と束縛と


- 第6話(1) -


 久しぶりに友人と会えて嬉しいのに、どうしても無視できない感覚が和彦の胸には広がっていた。
「――それで、ダンナがクリニックに怒鳴り込んできて、大騒ぎになったんだ」
「それを澤村先生は、ニヤニヤしながら眺めてたんだな」
「そりゃもう、楽しかったからな。いつも威張り散らしてる奴が、受付の子の後ろに隠れて、真っ青になって震えてるんだぜ」
「……相変わらず、イイ男に対しては鬼だな」
 同僚の医者が、不倫相手の夫からいかに無様に吊るし上げを食らったかを、澤村は実に嬉しそうに話す。
 目立ちたがり屋同士、何かと張り合っていたなと、かつて自分がクリニックに勤めていた頃の出来事を思い出し、和彦はふっと笑みをこぼす。それと同時に、また、ある感覚に襲われた。
「どうした、佐伯、急にぼんやりして」
 澤村に声をかけられ、我に返る。なんでもないと首を横に振り、フォークを手にした。
 澤村とは、ときどき電話で話してはいたものの、こうして会うのは久しぶりだ。厄介事のほとぼりが冷めるまで会わないつもりだったが、皮肉なことに、その厄介事は和彦の体の一部になってしまった。
 本当は、会わないほうがいいと思いながら、友人との気安い空気と会話を楽しみたいという気持ちを抑えきれなかった。何より、自分が失った生活を懐かしんでみたかった。だが――。
 和彦はさりげなく、視線を周囲に向ける。昼時ということで、イタリアンレストランのテーブルは満席だ。座っているのは、見るからに普通の日常を過ごしている人たちだった。
 澤村と一緒だと、和彦も違和感なくこの場に溶け込んでしまえ、人目を意識しなくていい。数か月前までの和彦にとって、それは当たり前のことだった。なのに今は、馴染んでしまえる自分に、落ち着かない。
 さきほどから襲われる感覚の正体はこれだ。和彦の足元には、目には見えない境界線が引かれてしまったのだ。境界線の向こうには澤村が立ち、そこには和彦がなくした穏やかな日常がある。
「佐伯、聞いていいか?」
 ここまで機嫌よさそうに話していた澤村が突然、声に気遣いを滲ませながら問いかけてきた。和彦は無意識に背筋を正す。
「……なんだ」
「お前、電話のたびに忙しそうにしてるけど、仕事はどうなんだ。あまり聞いてほしくなさそうだから、俺も電話では遠慮してたんだが、せっかくこうして顔を突き合わせているんだし……、なあ?」
 なんでも明け透けに言っているようでいて、澤村は配慮ができる男だ。そんな男が、言いにくそうにしながらも尋ねてきたのだ。単なる好奇心ではなく、和彦の生活を心配してくれているのだと、よくわかる。
 友人の気持ちに心苦しさを覚えながら、和彦は答えた。
「知人のツテで、個人クリニックの開業を手伝っているんだ。あんなトラブルを起こしたぼくじゃ、いまさら大手のクリニックを目指して就職活動なんてできないしな。いい経験だと思って、ほとぼりが冷めるまで勉強させてもらうつもりだ。いつか、自分が独立するときのために」
「どの辺りにできるクリニックだ?」
 追及というほどではないが、冷静な声でさらに澤村に問われ、さすがに返事に詰まる。和彦のそんな反応は予測していたのか、澤村は軽くため息をついた。
「言いたくないんだな」
「すまない……」
「まだ、お前が巻き込まれたトラブルは片付いてないんだな」
 微かに唇を歪めたのが、和彦にできる精一杯の返事だった。澤村は眉をひそめてから、あごを手をやる。
「……今住んでいる場所も、勤務先も教えられないなんて、普通じゃないだろ。トラブルというのがどの程度のものかわからないが、まともな人間が絡んでないのはわかる。だからこそ、警察か弁護士にでも相談してみたらどうだ。クリニックに送られてきたようなものを、また他人の目に晒したくないっていう気持ちも理解はできるが――」
 泥沼にハマり込むぞ、と低い声で澤村が言う。
 澤村が本気で心配してくれているとわかるだけに、和彦は自分たちの間にある境界線の存在を、ますます強く実感する。
「澤村先生は、見かけによらず心配性だ」
 和彦はニヤリと笑いかける。澤村が面食らったように目を丸くしたので、畳み掛けるように言葉を続ける。
「実は今、クリニックに勤めていた頃より、いい生活をしている。いいマンションに住んで、金にも不自由しなくて、欲しいものはなんでも手に入る。……つき合う相手もよりどりみどりだ。みんな、ぼくを大事にしてくれる」
「……しばらく会わない間に、冗談の質が落ちたんじゃねーか、佐伯先生」
 澤村が冗談として受け止めてくれたことに、内心でほっとした。同時に、わずかばかりの寂しさも覚える。
「今の生活で唯一足りないとしたら、冗談を鍛えてくれる友人だろうな」
 和彦が自嘲気味に洩らすと、澤村は怒ったように言った。
「相手してほしかったら、お前はもっと電話してこい。……俺が男からの電話を待つなんて、滅多にないんだからな」
 たとえ、境界線のこちら側とあちら側に立ってしまったとしても、澤村とは、友人として細い糸であろうが繋がっていたかった。
 立っている場所は違っても、身近で和彦と同じ目の高さで生きているのは、澤村だけなのだ。だからこそ、共有できるものがある。それを和彦は失いたくない。
 失ったら、そこにいるのは、多分ヤクザという存在だ。


「本当に、乗っていかなくていいのか」
 ウィンドーを下ろした澤村にそう声をかけられ、笑って和彦は頷く。レストランを出て、他に寄るところがあるという和彦に、澤村は近くまで送ると言ってくれたのだ。
 何か言いたげな顔をした澤村だが、あっさりと引き下がる。
「あんまりしつこくしたら、次から会ってくれなくなるかもしれないからな」
「……悪いな」
「気にするな。元気そうな顔を見られただけで、今日は満足しておいてやる。――また、誘うからな」
「楽しみにしている」
 和彦の返事に、本当かよ、と言いたげに顔をしかめた澤村だが、次の瞬間には爽やかな笑みを浮かべ、軽く手を上げて車を出す。
 澤村の車が見えなくなるのを待ってから、レストランの駐車場から一台の車がスッと出てきて、和彦の横でピタリと停まる。
 和彦は、素早く後部座席に乗り込んだ。
「――もっとゆっくりするかと思った」
 ハンドルを握る三田村が、バックミラー越しにちらりとこちらを見る。シートに体を預けながら和彦は、緩く首を横に振った。
「相手は忙しい医者だ。こうして平日の昼間に会ってくれただけで十分だ」
「先生も、十分忙しい医者だろ」
「今日は、夕方まではそうでもない。確か――」
 和彦が言おうとしていることを察したように、車を走らせながら三田村は頷く。
「組長との打ち合わせは夕方からで、それまでは先生の予定は空いている」
「あんたの予定は?」
 問いかけに対する答えはなかったが、車は車線変更し、和彦のマンションとは反対方向へと走り始める。
 三田村の行動が嬉しかった。澤村と会った余韻のせいか、夕方までとはいえ、部屋で一人で過ごしたくなかったのだ。
 久しぶりに友人と会えて嬉しかった反面、自分の現状が痛いほど肩にのしかかってきて、少し胸が苦しい。
「……久しぶりに友人と会うと言って楽しそうにしていたのに、今は複雑な表情をしているな」
 ふいに三田村に指摘され、和彦はシートに座り直す。露骨に顔に出したつもりはなかったが、三田村の目を誤魔化すことはできなかったようだ。
「いい奴なんだ、ぼくが今さっきまで会っていた友人は。だからこそ、今の暮らしについて何も言えないことが心苦しい――……、いや、違うな。隠しておくことは仕方ないと思ってるんだ。ただ、ぼくがなくした生活を、友人は送っているんだなと考えると、なんとも言えない気持ちになる」
 バックミラーを通して三田村と目が合う。相変わらず、普段は感情を読ませない目だが、和彦はひどく心惹かれる。この男に癒されたくなる。
「――三田村、助手席に座りたい」
 三田村は黙って車を車道脇に停め、和彦はすぐに後部座席から助手席へと移動する。
 シートベルトを締めた手を、すかさず三田村にきつく握り締められ、和彦も握り返す。そうすると、強く実感できるのだ。
 三田村は、自分を守ってくれる〈犬〉であり、それ以上に、自分を愛してくれる〈オトコ〉だと。
 早く、この男が欲しかった。
 三田村は、和彦との逢瀬のためだけに、マンションの一室を借りてくれた。ワンルームで、家具もほとんどない部屋だが、二人にはそれで十分だ。どうせ、一緒に過ごせる時間はそう多くはない。
 体を重ねるだけなら場所はどこでもいいと、そう簡単に割り切れるほど、和彦と三田村は身軽ではない。それどころか、さまざまな事情やしがらみに雁字搦めになっている。その中で、逢瀬の場所としてもっとも避けなければならないのは、和彦が生活しているマンションだ。
 あそこは、賢吾の縄張りだ。三田村にはそんな意識があるだろうし、和彦は誰にも言ってないが、ベッドルームにはおそらく盗聴器が仕掛けられている。
 だったら手っ取り早く、どこかのホテルで――というのは、和彦を安く扱っているようでやはり抵抗があると、三田村は言ってくれた。
 部屋に着くと、室内はムッとするほど暑かった。外の気温の高さと、窓を締め切っていたせいだ。ただ、室内の熱気を上回って、二人の情欲の熱は高い。
 三田村に引き寄せられてしっとりと唇を重ね、舌先を触れ合わせた。相手の体をまさぐるようにしてジャケットを脱がしていきながら、柔らかく唇を啄ばみ合う。そうやって、賢吾の〈オンナ〉と〈犬〉である自分たちが、賢吾の許可の下、こうして触れ合える現実を噛み締めていた。
 もどかしい手つきで三田村のワイシャツのボタンを外し、上半身の素肌を露わにしてしまう。三田村の背後に回り込んだ和彦は、虎の刺青にてのひらを這わせてから、舌先を這わせる。
 刺青に対してやはりいい気持ちは持てないが、こんな刺青を背負った男に求められることに、嫌悪感をねじ伏せるほどの倒錯した興奮を覚える。これは、賢吾の刺青を見たときと同じ反応だ。
 もしかして自分は、刺青に対して性的に惹かれているのかもしれないと思い、和彦は小さく身震いする。
 刺青の彫られた背をじっくりと舐め上げると、欲望を煽られたように、三田村の体に力が漲り、熱くなってくる。
「あっ……」
 和彦は腕を掴まれ、そのままベッドに押し倒されていた。
 真上から見下ろしてくる三田村のあごに残る傷跡に指先を這わせると、それが合図のようにのしかかられる。和彦は両腕でしっかりと三田村の熱い体にしがみついた。


 まるでサウナのように蒸れた室内の空気に、和彦が洩らした何度目かの熱い吐息が溶け込む。
「はっ、あぁっ……、あっ、あうぅっ」
 体の中が快感で満たされたようだった。それなのに、三田村はさらに和彦に快感を与えてくれる。
「うっ、あっ……ん」
 熱い口腔に含まれたものを吸引され、唇で締め付けられる。内奥にはしっかりと指が埋め込まれ、和彦の官能を刺激する場所を、絶えず擦り上げていた。
 ともに飼われる存在で、だけど、和彦のものである〈オトコ〉――。
 そんな三田村が与えてくれる愛撫は献身的ともいえ、和彦は全身を汗で濡らしながら、無防備に身を委ねる。すでに一度、三田村の口腔に絶頂の証を迸らせ、すべて飲み干されていた。
 クチュッと微かに湿った音を立て、内奥から指が引き抜かれる。三田村の愛撫の手順は覚えつつあった。
 次に三田村が施してくれる愛撫は、激しい羞恥心とともに、深い官能と快楽を引き出しくれるはずだ。
 両足をしっかりと抱え上げられて、すでに指で綻ばされた内奥の入り口を、柔らかく温かな感触にくすぐられる。
「んあっ」
 和彦は声を上げ、シーツを握り締める。三田村の舌の動きはすぐに大胆になり、内奥の入り口を唾液でたっぷり濡らすと、浅く侵入させてくる。ビクビクと腰を震わせて、和彦は感じてしまう。自分でもわかるほど浅ましく、内奥をひくつかせていた。
「あうっ、うっ、い、い――……。気持ち、いっ……」
 舌で愛されてから、再び挿入された指を必死に締め付けて喘いでいると、三田村の片手が、汗で濡れた和彦の体に這わされる。内奥で蠢く指に欲望を高められる一方で、体に這わされる手は、まるで慰撫するかのように優しい。
 和彦は、三田村が望むままに乱れ、しどけない姿を曝け出していた。どんな姿であれ、三田村は何も言わず、ただ目に焼き付けるかのように熱っぽい眼差しで見つめる。その眼差しにすら、和彦は感じてしまうのだ。
「――……三田村」
 甘く掠れた声で呼びかけると、やっと三田村は、張り詰めた欲望を内奥に与えてくれた。
「あっ、あっ、うああっ」
 抱えられた両足を押し広げられ、腰をゆっくりと突き上げられる。柔らかく解されていた和彦の内奥は、求めていた男の逞しいものを嬉々として呑み込み、きつく締め付ける。
「感じているんだな、先生」
 やっと口を開いた三田村の声には、隠せない喜びが滲んでいた。和彦は必死に両腕を伸ばし、三田村にしがみつく。
 深く繋がると、三田村はゆっくりと大きく腰を動かし、内奥を突き上げ始める。力強い律動に、簡単に和彦は理性を奪われ、ただ快感を受け入れる器に成り果てる。
「んっ、んうっ……、はあっ、あっ、んくぅ……」
 内奥を、微妙な角度をつけて抉るように突かれる。粘膜と襞が擦り上げられ、電流にも似た感覚が和彦の全身を駆け抜けていた。
 逞しいものが何度も内奥から出し入れされ、その様子を三田村は、目を細めて見つめていた。和彦は上体を捩るようにして三田村の視線から逃れようとするが、もちろんそれは徒労に終わり、もっと乱れろといわんばかりに、三田村のものが内奥深くに打ち込まれる。
「あっ、あっ、三田、村っ――」
 繋がった部分を強く指で擦り上げられ、和彦は上擦った声を上げて腰を震わせる。内奥をきつく収縮させると、その感触を堪能するように三田村のものが引き抜かれ、すぐにまた挿入された。
 反り返ったものの先端から、はしたなく透明なしずくを滴らせる。誤魔化しようのない快感の証だ。すると三田村は、和彦のものを握り締め、律動に合わせて上下に扱いてくれる。和彦は呆気なく、二度目の絶頂を迎え、精を迸らせた。
 ここで三田村が深い吐息を洩らし、動きを止める。内奥では、逞しい欲望が脈打ち、三田村の限界が近いことを知らせてくる。
 和彦は三田村の顔を撫で、伝い落ちる汗を拭う。微かに笑みらしきものを浮かべた三田村だが、次の瞬間には表情を引き締め、律動を再開する。
 三田村が動くたびに、滴る汗が和彦の肌すらも濡らしていた。そして、汗だけではなく――。
「先生、中に、いいか?」
 三田村の切実な囁きに、頷く。二度、三度と強く突き上げられたあと、内奥深くに熱い精を注ぎ込まれていた。
 こうして和彦は、肌だけでなく、体の内も三田村によってたっぷり濡らされる。
 まだ力強く脈打つものを意識しないまま締め付けると、三田村にきつく抱き締められていた。こんなふうに抱き合うたびに、和彦の胸の奥には、高揚感にも似た所有欲が湧き起こる。
 三田村は、自分のオトコだ。
 この事実を噛み締めると、三田村が与えてくれる愛撫同様、ひどく甘くて心地よい刺激を味わうことができる。賢吾が、和彦を何度となくオンナ呼ばわりするのは、同じような心地よさを味わっているからかもしれない。
「……オトコ、か」
 和彦がぽつりと洩らすと、三田村に顔を覗き込まれた。
「何か言ったか?」
 和彦は、汗で濡れている三田村の顔を両手で撫でる。
「これは、ぼくのオトコだと思って」
「違う。俺は、先生の犬だ」
「こうしているときは、オトコだ。ぼくの――大事なオトコ」
 三田村の顔から肩を、腕から背を撫で続けているうちに、和彦の内奥深くに埋め込まれたままの三田村のものが、再び力を漲らせていく。
 和彦が背に回した両腕に力を込めると、三田村が緩やかに腰を動かし始めた。


 組事務所に顔を出した和彦を見るなり、賢吾は意味ありげな笑みを唇に刻んだ。その笑みにドキリとした和彦は、意味もなく髪を掻き上げる。
「――隣に座れ」
 指先で賢吾に呼ばれ、素直に従う。テーブルの上には、何枚かの書類が広げられており、和彦が見ている前で賢吾はそれを片付け始める。それを見て、他の組員たちは静かに応接室を出ていった。この場面だけを見ると、まるでどこかの会社の仕事風景だ。
 組長とは、偉そうに座っていて務まる仕事ではないのだと、賢吾を見ているとよくわかる。賢吾の多忙ぶりは、ビジネスマンのそれと変わらない。そのくせ、和彦を連れ回して楽しんでいるのだから、とにかく精力的な男だ。
 ちなみに今日、和彦がこうして組事務所にやってきたのは、やはり仕事のためだ。各方面に提出する書類の準備も整い始め、クリニックの改装も順調に進んでいる現在、そろそろクリニックに雇い入れるスタッフも考えなくてはならない。なんといっても、普通のクリニックとは事情が違う。
「コンサルタントに、人員計画を立ててもらっていただろ。俺もコピーを見たが、あれだけの人数でいいのか?」
「最低限、ということだ。こちらの複雑な事情を考えると、潤沢な人材を最初から揃えたいとは言えない」
「秘密を守るには、関わる人間は少ないほうがいいからな。――が、昼間は、まっとうなクリニック経営のことを考えろ」
 話しながら賢吾が片付けてしまったテーブルの上に、和彦は持ってきた資料を広げる。こうしていると賢吾とは、ビジネスパートナーとしての会話が見事に成り立ち、その雰囲気が和彦は嫌いではない。実際賢吾は、ビジネス面に関しても頭が切れ、こちらもハッとさせられることが多い。
 組員がお茶を運んできて、すぐに出ていく。ドアが開閉されるほんの一瞬、廊下を歩く三田村の姿が見えた。和彦をここに連れてきてくれたばかりだが、すぐに仕事で出なくてはならないらしい。帰りは、別の組員が運転する車で帰るよう言われている。
 三田村は、和彦との関係によって若頭補佐という肩書きを奪われることもなく、それどころか、肩書き通りの仕事を任される機会が増えたようだ。そのため、賢吾や和彦の側を離れて行動することが多くなった。
 自分が原因なのだろうかと訝しむ和彦に対して、賢吾は性質の悪い笑みを浮かべながら説明してくれた。
 長嶺組として無視できないトラブルが起こっており、その調査のために、若頭の一人と、その補佐である三田村を中心にして動いている、と。そのトラブルがなんであるかまでは、和彦は問わなかった。どうせ、物騒なことに決まっている。それに、もしこちらに危険が及ぶなら、心配するまでもなく賢吾はしっかりと護衛をつけてくれるはずだ。
 そんな思いもあり、トラブルについて深く尋ねようとしない和彦の態度に、賢吾は満足したようだった。
 自分の知らないところで、今こうしていても、長嶺組内部ではさまざまな事情が蠢き、大事なことが決まっているのだろうなと、ぼんやりと和彦は考える。
 このとき絶妙のタイミングで賢吾に言われた。
「――なんでも俺が決めてやる、というわけにはいかないからな」
 ハッとして隣を見ると、賢吾はニヤニヤと笑っていた。
「えっ……?」
「クリニックのスタッフのことだ。昼間働くスタッフについては、お前がいいと思う人間を雇えばいい。組絡みの仕事を手伝うスタッフのほうは、堅気の人間より、組の紐付きの人間のほうが使い勝手がいいだろうから、こちらで探してみる。どうだ?」
 組に関することは、賢吾に一任したほうが無難だ。和彦が承諾すると、賢吾は満足そうに頷く。
 あとは、細々とした決め事を報告をしてしまうと、和彦の用事は終わりだ。
 テーブルの上を片付けようとすると、すかさずその手を賢吾に掴まれる。ドキリとして和彦が視線を向けると、澄ました顔で賢吾に言われた。
「つれないな。用が終わったら、さっさと帰るのか?」
「……あんた、忙しいんじゃないのか」
「自分のオンナを愛でる時間ぐらいある」
 掴まれた手を引き寄せられ、指先に唇が押し当てられる。肩を抱かれると、和彦は素直に賢吾に身を寄せた。
 穏やかな手つきで賢吾に髪を撫でられ、頬を包み込まれ、あごの下をくすぐられる。そのままあごを持ち上げられると、賢吾の顔が寄せられた。キスされるとわかり、咄嗟に和彦は顔を背ける。
「どうした、先生」
 賢吾の口調は柔らかだが、あごにかかった指に力が入り、有無を言わさず顔の向きを変えられた。大蛇が身を潜ませている目を覗き込んでしまうと、言い訳する勇気など和彦には持てなかった。仕方なく、正直に告げる。
「……ここに来る前、三田村と――寝た」
 この瞬間、大蛇がちろりと舌を出した姿が脳裏に浮かぶ。実際の賢吾は、どこか楽しげに目を細めた。
「そんなこと、先生を一目見たらわかった。男のくせに、目のやり場に困るような色気を振り撒きやがって。……今日は、仕事の話だけしたら、すぐに帰してやろうかと思ったが、気が変わった」
 賢吾にそっと唇を吸われ、和彦は微かな吐息をこぼす。数回、同じ行為を繰り返されてから、おずおずと和彦も賢吾に応える。
 シャワーを浴びたとはいえ、ほんの少し前まで別の男と愛し合っていた和彦に触れることに、賢吾は抵抗を覚えないのだろうかと思う。賢吾と千尋と同時に体を重ねたこともあるが、あれは、父子の濃い血の繋がりがあるからこそ成り立った行為だと解釈できる。だが、三田村は他人だ。しかも、賢吾にとっては部下であり、忠実な番犬だ。
「――あいつは、俺のオンナをどんなふうに扱うのか、興味がある」
 意識が舞い上がるほど濃厚な口づけの合間に、賢吾が囁く。
「千尋と、先生を共有するのとはまったく違う。俺は先生を、ほんの一時だけ三田村に貸してやってるんだ。俺が好き勝手に振り回している先生を、あいつは自分の腕に抱くとき、それこそ砂漠で水に巡り合ったように感じているんだろうな。そんな三田村に、先生はたっぷりの愛情で応えてやる」
 賢吾の言葉に、不思議なほど興奮してしまう。唇を吸われて唆され、和彦は賢吾と舌を絡め合った。
「その愛情を、俺は簡単に取り上げられる立場にある。そう考えると、残酷な気持ちにもなるが、自分がひどく寛大な人間になったような気になる。俺は、自分の可愛いオンナと犬に、安らぎを与えてやっているんだってな」
 身を潜ませた大蛇はときおり舌を覗かせながら、こんなことを考えているのだと思うと、やはり和彦は、賢吾が怖かった。こんな言葉を聞かされることこそが、賢吾の許可の下、三田村と関係を持つということなのだ。
「忘れるなよ、先生。先生にとっての本命は、あくまで長嶺組組長である俺ということを。俺が望めば、なんでも叶える努力をしろ。そのために俺は、先生が欲しがるものをなんでも与える努力をしているんだ」
「……わかって、いる……。ぼくは、あんたのオンナだ」
 いい子だ、と囁いて、賢吾に唇を吸われる。
 なんとか口づけだけで許してもらい、賢吾の腕の中から逃げ出せた和彦は、まとめた資料を抱えて応接室を出る。このとき振り返って見た賢吾は、楽しげに笑っていた。さきほどの言葉のどこまでが本気だったのか、その表情から推し量るのは不可能だ。
 この男のことなので、すべてが本気であっても不思議ではないが――。
 和彦が玄関に向かうと、若い組員がすでに直立不動の姿勢で待っていた。ここのところ和彦の運転手を務めている、新入りの組員だ。もっとも新入りとはいっても、以前から組の仕事はしており、最近になって正式に賢吾から盃をもらったのだという。
 組員として最初に任されたのが和彦の運転手ということで、内心は気落ちしているのかもしれないが、仕事そのものは一生懸命やってくれている。運転が荒いのもそのせいだと、和彦は思うことにしていた。
 組事務所を出た和彦は腕時計を見てから、帰りにどこかの店で一緒に夕食をとろうかと、前を歩く組員に話しかける。千尋と年齢が近いことや、まだヤクザらしくなく、多少やんちゃな青年にしか見えないため、二人きりのときはどうしても気安い空気になるのだ。
 顔を輝かせて組員が頷き、話は決まった。
 さすがに体がだるくて、車に乗り込んですぐにシートに深く体を預けた和彦だが、車が駐車場から車道に出たところで、また体を起こすことになる。
「あれは――……」
 組事務所が入った雑居ビルの前を行き交う人の姿が目に入った。それ自体は別におかしくはない。ただ、男が一人立ち止まり、煙草を吸っていたが、その男に見覚えがあったのだ。
 男の姿をよく見ようと、和彦はウィンドーに顔を寄せる。すると、和彦の存在に最初から気づいていたようなタイミングのよさで、男が顔を上げ、しっかりとこちらを見据えてきた。
 間違いない。千尋と買い物に出かけたとき、絡んできた男だった。国籍不明の外国人のような彫りの深い顔立ちは、そうそう忘れられるものではない。
 なぜ、この男がここにいる――。
 車が男の前を通り過ぎるとき、明らかに男は、和彦を認識して笑いかけてきた。冷たくて剣呑とした、なんとも嫌な笑みだ。
 一目見ただけで嫌悪感が湧き起こり、思わず身震いをする。
 ゾクゾクするような感覚になんとか耐えて和彦が振り返ったとき、男の姿はすでに小さくなり、あっという間に見えなくなる。
 千尋と一緒にいたときの出会いは、偶然かもしれない。しかし、長嶺組の組事務所の前での二度目の出会いは、偶然ではありえない。
 唇に指を当てた和彦は、すぐに携帯電話を取り出す。かけた先は、賢吾の携帯電話だった。









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