と束縛と


- Extra67 -


 蒸し暑い夏の夜だった。花火が打ち上がるたびに腹の底まで響く音がして、同時に、男たちの歓声が上がる。高台にある邸宅の二階からは、花火がよく観えるようだ。
 南郷は、庭で行われたバーベキューの片付けをしながら、ちらりと二階を見上げる。男たちの歓声は、立派なバルコニーから聞こえてきていた。
 金城組の呼びかけによって催された納涼会には、総和会に名を連ねる大きな組の代表が何人か参加しているということで、オヤジ――金城組組長はいつになく機嫌がいい。普段から大きな声が、今夜はひときわ大きく聞こえる。
 金城組は、かつては一大勢力を誇った連合会の古参ということで、相談役としてそれなりに尊重される立場にはいたようだが、時代の流れとともに潮目は変わり、血気盛んな組は疎んじられることが多くなった。
 そんな金城組が、総和会とも繋がりを保てているのは、ひとえに一人の男の力によるところが大きい。
 南郷がじっとバルコニーを見上げ続けていると、手すりに人影が歩み寄った。南郷は、その人影が誰であるかわかった瞬間、背筋を伸ばす。向こうも南郷に気づいたのか、軽く手を挙げる動作をした。南郷は深々と頭を下げる。
 薄汚れた獣のようだった南郷に目をかけて、掬い上げてくれた恩人だった。
 南郷は今年二十歳になるのを待ってから、その恩人である長嶺守光の助言もあって、金城組組長から盃をもらった。名実ともにヤクザになったというわけだ。
 金城組組長にとっては望外の納涼会となっているだろう。何度誘っても袖にされていたという長嶺組組長である守光が、今年は参加してくれたのだ。
 南郷を預かってもらったということで、金城組に対してできた借りを、こういう形で守光は返したのだと、薄々とながら事情は察している。守光はいつだって多くは語らない。そのため南郷は自分の頭で考えて、推察するしかない。すると、基本的に他人に無関心で生きてきた南郷でも、機微というものを漠然とながら理解するようになっていた。
 鈍感な人間は、この世界では上には行けない。守光の側に行くことは叶わない。
 頭を上げると、そこにもう守光の姿はなかった。南郷はゴミが入った袋を手に勝手口へと回り、ポリバケツに突っ込む。これで花火大会が終わるまで、コマネズミのように動き回らなくて済む。だからといって大っぴらにビールなど口にできるはずもなく、人目のないところで休憩をとるのがせいぜいだ。
 ジーンズのポケットを探り、煙草とライターの感触を確かめると、裏口からガレージ横の通路へ出た。目の前に石垣がある狭い通路なのだが、昼夜を問わず空気がひんやりとしており、組の若い連中は、ここでこっそりと息抜きをしているのだ。
 表の街灯の明かりが通路にまで差し込んで、夜でも意外に明るい。その代わり、羽虫などがよく飛んでいるが、文句は言えない。
 南郷は、ガレージの外壁にもたれようとして初めて、通路に自分以外の人影があることに気づいた。
 不逞の輩ではないかと、一瞬にして身構え、目を凝らす。招待客の誰かの護衛なのかとも思ったが、そうではないと、すぐにわかった。南郷の見知った人物だったからだ。
 声をかけようとして、ためらった。相手はまさに、雲の上のような存在だ。
 立ち尽くす南郷にとっくに気づいていたらしく、相手は――長嶺賢吾は、足元に視線を落としたまま声を発した。
「まだ集まりは終わりそうにないか?」
 父親である守光にどことなく似た声だった。二十代半ばでありながらどっしりと落ち着いて、すでに貫禄を感じさせる。
 初めて賢吾から話しかけられた南郷は、その声と口調に呑まれていた。気後れするとは、きっとこんな感覚なのだろう。
 なかなか返事をしない南郷に、賢吾がようやく足元から視線を上げる。声同様、落ち着いた眼差しを投げかけられ、ごくりと喉が鳴った。
「……皆さん、室内のほうに入られたので、まだもう少し続くのではないかと……」
 返ってきたのは舌打ちだった。
「やっぱり顔を出すしかねーな」
 革靴の硬い靴音を響かせて、賢吾がこちらに歩み寄ってくる。南郷は、知らず知らずのうちに自分がひどく緊張していることに気づいた。てのひらがじっとりと汗で湿る。
 直立不動となっている南郷の傍らを、スッと賢吾が通り過ぎる。こちらに一瞥もくれず。
 振り返った南郷は、咄嗟に声をかけていた。
「ここで何をされていたんですか?」
 人目を避けたい客人が裏口を使うのは珍しいことではないが、賢吾はわざわざ通路で立ち止まり、何かを気にかけている様子だった。しかし、あえて本人にぶつけるほどの疑問だろうかと、口にしてから南郷は後悔した。
 裏口から入ろうとした賢吾が肩越しに振り返り、表情に嫌悪を滲ませる。南郷は内心動揺した。
「俺の大嫌いなものが、地面を這ってたんだ。でっかい奴がな。だから――」
 賢吾が放った言葉の最後を聞き取ることはできなかった。そこで、賢吾が立っていた場所に近づいてみる。
 足元に視線を落とした南郷は、そっと眉をひそめた。滅多に見ないような大きさの百足が、半分潰れて地面に張り付いていた。街灯の明かりを受けて、黒い体が妙に艶々としている。
 死骸かと思ったが、赤い脚がわずかに蠢き、その様にざわりと南郷の肌が粟立つ。聞き取れなかった賢吾の最後の言葉が、なんとなくわかった気がした。
 この気味の悪い生き物を、大半の人間は毛嫌いしているだろう。だからこそ、靴の裏越しとはいえ、触れることを忌避する。それを賢吾はわざわざ踏み潰したうえに、じっと観察していた。
 どういう心理からの行動なのだろうと、南郷は死にゆく百足を見下ろしながら、そんなことを考えていた。





 脇腹をくすぐった髪の感触がふいに蘇り、南郷は目を開ける。薄ぼんやりとした明かりに照らされる天井は、まだ見慣れない自宅マンションの寝室のものだ。
 問題を起こしたばかりの身で、さすがに総和会本部の宿泊室を利用するのははばかられたため、何日ぶりかに帰宅したのだが、値の張る上等なベッドは相変わらず寝心地が悪い。
 それでも浅くとはいえウトウトできたのは、昨夜、ほとんど睡眠がとれなかったせいだ。それに今日一日、非常に忙しかった。
 自業自得という言葉は知っているため、好き勝手やった対価だと納得はしている。明日は明日で、幹部会の会合に顔を出すよう言われており、浴びせられるであろう皮肉と嫌味を想像して、鳩尾の辺りにわずかな不快さが広がるが、大した問題ではない。
 南郷が何より気にしているのは、長嶺組の反応だ。より正確にいうなら、長嶺賢吾の。
 朝方、その賢吾に一発ぶん殴られた。罵声も浴びせられなかったし、自分のオンナを連れ回されたことに対する抗議もされなかった。ただ、隊員たちの見ている前で殴られただけだ。
 賢吾に長嶺組組長としての立場があるように、南郷には総和会第二遊撃隊隊長としての立場もある。それを踏まえたうえで、賢吾に拳を振るわれたという結果に、南郷は満足していた。
 慎重で冷酷なはずの〈大蛇〉の拳は、燃えそうに熱かったのだ。
 南郷は、いまだ熱と痛みを訴える頬を軽く撫でて、体を起こす。ナイトテーブルに置いたペットボトルを取り上げ、ぬるくなった水を喉に流し込む。シャワーを浴びてから、上半身裸という格好で一眠りしたのだが、体は冷えるどころか、汗ばんでいる。
 エアコンのリモコンを探すのも面倒で、空になったペットボトルをゴミ箱に放り込み、またベッドに横になる。
 再び目を閉じた南郷は、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。すでにもう眠気が霧散してしまい、これからが本番の長い夜をどうやって過ごそうかと、ついまじめに考えていた。
 こういうときに限って、ロクでもなかった昔の記憶が蘇るのだ。それを振り切るように、自分の右脇腹に手を這わせる。久しぶりに他人が触れたせいか、肌がざわついていた。
 悲鳴は上げられなかったが、心底怯えさせたなと、昨夜の和彦の様子を思い出して、南郷はわずかに唇を緩める。たどたどしい、愛撫とも呼べない接触に、血が沸騰するほど興奮したことは否定しない。
 南郷にとってはある意味、本懐の一つを遂げられたのだ。
「もっと話したかったな、先生……」
 例えば、自分がどうして、こんな気味の悪い刺青を入れるに至ったのか、話してみたかった気もする。あのきれいな顔に、南郷が抱える汚物のような感情をなすりつけるために。
 昔見た、半分潰れた百足の死骸は、南郷の人生観を変えた。当時の南郷は、守光に目をかけられたというだけで舞い上がっている、ある意味、純粋なガキだった。
 現実を見せつけてきたのは、賢吾だ。自分といくつも違わない男は、『大嫌い』だからという理由で、ただ地面を這っていた大きな百足を踏み殺した。
 その百足と自分との間に、どれほどの違いがあるのだろうかと、南郷は気づいてしまったのだ。
 百足の死骸のことを思い出すたびに、彫像のように端整な外見を持つ男が浮かべた嫌悪の表情も、一緒に脳裏に蘇る。
 賢吾自身に自覚はないだろうが、ここのところ本部で顔を合わせるたびに、南郷を一瞥するときに浮かべる表情は、まさにあの夜、百足を語るときに見せたものと同じだ。
 ようやく、ここまで来たと、南郷は口中で呟く。
 ふと、己の両足の間に集まりつつある熱に気づいた。和彦の愛撫の感触をたどったせいか、あるいは――。
 短く喉を鳴らした南郷は、衝動のままに下肢に片手を伸ばした。









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