三田村は、和彦と二人で過ごすとき、この人に何かあってはいけないとひどく緊張する一方で、警戒心というものをことごとく溶かされる自分に戸惑う。あくまで護衛という名目で一緒にいる以上、常に警戒しなければならないのだが、どれだけ意識していても徒労に終わるのだ。
静かな眼差しを向けられただけで三田村の意識は舞い上がり、そっと身を寄せられて体温を感じたときには、何も考えられなくなる。
共に時間を過ごせる喜びを、いつだって三田村は新鮮なものとして感じ、だからこそ、慣れるということがない。
その結果として、護衛としての任務が果たせなかったとき、一体どれだけの男たちに詫びを入れなければならないのか。いや、そもそも、自分を〈オトコ〉と呼んでくれる人が傷つく事態など、あってはならないのだ。
心地よい夢うつつの状態で、魔が差したようにふっと不吉なことを考える。次の瞬間、三田村はビクッと体を震わせ、本能的に飛び起きていた。
最初に感じたのは違和感だったが、それはすぐに恐怖へと取って代わる。同じベッドに入り、三田村の肩先に顔を埋めて眠っていた和彦のぬくもりを感じなかったからだ。
「先生っ……」
つけっぱなしのテレビの明かりが室内を照らす。三田村は素早く周囲を見回すが、どこにも和彦の姿はない。ベッドを出て、抑えた声で和彦を呼びながら、バスルームやトイレを覗くが、やはりいない。
わずかな間に、三田村の心臓の鼓動はこれ以上ないほど速くなる。自分でも、全身から血の気が引いていくのがわかった。
あの人が逃げてしまった――。頭の中で、不穏な言葉が点滅する。
三田村は、まるで操り人形のようなぎくしゃくとした動きで、玄関へと向かう。やはり和彦の靴はなく、誰かに連れ去られたとは考えにくい。
人気のない静まり返った共用通路を、足音を殺して歩く。普段は気にも留めないのに、蛍光灯の白々とした明かりに薄ら寒さを覚える。
階段で一階に下りると、エントランスを通り抜ける。一番近所にあるコンビニまではやや距離があり、仮に飲み物だけを買いに出たのであれば、反対方向へ数分ほど歩いたところに自販機がある。
まずは、自販機のほうに行ってみるかと、歩道に一歩出たところで、視界の隅で影が動いた。ハッとした三田村は素早く臨戦態勢を取ったが、次の瞬間、座り込みそうになった。
「何、してるんだ……。先生」
問いかけた声は、マヌケなほど上擦っていた。歩道の隅に屈み込んだ和彦が、うかがうようにこちらを見上げてくる。込み上げてきた八つ当たりに近い怒りは、あっという間に溶けていた。
そもそも、和彦がベッドから抜け出したことに気づかなかった自分が悪いのだ。むしろ、何事もなかったことに感謝しなければならない。
三田村はそう自分に言い聞かせながら、和彦の肩にそっと触れようとする。すると、ニャーと細い声が上がった。もちろん、和彦が発した声ではない。
身を屈めて和彦の手元を見ると、影から抜け出てきたような黒猫が、和彦の手に身をすり寄せていた。まだ子猫のようだ。
「先生、それは……」
「猫、だ」
「……さすがに、それは見ればわかる。いや、そうじゃなくて――」
「聞こえたんだ。ニャー、ニャーと鳴く声が」
和彦の口から出た『ニャー』という単語に、三田村は息を詰める。不意打ちすぎて、胸が疼いた。
「鳴き声から、子猫だってわかったから、気になって仕方なくて」
「俺は全然気づかなかった。耳がいいんだな、先生は」
窓を少し開けて眠っていたから聞こえたにしても、和彦の聴力に感嘆するしかない。
ふふっ、と和彦が笑い声を洩らす。夜気をわずかに震わせたその声は、ひどく艶めかしく三田村には聞こえた。
「よく寝てたからな、あんた。珍しいと思って、しばらく寝顔を眺めてたんだ。それも気づかなかっただろ?」
「それは……、護衛失格だな、俺は」
「忙しくて疲れてたんだな。まあ、ぼくとしては、隣であんたが熟睡してくれるのは嬉しいけど」
無自覚でこんなことを言うのだから、この人は恐ろしい。
三田村はガシガシと頭を掻き、なんと応じようかと考えていると、新たな影が視界に入った。こちらの様子を、警戒心丸出しでうかがっている黒猫だ。どうやら子猫の親のようだ。
迫力たっぷりの鳴き声が上がると、和彦の手にじゃれついていた子猫が細い声で応じ、あっさりと親猫の元へ駆け寄っていく。振られたなと、和彦がため息交じりに呟き、三田村は口元を緩める。
「物々しい俺が近寄らなかったら、もう少し大目に見てもらえたかもな」
「――ぼくが逃げ出したと思ったか?」
柔らかな声でドキリとするようなことを言いながら、和彦が片手を伸ばしてくる。手首を掴んで引っ張り上げた。
ようやく間近から見ることができた和彦の両目は、案の定、一切の感情を読ませなかった。まるで今出ている月のようだ。優しげでありながら、どこかで底冷えするような冷たさも湛え、不安を掻き立てられる。
目の前に立っている人は、なんの未練もなく、自分の前からいなくなってしまうのではないかと、三田村は怯えにも似たものを感じるときがある。
「いや、それは……」
「気まぐれな猫じゃあるまいし、そんなことするわけないだろ。――猫がいけないんだ。心細そうな声で鳴かれたら、ついふらふらと外に出てみたくなる」
和彦に腕を取られ、部屋へと戻る。玄関のドアを閉めたとき、三田村は心底ほっとした。つい、和彦を抱き締めてしまうぐらいに。
「先生は猫好きだと、組長から聞いた」
「……ニヤニヤと笑いながら言ってただろ」
「組長と猫カフェに行ったんだって?」
三田村は、和彦の後ろ髪を優しく指で梳く。
「あの男とは、二度と行かない。ぼく相手に猫じゃらしを振ったりしていたくせに、妙に猫に懐かれて……。店中の猫がすり寄っていったんだぞ。人間だけじゃなく、猫にまでモテモテだ」
台詞の最後の部分があまりに棒読みで、三田村は破顔する。
「先生、今度、猫を撫でに行くときは、俺に声をかけてくれ。寝ているところを起こしてもいいから」
「ううん。あんたと一緒にいるときは、猫にはもう構わない。……あんな必死な顔を見せられたらな」
顔を上げた和彦から、蠱惑的な眼差しを向けられる。
率直に嬉しいと思いながらも、その気持ちを、聞き心地のいい言葉にする術を持ち合わせていない三田村は、黙って和彦の目元に唇を押し当てた。
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