座卓に頬杖をついた和彦は、ぼんやりと考え込む。ただ、考えることが多すぎて、思考は散漫だ。
結婚披露宴で和彦に話
しかけてきた父親の同僚のことを考えると、必然的にその父親のことを――自分の家族のことにまで考えが及ぶ。和彦にとって家
族とは、この世でもっとも関わりたくない存在なので、正直、戸惑っていた。
戸惑うといえば、もう一人の存在を忘れては
いけない。
意識しないまま顔が熱くなってきて、一人うろたえた和彦は慌ててグラスを取り上げ、残っているワインを飲み
干す。その勢いで、肩にかけていた羽織が滑り落ちた。気だるい動きで羽織に腕を通そうとすると、ふいに声をかけられる。
「――艶めいた顔だな。鷹津のことを考えているのか」
ドキリとした和彦は、自分のその反応を誤魔化すように、正面に座
っている賢吾を睨みつけた。さきほどまで、携帯電話であちこちと連絡を取り合って仕事の話をしながら、手元の紙に何か書き留
めていたはずだが、いつの間にか、しっかり和彦を観察していたようだ。賢吾の口元には、人の悪い笑みが浮かんでいた。
「違うっ」
「そんなにムキになって否定すると、認めているようなもんだぞ、先生」
今日、和彦と鷹津の間にあった出
来事を、賢吾はすべて知っている。隠し通せると思っていない和彦が、報告のため本宅に立ち寄ったとき、自分から告白したのだ。
ただ、父親の同僚と出くわし、捕えられそうになったことは告げていない。
今の生活を〈壊したくない〉と感じるのは、道
徳的に間違っているだろう。それでも、異物となるものを持ち込みたくなかった。和彦にとって自分の家族は、まさに異物そのも
のだ。今の生活に入る、ずっと前から――。
どこかソワソワとして落ち着かない和彦を一人にしておけないと思ったらしく、
今夜は本宅に泊まるよう賢吾に言われたのだが、マンションの広い部屋で一人で過ごしたくなかった和彦としては、その言葉はあ
りがたかった。
賢吾がふっと目元を和らげ、手招きしてくる。わずかに逡巡してから、羽織を肩にかけ直した和彦は場所を
移動し、賢吾の隣に座った。
すかさず肩を抱かれたので、和彦も賢吾にもたれかかる。
「先生も、しつこいサソリに狙
われて大変だな」
笑いを含んだ声で言いながら、賢吾の指先にあごの下をくすぐられる。そんな賢吾を見上げてから、和彦
は肩先に額を押し当てた。
さすがの賢吾も、和彦の心を煩わせるものすべてを見通すことは不可能らしい。
「……最初
にぼくを狙って、あんなことをした人間が、どんな顔をして、そんなことを言うんだ」
「俺はいい。俺は、許されるんだ」
さすがに図々しい発言だと思って和彦が顔を上げると、待っていたようなタイミングで唇を軽く吸われた。
「先生を狙って
自分のものにして――見事に、骨抜きにされたんだ。そんな哀れなヤクザを、愛情深い先生なら、たっぷり甘やかしてくれるだ
ろ?」
本当に図々しいと思いながらも、和彦はつい笑みをこぼしてしまう。
自然な流れとして、賢吾と再び、今度は
しっとりと唇を重ねていた。柔らかく互いの唇を吸い合い、舌先を触れ合わせる。肩にかかった賢吾の手が油断なく動き、浴衣の
合わせ目から入り込んだかと思うと、胸元を撫でられていた。
今日、鷹津にそうされたように、賢吾の指先に胸の突起を弄
られ、抓るように引っ張られる。和彦が喉の奥から微かに声を洩らすと、目を細めた賢吾に片手を取られ、あぐらをかいた両足の
間に導かれた。
「――鷹津を悦ばせたように、俺も悦ばせてくれるだろ、先生?」
羞恥なのか、それ以外の感情からな
のか、一気に和彦の顔は熱くなる。思わず顔を背けたが、首筋に賢吾の唇が押し当てられ、ゆっくりと歯が立てられると、背筋に
疼きが駆け抜ける。それだけで賢吾に逆らえなくなった。
賢吾と深い口づけを交わしながら和彦は、賢吾が着ている浴衣の
下に片手を差し込み、すでに熱くなりかけている欲望を外に引き出す。優しく握り込んで、上下に扱き始めた。一方の賢吾は、執
拗に和彦の胸の突起を弄る。
手を動かすたびに賢吾のものはゆっくりと首をもたげていき、その反応に和彦は、身震いした
くなるような興奮を覚える。大蛇を潜ませた賢吾の目にも、ほのかな熱っぽさが宿り、思わず覗き込んでしまう。
誘い込ま
れるまま賢吾の口腔に舌を差し込み、まさぐる。濡れた音を立てて舌を吸われると、素直に気持ちよかった。
ゆっくりと互
いの欲望を高め合っていると、座卓の上に置いた携帯電話が鳴る。和彦の唇を吸い上げて、賢吾は電話に出た。
寸前まで、
熱く官能的な口づけを与えてくれていたとは思えないほど、電話に応対する賢吾の声は淡々として怜悧だ。だが、和彦の手の中で
息づくものは、確かに熱く――。
和彦はピクリと肩を震わせる。胸元を撫でた賢吾の手が、今度は後頭部にかかったからだ。
思わず視線を上げると、賢吾がニヤリと意味ありげに笑う。そして、和彦の頭を軽く押さえつけた。意図を察した和彦は目を丸く
したあと、賢吾を睨みつけたが、拒めなかった。
促されるまま賢吾の両足の間に顔を伏せ、差し出した舌で熱い欲望を舐め
る。いい子だ、と言いたげに賢吾の指にうなじをくすぐられた。
頭上で賢吾が、物騒な仕事の話をしているのを聞きながら、
本格的な愛撫を始める。
賢吾のものを深く口腔に呑み込み、熱く湿った粘膜で包み、吸引する。賢吾のものが逞しさを増
していくのを待ってから、ゆっくりと頭を上下させ、舌を絡める。括れに丹念に舌先を這わせると、頭にかかった賢吾の手にわず
かに力が加わり、もう一度口腔深くまで呑み込む。
賢吾のものが力強く脈打っていた。影響力のあ
る組の組長として恐れられている男の欲望を、自分がコントロールしていると実感できる瞬間だ。それはひどく官能的で、甘美な
時間でもある。
先端を舐めてから、そっと吸い上げて括れまでを含む。根元から指の輪で扱き上げると、賢吾の指に髪を掻
き乱された。そのくせ、話す口調も声音も、一切変化しない。
この、ふてぶてしく図々しい男が動揺する様を見てみたいと
思った和彦は、口腔に含んだ熱い欲望を、甘やかすことにした。
ローションでたっぷり潤った内奥を、逞しい欲望がじっくりと擦り上げていく。さきほどから淫らに蹂躙され続けている襞と粘
膜は、これ以上なく敏感になっており、賢吾が動くたびに、ヒクヒクと震えながら快感を迸らせているようだ。
「あっ……、
うっ、うぅ――」
和彦は身悶えながら、賢吾にすがりつく。緩やかな律動が繰り返されるたびに、溶けたローションが敷布
団のシーツを濡らしていく。それに、すでに放った和彦と賢吾の精も混じっているだろう。
今夜の賢吾の攻めは丹念で、激
しさとは無縁だ。だからこそ和彦は、時間をかけて与えられる快感に煩悶し、乱れさせられる。
「……鷹津にイかされたあと
の先生は、独特の色気を放つな」
内奥深くを小刻みに突き上げながら、ふいに賢吾がそんなことを言う。和彦は賢吾の逞し
い腰に両足を絡ませながら、頭上の枕を握り締めて嬌声を堪える。大きく呼吸を繰り返してやっと、言葉を紡ぐことができた。
「どういう、意味だ……」
「心底嫌いな男に感じさせられて、悔しい反面、ひどく興奮しているんじゃないのか。脅されて言
うことを聞かされたはずなのに、体はしっかり、その嫌な男から与えられた快感で悦ぶ。淫奔な体と、下手なヤクザより肝が据わ
って、したたかな性質を持った先生らしい色気だ」
賢吾には当然、レストルームの個室で鷹津に何をされたのかすら、報告
してある。正確には、組み敷かれながら報告させられたのだ。
和彦と鷹津の間にセクシャルな行為が行われることを、賢吾
は楽しんでいるようだった。それだけでなく、興奮もしている。
大蛇が熱い。賢吾の汗で濡れた背を何度もてのひらで撫で
ながら、和彦は心の中で呟く。賢吾の興奮が移ったのか、鷹津との口づけを思い出し、和彦の体に強烈な疼きが駆け抜けていた。
そんな和彦を見下ろし、賢吾は笑った。枕元に置かれたライトの明かりが二人を照らし出しているのだが、濃い陰影のせい
か、賢吾の顔がさらに凄みを帯びて見える。しかし、怖くはない。大蛇に体の内から食われているような状況で、恐れる感覚すら
溶かされた。
「鷹津は、どうだ?」
そっと唇を吸ってきた賢吾に問われ、小さく喘ぎながら和彦は答える。
「……嫌
な、男だ……。強引で、乱暴で。会うたびに、脅されている気がする……」
「他には?」
ぐうっと内奥深くを抉るよう
に突かれ、和彦は数秒の間、恍惚として息を止める。ローションで滑る襞と粘膜が必死になって賢吾のものに絡みつき、内奥全体
が収縮を繰り返す。この状態で、誤魔化すことはできなかった。
「――……キスが、上手い」
「サソリのキスで感じたか、
先生?」
和彦は、吐息を洩らすように答えた。
「ああ」
薄く笑んだ賢吾が腰を揺らし、淫靡な湿った音が室内に
響く。和彦は仰け反りながら、愉悦の声を上げた。
「あっ……ん。んっ、んっ、んあっ、あっ、い、いぃ――」
「性質が
悪い〈オンナ〉だ。目のやり場に困るような色気を振り撒いて、俺だけじゃなく、俺の息子や、忠実な飼い犬を骨抜きにした挙げ
句、まだ男を引き寄せるなんざ」
両足を抱え上げられ、内奥から賢吾の欲望が引き抜かれる。熱くなって喘ぐ場所に、賢吾
はたっぷりローションを垂らし、再び押し入ってきた。和彦は声を洩らし、はしたなく腰を揺らして逞しいものを奥まで呑み込む。
精を放つのとはまた異質の、深い快感を味わっていた。
「あっ、あっ、賢吾さんっ……」
「ああ、最高だ、先生」
両腕を伸ばして賢吾にしがみつくと、手荒く頭を撫でられる。喘ぐ和彦の唇をそっと吸い上げてから、悪戯を持ちかけるように楽
しげな口調で賢吾が囁いてきた。
「――先生、そんなに鷹津とのキスが気に入ったんなら、あの男を堕としてみるか?」
和彦は目を見開き、賢吾を凝視する。
「堕と、す……」
「鷹津は、刑事としてはとっくに〈堕ちた〉男だから、〈オト
す〉というべきだな。篭絡するんだ、先生が。地べたを這いずり回るサソリを」
賢吾の言葉の真意を探るため、大蛇が潜ん
だ目を覗き込む。常にある怜悧さは今はなく、肉欲と好奇心によって熱っぽさを湛えていた。
「あの男が目の前に現れたとき
から、企んでいたんだな」
「いや。鷹津が、先生に興味を持っていると知ったときからだ」
ここは怒るべきなのだろう
かと思い、和彦は顔を背ける。すると賢吾が熱い舌で、汗で濡れた首筋をベロリと舐め上げてきた。抗いきれず、唇を吸い合い、
舌を絡める。応えるように賢吾の欲望が動き始め、内奥は嬉々として淫らに締め付けていた。
「先生が、鷹津を毛嫌いしたま
まなら、それはそれで仕方ない。あの男がうちの組の障害になるときは、何かしら手を打って、前線から弾き出すだけだ。だが、
憎たらしいことに、鷹津は有能な刑事だ。下衆ではあってもな。しかも執念深い」
賢吾に突き上げられるたびに、痺れるよ
うな快感が生み出され、和彦を酔わす。緩く頭を左右に振り、何も考えられないと訴えるが、賢吾は会話も律動もやめなかった。
「今の鷹津に女をあてがったところで、指一本触れやしないだろう。昔とは違う。あいつが今欲しがっているのは、先生――、俺
の、大事で可愛いオンナだ」
自分のオンナを他人に触れさせるのは不快ではないのかと、賢吾に問いかけるだけ無駄なのか
もしれない。現に和彦は、賢吾の許可の下、三田村と関係を持っている。しかも、その関係を許可している理由は、和彦が組から
逃げ出さないため、というものだ。
賢吾は、目的のためなら手段を選ばない。
「……あの男は、あんたに対する嫌がら
せのつもりで、ぼくにあんなことをしたのかもしれない、とは考えないのか?」
「俺と鷹津は悪党同士、少し似ている。だか
らこそ、わかる部分もあるんだ」
「ぼくを、鷹津にあてがう根拠としては、弱いな……」
賢吾の頬を撫でて頭を抱き締
めると、和彦の求めがわかったように、熱い舌が胸の突起をくすぐり、きつく吸い上げてくれる。胸元に愛撫の跡を散らしながら
賢吾が言った。
「あてがう? 違うな。鷹津を先生の番犬にしたら、おもしろいと思ったんだ。俺としても、あいつが俺や組
のために何かするなんて、期待しちゃいない。ただ、おとなしくしてもらいたいだけだ。……よく吠える犬は、好かねーんだ、俺
は」
番犬、と和彦は口中で呟く。犬と言いながら、鷹津の本性は毒を持つサソリだ。鋭い針で刺されると、さぞかし痛いだ
ろう。大蛇の巨体に締め上げられると苦しいように。
「――……ぼくに、拒否する権利はあるんだろうな」
律動を止め
た賢吾が上目遣いでこちらを見て、ニヤリと笑う。
「当然だ。ただ先生も、組の名前入りの首輪をつけた忠実で優しい犬だけ
じゃなく、手荒に扱える凶暴な犬を一匹ぐらい、飼ってみたらどうだ。何かのとき、役に立つかもしれない」
「何かって……」
「何か、としか言いようがない。先生はヤクザに囲まれて生活しているが、先生自身はヤクザじゃない。万が一にも、ヤクザ
以外の番犬が必要になるかもしれないだろ」
もしかして賢吾は、今日和彦の身に起こったもう一つの出来事を、把握してい
るのではないか――。
そんなことが和彦の脳裏を過るが、単なる杞憂だと思いたかった。
あの場には長嶺組の人間は
いなかったし、たまたま同じ日、同じ会場で結婚披露宴をしている人間について、調べるはずもない。そのうえ、招待客について
まで。
しかし、和彦の身元調査をした賢吾は、実家のことまで調べ上げている。父親の〈職場〉が、どういった会社と繋が
りがあるかなど、知ろうと思えば難しくはないだろう。そのうえで計略の糸を張り巡らせることなど、賢吾にとって造作もないこ
とだ。
根拠のない考えが脳裏を過り、なんだか怖くなる。
うかがうように和彦が見上げると、賢吾に柔らかく唇を吸
い上げられた。そこで怖い考えは封印し、こう言葉を洩らした。
「……鷹津は嫌いだ」
すかさず賢吾が応じる。
「俺も嫌いだ。だが一応、あの男の悪党っぷりを、俺なりに評価もしている」
よく考えればいいと囁いて、賢吾が再び律動
を刻み始める。悔しいが、和彦は乱れずにはいられない。
内奥深くに逞しいものを突き込まれるたびに、身を捩り、声を震
わせる。そんな和彦を見下ろしながら、賢吾がひっそりと呟いた。
「鷹津は、オトすどころか、オトされたがっているかもな、
先生に――」
大きなてのひらに頬を撫でられて、和彦は自ら頬をすり寄せ、大蛇に媚びた。
長嶺の本宅で一泊した和彦は、気だるい体を引きずるようにして、なんとか昼前には身支度を整える。
本来はもっと早く
に目が覚める性質なのだが、夜更けまで賢吾が解放してくれなかったのだから、仕方ない。当の賢吾は、朝早くに出かけてから、
和彦が眠っている間にまた戻ってきて、数人の客と会っていたらしい。
組員からそのことを聞かされた和彦は、賢吾のスタ
ミナに、素直に呆れた。昨夜さんざん和彦を貪り、嬲っておきながら、午前中にそれだけ動けるのだ。ヤクザの組長すべてがこう
なのか、賢吾が特別なのか、あえて知りたくはない。
昼食の誘いを断り、和彦が玄関に向かうと、ちょうど靴べらを手にし
た秦と出くわした。
細身のグレーのスーツを身につけており、スカイブルーのワイシャツがよく映え、芝居がかった爽やか
さは、ヤクザの組長の本宅には似つかわしくない存在感を放っている。あくまで、一見して、の話だが。
艶やかな笑みを浮
かべて秦が頭を下げてくる。差し出された靴べらを受け取り、和彦も靴を履きながら話しかける。
「すっかり、この家の馴染
み客になったようだな」
「まさか。呼ばれるたびに、心臓が悲鳴を上げてますよ。今日こそは無事に帰れないかもしれない、
と思って」
ふうん、と声を洩らした和彦は、さりげなく、しかし鋭い問いかけをしてみた。
「――組長と、何を企んで
いるんだ」
ドキリとするような流し目を寄越してきた秦が、澄ました顔で応じた。
「レクチャーですよ。長嶺組が、わ
たしの経営手腕を買ってくださっているそうなので、後ろ盾になっていただいているお礼……というのもおこがましいですが、ま
あ、そういうことです」
あからさまに疑わしいが、組と怪しい男が絡む事情など、ロクなことではない。深入りしたところ
で、和彦が清々しい気持ちになることはないだろう。それでなくても今は、自分自身が心配事を抱えているのだ。
「先生?」
何も聞かなかったことにして、黙々と靴を履く和彦を、秦が気遣うようにうかがってくる。
「……ぼくに教える必要が
あると考えれば、組長から何か言ってくるだろ。わざわざ、君から聞かなくてもいい」
「素っ気ないですね。一応、組長公認
の、先生の遊び相手なんですから」
顔をしかめた和彦は、組員に靴べらを手渡してから玄関を出る。あとに秦も続いたが、
すでに門扉の前には和彦を送るための車が待機していた。『遊び相手』と仲良く過ごす時間はないようだ。
本宅近くの駐車
場に車を停めているという秦と、門扉の前で別れるつもりだったが、車のドアを開けて待つ護衛の組員と、立ち去る秦の後ろ姿を
交互に見た和彦は、気が変わる。反射的に秦を呼び止めていた。
「――頼みたいことがあるんだ」
引き返してきた秦に、
和彦はこう切り出した。
ハンドルを握る秦は、上機嫌といった面持ちだった。和彦は少々複雑な心境で、秦の横顔をちらりと一瞥する。
「嬉しいで
すね。先生が、わたしに頼みごとをしてくださるなんて」
「他に、適任者がいないんだ。今のところ、ぼくの周囲にいるのは、
ヤクザ者ばかりだからな。頼みごとができて、普通の勤め人に見える人間となると、君しかいない。……悲しいことに」
和
彦の言葉に、気を悪くした様子もなく秦は短く噴き出す。とても笑う気にはなれない和彦は、そっと背後を振り返る。秦の車の後
ろから、本来なら和彦を乗せるはずの護衛の車がぴったりとついてきていた。
一般人の秦を伴っているという設定のため、
いかつい護衛の車に乗るわけにはいかないのだ。
「――しかし、先生から頼みごとをされるのも意外ですが、頼みごとの内容
も、意外なものですね」
「そっちはそっちで事情を抱えているように、ぼくも、ささやかに事情を抱えているんだ」
秦
は前を見据えたまま、淡い微笑を唇に刻む。常に人目を意識したような秦の物腰の柔らかさは、商売柄というより、しっかりと教
育を受け、躾けられてきた人間特有の育ちのよさがうかがえる。
その印象とは裏腹に、鷹津から聞かされたのは、秦が若い
頃、警察に目をつけられるほど素行に問題があったというものだ。
ヤクザの実態も謎が多いが、この男もまた、謎が多い。
気にはなるが、うっかり踏み込むつもりはなかった。
「その道を左に曲がってくれ」
和彦の指示通りに車が左に曲がり、
すぐに、懐かしい建物が視界に飛び込んでくる。
「ここですか?」
「ああ。来客用のスペースが空いているから、そこに
車を停めたらいい」
駐車場に車が入り、エンジンが切られる。秦はすぐに車を降りようとしたが、シートベルトを外した和
彦は、すぐには動けなかった。
「先生、大丈夫ですか。顔色が少し悪いですよ」
シートに座り直した秦が身を乗り出し、
顔を覗き込んでくる。和彦はゆっくりと息を吐き出して頷くと、途中で買った手土産を持って車を降りた。
「ここがどういっ
た場所なのか、聞いてもいいですか?」
駐車場を歩きながら秦に問われ、和彦は小さく声を洩らす。秦に『頼みごと』をし
たものの、ある場所に一緒に来てくれとしか言わなかったのだ。
「……ここは、ぼくが半年ぐらい前まで住んでいたマンショ
ンだ。気に入っていたんだが、長嶺組と関わったせいで、今の部屋に引っ越すことになった」
「それが、今になってどうし
て?」
「引っ越しは急でバタバタしていたし、事情が事情なんで、郵便物の転送手続きをするわけにもいかないから、マンシ
ョンの管理人に、何か届いたら預かってくれるよう頼んであるんだ」
現在は、私書箱に郵便物などが届くように手配してあ
るが、それまでに発送されたものは、このマンションに届いているだろう。
「頼むとき、管理人への言い訳に困ったんじゃあ
りませんか? 急な引っ越しに、転送手続きもできないなんて、不審に思われかねないでしょう」
「海外研修に派遣されるこ
とになったと言った。こういうとき、医者という肩書きはけっこう便利だ。適当な理由でも、もっともらしく聞こえる」
「な
らわたしは、せいぜい先生の同僚らしく見えるよう、努力しましょう」
マンションのエントランスに向かいながら和彦は、
少し離れた道路脇に停められた護衛の車に気づく。不審がられないよう、気をつかってくれているのだ。
朝から夕方にかけ
て管理人が駐在している事務所に顔を出すと、説明をするまでもなく、管理人は和彦を覚えてくれていた。さっそく挨拶をして手
土産を渡すと、人のいい管理人は、こちらが申し訳なく感じるほど何度も礼を言ってくれる。
保管されていた郵便物は、大
した量ではなかった。また、重要書類の類も皆無だ。和彦は丁寧に礼を述べて受け取る。
本当は、郵便物などどうでもいい。
すでに表の世界の事情から切り離されている和彦に、ダイレクトメールは意味がないし、郵便物で繋がっているような知人もいな
い。そもそも、処分してもらってもよかった。
だが、あえてそう伝えておかなかったのには、理由がある。万が一、という
事態を想定しておいたのだ。
やや緊張しながら和彦は、さりげなく本題を切り出した。
「――わたしが引っ越してから、
誰か訪ねてきませんでしたか? 突然の海外研修だったものですから、友人や知人にも、事情を説明する暇もなかったんです。あ
とで連絡はしたのですが、早とちりな誰かが、ここまで押しかけてきてご迷惑をかけたんじゃないかと思って」
秦が、おや
っ、という顔を一瞬したのは気づいていた。しかし和彦は、笑みを浮かべながら、管理人の返事を待つ。
安堵すべきか、管
理人から返ってきたのは、誰も和彦を訪ねて来なかったという言葉だった。
再び礼を述べてマンションを出ると、ほとんど
出番のなかった秦が口を開いた。
「わたしは必要なかったんじゃないかと感じていましたが、先生が管理人に最後にした質問
で、なんとなくわかりました。わたしは、ボディーガードだったというわけですね」
歩きながら、手にした郵便物を一通ず
つ確認していた和彦は、淡々とした口調で応じる。
「何かあっても、ぼくの護衛が飛び出してくる事態だけは避けたかったん
だ。その点君は、少なくともぼくより要領がいい」
「評価してもらえて、嬉しいですよ。――それで、何か、というのは?」
「可能性は低いが、誰かに待ち伏せされているかもしれないと思ったんだ。その連中に、ぼくとヤクザが繋がっていると悟ら
れると、いろいろと面倒だ。だけど――」
こちらが危惧するまでもなく、相手は和彦になど関心はなかったらしい。それは
歓迎すべきことであり、決して落胆することではない。
「少し心配しすぎたみたいだ」
「それはよかった。できることな
ら次は、先生を楽しませることで協力させてもらいたいですね」
助手席のドアを開けて、秦が艶やかに微笑みかけてくる。
何かと怪しい男ではあるが、今回の件に関しては、つき合ってくれたことを素直に感謝するしかない。
ありがとう、とやや
照れながら礼を言ってから、和彦は助手席に乗り込んだ。
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