と束縛と


- 第5話(4) -


 こんなに切羽詰った気持ちでラブホテルに入ったのは、学生のとき以来かもしれないと、ベッドの傍らに立った和彦は室内を見回す。
 渋滞に巻き込まれながら、とにかく一刻も早く二人きりになれる場所を探すとなると、取れる手段は限られている。シティーホテルを見つけるより先に、たまたま空室のラブホテルが目に入り、車を進めていた。
 普段であれば、自分たちが同性同士であることや、立場のこともあり、人目が気になってこんな大胆な行動は取らないだろう。だが、燃え上がった欲望は、なりふり構わず二人を行為へと駆り立てた。
 人と会わなくて済むガレージ式の部屋だからこそ、ここまで大胆になれたのかしれないが、と和彦はひっそりと苦笑を洩らす。
「――先生、何か飲むか?」
 三田村に声をかけられて振り返る。ネクタイを解いた三田村に向けて首を横に振ると、次の瞬間には、やや乱暴にベッドに押し倒されていた。
 いきなりスラックスのベルトを外され、下肢を剥かれる。その間に和彦も、自分が羽織っているジャケットの前を開き、三田村に脱がせてもらった。
「すまない、こんな場所で……」
「車の中で、というわけにもいかないだろ。ぼくの部屋となると、もっとダメだ」
 和彦がちらりと笑いかけると、三田村の手が頬にかかり、車の中ではできなかった濃厚な口づけをじっくりと味わう。体に触れられたことがありながら、三田村と唇を重ねたのは今日が初めてだった。だからこそ夢中になる。
 舌を絡ませながら、互いの唾液の味を覚える。口腔を舌で舐め回され、感じる部分を探り当てられて、涙ぐむほど反応してしまう。
 三田村の愛撫は丹念で、優しかった。和彦の肌に痕跡を残さないよう配慮しているのがわかり、着ているTシャツを脱がされながら胸元に唇が這わされ、たまらず和彦は三田村の頭を抱き締める。
 和彦の意図がわかったのか、ようやく三田村がきつく肌を吸い上げ、ちくりと微かな痛みが走る。そうやって肌に、鮮やかな鬱血の跡を残されていく。
 硬く凝った胸の突起を吸い上げられ吐息をこぼすと、誘われたように三田村が顔を上げ、唇を触れ合わせるだけのキスを繰り返す。
 このまま穏やかな愛撫が続くのかと思ったが、長嶺父子だけでなく、三田村もやはり激しかった。
「ああっ」
 両足を抱えられ、左右に開かれる。そこに三田村の頭が潜り込み、和彦のものはあっという間に熱く湿った粘膜に包まれた。
 きつく吸引され、濡れた舌が絡みつく。むしゃぶりつくという表現が頭に浮かぶほど、三田村の愛撫が激しくなる。性急な愛撫に否応なく官能を高められながら和彦は、体で感じるだけでなく、こんなにも求められていたのだと、心でも悦びを感じていた。
「ふっ……、あっ、あっ、んあぁっ……」
 身をしならせながら和彦は、自ら愛撫を求めるように三田村の髪に指を差し込む。すると三田村が、一度和彦のものを口腔から出し、打って変わった丁寧さで和彦のものに舌を這わせ始める。
 頭を緩く左右に振りながら、和彦は声を上げる。透明なしずくが滲み始めた先端に唇が押し当てられ、微かに濡れた音を立てながら何度も吸われると、ビクビクと腰が震えてしまう。そしてまた、口腔深くに呑み込まれていた。
「はあっ……、は、あぁ……、い、い。気持ち、いい――」
 三田村の口腔によって、和彦の欲望は高められ、悦びのしずくを滴らせ、溶かされる。括れを唇で締め付けられながら、根元から指の輪で扱き上げられると、たまらず誘うように腰を揺らしていた。
「……先生を何度も抱いてきたような、そんな錯覚に陥るときがある」
 和彦のものの先端に舌を這わせながら、三田村が言う。
「組長や千尋さんに抱かれる先生を見たり、声を聞きながら、いつも考えていた。俺なら、先生をどんなふうに感じさせてやれるか。……二人に嫉妬はしなかった。俺の欲望をそのまま忠実に実行してくれていると感じていたからな」
 先端に歯が当てられ、悲鳴を上げて和彦は悶える。だが次の瞬間には、甘やかすように舌が這わされていた。
「自分の欲望とうまく折り合いをつけているつもりだったのに、どんどん強くなっていくんだ。先生に触れてみたい……、自分の指や舌で先生を感じさせたい、って衝動が。そして、こうして実行しちまってる」
 両足をさらに抱え上げられ、腰の位置を上げられる。三田村の舌は、これまで何人もの男の欲望を呑み込んで喘いできた和彦の内奥へと這わされていた。
「あっ、それ、嫌、だ――……」
「組長に同じことをされて、同じような声を上げていたな、先生。……ここも、感じるんだな」
 硬くした舌先でくすぐられ、体を貫かれるような快美さに襲われた和彦は、小刻みに体を震わせる。
 舐められ、たっぷり唾液で湿らされてから、三田村の指がゆっくりと内奥に挿入される。愛撫で蕩けさせられたその場所は、嬉々として指を締め付け、和彦のその反応に応えるように、三田村の指が内奥の粘膜と襞を擦り上げる。
「はあっ……、あっ、はっ……、んああっ」
 和彦の内奥を解しながら、三田村は片手でワイシャツのボタンを外し、スラックスの前を寛げる。
 三田村の準備が整うと、和彦は両腕を伸ばして求めていた。
「んうっ――」
 熱く滾った三田村のものが、ぐっと内奥に押し込まれる。和彦は苦しさに小さく喘ぎながら、三田村の肩に額をすり寄せる。一方で、もどかしい手つきで三田村のワイシャツを脱がせていく。
 思った通り、三田村も刺青を入れていた。ただ、賢吾とは違い、肩や腕、腿にかかるほど大きなものではなく、背一面にのみ彫られているものだ。
 どんな刺青なのか早く見たいと思いながら、刺青を入れた人間特有の、少しざらついた肌をてのひらで撫でる。その感触に促されるように、三田村のものが力強く内奥に捩じ込まれた。
「ああっ、あっ、あっ、あうっ……」
 三田村のものをきつく締め付けて、和彦は絶頂に達していた。迸らせた精によって下腹部が濡れるが、三田村は気づいていないらしく、ひたすら腰を突き上げてくる。和彦も、絶頂に達した余韻に浸る間もなく、内奥を強く擦り上げられる肉の愉悦に酔わされる。
 単調な律動が、狂おしいほど気持ちいい。求めていた男の欲望を、自分の体のもっとも淫らな部分に突き立てられるたびに、官能が迸り出てくるようだ。
 頭上のクッションを握り締めて乱れる和彦の首筋に、三田村の熱い愛撫が施される。和彦が掠れた声でせがむと、軽く噛み付かれた。その刺激に、内奥が物欲しげな収縮を繰り返す。
 三田村が上体を起こし、和彦は両膝を掴まれて足を大きく左右に開かれる。何人もの男たちに見られているが、繋がっている最中の秘部を観察される羞恥にだけは慣れない。だからこそ、羞恥するたびに感度が高まる。
 三田村はこんなときにも無表情で――だが、猛った欲望を、和彦の内奥に何度も打ち込んでくる。奥深くまでしっかりと突き上げ、ときには蕩けた内奥を大胆に掻き回しながら、念入りに和彦を愛してくれる。
「気持ちいいんだろ、先生。……あんたの体の反応は、一度間近でしっかりと観察して、自分なりにあれこれと試してみたことがあるからな」
 一瞬、三田村がなんのことを言っているのかわからなかったが、引き抜かれたものを一気に突き込まれた衝撃で思い出した。
「先生を拉致してきて、組長の命令で先生の尻をおもちゃで嬲りながら、気づいた。ここを突くと――」
 微妙な角度をつけて、三田村が内奥の襞と粘膜を擦り上げてくる。和彦は声にならない悲鳴を上げて仰け反っていた。
「きつくおもちゃを締め付けながら、先生の内股が震えていた。……やっぱり、ここが感じるんだな。中が、ビクビクと痙攣してる。ずっと、どんなふうに反応するのか、確かめたかったんだ」
 もう一度同じ攻めを与えられ、目から涙が溢れる。その涙を唇で吸い取られてから、内奥には三田村の熱い精を注ぎ込まれていた。


 死を覚悟したセックスは、麻薬じみた快感を味わわせてくれる。どうせ奪われるのならと、命を削ることすら惜しまない激しさのせいかもしれない。
 三田村と唇と舌を貪り合いながら、和彦は水音を立てて腰を前後に揺らす。すると三田村の手が尻にかかり、下から強く突き上げられる。湯に浸かっているせいで、簡単に浮く体が不安定なため、三田村の首に両腕を回してしがみついた。
「あっ、あっ、あうっ……」
 普段は無表情で感情を表に出すことが少ない三田村だが、欲望は隠すことなく和彦にぶつけてくれる。
 ベッドの上でさんざん絡み合い、求め合ってから、浴室に移動して体を洗っていたが、そこでも三田村に求められる。湯を溜めた広いバスタブの中で和彦は、三田村の腰に跨って繋がることで、男の欲望に応えていた。
 繋がっている部分を指でなぞられ、和彦は腰をくねらせて三田村のものをきつく締め付ける。心地よさそうに三田村が目を細めたのを見て、胸が疼いた。
 三田村のあごにうっすらと残る細い傷跡を舌先でなぞり、招き入れられるまま口腔に舌を差し込み、まさぐる。
「ずっとこのままでいたい……」
 舌を解いてから和彦が囁くと、三田村も吐息を洩らすように応じてくれる。
「……ああ」
「すごく、体の相性がいいみたいだ」
「ああ、よく、わかる。厄介なぐらい、先生の体は具合がいい」
 この言い方がなんとも三田村らしくて、思わず和彦は声を洩らして笑っていた。そしてまた三田村と唇を啄ばみ合い、舌先を触れ合わせてから、胸に三田村の頭を抱き締める。
「あっ……ん」
 胸の突起を痛いほど強く三田村に吸われながら、和彦は腰を動かしていた。
「ぼくのせいであんたが殺されても、謝らないからな」
 和彦の言葉に、上目遣いで見上げてきた三田村が微苦笑を浮かべる。
「先生は、怖いな。俺みたいな男に、先生のためなら殺されてもいい、なんて青臭いことを思わせるんだから」
「ぼくだって、こうしている意味はわかっているつもりだ。――ヤクザにとって、組長は絶対の存在だ。あんたはそのうえ、組長の忠実な犬だ。その犬が、組長のオンナに手を出した。そして、オンナであるぼくは、こうして犬のあんたを受け入れている。……忠実な犬を唆したのは、ぼくだ。本当は、あんたは悪くない」
「先生っ――」
「三田村さんを殺すなら、ぼくも殺せと言ったら、あの組長、どんな顔をするだろうな」
 賢吾がたまらなく怖いはずなのに、ゾクゾクするほど興奮している。短期間の間に、自分は性質が悪い生き物に成り果てたのだろうかと思いながら、そんな自分が和彦は嫌ではない。したたかさや、ふてぶてしさがなければ、こうして三田村と結ばれることはなかったはずだ。
 飽きることなく三田村と深い口づけを何度も交わし、三田村の欲望の感触を内奥に刻みつけるように、腰を動かす。
 これで最後になるかもしれない交歓を終えることを、二人は惜しんでいた。だから、容易なことでは体を離せない。濡れた体でベッドに戻ってからも抱き合い、互いに触れていた。
 ベッドに腰掛けた三田村の背を、てのひらで撫でる。三田村の背に彫られているのは、虎だった。太い足で大地を踏みしめ、見る者を威嚇するように咆哮の表情を浮かべている。
「……なんで虎なんだ」
 和彦が背に舌を這わせながら問いかけると、三田村の体が微かに揺れる。どうやらくすぐったくて笑ったらしい。
「深い意味はない。組に入ったばかりの頃、刺青を入れたほうが箔がつくと言われて、それを鵜呑みにした。虎にしたのは、たまたま俺の周りに、虎の刺青を入れている人間がいなかったからだ」
「刺青を入れようとする人間の気持ちだけは、わからない」
「先生はわからなくていい。ただ、先生の体に刺青を入れたいという組長の気持ちは、俺にはわかる。そこまでしたくなる独占欲を、男のあんたは刺激する」
 三田村の背に額を押し当て、和彦は呟いた。
「――ヤクザなんて、危ない男ばかりだ」
「今知ったのか」
 肩越しに振り返った三田村に言われ、つい笑ってしまう。引き寄せられた和彦は、三田村と抱き合いながらベッドに倒れ込んだ。


 マンションの部屋の前に立った和彦は、動物的な直感で、あることを感じ取っていた。
「先生?」
 不審そうに三田村に呼ばれ、なんでもないと首を横に振る。だが実は、足が小刻みに震えていた。
 カードキーを取り出しながら、三田村に向けてこう告げる。
「三田村さん、もうここでいい。どうせすぐにベッドに潜り込むだけだから」
 結局、二人がラブホテルを出たのは朝になってからだった。ほとんど眠ることなく、一晩中、三田村と絡み合い、吐息を交わし合っていた。
 部屋に戻るまでの間、予想したような悲壮さは二人にはなかった。三田村は覚悟を決めていたのかもしれない。和彦も、そのつもりだった。だが――。
「組長には、先生が見つかったと連絡を入れておく。そのあとのことは……」
 珍しく口ごもった三田村の唇を、和彦は指先で軽く触れる。
「また顔を合わせられたら、キスしたい」
 和彦の言葉に目を丸くした三田村だが、すぐに穏やかな微笑で応えてくれる。
「……俺もだ」
 引き返す三田村の背を見送ってから、大きく息を吐き出した和彦はカードキーを差し込む。ドアを開けると、思った通り、玄関には大きな革靴が一足だけあった。
 緊張のため指先が冷たくなってきて、恐怖で体がすくむ。吐き気すらしてきたが、ここでへたり込むわけにはいかなかった。和彦には、やるべき大事なことがある。
 リビングに行くと、寛いだ様子で賢吾がソファに腰掛けていた。早朝だというのに、しっかりとダブルのスーツを着込んでいる。
 和彦の顔を見るなり、賢吾がニヤリと笑いかけてきた。人を食らう獣の笑みだ。
「――三田村と、体の相性はよかったか、先生」
 開口一番の賢吾の言葉に、スッと意識が遠のきかけるが、なんとか耐えた。ここで怯むわけにはいかない。
「最高に……」
 声の震えを隠すため、必然的に低く囁くような口調となる。
 賢吾の顔から偽りの笑みは消え、射竦めるような冷たく鋭い眼差しを向けられた。
「大した度胸だな。それで、他に言いたいことは?」
「三田村さんを、ぼくにくれ」
 まるで和彦の言葉を予測していたように、賢吾は表情を変えなかった。
「本当に、大した度胸だ、先生。うちの組の連中だったら、口が裂けても言えないだろうな。――俺が怖くて」
「……おとなしくあんたに殺されてやろうかと思っていたけど、気が変わった。他人の職場どころか、人生まで奪った男に、文句を言われる筋合いはないからな」
「先生、世間じゃそれを、逆ギレって言うんだぜ」
「ヤクザ相手に道理を語るのがいかに無駄か、ぼくはよく知ってる。だから、ヤクザの流儀に則るんだ。……欲しければ、どんな手を使ってでも自分のものにするのが、あんたたちのやり方だろ」
 突然、賢吾に片手を差し出される。少しの間戸惑いはしたものの、和彦はぎこちなく歩み寄り、賢吾の手を取った。次の瞬間には引き寄せられ、首を絞められるぐらいのことは覚悟したが、そうはならなかった。
 引き寄せられ、賢吾の膝の上に座らされはしたものの、与えられたのは貪るような口づけだった。
「あっ、あっ……」
 強引に両足の間に片手が入り込み、コットンパンツの上から和彦のものは乱暴に揉みしだかれる。
 ビクビクと腰を震わせながら、それでも和彦は、求められるまま賢吾の口づけに応え、舌を絡め合う。さんざん三田村に愛撫され、精を搾られた和彦のものだが、賢吾の強引な愛撫に、じんわりと快感めいたものを感じ始めていた。
「ここはたっぷり舐めてもらったか?」
「あ、あ……」
「尻には、熱い液体をたっぷり出してもらったか?」
 和彦が浅く頷くと、賢吾に唇に軽く噛み付かれた。そのまま互いの唇を吸い合いながら、合間に凄みのある声で囁かれる。
「――お前は、俺のオンナだ。大事に大事に愛してやって、金もかけている。今もこれからも、俺は、お前を手放す気は毛頭ない」
 和彦の中を絶望感が駆け抜ける。そんな和彦の顔を、賢吾はじっと見つめていた。
「前に、俺は言ったな。欲しいものがあったら、なんでも言え。金や、俺の力で手に入るものなら、なんでも与えてやると。……腹が立つことに、三田村は、俺の力で先生に与えてやれるものの一つだ」
「まさか、三田村さんを……殺す、のか?」
 覚悟を決めたから、平気というわけではない。自分のせいで三田村が殺される事態など、避けたいに決まっているのだ。
 賢吾が目を細め、ひどく酷薄そうな表情となる。このとき和彦の心臓は、確実に賢吾の見えない手に鷲掴みにされていた。
「そうしてほしいか? そうなる覚悟で、三田村と寝たんだろ」
「……だったら、順番はぼくが先だ。先にあの男を手にかけたら、金輪際、ヤクザに手を貸してやらない」
 賢吾の目の中で、大蛇がゾロリと身をしならせたような気がする。巨大な体で和彦をギリギリと締め上げてくるのも時間の問題かと思われた。
 本当は、賢吾に向けてこんなことを言う恐怖に、身も心も凍りついていた。些細な衝撃で砕け散っても不思議ではないほどだ。
 しかし賢吾は、和彦を手荒に扱おうとはしなかった。それどころか、また唇を吸ってくる。もちろん、その口づけに応える余裕は和彦にはない。されるがままだ。
「やっぱり肝が据わってるな、先生」
「これがぼくなりの、ヤクザらしい駆け引きだ。……与えられるばかりじゃ、退屈する。たまには、自分から欲しがらないと……」
「俺のオンナなら、それぐらいふてぶてしくて、逞しくないとな。見た目は色男で、体は、どんな男でも咥え込む淫奔ぶり。中身は、ヤクザの立派なオンナときたら、申し分ない。手放すなんて、惜しくてできない」
 目の前で賢吾がしたたかに笑う。その笑みの迫力に、和彦は呑まれていた。
 正直、三田村との関係を知った賢吾は怒り狂うか、情の一片すら見せず、自分を手にかけると思っていた。しかし現実は、賢吾は、和彦程度の人間が読みきれるような底の浅い男ではなかった。いや、普通の男ではなかった、というべきだろう。
 見つめ合いながら賢吾の指先にうなじをくすぐられ、たったそれだけで和彦の心は服従させられる。
 自分から賢吾の唇に唇を重ね、濃厚な口づけを与えてもらう。その口づけの合間に賢吾に囁かれた。
「――今この瞬間から、三田村のことは呼び捨てにしろ」
「な、に……?」
 賢吾の両腕にしっかりと抱き締められ、和彦も賢吾の背に両腕を回す。鼓膜に刻みつけるように賢吾は言葉を続けた。
「俺だけじゃなく、お前も、あの男の飼い主になったということだ。立場が上になったんだから、呼び捨てにするのはケジメとして当然だ。飼い主は、犬を自由に扱える権利がある。頭を撫でて可愛がろうが――寝ようが、な」
 にわかには信じられなくて、まばたきも忘れて賢吾の顔を凝視する。露骨に警戒する和彦の反応が楽しいのか、賢吾は低く喉を鳴らして笑った。
「なんだ、キスはもう終わりか、先生」
 促すように賢吾に背を撫でられ、我に返った和彦は賢吾の唇を舐めてから、互いの舌を吸い合う。
 熱い吐息が溶け合う官能的な口づけを交わしながら、そんな賢吾の唇から放たれた言葉は苛烈だった。
「三田村が、お前の今の生活の支えになるというなら、関係を持つことは認めてやる。ただし――恋人なんて甘ったるい関係は、許さん。あくまで三田村は、お前の犬だ。将来有望な、若頭目前と言われる男が、組長のオンナの犬になるんだ。ヤクザとしては、屈辱的だ。その屈辱に塗れても、三田村がお前の犬になることを選ぶなら、認めてやらなきゃいけねーだろ。懐の深い組長としては」
 強張る舌を引き出され、賢吾に甘噛みされる。こんなときでも、痺れるような心地よさが背筋を駆け抜け、和彦は自ら賢吾に身をすり寄せる。賢吾の腕の力が強くなり、話しながらこの男も興奮していることを知る。
「……ヤクザに見初められて、どんどん地が出てきてるな、先生。誰彼かまわず誘惑して、骨抜きにしちまってる」
 和彦は、意地悪く笑う賢吾を睨みつけてから、強くしがみつく。後ろ髪を賢吾に撫でられながら、漠然と考えていたことを頭の中で整理していた。
 和彦が何を考えているのか見透かしたのか、それとも、そろそろ気づいていい頃だと思ったのか、賢吾がこう切り出した。
「――三田村は、先生をこの組に留めておくための鎖だ。情の深い先生のことだ。危険を冒してまで自分を求めてくれた男を捨てて、組から逃げ出すなんてできないだろ」
 和彦は、これまでの賢吾の言動を思い返す。なぜあえて、三田村に見せ付けるように和彦を抱き、まるで三田村に聞かせるように恥知らずな言葉で煽ってきたのか。賢吾の性的嗜好なのかと思っていたが、本当にそれだけなのだろうかと、疑問が湧いていた。
「ぼくと三田村さんがこうなるよう、最初から企んでいたのか……?」
「三田村さんじゃない、三田村、だ。――俺はそこまで策士じゃないぜ。どちらかというと、武闘派だ。頭で考えるより先に、とりあえず暴れてみる性質だ」
 ハッとして顔を上げた和彦に、賢吾がニヤリと笑いかけてくる。
 今、賢吾が言った言葉には覚えがあった。他でもない、和彦が部屋のベッドの上で、寝ぼけた状態で三田村に言ったものだ。
 咄嗟に何も言えない和彦の髪を、賢吾が丁寧に撫でてくる。
「俺は、先生が欲しがるものなら、手に入れてやろうと努力する優しい男だ。だから――俺から逃げるなよ。先生がいなくなったら、千尋も悲しむ」
 小さく体を震わせてから、和彦は返事の代わりに、賢吾の唇に自分の唇を押し当てた。




 さまざまな機材などが運び込まれた部屋を見回してから、和彦は手で顔を扇ぐ。締め切っているため、室内の空気はひどく蒸れて暑かった。だからといって窓を開けて回るほど、今日はここに留まる気はない。
 いよいよ明日からクリニックの改装工事が始まるため、若い組員一人を運転手として伴い、立ち寄ったのだ。今日は業者は昼前に引き上げたので、和彦も室内の様子だけ見て引き上げるつもりだ。
 もう何度もここに足を運んでいるが、いよいよ改装工事が始まるとなると、もうすぐ自分の城ができるのだという実感が湧いてくる。自分が背負わされたものについて、あえて意識から切り離す作業も必要だが。
「――新入りの運転はどうだった?」
 窓に近づき、川を眺めようとしたとき、背後からハスキーな声をかけられた。一瞬動きを止めた和彦だが、すぐに窓に手をかけながら答える。
「緊張していたのか、少し荒かった。あれなら、ぼくのほうがずっと運転が上手い」
「だからといって、自分で運転するなんて言い出さないでくれ。大事な身だ」
 ここで和彦は振り返り、部屋の出入り口に立っている三田村に笑いかける。
「なら、ぼくが一番信用している男が運転をしてくれればいい。もちろん、護衛も」
「それは、どうだろうな」
 失望感に和彦が顔を曇らせると、すぐ側までやってきた三田村はさらに言葉を続けた。
「今日、組長に言われた。――俺が今、優先すべき仕事は、先生をたっぷり愛してやることだそうだ」
「……あの男らしいな」
 苦笑を洩らした和彦は、三田村のあごの細い傷跡を指先で撫でる。
「――……本当に、いいのか?」
「呼び捨てにされるぐらい、俺はなんとも思ってない」
「そうじゃなくて――」
「あの組にいて、組長公認で先生を大事にしてやれるなら、悪くない。いや……、悪くないどころか、破格の扱いだ。俺の命は、組長と先生のものだ。好きに使ってくれ」
「そういう言い方は、好きじゃない。――三田村」
 三田村は軽く目を見開いたあと、優しい笑みを浮かべる。
「先生の命令なら、もうしない」
「命令じゃない、頼みだ」
 背にかかった手にそっと引き寄せられた和彦は、三田村の唇を柔らかく吸い上げる。すると三田村も同じ行為を返してくれ、二人はすぐに夢中になって、互いの唇と舌を貪り合う。
 和彦は、三田村の背に両腕を回して堪能した。
 自分が手に入れた〈オトコ〉の感触を。









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