と束縛と


- 第10話(1) -


 鷹津が帰ったあと、すぐに賢吾に連絡を取って、起こった出来事を報告した和彦は、バスルームに駆け込んだ。
 念入りに何度も体を洗いながら、鷹津から投げかけられた言葉や、屈辱的な行為、恥知らずな自分の反応を湯と一緒に流してしまいたかったが、もちろんそれは不可能だ。
 バスルームを出て、身震いしたくなるような嫌悪感と悔しさを、安定剤とともに無理やり飲み下す。何かあったときのためにと、心療内科医の友人に処方してもらっていたものだ。
 ベッドに潜り込んだ和彦は、怒りに身を震わせ、シーツを握り締める。衝動のままに何かを殴りつけたくもあったが、和彦には、本当は自分自身を殴りたいのだとわかっていた。鷹津に精神的に打ちのめされた今、自分をさらに追い詰めるのは、つらい。
 どうせ朝になれば、嫌というほど自己嫌悪に責め苛まれるのだ。だったら今は、薬の力を借りてでも眠ってしまったほうがいい。
 少し前に、秦に安定剤を飲まされてひどい目に遭ったので、軽めのものを出してもらったのだが、それでも効き目は確かなようだ。緩やかな眠気がやってきて、和彦の思考は散漫になってくる。
 いつの間にかウトウトしていると、ベッドが揺れ、体を横向きにしている和彦の背後で誰かが動いている気配を感じる。次の瞬間、強い力で腰を引き寄せられ、ぬくもりに包まれた。
 一瞬、鷹津かと思って身を強張らせた和彦だが、しっかりと抱き締められ、腕の逞しさを感じると、体の力を抜く。眠る前に、自分が誰に連絡を取ったのか、思い出したのだ。
「――……わざわざ、来なくてよかったのに……。ぼくは平気だと、電話で話してわかったはずだ」
 まだ意識がはっきりしないまま、寝ぼけた声で和彦が言うと、抱き締めてくる腕の力が強くなる。
「そう言うな。俺の可愛いオンナの一大事だ。駆けつけないわけにはいかねーだろ」
 耳に唇が押し当てられ、忌々しいほど魅力的なバリトンが囁いてくる。シャワーを浴びてまだ半乾きの髪が、そっと掻き上げられた。
 和彦がようやく目を開けると、ライトの控えめな明かりが、壁に大きな人影を作り出していた。今、和彦を背後から抱き締めている賢吾の影だ。
 あごに手がかかり、頭を抱えるようにして振り向かされる。大蛇が潜んでいる目に間近から覗き込まれたが、夜中だというのに、冷たく怜悧な光を湛えていた。
「どこか痛めたか?」
 和彦は電話で、鷹津に手荒なことをされて部屋に入り込まれ、体に触れられたという、端的な説明しかしていなかった。
「……腕を捻り上げられた。筋は痛めてないし、殴られたとか、そういうことはされていない」
「医者の先生が言うなら、確かだな。――電話をかけてきたあと、部屋で倒れているんじゃないかと心配だったが……、なかなかいい寝顔だった」
 賢吾が口元に笑みを浮かべ、和彦も応じようとしたが、小さくあくびを洩らしてしまう。
「薬を飲んだのか?」
「……無理やりにでも寝ないと、あの男にされたことを考えて、悔しくて、苦しいんだ。……ひどい辱めを受けた。あんたたちがぼくにしたようなことは、もう二度とないと思っていたのに、まさか刑事にされるなんて――」
 何をされたと問われ、和彦は唇を噛む。開いているドアのほうにちらりと視線を向けると、数人の人の気配がする。組長が夜動くとなれば、組員が同行してくるのは当然だろう。
「盗聴器で聴いていたんじゃないのか」
「これを機に、監視カメラも取り付けてみるか?」
 今のこの状況で、賢吾の冗談は毒気が強すぎる。嫌悪感を覚えて和彦が小さく身震いすると、機嫌を取るように耳朶に唇が掠めた。
「盗聴器を仕掛けていたのは、この部屋だけだ。しかも、もう外してある。先生と三田村の秘め事の声を聴けただけで、満足したからな」
「絶対、ウソだ」
「どうだろうな。――さあ、サソリのような男に何をされたか、俺に教えてくれ」
 いまさら、組員の耳や目を気にしても仕方ない。和彦は声を潜め、自分がされた行為を話す。
 賢吾の変化には気づいていた。それは、鷹津の精で体を汚されたことまでを告げたとき、明らかなものとなる。賢吾は、ひどく楽しそうだった。興奮もしている。
 和彦にはその理由が漠然とわかっていた。賢吾は、鷹津の目の前で和彦を抱くことで、性質の悪い刑事を――蛇蝎の片割れであるサソリを挑発したのだ。自分の〈オンナ〉に手を出してみろと。鷹津は、その挑発に乗った。
 自分は利用されたのだとは思わなかった。それを言うなら、和彦は賢吾と最初に出会ったときからずっと、利用されている。
「――……あんたが何を企んでいるのか、よくわからない」
 和彦がぽつりと洩らすと、賢吾はニヤリと笑う。
「先生を守る番犬は、一匹でも多いほうがいいと思ったんだ」
「番犬? ぼくは、サソリに刺されたんだ。それに、三田村以外の番犬はいらない」
「三田村も、惚れられたもんだな。あいつはあいつで、先生にゾッコンだ。今夜のことを知ったら、先生のところに駆けつけたかったはずだが……、二日続けて事務所に詰めていたから、帰って休むよう命令した。そのあと、先生から電話がかかってきた」
 和彦はそっと眉をひそめる。
「……正直、三田村が来なくてよかった。あの優しい男に、心配をかけたくない」
「あとで話を聞いたら、どちらにしろ心配すると思うがな」
 賢吾の口調には、自分が鷹津を挑発したという後ろ暗さはない。和彦も、賢吾を責める気はなかった。責めたところで無駄だし、何より、鷹津に部屋に入り込まれ、体に触れられたのは自分自身の責任だ。
「千尋も、先生の一大事を知ったらキャンキャンとうるさかっただろうが、あいつは今、じいさんの家だ。本格的に跡継ぎ修行を始めるために、放り込んできた」
「なら、よかった……。こんなことになってると知ったら、千尋の甘ったれがひどくなる」
「気にかける男が多くて大変だな」
 そう言いながら賢吾の片手が、和彦が着込んでいるバスローブの紐を解く。シャワーを浴びてから羽織り、その格好でベッドに潜り込んだのだ。
「――忘れるなよ、先生。先生に一番惚れ込んでいるのは、この俺だ。惚れ込んで、骨抜きだ……」
 しっとりと唇が重なってきて、吐息をこぼした和彦は、従順に賢吾の舌を口腔に受け入れる。鷹津の痕跡を消すように口腔の粘膜を舐め回され、唾液を流し込まれる。
 口腔を犯すように、賢吾の口づけは深く激しかった。引き出された舌を痛いほど吸われながら、賢吾の大きな手が胸元を這い回り、鷹津の愛撫のせいで疼いている胸の突起を弄り始めた。
 凝った感触を確かめるように摘ままれ、引っ張られたかと思うと、指の腹で押し潰される。
「ここも、弄られたか?」
 賢吾の問いかけに、和彦の体はカッと熱くなる。短く笑った賢吾に、体にかけたブランケットを除けられ、バスローブを脱がされていた。鷹津の愛撫の跡が散った体を隠そうと、和彦は反射的にうつ伏せになったが、賢吾は容赦なかった。
 和彦は腰を抱えられ、唾液で濡らした指を内奥に挿入される。
「あうっ……」
「体に触れられた、というのは、間違ってはないが、正確な表現じゃないな。体の中も触れられたというべきだ」
 鷹津の指を受け入れてそれほど時間が経っていないため、和彦の内奥はひどく脆く、感じやすくなっている。無遠慮に指を突き込まれ、クチャクチャと湿った音を立てて掻き回されると、一度は押さえ込もうとした肉欲は簡単に開花し、官能という蜜が溢れ出す。
「――鷹津に、ねちっこく弄られたようだな。熱くなって、俺の指をグイグイ締め付けてくる。だが……鷹津のものを咥え込んではない」
 付け根まで挿入された指が蠢き、和彦はシーツを握り締めて腰を震わせる。これは、愛撫ではない。賢吾は、和彦の内奥を検分しているのだ。
「こんなことしなくても、わかるだろっ……」
「俺が知っている鷹津は、組が与えた〈女〉を平気でいたぶって、抱くような男だった。一度どん底を味わって変わったのか、それとも、先生が特別なのか。……ここまで念入りに尻を弄って、射精しておいて、俺の〈オンナ〉相手に欲情しなかったってことはないだろ」
 和彦は頭に浮かんだ疑問を、乱れた息の下、肩越しに振り返って賢吾にぶつけた。
「……ぼくが、あの薄汚い男に抱かれてもよかったのか」
「先生も、なかなかきつい。――俺は慎重なんだ。気になるものは、調べて確かめる。それで利用できる相手なら、利用する。さらに俺の役に立てそうなら、俺の支配下に置く。俺は何かを企むのは好きだが、企まれるのは嫌いなんだ。鷹津の場合、その点を見極める必要がある。なんといっても、かつての悪党同士だからな。俺とあいつは少し似ている」
 秦が言っていた人物評そのままのことを、賢吾は口にする。
 和彦の考え及ばないところで、賢吾はさまざまな計略を巡らせているのかもしれないと思った。緻密に計略の糸を編み上げ、迂闊に誰かが引っかかれば、搦め捕る。
 本人は、それこそ身を潜める大蛇のように、獰猛な性質を悟らせまいとじっとしているが、冷たい目は常に周囲の気配をうかがい、獲物を求めているのだ。だが、一度身を起こせば、巨体をしならせ、邪魔なものはなぎ倒す。捕えた獲物は容赦なく締め上げ、牙を突き立てたあとは、ゆっくりと呑み込んでしまう。
 残酷だが、反面、強烈に惹きつけられる妄想だ。安定剤のせいもあり、ぼうっと見つめる和彦に、ゾクリとするほど官能的な声が傲慢に告げた。
「さあ、清めてやる。指とはいえ、あんな男に触れられたんなら、俺がきれいにしてやらないとな」
 獲物を呑み込む大蛇のものを、自分は呑み込むのだ。そう思った和彦は、興奮から小さく身震いして顔を伏せる。
 内奥から指が引き抜かれ、背後で賢吾が身じろぐ気配に、ファスナーを下ろす音が重なる。すぐに、熱く逞しい感触が内奥の入り口に擦りつけられた。
「あうっ……」
 狭い場所がゆっくりとこじ開けられる。双丘を押し広げられ、ぐうっと太いものを押し込まれると、苦しさに喘ぎながらも和彦は従順に受け入れる。
 腰を抱え込まれ、繋がりが深くなる。緩やかに突き上げられると、間欠的に声を上げながら、和彦は乱れ始める。
 賢吾の手が体中に這わされ、まさぐられる。
「あとで、嫌というほど全身を舐めて、鷹津のつけた跡を全部、消してやる。――だが今は、俺の興奮を鎮めるのが先だ」
 重々しく内奥深くを突き上げられ、その衝撃に和彦は大きく背をしならせる。肉を押し開かれ、太いものを捩じ込まれると、すぐに傲慢に引き抜かれて、また貫かれる。
「あっ、あっ、ああっ」
「いい締まりだ、先生。……中を擦り上げられて、気持ちいいか? もしかすると、鷹津にこんなふうにされていたかもしれないと思うと、先生も興奮するだろ」
 和彦は懸命に首を横に振るが、奥深くに挿入された賢吾のものに内奥を掻き回されると、そんな余裕はなくなる。
「んあっ……、はうっ、うっ、苦、しっ――」
 和彦が訴えると、再び内奥深くを突き上げられる。今度は丹念に、何度も。
「あうっ、あうっ、あっ……ん」
 無意識のうちに、賢吾の熱いものをさらに貪るように自ら腰を揺らす。賢吾の片手が両足の間に入り込み、反り返り、先端から透明なしずくを滴らせているものを手荒く扱かれていた。
「――鷹津に、何回イかされた?」
 激しい律動を繰り返しているため、そう問いかけてくる賢吾の息が弾んでいる。
「はっ、んんっ、い、か……、一回……」
「なら俺は、最低二回はイかせてやらねーとな」
 そう言って賢吾の手が、さらに深く差し込まれる。いつものように柔らかな膨らみをまさぐられ、いきなりきつく揉みしだかれる。
「嫌っ……、あっ、そこ――、い、いぃ」
「嫌なのか、気持ちいいのか、どっちだ、先生。まあ、聞くまでもないがな」
 内奥を突かれながら、絶妙のタイミングで柔らかな膨らみを揉まれ、弄られる。腰が溶けそうなほど、気持ちよかった。
「まずは、一回」
 賢吾が低く呟き、限界を迎えようとしている和彦のものを握り、軽く数回扱く。深い吐息をこぼした和彦は、腰を揺らしながら賢吾の手の中で果てていた。
 脱力した体はすぐに仰向けにされ、パンツの前を寛げただけの姿で賢吾がのしかかってくる。言葉もなく貪り合うような口づけを交わしながら、賢吾に足を抱えられ、蕩けて喘ぐ内奥を再び貫かれた。
 和彦はビクビクと体を震わせながら、賢吾の欲望を締め付け、淫らな襞と粘膜で奉仕する。シャツすら脱いでいない賢吾だが、そのシャツはすでに汗で濡れ、筋肉が硬く張り詰めているのがわかる。本物の大蛇とは違い、この大蛇の体は興奮で熱くなる。
 賢吾の背にいる大蛇に触れたい――。
 衝動的に強くそう思った和彦は、激しい動きに翻弄されながらも、懸命に賢吾の背に両腕を回す。
「どうした、先生?」
 まるで子供を甘やかすような声で賢吾が問いかけてくる。その声に唆されるように和彦は、掠れた声でせがんだ。
「背中……、大蛇を撫でたい」
 この瞬間、賢吾の目の色が変わった。和彦の唇を吸ってから体を起こし、繋がったままシャツを脱ぎ捨てると、すぐにまた覆い被さってくる。和彦はすがりつくように賢吾の裸の背に両腕を回した。
 脳裏に焼きついている大蛇の刺青を思い描きながら、てのひらで背を撫でる。賢吾の背の筋肉が、ますます張り詰めた。大蛇がのたうっていると、和彦は思った。
「はっ……、ああっ」
 和彦が大蛇の刺青を撫で、爪を立てるたびに、内奥深くまで押し入っている賢吾の欲望がビクビクと震え、さらに大きく膨らんでいくようだ。
「あっ、あっ、賢吾さ――……」
 和彦の内奥の淫らな蠕動を堪能するように、賢吾の律動が緩やかになる。
「具合がよすぎだ、先生。先に先生を、二回イかせるつもりだったが、俺のほうに余裕がなくなった」
 賢吾がニヤリと笑い、誘われるように和彦は賢吾の唇に軽く噛みつく。欲望に歯止めがかからなくなり、今度はこんなことをせがんでいた。
「中、に……。中に出してくれ」
 すかさず賢吾に強く内奥を突き上げられ、堪えきれずに悲鳴を上げる。
「当然だ。それが、俺のオンナの義務だ。――そうだろ、先生?」
 何も考えられず、和彦は夢中で頷く。
 いい子だ、と囁いてきた賢吾は、褒美だと言わんばかりに、熱い精を内奥にたっぷり注ぎ込んでくれる。大蛇の刺青に爪を立てながら和彦は、恥知らずなほど奔放に乱れた。




 開けたドアから心地いい風が入り、待合室を吹き抜けていく。空気の入れ替えも兼ねて、待合室に面している部屋のドアや窓はすべて開け放っているので、風の通りは抜群だ。
 髪を掻き上げた和彦は、ページの端を折った医療用品のカタログをテーブルに置き、周囲にぐるりと視線を向ける。運び込まれた備品から小物に至るまで、一応、収まるべきところに収まり、照明器具も設置した。おかげで、ぐっとクリニックの待合室らしくなった。
 医療機器を入れるまで人が出入りすることもないため、当分の間、和彦はここを一人で自由に使える。部屋に閉じこもっていても不健康なので、昼間は毎日通ってくるのもいいと、実は考えていた。外で護衛をしている組員には申し訳ないが、人形でもない限り、生活空間以外で、一人で気楽に過ごす時間は必要なのだ。
 そう、一人で気楽に――。
 和彦はソファの背もたれに頭を預け、ぼんやりと天井を見上げる。すると、前触れもなく声をかけられた。
「――寛いでるね、先生」
 ビクリと体を震わせて、慌てて姿勢を直す。出入り口のドアから待合室へと通じている廊下のほうを見ると、いつからいたのか、窓枠に手をかけた千尋が立っていた。驚いたことに、今日もスーツ姿だ。しかも、髪もきちんとセットしてある。
 千尋の姿に目を丸くした和彦は、率直に感想を洩らした。
「この間も思ったが、就職活動をしている学生みたいだ……」
「ひでー。確かに、スーツは着慣れてないけどさ」
 苦笑した千尋がこちらに歩み寄ってくる。
「普通のスーツが似合わないなら、マオカラーに挑戦してみようかな――」
「あれはやめておけ。あんなものを着たら、ぼくは遠慮なく、『学生服を着ているみたいだ』と言うぞ」
「……先生、厳しい」
 小さく笑い声を洩らした和彦の隣に、当然のように千尋は腰掛ける。
「今日も、総和会の用事か?」
「じいちゃんについてね」
「跡継ぎ修行のために、ずっとついていなくていいのか」
 和彦がこう言うと、急に怖い顔となった千尋が、ぐいっと身を乗り出してくる。間近から顔を覗き込まれ、その迫力にさすがに和彦も息を呑む。
「――何があったのか、オヤジから聞いた」
 千尋の言葉に、和彦はそっとため息を洩らす。
「知らせなくていいと言ったのに……」
「ダメだっ。大事なことだよっ。それに――オヤジだけ知っていて、俺が知らないなんて、おかしいだろ。先生は、オヤジだけじゃなく、俺の〈オンナ〉なんだ」
 和彦はじっと千尋の顔を見つめる。脳裏に、つい最近、三人の男たちに同時に体を嬲られた体験が蘇る。その中に、まだ若い千尋が加わっていたのだ。しかも、行為のあと、和彦の体を丹念に洗ってくれた。その手つきは、優しくはあったが、傲慢でもあった。〈これ〉は自分のものだと、主張しているようだった。
 傲慢で純粋で、甘ったれ。それが、千尋だ。そして和彦は、そんな千尋のオンナとして大事にされている。方法は独特だが。
 苦笑に近い表情を浮かべた和彦が頬を撫でてやると、人懐こい犬っころ並みの反応のよさで、千尋は抱きついてきた。ただし、発言そのものは物騒だ。
「……あいつ、許さない……。先生にひどいことをした」
「殴られたりはしなかったがな。……さすがに、ショックだった。ああいう辱められ方もあるのかと思った。ヤクザの手口は体で覚えたつもりだったが、まさか、刑事に――」
 和彦の淡々とした言葉に刺激されたのか、抱き締めてくる千尋の腕の力が強くなり、息苦しくなる。
「千尋っ」
 咄嗟に呼びかけて、千尋の顔を上げさせる。思ったとおり、千尋は激しい炎を孕んだ目をしていた。大蛇の化身のような賢吾なら、まずこんな目はしないだろう。
「怒るのはいいが、鷹津を見かけても、飛びかかるなよ。あの男は、長嶺組を刺激して、反応するのを待っている。お前みたいに頭に血が上りやすい奴は、絶対にあの男に近づくな」
 両手で千尋の頬を挟み込んで諭すと、なぜか千尋は目を丸くする。和彦は眉をひそめて首を傾げた。
「お前、聞いてるのか?」
「いや……、なんというか、俺としては、鷹津に近づくなというのは、先生に言いたい言葉なんだけど……」
「誰が、あんな男に近づくかっ」
 和彦がムキになって声を荒らげると、千尋は露骨に疑いの眼差しを向けてくる。
「そうは言うけど、先生、ガード甘いじゃん」
 一言も反論できなかった。しかし、十歳も年下の青年に言い負かされたままでは悔しいので、精一杯の抵抗を試みる。
「……ぼくの周りにいるのが、食えない男ばかりだからだ。だからぼくは、付け込まれる」
「それって、俺も入ってる?」
 そう問いかけてくる千尋は、やけに嬉しそうだ。和彦は、そんな千尋の頬をペチペチと軽く叩く。
「目をキラッキラさせて、そういうことをストレートに聞いてくるうちは、まだまだかもな」
 答えながら和彦は、笑みをこぼす。すると、ふいに真顔となった千尋が顔を寄せてきて、チュッと軽く音を立てて唇を吸われた。
「千尋……」
「笑えるってことは、大丈夫だと思っていいんだよね?」
 千尋の意図がわかり、和彦は小さく声を洩らす。和彦の心に深刻なダメージが残っていないか確認するため、千尋はあえて、〈単純なガキ〉を演じたのだ。
 もう一度唇を吸われた和彦は、両腕を千尋の背に回す。
「――……お前も十分、食えないよ」
 二十歳だからガキだと思っているのは、案外和彦だけなのかもしれない。いや、ガキだと思いたいだけなのか――。
 つい、千尋の二十歳という年齢を意識してしまう和彦に対し、千尋がそっと耳打ちしてきた。
「先生、俺、もうすぐ誕生日なんだ」
「だったら、プレゼントとケーキを用意して、お誕生日会をしてやる」
「……やっぱりガキ扱いだなー」
 唇を尖らせる千尋に、今度は和彦のほうから軽くキスしてやる。
「ぼくがやりたいんだ。……いままで、他人の誕生日を祝ったことがないし、ぼく自身、誕生日なんて祝ってもらったことも、意識したこともないからな。今みたいな生活を送っていて、そういう初めての経験をするのもいいだろ」
「先生――」
「他の奴相手なら、気恥ずかしくてこんなことできないが、お前相手なら、バカ騒ぎもちょうどいい」
 うん、と頷いた千尋に抱きつかれ、和彦は受け止める。
 戯れのようなキスを交わし合っていると、乱暴にドアが開閉され、廊下を走ってくる足音が聞こえてくる。この瞬間、千尋の顔つきが変わった。鋭い眼差しを廊下のほうに向けながら、和彦を守るように両腕をしっかりと体に回してくる。
「千尋……」
「大丈夫。何かあったら、俺が守るよ」
 千尋の腕の中、身じろいだ和彦がどうにか振り返ったのと、三田村が待合室に飛び込んでくるのはほぼ同時だった。
 三田村はわずかに目を見開いたが、次の瞬間には無表情に戻る。
「――どうかしたのか」
 三田村にそう問いかけたのは、千尋だ。
「いえ……。先生に何があったのか、組長に教えられたものですから……」
「電話してくりゃ、それで済む話だろ。忙しい若頭補佐が、わざわざ足を運ぶなんて」
 思いがけず千尋の冷たい言葉に、和彦は驚く。
「千尋っ」
 叱責するように鋭い声を発すると、途端に千尋はストレートな怒りの表情を見せた。
「……だって、やってることが、俺と同じじゃん。オヤジから鷹津のことを聞かされてから、先生に電話する余裕もなくて、直接こうして先生に会いに来るなんて……。自分の姿を見てるみたいだ」
 自分たちの奇妙な関係を思い知らされて、和彦は言葉が出なかった。和彦が気づかないだけで、千尋は日ごろ、賢吾や三田村を相手に心理的な駆け引きを繰り広げているのかもしれない。普通の男なら、千尋に対してなんらかの反応を示すのかもしれないが、やはり相手が悪すぎる。
 三田村は、無表情で黙って佇んでいたが、和彦と目が合うと、ただ頷かれ、静かに立ち去ってしまう。
 和彦の元気な姿を見られただけでいい。三田村なら、心の中でそう声をかけてくれたのかもしれない。
 三田村を追っていきたいところだが、千尋は放っておけない。
 なんといっても和彦は、この千尋のオンナなのだ。今優先すべきは、自分のオトコの存在ではない。
「――……千尋、ぼくは大事にされるのは好きだ。いままでずっと、手軽な相手に、手軽な関係ばかり求めていたけど、こういうのは、悪くない。……ただ、抜け出せなくなりそうなぐらい居心地がよすぎて、怖くなるけどな」
 千尋の背を撫でながら和彦が囁くと、小さく微笑んだ千尋に柔らかく唇を吸い上げられた。
「抜け出せなくなってよ。そうしたら、ずっと先生を大事にしてあげられる。俺だけじゃなく、オヤジも、……三田村も」
 ここで三田村を含められるのが、千尋の器の大きさかもしれないと思ったが、もしかすると、和彦の欲目かもしれない。









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