次第に現実感が薄れているようだと、寝返りを打った和彦は、自分の手首に指先を這わせる。鷹津にかけられた手錠の痕は、す
でにそこにはない。もともとひどい痕ではなかったので、数日ほどできれいに消えてしまったのだ。
残っているのは、手錠
の感触の記憶だけだ。
痕が消えるのに比例するように、鷹津と体を重ねたという事実の重みが、和彦の中で失われていく。
それが、現実感が薄れていくという表現になる。
別に鷹津と会いたいわけではないが、連絡も取り合っていないため、あの
男は本当に無事なのだろうかと、気にならないわけではない。だが、それ以上に気になるのは、和彦の〈オトコ〉の存在だ。
いまさら自分が穢れたなどと、初心な小娘のようなことを言うつもりはない。ただ漠然と、三田村と合わせる顔がないと感じてい
る。
鷹津とのことは、三田村はすべて承知のうえだが、だからといって何もかも平気というわけではない。
いつもな
ら和彦が望むときに、声を聞かせてくれ、会いに来てくれる三田村だが、鷹津とのことがあってからは、まだ電話すらかかってこ
ない。いや、本当は和彦のほうから、大丈夫だと連絡を取るべきなのだ。
三田村は、これまで通りの優しい声を聞かせてく
れるだろうか。
手錠の痕が消えるまで――こうして消えたあとまでも、この不安が和彦を苛む。だから行動が起こせない。
こんな気持ちになるのは、三田村だからだ。今の和彦に、特別な男は複数いるが、特別なオトコは一人だけ、三田村だけだ。
今日は何も予定が入っていないのをいいことに、和彦はベッドの上を何度もごろごろと転がりながら思い悩む。そしてやっ
と、サイドテーブルに手を伸ばした。
携帯電話を取り上げ、いつものように、何事もなかったように三田村に電話をかけよ
うとした。しかし、もう少しのところで踏ん切りがつかない。仕方なく携帯電話を戻そうとしたとき、突然、着信音が鳴り響い
た。
慌てて体を起こした和彦は、液晶に表示された名を見て、咄嗟にどんな表情も浮かべられなかった。
安堵したよ
うな、少しだけ拍子抜けしたような、そんな気持ちになったせいだ。
「――久しぶりだな、澤村先生」
自分の微妙な気
持ちを読み取られないよう、冗談めかして電話に出る。すると、呆れたような声が返ってきた。
『そう思うなら、お前から電
話してこい。薄情な奴だな』
生活が一変したあとも、何事もなかったように連絡をくれる友人の存在は、ありがたい。
和彦なりに、ヤクザに囲まれているうえに、複雑になる一方の人間関係とも、なんとかバランスを取って生活をしているが、精
神的負担は少なからずある。普通の生活を送っていないという事実は、和彦に罪悪感のようなものを抱かせるのだ。
ただ、
澤村との間にある境界線には、慣れた。諦観したと表現したほうがいいかもしれない。澤村がいる境界線の向こう側にある日常を、
懐かしく、輝かしいものだと思いはするものの、もう恋しいという感情は湧かなくなっている。
それだけ和彦が、表の世界
からますます遠ざかったのかもしれない。
澤村の声を聞くと感傷的になってしまうなと、和彦は密かに苦笑を洩らす。
「……ぼくも、いろいろと忙しいんだ。澤村先生ほどじゃないけど」
『おう、俺は忙しいぞ。患者の予約は常にいっぱい。プ
ライベートも、身がもたないんじゃないかってぐらい、充実してる』
「モテモテの澤村先生が言うと、冗談に聞こえない」
『いや、そこは素直に信じろよ』
挨拶代わりの他愛ない会話を交わしてから、二人は同時に笑う。和彦は頭の片隅で、ちら
りとこんなことを考えていた。
ほんの数分ほど前まで、自分は〈オトコ〉のことで思い悩んでいたと知ったら、澤村はどん
な反応を示すだろうか、と。
『――たまには顔を見たいから、これから外で昼飯を食わないか』
澤村の提案に、和彦は
ハッと我に返る。
「えっ……、これから?」
『お前とは頻繁に会えないから、せめて二、三か月に一度ぐらいは、顔を見
せろよ。いまだに俺は、お前がどこに住んでいて、勤務先はどこかすら、教えてもらってないんだ。電話やメールじゃ、本当に元
気かどうかわからないしな』
澤村は、屈託なく和彦に連絡を寄越しているようで、しっかり気をつかってくれている。立ち
入ったことを尋ねてこないし、無理に和彦を外に連れ出そうともしない。和彦の意思を尊重しているのだ。
普段であれば、
即座に誘いに乗っただろう、しかしここ数日、和彦は組事務所とクリニックに足を運ぶぐらいで、外出そのものが気乗りしない状
態だった。三田村とまだ話せていないということもあるし、体が少しだるい。
「……悪い。本当は行きたいけど、ここ
何日か、体調を崩しているんだ。あまり不景気な顔を、友人に見せるのも悪いしな」
『ということは、体調がよくなったら、
俺と会ってくれるということか』
「ああ、約束する。美味いランチを奢らせてもらう」
『そういうことなら仕方ない。都
合がよくなったら、いつでも連絡してこいよ。――忘れるなよ』
しっかりと釘を刺され、和彦は思わず笑ってしまう。
「大丈夫だ。なんなら、催促のメールをしてくれ」
近いうちに会う約束を交わして電話を切ると、ベッドの上に座り込んだ
まま、和彦はぼんやりとする。
澤村からの電話を切った瞬間、和彦にとっての日常が戻ってくるのだ。そのギャップに、戸
惑っていた。
だがそれも、わずかな間だ。いつまでも寝室にこもっているのも不健康なので、書斎に移動しようかと思った
のだが、床に足を着ける前に、また携帯電話が鳴った。
「――……急に人気者になったな……」
そんなことを独りごち
た和彦は、ベッドの上に放り出していた携帯電話を取り上げる。今度の電話は、長嶺組からだった。
これこそ自分の日常に
相応しい電話の相手だと、自嘲でもなんでもなく、心底思ってしまう。
『先生、仕事です』
「相手の容態は?」
話
を聞きながら和彦は寝室を出て、さっそく出かける準備を始める。
『怪我そのものは大したものじゃないと思います。顔をひ
どく殴られていて、鼻血がひどい。多分、骨が折れています』
クロゼットからバッグを出していた和彦だが、それを聞いて
一旦動きを止める。
「……鼻が潰れた組員なら、何人か見たことがある。あれはあれで、凄みが増していいんじゃないか」
和彦の悪趣味な冗談は通じたらしく、電話の向こうで組員が低く声を洩らして笑う。こういう会話が交わせる程度には、長嶺組
に馴染んでいるのだ。
『表で動く組員は、見た目も大事なんですよ。それに――うちの者じゃないんです。診てもらいたいの
は。総和会から回ってきた仕事です』
なるほど、と声を洩らして、和彦はバッグを手にリビングに戻る。治療するなら、服
装はラフなほうがいいので、洗濯したままソファの上に置いてあったTシャツを取り上げる。
『総和会に依頼したのは、昭政
組の難波組長です』
久しぶりに聞いた名に、つい和彦は眉をひそめる。かつて、難波の愛人――由香を治療したことがある
のだが、そのとき難波に侮辱されたことは、いまだによく覚えている。
難波個人にあまりいい印象は持っていないが、そん
な男でも自分の愛人には甘いようだ。和彦に対する態度で由香から何か言われたらしく、治療をすべて終えたときには、一応礼を
言ってもらえた。
その由香は、今でもときどき電話をくれ、美容関係の相談を受けている。すでに、和彦の顧客のようなも
のだ。
『先生の腕を買っているようですよ。外見に関わる怪我だから、佐伯先生に診てもらいたいと指名されたそうです』
「外見を気にかけるということは、まさか患者は女性じゃ――」
『いえ、難波組長のご子息のようです。まだ学生ですが、仲
間と派手に暴れた挙げ句に、チンピラに殴られたと』
和彦の脳裏を過ったのは、千尋の顔だった。子犬呼ばわりされながら
も、千尋も血の気は多いほうだが、それでも分別をつけるだけの思慮はある。
千尋が殴られて骨を折ったと知ったら、自分
はこんなに冷静ではいられないだろうなと思いながら、和彦は電話を切る。
すでに迎えの車を向かわせていると言われたの
で、急いで準備をしないといけない。
ここまでぼんやりと過ごしていたが、そろそろ気持ちを切り替えるときが来たようだ。
顔立ちが難波そっくりの青年は、非常に扱いにくい患者だった。父親に似て威圧的とか粗暴というわけではなく、反対に、臆病
なのだ。
和彦が麻酔用の注射を手にしただけで、血の気が失せた顔をさらに蒼白にして、脂汗を流し、唇を震わせる。肌に
針が触れてもいないうちに、小さな悲鳴まで聞かせてくれた。
和彦が注射を手にしたまま待っていると、難波の息子は言い
訳するように言った。
「……別に、あんたの腕を信じてないわけじゃないんだ。ただ、一方的に痛めつけられるのは、誰だっ
て苦手だろ」
大学三回生とは言いながら、留年を繰り返し、すでに二十三歳となっている青年の言葉に、マスクの下で和彦
は苦笑する。派手な大乱闘を繰り広げたばかりの人間とは思えない発言だ。
「治療しないと、痛いままだぞ。今は、鼻に詰め
込んだガーゼに麻酔薬を浸してあるから、痛みが麻痺しているだろうけど。この局所麻酔をしたら、さっそく手術に入ろう。そう、
時間のかかる手術じゃない」
「でも、鼻の骨を弄るんだろ」
「弄らないと、骨を元に戻せない。鼻が曲がったままなのは、
嫌だろ? それだけじゃなく、鼻の通りも悪くなる恐れがある」
説明しながら、消毒を終えた器具をトレーに並べていく。
それをまた青年は、忌まわしいものがあるかのように、ちらちらと見ている。どんなふうにこれらの器具が使われるか想像してい
るのか、今にも失神しそうな様子だ。
難波には、きちんと治療してやってほしいと頼まれはしたが、子供扱いしてほしいと
までは言われていない。和彦は隙を見て、局所麻酔の注射を済ませる。
鼻に詰め物をしているため、鼻声となっている青年
の抗議をたっぷりと聞いてから、組員たちに頼んで、しっかりと青年を押さえてもらう。
和彦が鉗子を手に取ると、それだ
けで悲痛な声が上がったが、わずかな間を置いてから、今度は絶叫が上がった。
「――派手でしたね」
楽しげな様子を隠そうともせず、ハンドルを握った中嶋がそう話しかけてくる。青年の悲鳴を間近で
聞き続けたせいで、耳の調子が少し怪しくなっている和彦は、首を傾げて尋ねた。
「何か言ったか?」
「悲鳴ですよ。難
波組長の息子さんの。別の部屋にいても、よく聞こえました」
「ああ。……麻酔を打っても、鉗子で骨を挟んで元に戻すとき
は痛いだろうな。ぼくなら、絶対こんな治療は受けたくない。鼻の骨折は、骨折した瞬間より、治療のときのほうがつらい。今夜
は傷が痛むはずだ。渡した鎮痛剤が効けばいいが」
「……聞いているだけで、痛くなってきますね」
そう言って中嶋が
肩をすくめる。そんなことを言いながら、ヤクザである中嶋が暴力沙汰と無縁でここまでのし上がってきたとは考えにくい。目の前
で殴り合いが起ころうが、誰かが出血しようが、眉一つ動かさないように思える。
ただ、秦が怪我をしてボロボロになって
いたときは、悲愴な様子だった。
あのときのやり取りを思い出していた和彦だが、バックミラー越しに中嶋と目が合い、ド
キリとする。一瞬、自分の心の中を見透かされた気がした。
総和会から回ってきた仕事なので、長嶺組の組員との待ち合わ
せ場所まで送り届けてくれるのは、いつものように中嶋だ。
あえて考えないようにしているが、意識すればするほど、中嶋
とキスしたときの光景が蘇る。だからといって、露骨に中嶋を警戒しているわけではない。むしろ和彦が警戒しているのは、自分
と秦とのセクシャルな出来事はもちろん、賢吾によって秦が、〈遊び相手〉となったという事実を知られることだ。
中嶋自
身は有能で頭が切れ、損得を考えられる男だが、そこに秦が絡むと様子が変わる。和彦は、できることなら中嶋を傷つけたくなか
った。中嶋からされたキスによって、この青年が抱え持つ柔らかな部分を知った気がするからだ。
こう思うこと自体、傲慢
なのかもしれないが――。
ふっと息を吐き出して和彦が前髪を掻き上げると、信号待ちで車を停めた中嶋が、急に振り返っ
た。
「――先生、よければ夕飯につき合ってくれませんか?」
思いがけない申し出に、和彦は目を丸くする。
「こ
れから……?」
「これから。実は先生にお話したいことがあって、総和会には許可を取ってあります。あとは、先生が長嶺組
に話を通してくれれば……ありがたいです」
平均を上回るハンサムではあるものの、どこにでもいそうな青年の顔で中嶋は
笑う。身構えながら和彦は、慎重に尋ねた。
「ぼくを不愉快にしない話なら、聞いてもいい」
中嶋は前に向き直り、ハ
ンドルを握りながら応じる。
「先生には直接関係ない話ですが、悪い話ではないです。少なくとも俺にとっては、いい話です」
「……そう言われると、気になるじゃないか」
これで話は決まりだ。和彦はすぐに自分の携帯電話を出すと、和彦の護
衛兼運転手を務めている組員に連絡を取り、中嶋と食事をするため、待ち合わせ場所に着くのが遅れることを告げる。
総和
会の中嶋が同行するということで止められはしなかったが、結局、食事する店まで、組員が迎えに来ることになった。これについ
ては、特に不満はない。食事後の中嶋も、和彦を送り届ける手間が省けていいだろう。
中嶋が連れて行ってくれたのは、有
名ホテル内にある中国料理店だった。席に案内される前に、組員に居場所をメールで知らせておく。これで、豪華な夕食をゆっく
りと楽しめる。
「――自分の都合だけで、こうして先生を連れ回していると、なんだか緊張しますね。もし先生に何かあった
ら、大変だ」
ディナーを注文してから、テーブルの上で指を組みながら中嶋がそんなことを言う。和彦は少しだけ意地の悪
い返しをした。
「でも、自分の都合だけでぼくを連れ回すのは、これが初めてじゃないだろ」
ああ、と声を洩らして中
嶋は苦笑する。怪我をした秦の治療を、和彦に頼んだことを思い出したらしい。
「今になって考えるんですよ。あのときの俺
の選択は正しかったのかどうか、と。結果として、秦さんは無事だったし、先生との距離も近くなりましたが……その分、しっか
り代償を払ったような気もします」
「君と秦さんとの距離間が、わからなくなってきたか」
中嶋は驚いたように和彦を
見て、皮肉っぽく唇の端を持ち上げた。
「参ったな……。先生と秦さんが、普段どんなことを話しているのか、すごく気にな
りますよ。その様子だと、俺のことも聞いているんでしょう?」
「彼の秘密を知りたくなったんだろ」
「秦さんが、長嶺
組長とも関わりを持ち始めたみたいなので、今のうちに、あの人の秘密を握れるだけ握っておこうと思いまして――と言っても、
先生なら信じないでしょう」
「半分だけ、信じてもいい」
和彦と中嶋は、テーブルを挟んでじっと互いの目を見つめ合
う。そうやって、互いの腹を探り合っていたのだが、食事前の〈遊び〉としては、少々胃にもたれそうだ。
先に降参したの
は、和彦だった。
「――……ぼくは、何も聞かされてない。信じるも信じないも勝手だが、ぼくにとって、彼のことを知る利
点はないしな。唯一知っているのは、長嶺組が彼の後ろ盾になったということだ」
「それは、いいことを聞きましたね」
「ウソだ。ぼくを試したんだろう。とっくに、秦さんから聞かされているんじゃないのか」
中嶋は楽しげに顔を綻ばせるだ
けで、肯定も否定もしなかった。それが、中嶋なりの返事なのだろう。
ここで会話は秦のことから飛んで、中嶋が総和会と
いう組織について教えてくれる。内密に、と念押しされるような類のものではなく、ヤクザの世界で半ば常識となっているような
情報だ。ただそれでも、長嶺父子や三田村からも聞かされたことのない内容で、和彦としては非常に興味深いし、おもしろいと感
じる。
「総和会は、眠らない組織なんですよ。常に、人が蠢いている。むしろ、夜のほうが活気があるんです。ただ、総和会
と名のつく唯一のオフィスは、勤務時間は普通の企業と同じなんです。朝、出勤して、夕方になると退勤する」
「どうしてだ」
「出入りするのが、普通の企業ばかりだからですよ。十一の組から成り立っている組織ですから、人も物もよく流れる。どう
したって、一般企業との取引も必要になるんです。そうやって表の世界とつき合いながら、総和会として、最低限の社会的順応を
見せている、というアピールしているわけです。もちろん、総和会とは無関係の看板を表に出して、総和会に関わる業務を行って
いる本来のオフィスがあります。そこは、広いですよ。ビジネス街にある大きなビルに入っているんです」
「でもそこも、実
はカムフラージュ、ということじゃないのか」
察しがいいと、声に出さずに唇だけを動かした中嶋が、拍手するマネをする。
物騒な会話が弾んだところで、料理が運ばれてくる。二人分のディナーのコースともなると、テーブルの上は豪華な料理で
埋め尽くされるようだ。
ふかひれのスープを一口飲んで、その味に満足して吐息を洩らす。エビのチリソース煮も程よい辛
さで、食欲を刺激される。
「この、牛肉も美味しいですよ。オイスターソースの味がいい」
中嶋に勧められるまま牛肉
も口に運び、じっくり味わった和彦は大きく頷いた。
上品に盛り付けられた、色鮮やかな野菜を使った五目焼きそばを見た
ときは、若頭補佐に作ってもらった焼きそばを思い出してしまい、思わず笑みをこぼす。慌てて顔を背けた和彦は、軽く咳をする
ふりをして誤魔化した。
料理が美味しかったこともあり、すっかり食べ過ぎた和彦だが、デザートを前にしても手と口を止
めることはできなかった。
杏仁豆腐のさっぱりとした甘さと滑らかな舌ざわりを、中嶋とともに褒め合ったところで、この
食事のメインへと入る。
「――で、話というのは?」
さりげなく和彦が切り出すと、フルーツを食べた中嶋が片方の眉
を動かしてから、ナプキンで口元を拭った。
「実は、先生の送迎をするのは、今日で最後になります」
「……突然だな」
中嶋はちらりと笑みを浮かべる。
「少しは、寂しいと思ってくれますか?」
「君とは、ジムでけっこう
顔を合わせているしな。どうだろう……」
「そうですね。俺と先生は、健全なジム仲間ですから」
これは中
嶋なりの冗談なのだろうかと、和彦は首を傾げる。ここで中嶋は表情を一変させ、真剣な顔となる。ビジネスライクなヤクザの顔
ともいえる。
「端的に言うなら、出世したんです。いままでの俺は、組預かりということで、何をするにも、総和会の前にい
た組の名がついて回っていたんですが、来週からは、総和会の遊撃隊の所属になります」
「遊撃隊?」
「必要とされれば、
なんでもやりますよ。物騒なことでも。しかし、俺に期待されているのは、情報収集でしょう。だからこそ、いままでより制約を
受けずに活動ができます。先生とも、いままで以上に遊べますよ」
「……遊び相手なら間に合っている」
和彦は小声で
呟いたが、中嶋には聞こえなかったようだ。もしかして、秦が和彦の〈遊び相手〉になったと知っているのではないかと疑いもし
たが、秦に関することで、中嶋がドライな反応を示すとも思えない。
中嶋は、秦が関わることに関してだけ、ねっとりと絡
みつくような〈女〉を感じさせるのだ。
「冗談抜きで、先生とは今以上にいい関係を築きたいんですよ。俺には、ホスト時代
に築いたコネがせいぜいで、特別な大物と顔が利くわけでもないので」
「出世した君にとって、ぼくの必要性が増したという
ことか」
悪びれた様子もなく中嶋は頷く。下手に誤魔化しを口にされるより、よほど気持ちいい態度だ。
「なんといっ
ても先生は、特別だ。総和会に目をかけられている医者という立場もありますし、あの長嶺組……長嶺組長が大事にしている存在
でもある。それに――」
中嶋が呑み込んだ言葉が、和彦には容易に想像がついた。きっと、秦のことを口にしようとしたの
だ。
和彦が先を促さないでいると、我に返った中嶋は、恥じ入るように視線を伏せたあと、すぐにまたこちらを見据えてき
た。
「総和会の中で先生に興味を持っているのは、俺だけじゃありません。だから今のうちに、先生の友人としての立場を確
保しておきたいんです。それにこれは、先生のためでもあります。総和会の中に独自のパイプを持っておくのは、先生の立場なら
損にはなりませんよ」
「――君にとっても」
中嶋は、スッと筋者らしい笑みを唇に刻む。この笑みには、さすがの和彦
も背筋に冷たいものを感じた。
息を呑んだあと、取り繕うように杏仁豆腐を一口食べてから、ぼそぼそと答えた。
「君
がぼくに、どれだけのものを望んでいるのか知らないが、ジムで会ったらにこやかに会話を交わして、たまにこうして、
美味しいものを一緒に食べるぐらいでいいというなら、友人になろう」
「決まり、ですね」
中嶋が片手を差し出してき
たので、和彦は数瞬戸惑いはしたものの、スプーンを置いて中嶋の手を握った。
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