と束縛と


- Extra70 -


 とんかつはとても美味しい。衣はサクサクとして、しかも油はしつこくない。ロースを選んだが、脂身の旨みが噛むたびに滲み出て、ソースの酸味と合わさって食欲を増幅させるのだ。
 腹を空かせてきてよかったと、つくづくそう思った玲は、味噌汁を一口啜ってほっと息をつく。ここでふと、正面の席から向けられる視線に気づいた。母親である雅美が、じっと自分を見つめていた。
「一緒にご飯を食べるたびに思うけど、よく食べるわね。高校生の男の子って、これが普通なのかしら」
 感心というより、呆れている感が強い言葉に、玲は頷く。
「その言葉、毎月聞いてるんだけど」
「そう、だった……?」
「あとは、『こんなに背が高かったかしらー』も頻繁に聞いてる」
「……だって、月に一回しか会えないし、先月は、玲が用事があるって言うから、会うの二か月ぶりなのよ? ねえ、やっぱり少し大きくなったんじゃ――」
 変わってない、と言いかけた玲は、母親の前にある皿をあごでしゃくって示す。
「早く食べないと、冷めるよ」
「箸をまだつけてないから、お肉半分食べていいわよ。お母さん、揚げ物はあまり食べられなくて……」
 だったらなぜ、月の一度の面会場所を、地元で人気のとんかつ屋に指定したのか。そんな言葉を呑み込んで、玲は遠慮なくとんかつを自分の皿に取り分ける。これで、ご飯ととんかつの食べる配分を気にしなくて済む。
 お椀にわずかに残っていたご飯を掻き込むと、店員を呼んでおかわりを頼む。運ばれてくるのを待つ間に、キャベツの千切りを黙々と食べていると、ぽつりと母親がこぼした。
「食べ方が、あの人そっくり……」
 父さんにまだ未練たっぷりなんじゃないかと指摘したかった玲だが、さすがに高校生ともなると、『元』がつくとはいえ夫婦の機微というものは多少解しているつもりだ。
 玲が小学生のときに離婚した後も、雅美とは月に一度こうして食事を共にしている。親権は雅美が、養育権は父親である龍造が持っているため、こういう決まり事ができたのだ。
 なんとなくだが、雅美は、自分が息子を引き取ると、龍造のような男はあっさりと、別れた妻の存在など忘れてしまうと危惧したのかもしれない。今は、月に一度とはいえ龍造と電話でやり取りをして、存在を認識させることができるのだ。しかも息子から、情報を得ることができる。
 とにかく龍造は、いい歳ながら呆れるほどモテるのだ。結婚していた間も、雅美は気が気でなかっただろう。嫉妬にまみれた結婚生活に疲れたというのは、なかなか壮絶な離婚理由だと玲は思う。
「――お父さんから聞いたけど、あなた、進学で地元を離れるって本当?」
 おかわりのご飯を受け取り、気持ちも新たにとんかつに箸を伸ばそうとした玲は、危うく舌打ちしそうになる。
 これまで志望校への質問は、のらりくらりと躱していたのだが、とうとう龍造が洩らしたらしい。おそらく龍造自身が、日々の多忙さもあって、雅美からの追及が面倒になった可能性が高い。
「まあ……、そんな感じ」
「感じ、って。もしかして、周りから言われて仕方なく、なんてこと――」
「違う、違う。俺が上京したかったんだよ。都会生活を味わってみたいっていうか」
「そんな理由で……。ここからでも通える大学があるんだから、都会に出たいなら、就職のときでもいいでしょう」
 こんなやり取りになるのが想像できたから、知られたくなかったのだ。内心で嘆息した玲は、食欲が失せる前にとんかつを口に押し込んでいく。肉よりも、雅美の小言で胃もたれしそうだ。
 しかし雅美はまだまだ言い足りないといった様子で、玲は知らぬ顔ができなかった。別れたあとも、電話で小言を言われては堪らない。
「父さんは、期待してるみたいなんだよ。俺ならいい大学狙えるって」
「……男親は、そういうところは気楽よね」
「とは言っても、一応父さんなりに、受験生に気を遣ってくれてるけど」
 つい龍造を庇うようなことを言っておきながら、本当にそうだったかなと玲は内心首を傾げる。とにかく、雅美を説き伏せられればなんでもいいのだ。
「滑り止めも向こうの大学にするから、地元を離れるのは確定。母さんは寂しいかもしれないけど、たまには電話する」
「……淡泊ねー。男の子って、そういうものなの?」
「この歳でベタベタしてるほうがおかしいだろ」
 少し素っ気なさすぎるかなと反省しかけたところで、雅美がいきなり核心を突く質問をしてきた。
「ところで、つき合ってる女の子はいないの? あなた、お父さんに似て顔の造りはいいのに、性格はなんというか……朴念仁なところがあるから」
「なん、で、そんな話題に――」
「つき合ってる子が、大学が離ればなれになるのは嫌、なんて言わないのかと思って。あっ、まさか、一緒の大学に通うつもりで、上京なんてこと言い出したんじゃ……」
 一人盛り上がる雅美には申し訳ないが、玲の頭に浮かんだのは、期待されているような『女の子』ではなかった。
「そういう子は、いま、せん……」
「……なんでそこで敬語になるのよ」
 雅美はさらに何か言おうとするのを制して、玲は勢いよくとんかつとご飯を掻き込む。どう誤魔化そうかと咀嚼しつつ考えていたが、運よくというべきか、雅美のスマホが鳴る。画面を一瞥するなり、ため息をついて立ち上がった。
「仕事?」
「午後からの会議のことだと思う」
「土曜日だっていうのに、大変だな」
「仕事ぐらいしか、やることないから」
 ここは踏み込むべきだろうと思った玲は、地雷原を歩く兵士のような気持ちで、しかし、さりげない口調で問いかけた。
「……誰か、いい人いないのかよ」
「あらっ、さっきの仕返し?」
 うふふと笑った雅美に、答えははぐらかされた。


 ぐったりとして玲が帰宅すると、玄関には革靴があった。まだ昼過ぎだというのに珍しいと思いながら、ダイニングに入ると、龍造がイスに腰掛けて、味付け海苔を肴にすでに缶ビールを呷っている。着替える途中で面倒になったのか、上はワイシャツ、下はスウェットパンツというだらしない格好だ。
 こんな男の見た目を、いまだに褒めている女(ひと)が、世の中には少なくとも一人はいるのだ。
「――美味いもの食わせてもらったか?」
 開口一番の龍造の言葉に、玲は軽く眉をひそめる。
「母さんに、俺の上京のこと話しただろ」
「隠したところで、春になりゃ、嫌でも知られる。だったら、今のうちに納得しておいてもらおうと思ってな」
「……父さんの強い希望だってことは?」
「今は、お前の希望でもある」
 意味ありげな流し目を寄越され、玲は返事に詰まる。
 別に、雅美にあれこれ話されてしまったことを、怒ってはいないのだ。実際、いつかは知らせなければならないことだ。受験本番まで、かかってくる電話の回数が増えるだろうが、いざとなれば居留守を使えばいい。そう、大した問題ではない。
「女親ってのは、息子に対して独特の勘が働くのかもな――……」
 玲の複雑な表情を読み取ったのか、龍造がニヤニヤとしている。軽くムカついた玲は、デパートでいくつか買ってきた総菜をやや乱暴にテーブルの上に置いた。龍造がいそいそと袋を覗き込み、歓声を上げる。
 別に父さんのために買ってきたわけではないと、袋をテーブルの端へと移動させた。
「さっき電話がかかってきて、玲の雰囲気がちょっと変わったんじゃないか……、と言われた」
「まさか、あの人のこと――」
「言うわけないだろ。お前の母親は、俺の繋がりでヤバイ女とつき合ってるんじゃないかと心配してるんだ。いやいや、俺も会ったことあるが、優しいうえに頭がよくて上品な、きちんとした家の〈女の子〉だった、と言っておいたぞ」
「……結局言ってんじゃねーかっ」
「こういうのはな、全部ウソをつくと見抜かれる。いくつか真実を混ぜておくのが、バレないウソの秘訣だ」
 少しは悪びれろと言いたかった玲だが、水を一杯飲んで落ち着くと、イスに腰掛ける。一方の龍造は、さっそく総菜を片っ端から開けている。
「指で摘まんで食べるなよ……」
 仕方なく割り箸と皿を取ってきて渡してやる。
 玲はイスに腰掛け直すと、自分のために買ってきた大学芋に箸を突き刺す。昼間に食べたとんかつはまだしっかり胃に残っているが、好物ぐらいは入る。
 大学芋を齧りながら、今日の雅美の様子を話す。興味があるのかないのか、大仰な相槌を打つ龍造は、いつも通りとも言えた。
「――……父さんからウソのつき方教わったところで、そのウソを、父さんは見破れるってことだろ」
 ふと思ったことを口にすると、まんざらでもない様子で龍造は頷く。
「俺は優しいから、気づいてない振りはしてやるぞ」
「でも母さんは、そんな父さんのウソに気づいてた。だから別れたんだろ」
「そう、単純なものじゃないけどな……」
 龍造が困ったように笑い、野心と精力に溢れた容貌に愛嬌のようなものを生み出す。これがまた、女性には堪らないのだろうなと分析していた玲だが、ふと、こう実感していた。
 自分にも、この〈悪い男〉の血が流れているのだ、と。









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