この人が――。
湯葉を口に運びながら圭輔は、正面に座る人物に無遠慮な視線を向ける。相手もそれに気づいているらしく、豆腐を一口食べてから、軽く首を傾げた。
「そんなに、〈オンナ〉という存在が珍しいかい? 中嶋くん」
筋者らしからぬ柔らかな声音で問われる。圭輔は、湯葉の滑らかな感触を舌で堪能してから、頷いた。
「俺が知る限り、二人しかいない存在ですから」
「物怖じしないね。そういうところが、佐伯くんに気に入られているのかな」
そう言った御堂の口元にうっすらと笑みが浮かび、否応なく視線が吸い寄せられる。このまま深淵へと引きずり込まれそうだと、御堂と向き合いながら圭輔は、危うい感覚に囚われる。
第一遊撃隊隊長・御堂秋慈の噂は、総和会に身を置いたときから耳にしていた。表向きは休眠状態だが、実質瓦解していると言われていた隊の隊長。それ以前は、清道会を切り盛りしていた切れ者。
そんな人物でありながら、若い頃は二つの組のそれぞれ中核にいる男たちの、オンナであった。
蔑まれるべきとまでは言わないが、軽んじられても不思議ではない存在でありながら、圭輔が知る二人のオンナは、男たちから尊重されている。それぞれ立場は違えど、鮮烈な存在感を放っているのだ。
病後の御堂は総和会に復帰するなり、第一遊撃隊の立て直しに着手した。南郷辺りが妨害をしそうなものだが、今のところは静観しているという様子だ。その理由を教えてくれたのは、意外にも長嶺組長だった。
第一遊撃隊と第二遊撃隊、隊の規模は圧倒的に第二遊撃隊が上だが、隊長個人の総和会内での人望は、御堂に軍配が上がっているそうだ。そんな人物相手に、南郷もあからさまにことは起こせない。
御堂の総和会復帰には長嶺組長が一枚噛んでいると、このとき圭輔は確信した。同時に、長嶺組長の冷徹な分析には、南郷に対する個人的な感情も関わっているのかもしれない、と。
図太く総和会の中で生き残りたい圭輔としては、見極める必要があるのだ。将来を見据え、第二遊撃隊に身を置きながら、第一遊撃隊の御堂とも繋がりを持っておくべきか。
現状、二つの隊には戦力という意味では圧倒的な差があるが、将来――いや、一年後ですら何が起こっているかわからない。外からは安定して見える総和会だが、内情は組や委員会、個人ですら常に駆け引きが行われている。信頼と情報は、いくらあっても困らない。
「正直、御堂隊長から、二人で会おうと言っていただけるとは、思ってもいませんでした」
「隊長はいらないよ。――君がどんな人物なのか、自分の目で見て判断したかったんだ」
色素の薄い瞳にじっと見据えられて、圭輔の肌はざわりと粟立つ。この場に和彦がいないのだから、本来持つ気質を隠す必要はないということだろう。御堂は間違いなく、裏の世界に棲まう危険な人間の一人だ。
優美な外見に惑わされてはいけない。自戒を込めて圭輔は自分に言い聞かせる。ただ食事を共にしているのではない。今は面接を受けているようなものなのだ。
本来は和彦を含めた三人での食事会だったが、肝心の和彦の都合がつかなくなり、予定が流れても仕方なかった。では二人で食事をと、御堂のほうから声をかけてくれたのは、圭輔という男を見きわめる好機だと考えたからだろう。
そこまで推察しておいて圭輔は、呼び出された豆腐専門店にのこのことやってきた。この場には二人きりだが、隣の個室には、第一遊撃隊の屈強な隊員たちが控えている。
単身で誘いに応じた自分は、肝が据わっていると自画自賛したいところだが、御堂からすると、圭輔を図々しいと思っているかもしれない。
「わたしと二人で会うことが、どういうことなのか、わかっているね?」
御堂の口調は柔らかいままだ。
「……その、つもりです。俺――わたしも、覚悟を決めてきました」
「そんなにかしこまらなくて大丈夫。わたしと君は、佐伯くんの共通の友人として会っているんだから。さあ、食事を続けて」
言われるまま黙々と食事を続けていたが、隣の部屋から微かに携帯電話の着信音が聞こえてきて、圭輔はふと箸を止めた。
「すまないね。落ち着かない連中で」
御堂の言葉に、つい破顔する。
「気にしないでください。第二はもっと騒々しいですから。……っと、今のは隊への批判ではないですよ」
「隊長の性格が、そのまま隊の性格に出る、ということはあるのかな。わたしは神経質そうに見られるが、案外、大雑把な性格なんだ。だから隊の気風も、けっこうのんびりしている」
そのわりには、外でときおり見かける第一遊撃隊の隊員は、揃いのスーツを寸分の隙なく着こなし、動作もきびきびしている。『のんびり』という表現とはかけ離れているように思える。
ここで御堂がニヤリとする。
「南郷は、豪放そうな見た目と言動だが、内面は、わたしなどよりよほど――複雑で神経質だ」
「……南郷さんが、ですか?」
「こそこそと嗅ぎ回る仕事に長けているが、一方で、重機のように不必要なものをなぎ倒す仕事もできる。長嶺会長が重宝しているのは、その器用さを買ってのことだ」
そんな南郷と、今目の前にいる御堂を、圭輔は天秤にかけている。我ながら度し難いともいえるが、想像するだけなら、誰に迷惑をかけるわけではない。
あくまで、考えるだけだ――。
圭輔がウーロン茶入りのグラスに口をつけたところで、御堂に澄まし顔で切り出された。
「君は要領がいいタイプだろう。将来性を見据えて、第一と第二、どちらと繋がりを深めておくのが得か考えている」
ズバリと言われて、危うくウーロン茶を吐き出しそうになった。咳き込む圭輔に、大丈夫かと御堂が声をかけてくる。
「意外な反応だな。余裕で躱すかと思ったのに」
「……はっきり聞かれるとは思いませんでした」
「仕事以外で腹芸はしたくないんだ、わたしは」
冗談とも本気ともつかない御堂の発言に、圭輔は賛同してしまう。苦々しさに満ちたホスト時代を思い出したのだ。
「ああ、なるほど。そういう素直な反応を見せるところも、彼は気に入っているのかな」
「先生は……、佐伯先生は限りなく堅気に近い人ですから。まだそういう匂いを残している俺といると、安心できるのかもしれません」
「つまり君も、損得抜きで佐伯くんを気に入ってるわけだ」
「今の言葉で、どうしてそういうことに――」
御堂が鍋から湯豆腐を掬い上げる。圭輔は、御堂の優雅な食事姿をなんとなく眺めていた。
掴み所がないという表現がぴったりの人物だった。物腰も外見も優美でありながら、冴え冴えとした刃のような鋭さもうかがわせる。黒髪と白髪が絶妙に入り混じった髪は、実年齢以上の老成さを醸し出しながら、顔立ちそのものは若々しい。見るからに細い体は貫禄という表現からは程遠いが、修羅場を潜り抜けてきたという強靭さが滲み出ている。
本来であれば、圭輔が二人きりで会うなど叶うはずのなかった相手だ。そう、和彦を介さなければ。
「……佐伯先生がいなければ、俺の総和会での立場は、もっと違ったものだったはずです。いまだに第二遊撃隊で運転手のままで、下手をしたら、俺より年下の連中に使い走りにされていたかもしれません」
「佐伯くんのお気に入りという立場は、それほど強力かい?」
悪びれることなく頷いた圭輔に対して、御堂は特に不快さを感じた様子はない。
「子供のお使いみたいなものですが、長嶺組への連絡役という役目を得て、長嶺組長と直接言葉を交わせるようになりました。自分で言うのもなんですが、覚えはめでたいと思います。隊でも、独立して動けるようになりましたし」
「なかなか抜け目がない」
ここまでのところ、食事会は順調と言えるだろう。適度に会話も弾んでいるし、それなりに本音めいたものも口にしている。そして御堂は、圭輔がこれから切り出そうとしていることを察しているはずだ。
器の中の湯豆腐がなくなると、圭輔はおもむろにナプキンで口元を拭い、ずばり本題を切り出した。
「――御堂さんは、第一遊撃隊を、これから大きくすることは考えておられるのですか?」
圭輔の不躾さを咎めることなく、御堂は目元を和ませた。
豆腐料理ですっかり温まった体には、冷たい夜気すら心地よく感じられた。
今晩はアルコールを一切とっていない圭輔だが、顔が火照っている。食事中は気づかなかったが、これは興奮による熱だ。
背後で交わされる密やかな会話が耳に入り、姿勢を正してから体ごと振り向く。御堂が、護衛の隊員たちと話していた。控えめに、しかし真剣な様子の隊員たちに対して、御堂は悠然と微笑んでいる。数十秒ほどのやり取りのあと、隊員の一人がわずかに肩を落としてから、御堂に手袋とマフラーを差し出した。
「待たせたね」
このまま別れていいものかと立ち尽くしていた圭輔のもとに、マフラーを巻きながら御堂がやってくる。
「あの……」
戸惑う圭輔に、御堂は前方を指さす。
「少し歩こう。君はタクシーで帰るんだろう?」
「は、い」
御堂に従って一緒に歩き始める。当然、五メートルほどの距離を置いて、二人の隊員もついてくる。
すぐに御堂がこう問いかけてきた。
「――君は、今の第二遊撃隊に不満はあるのかい?」
「いえ……。特に理不尽を強いられることもないですし、隊長である南郷さんは、実力で判断してくれる人だと思います」
「そうだね。南郷は人として好悪はあるだろうけど、下の者には平等だ。でもわたしは――嫌いだ」
淡々とした口調に、御堂が真実を語っていると思わされる。その南郷の隊にいる自分に、ここまで明け透けに語ってもいいのだろうかと、かえって圭輔のほうが不安になってくる。
「……理由を聞いて、いいですか?」
「人としての性質の違いが大きすぎる」
横目で見た御堂の横顔は、凍りつきそうなほど冷ややかだった。さらに流し目を寄越されて、圭輔は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
この人の外見に騙されてはいけないと、改めて圭輔は自分に言い聞かせる。
「あの男の本質は捕食者だと、わたしは思っている。捕えて、なんでも食らう。そうやって今の地位に就いたが、満足はしていないだろう。貪欲……、貪汚(たんお)な己を恥じていない。昔から、そういうところがムシが好かない」
御堂の辛辣さに、圭輔はやや圧倒される。気心を許されたとは、当然思っていない。
「だが、南郷の後ろ盾は強力だ。ムシは好かないが、表立ってやり合うわけにはいかない。隊は立て直しの最中だし、頼りになる賢吾……長嶺組長は、ようやく総和会の中での足場を固めにその気になったところだ。わたしに近い清道会だけでは、力不足でね。君が興味を持ってくれたことはありがたいが、これが現状だ」
第一遊撃隊での活動に興味があると食事中に打ち明けたのだが、御堂はその場では曖昧な笑みを浮かべただけだった。今、こうして話を聞いていると、どうやら遠回しに断られているようだ。御堂相手に下手な小細工や世辞は無駄だと判断しての行動だが、急ぎすぎたようだ。
圭輔がくしゃりと髪を掻き上げると、御堂が薄く笑む。
「今、一瞬の間に、いろんなことを考えただろう? 第二遊撃隊の隊員である自分が信頼されるはずがない、とか」
「……まあ、近いことは」
「違うんだよ。わたしはけっこう、佐伯くんの人の見る目は信用していてね、佐伯くんが君を信頼しているから、わたしもそれに乗ってみる覚悟はある。だからこそ、君はうちの隊に近づいて、余計な波風は立てないほうがいい。――先々を見据えて」
謎かけのような御堂の言葉に、圭輔は引き込まれる。背後をついてくる隊員たちの気配も、すでに気にならなくなっていた。
車の往来のある通りに出てきたが、ここで会話を断ち切るなどできなかった。うかがうように御堂を見遣ると、どこか無機質さを漂わせたきれいな瞳がじっと圭輔を見つめている。
「――わたしと君は、〈彼〉に対する価値観を共有していると思う」
「彼……。佐伯先生、ですよね」
「利用できると考えているだろう?」
直接的な表現に苦笑しそうになった圭輔だが、御堂は真剣だ。体中の感覚がこのとき一気にざわつき始める。
タクシーが通りかかるのを待つふりをしながら、なんとか気を静めようとする。一方の御堂は平然としている。
「利用というのは少し言葉が悪いな。彼が総和会に変化を引き起こすんじゃないかと、期待しているんだ。それこそ、子供のように」
「御堂さんも?」
そう言葉を発した圭輔は、思わず口元に手をやっていた。
御堂ほど明確なイメージを持っていたわけではなく、ただ、初めて和彦に会ったときから、この人は特別な存在なのだなと、漠然と感じていただけだ。それは、オンナという特殊な立場にいるからだと、わかりやすい理由で納得していたが、果たしてそうなのだろうかと、御堂の発言を受けて思い直す。
「佐伯くんは、南郷の手に負えない存在になりうる可能性を秘めている。これだけは断言できるよ」
おそらく御堂は何かを掴んでいる――。
圭輔が詰め寄ろうとしたとき、一瞬早く御堂が動き、道路を指さした。
「あれ、タクシーが来るよ」
慌てて圭輔も身を乗り出し、目を凝らす。
「――君は、自分の野心のためにわたしか南郷のどちらにつくかなんて、考えなくていいだろう。君独自の道というものが、きっとある。総和会の中で、佐伯くんに信頼されている立場というのは、強力なカードになるかもしれない」
また、謎かけのような言葉だ。
圭輔は、停まったタクシーに乗り込むまでの間に、素早く思考を働かせる。御堂が欲しがっているであろう答えを、ドアが閉まる前に提示することができた。
「つまり俺は、佐伯先生につけと?」
さあね、と言って御堂はにんまりと笑った。
〈オンナ〉として男たちに食われていたのではなく、反対に男たちを食ってきたのだろうと想像させる、ゾッとするほど艶めかしい表情だった。
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