲の人間が何事かという視線を一斉に向けてくる。玲は慌てて助手席に乗り込んだ。
「瀬名さん、迎えに来るのはいいけど、坊ちゃん呼びはやめてくださいよっ」
「いい加減慣れてくださいよ、坊っちゃん。俺は死ぬまで、やめるつもりはありませんから」
「……見た目はチャラいのに、律儀ですよね。瀬名さん」
 シートベルトを締めた玲がぼそぼそと洩らすと、瀬名は快活な笑い声を上げる。
「いやいや。もう見た目もチャラくないでしょう、俺」
 玲は横目でちらりと瀬名を一瞥する。そうなのだ。瀬名はつい最近、いきなりイメージチェンジを図った。待ち合わせの目印として便利だった金色頭をやめ、短く刈った髪を真っ黒に染め直してしまったのだ。しかも身につけているスーツも、まともな紳士服店で買ったという、地味な色のものに替えてしまった。ただ、言動は相変わらずチャラい。
 不可解な瀬名のイメージチェンジには、どうやら自分が関わっているようだと、さすがの玲も察していた。
「いい加減、過保護にするならするで、理由を教えてくれませんか? 予備校に迎えに来るぐらいなら、楽でいいやと思うけど、高校の登下校にも、こっそり組員をつけてるでしょう」
「おや、気づいてましたか」
 予備校周辺の混雑を抜けた途端、いきなり車が加速する。瀬名の運転の腕は信頼している玲だが、それでも反射的に、問題集などを詰め込んだバッグを胸元でぐっと抱き締めてしまう。
「坊っちゃん、頭使ったら、腹減ったでしょう。晩飯はどこかいい店に入りましょう。オヤジさんから金を預かっているので――」
「いや、露骨にとぼけないでくださいよ。……組のほう、揉めてるんですか?」
 父親である龍造は常に泰然としており、組で何かが起ころうが、玲に悟られるようなヘマはしない。
 もし、玲の知らないところで、組がトラブルに巻き込まれ――あるいは、引き起こしたのかもしれないと危惧したのだが、瀬名はのんびりと笑っている。
「揉めてないですよ。平和そのもの。だからオヤジさんも、〈あっち〉に出かけられるんですよ」
 その〈あっち〉で何をしているんだかと、玲はそっとため息をつく。
 伊勢崎組の新事業のためにと頻繁に人を遣り、龍造自身も月に何日かは出向いているようだ。仕事のついでに、かつての自分のオンナである御堂とも逢瀬を重ねているのかもしれないが、父親のプライベートに立ち入る気はなかった。
「準備は順調みたいですね」
「まあ、そうです。準備は、順調です」
 言外に意味を含んだような物言いが気になる。玲は今度は、じっと瀬名の横顔を見つめた。
 少し間を置いてから、瀬名は慎重な口ぶりで教えてくれた。
「――会を割るつもりか、とオヤジさんに詰め寄った方がいるんですよ」
「会、って……、連合会のこと、ですよね。どうして、そんなこと……」
「北辰連合会は組織としてはでかいが、結束という点に関してはいまいちです。利害と面子でなんとか組織として成り立っていますがね。そんな組織の中で、立派な肩書きと人望のある人物が、ちょっと目新しいことを始めようとしたら、どうしたって目立つし、おもしろくない方もいるんですよ」
「それで、俺にとばっちりがくるかもしれないと?」
「万が一ですよ。伊勢崎龍造の一人息子に手を出すような跳ね返りは、いないと思いますけどね。まあ、いい機会だと思って慣れてください。来春には、もっと本格的に護衛がつきますから」
 はあ、と気の抜けた返事をした玲だが、次の瞬間、背筋を伸ばした。とんでもないことをさらりと言われたからだ。
 目を見開く玲に対して、呑気な口調で瀬名が続ける。
「なんといっても大都会。危険も誘惑もいっぱいです。しっかり俺が守りますよ。坊っちゃんは何も心配せず、希望大学を目指して勉強がんばってください」
「……瀬名さん、俺について来るわけ?」
「オヤジさんからはそう言われています。〈あっち〉での事業の手伝いが必要ということで、来春から俺、肩書きは会社員ですよ」
 玲の大学進学をきっかけに、龍造が野心を持って動き始め、少なからず自分自身も影響を受けることは覚悟している。しかし、だからといって、何事も相談なく進めていいわけではない。
 込み上げてきた怒りをぐっと堪え、玲は唇をへの字に曲げた。何かを察したのか、瀬名は不自然に会話をやめると、沈黙を誤魔化すようにラジオをつけた。




 出張から戻ってきた龍造は、いつになく色艶のいい顔に、さらに上機嫌な表情を浮かべていた。つまり、浮かれているのだ。いい歳をして。
 玲の顔を見るなり、おっ、とわざとらしく声を洩らした龍造だが、まるで幼い子供の機嫌を取るように、袋を差し出してきたうえに、軽く上下に振る。
「ほら、土産だぞ。美味い佃煮だそうだ。夜食でおにぎりを握るときに、中に入れろ。ついでに俺の分も握ってくれ」
「……別宅に行けばいいだろ。喜んで握ってくれる人がいるんだから」
「息子が握ったおにぎりがいいんだよ。ほら、作ってくれ」
「俺、勉強の途中で、今は腹も減ってないんだけど……」
「作ってくれたら、いいことを教えてやる」
 そんな言葉に乗せられたわけではないが、仕方なく玲はキッチンに入る。放置しておいてもいいが、いつまでもせがまれると、それはそれでうるさい。
 炊飯器を開け、ご飯の量が十分なことを確かめてから、さりげなくダイニングの様子をうかがうと、龍造は鼻歌をうたいながらジャケットを脱いでいるところだった。どうやら、新事業の準備は今のところ順調らしい。
 それとも、御堂に優しくしてもらえたのか――。
 玲は慌てて頭を振り、下卑た想像を戒めた。今の自分には、龍造が帰宅したらまず問い詰めなければならないことがあると、思い出したのだ。
「なあ、父さん」
 土産の佃煮をさっそく器に出しながら、玲は話しかける。努めて冷静な口調で。
「昨日、瀬名さんから聞いたんだけど、俺に見張りをつけてることとか、春からのこととか……」
「見張りとは人聞きが悪いな。お前に妙な輩が近づかないか、見守らせてるだけだ。春からのことは――、まあ、大げさに考えるな。瀬名はあくまで、お前の世話係だ。始終べったり張りつかせようとは考えてない。お前も、大学生活を謳歌したいだろうしな」
 ふーん、と声を洩らした玲は、どこまで本当なんだかと心の中で呟く。自分が大学生という身分を手に入れた途端、龍造はまったく違うことを言い出すかもしれない。そう疑ってしまう程度には、玲はこれまで龍造に振り回されてきた。
 しゃもじを手に、思い切り疑いの眼差しを向けると、龍造が苦笑いを浮かべる。
「お前、俺の言うことを信じてないだろ」
「これまでの立派な父親ぶりがあるから、仕方ないな」
「……その物言い、お前の母さんにそっくりだよ。このヤロー」
 なぜか嬉しげに龍造が、ワイシャツの袖を捲り上げながらキッチンに入ってくる。冷蔵庫を開けて、中からあれこれと食材を取り出し始めた。
「お前がおにぎりを作っている間に、俺は味噌汁を作る」
「いいけど、あまりしょっぱくするなよ。医者から血圧のことで注意されてるんだろ」
 父子で並んでキッチンに立つことに、微妙な気恥かしさを感じつつ、玲はさっそくご飯を握り始める。
 佃煮を詰めたおにぎりを一つ皿の上に置いたところで、何げなく龍造に問いかけた。
「それで、さっき言ってた、いいことを教えてやるって、何? またどうせ、くだらないことなんだろうけど――」
「向こうで、佐伯先生に会ったぞ。一緒にメシを食った」
 勢いよく振り返った先で、龍造がにんまりと笑っていた。いいだろう、と言いたげに。玲は必死に動揺を押し隠す。
「へえ……、そうか。というか、なんで父さんと佐伯さんが、一緒にメシを食う必要があるんだよ」
「大人には、通さなきゃいけない義理ってものがあるんだ」
 よくわからないことを龍造が語り始めるが、玲の耳にはまったく入らない。唐突に〈あの人〉の話題が出て、一気に気持ちが舞い上がっていた。電話で声を聞くことも叶わず、メールでのやり取りすらできない状況で、ひたすら想い続けていたのだ。
 もしかすると自分との間にあった出来事は、彼の中ではなかったことになり、今後、伊勢崎と名のつくものとの関わりを避けるかもしれないと、ときおり不安に駆られていたぐらいだ。その彼が、龍造に会ったという。
 何を話したのか気になるが、龍造から聞き出すのは非常に抵抗がある。そもそも、素直に教えてくれるのか。
 玲がじっと見つめていると、龍造は粒状のダシを鍋に入れながら、さらりと言った。
「――風邪などひかないように、と託けを頼まれた」
「へっ……」
「佐伯先生から、お前に。お前の受験生ぶりを話したら、真剣に聞き入っていたぞ。……あの色男はなんというか、男殺しだな。無自覚なのが性質が悪い」
 とっくにバレているとはいえ、その人に殺(や)られたとは、さすがに父親の前では言えなかった。
 玲は握っていたしゃもじを炊飯器に放り込むと、さっさと手を洗う。
「俺、夜食なんて作ってる場合じゃないな。勉強しないと」
「……現金な奴だな、お前」
「父さんの息子だからな」
 ここぞとばかりに言ってやると、龍造は目を丸くしたあと、肩を竦める。
「あとで、父さんの愛情たっぷりのおにぎりを持って行ってやる」
「気色悪いこと言うなよ。ほどほどでいいからな……」
 そう言い置いてキッチンを出たものの、急に何かに急かされるように体を動かしたくなる。
 夜食も準備されるようなので、少し走ってこようかと、玲は着替えるために自分の部屋へと向かった。どうせこのまま机に向かったところで、頭を占めるのはたった一つのことで、勉強が手につかないのは目に見えていた。









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