と束縛と


- Extra68 -


 青い顔で帰宅した和彦を見て、出迎えの組員がくわっと目を剥く。
「先生、何かあったんですかっ?」
 大したことじゃないと答えようとしたが、靴を脱ごうとしてふらついてしまい、慌てて腕を取られて支えられる。とにかく中へと、組員二人がかりで靴を脱がされ、引きずられるようにしてダイニングへと連れて行かれた。
 窓際のソファに座らされると、グラスを手に笠野がキッチンから飛び出してきた。
「先生、水を飲めますか?」
 頷いてグラスを受け取ると、一気に飲み干す。そんな和彦を、笠野は気遣わしげに見つめてくる。
「どうしたんですか……。今日は、展示会に出かけたんですよね」
「……土産をたくさんもらった」
 ソファの傍らに、今日護衛として同行した組員が所在なさげな顔で立っている。両手には、展示会でもらったサンプルやパンフレットが詰まった紙袋を提げていた。
 クリニックが休みの土曜日、いつもであればごろごろと怠惰に過ごしたいところだが、たまたま近場で、美容と健康に関する大規模な展示会が催されると知ったのだ。しかも事前申請がなくても、入場料さえ払えば入場できるということで、最新の美容機器に触れてみたかった和彦は、じっとしていられなかった。
 興味のあるテーマのセミナーも少しだが参加できたし、クリニックで取り扱うサプリメントの種類についても、バイヤーからもいろいろとアドバイスをもらえて、実に有意義な時間が過ごせたのだ。
 しかし――。
「けっこういい値段の入場料だったけど、予想以上に入場者が多かったんだ。久しぶりに、人で混み合う場所で動き回ったから……」
「ああ、人に酔ったんですね」
「その状態で車に乗ったら、もっと気分が悪くなった」
「でしたら、布団を敷きますから、横になりますか?」
 本気で心配している様子の笠野には申し訳ないが、人や車に酔ってしまった根本的な理由に、和彦は心当たりがあった。ぼそぼそと言い訳がましく付け加える。
「……時間が惜しくて、昼を抜いたんだ。だから――何か食べたら、すぐよくなる。たとえば、甘いもの……」
 有能な料理番であり、和彦の世話係を兼ねることもある笠野は、目を丸くしたあと、いかつい顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「ちょうどよかった。いいものがありますよ。本当は、明日の朝、先生にお出ししようかと思って買ってきたんですけどね。予定を変更して、三時のオヤツにしましょう」
「別に、手の込んだものじゃなくていいから。なんなら、板チョコでもかじるし」
「まあまあ、ちょっと待っていてください」
 板チョコをかじるより、笠野お手製の〈何か〉を食べられるなら、ありがたい。遠慮の言葉は呆気なく、和彦の口中で溶けてしまう。
「――……想像しただけで、元気になってきた」
 上着を脱いでソファに倒れ込みそうになっていた和彦だが、よっこいしょと座り直して、ソワソワと出来上がりを待つ。
 そんな和彦の期待が伝わっているのか、笠野はいつになく忙しくキッチン内を行き来し、卵を掻き混ぜている音がしたかと思えば、電子レンジのチンッという音も聞こえてくる。
 バターの焼ける匂いに食欲がそそられて、堪らなくなってふらふらとダイニングテーブルへと移動した。
 気を紛らわせるために、持ち帰ったパンフレットを開いたり、サンプルを整理する。
「お待たせしました」
 笠野が、和彦の前に皿を置く。皿には、フランスパンを使ったフレンチトーストが載っていた。ふんわりと湯気が立ちのぼる黄金色の一品に、和彦は目を輝かせる。
「本当は、一晩かけて卵液に漬け込んだものを、明日の朝、先生に出したかったんですけどね。時間がないときは、漬け込んだままレンジで温めるといいんですよ。それでもこんなふうに、しっとりと柔らかくなる」
 和彦にはあまりピンとこない説明をしながら、笠野はフレンチトーストにたっぷりのハチミツをかけてくれる。
 どうぞと、恭しく勧められて和彦は、さっそく一口大に切ったフレンチトーストを口に運ぶ。さらに二口目を。
 上機嫌で味わっていると、笠野も満足げな顔をしながら紅茶を出す。
「気に入ってもらえたのなら、先生の朝食のメニューに加えましょうかね。いや、オヤツでもいいんですが」
「美味しいから、いつ出してもらってもいい」
 笠野とそんな会話を交わしていると、ダイニングの外で慌ただしい気配がする。一体何事かと聞くまでもない。本宅の日常の一コマだ。
「おや、お帰りになったようですね」
 ぽつりと呟いた笠野が足早にキッチンに戻り、さっそくお茶とおしぼりの準備を始める。一方の和彦は、気にすることなくフレンチトーストにナイフを入れる。少し前まで気分が悪かったことなど、とっくに忘れてしまった。
 和彦が口を開けたタイミングで、この本宅の主である男が颯爽とダイニングに現れる。スリーピースのベスト姿で、男の色気溢れる様に危うく見惚れそうになったが、今の和彦にとっては、甘いフレンチトーストの魅力のほうがやや勝っていた。
 もくもくと食べる和彦を見て、顔を綻ばせた賢吾が、おしぼりで手を拭いながら話しかけてくる。
「笠野にいいものを食わせてもらってるみたいだな」
「……帰ってきて最初の一言は、もっと他にないのか……」
「先生が、あんまり美味そうな顔して食ってるからな。何か言おうと思っても、いつも忘れちまうんだ」
「あー、そう」
 素っ気なく応じる和彦がおもしろいのか、にんまりとして賢吾がぐいっと顔を近づけてくる。
「美味いか、先生?」
「聞かなくてもわかるだろ。……カフェで朝食をとるとき、たまに頼むんだ。フレンチトースト。好きなんだ」
 ほお、と賢吾がやけに芝居がかった声を上げる。
「だったら、一口食わせろ」
「この、たっぷりかかったハチミツが見えないのか。あんた、甘いものはそんなに得意じゃないだろ」
「冗談だ。食い物を取られまいと、ムキになる先生を見たかっただけだ」
 大人げない、と和彦はぼそりと洩らす。すると賢吾が得意げに応じた。
「おう。今知ったのか?」
「開き直るな。本当に大人げない」
 和彦と賢吾のやり取りを、にこにこしながら笠野が見つめている。それに気づいた和彦は急に気恥ずかしくなり、賢吾の顔を押し戻す。
 ようやく姿勢を戻した賢吾は、まだ皿の上に残っているフレンチトーストをじっと見つめたあと、意味ありげにあごを撫でながらダイニングを出て行った。
 和彦は首を傾げながら笠野を見遣る。
「最後のあれ、どういう意味だと思う?」
「さあ……。もしかして組長は、本当に一口食べてみたかったのかもしれませんね」
 えー、と小声で洩らした和彦は、皿の上に視線を落とし、もう一度首を傾げた。




 ぼんやりと意識が浮上して、深く息を吐き出す。とてもいい夢を見ていた気がして、和彦は遠ざかる眠気をもう一度引き寄せようと足掻く。とはいっても、ベッドの中でじっと目を閉じているだけだ。
 寝返りを打ち、もぞもぞと身じろぎながら、心地のいい姿勢を見つけようとしていると、ふいにいい匂いが鼻先を掠める。努力するまでもなく、すでに自分は再び夢の中にいるのだと安堵した和彦だが、それにしてはやけに匂いがリアルだ。
 三日前にも同じ匂いを嗅いだため、その記憶が残っているのかもと、ついあれこれ考えているうちに、眠気が霧散してしまう。未練がましく目を閉じたまま、ベッドの上を転がっていて、重要なことに気づいた。
 昨夜遅くに、自分のベッドに潜り込んできた侵入者がいたではないか、と。
 そうしているうちに、漂っていたいい匂いは、いくぶん焦げ臭さを帯びてくる。
「火事っ……」
 和彦は勢いよく飛び起き、隣に目を向ける。そこには誰もいなかった。
 まさかと思いつつもベッドを抜け出し、パジャマ姿のまま部屋を飛び出す。寝るときに確かに閉めたはずのドアが開いており、侵入者の存在が夢ではなかったことを示している。
 ダイニングに駆け込んだ勢いでキッチンを見ると、よく知る後ろ姿がそこにはあった。何かが焼ける音を耳にして、おそるおそる近づく。
「何、してるんだ……?」
 和彦が問いかけると、肩越しに賢吾が振り返る。
「朝メシを作ってる」
「……誰が」
「見てのとおり、俺が」
 薄い笑みを向けられて、どんな表情で返せばいいのか戸惑った和彦だが、ハッと我に返り、賢吾の隣に立つ。シャツの袖を捲り上げ、フライ返しを手にした賢吾の姿を、まじまじと見つめる。似合う、似合わない以前に、とんでもない光景を目の当たりにして、実はまだ夢を見ているのではないかと疑ってしまう。
 賢吾がふっと口元を緩めた。
「どうした。言葉が出ないほど、俺が料理する姿は様になってるか?」
「焦げつかせてるくせに、様になるも何も……。それで、これは何を作ってるんだ」
 フライパンの中で見事に焦げついている食パンらしきものを、賢吾は忙しくひっくり返している。
「フレンチトースト。笠野に作り方を聞いた」
 本宅で、笠野に作ってもらったものを食べたのは、ほんの三日前だ。
「……食パンなんて、ここになかっただろ。それにバターも」
「昨夜、俺が買ってきた。笠野と同じものを作っても能がないからな。俺が作るのは、ハムとチーズを挟んであるものだ。砂糖は使ってないから、俺も食える」
 皿を取ってくれと言われ、和彦は言われた通りにする。ポンッと皿の上に載せられたフレンチトーストは、片面が黒々と焦げていた。遠慮することなく和彦は噴き出す。
「どうするんだ、これっ……」
「先生に食えとは言わねーよ。俺も嫌だが。――よし、練習はできたから、これから本番だ。美味いのを食わせてやる」
「危なっかしいなあ」
 フライパンにバターを落とす賢吾の側から離れがたくて、和彦は隣にぴったりと張り付く。すると賢吾が、聞こえよがしにぼやいた。
「そう見つめられると、緊張するんだが……」
「ふてぶてしい大蛇みたいな男が、何言ってるんだ」
「――先生、コーヒーを淹れてくれねーか?」
 和彦が視線を上げた先で、賢吾が穏やかな笑みを浮かべている。そんな顔を見せられて、無碍にはできない。
「二人分作るなら、まだ時間がかかるだろ。……先に顔を洗ってくる」
 そう言い置いて和彦はキッチンを出る。
 赤くなっているであろう自分の顔を、とてもではないが賢吾に見せられなかった。









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