賢吾の言葉は、危険な罠だと思った。再び和彦と三田村が手でも握り合っていたら、待ちかねていたように非情な罰を与えてくるのだ。
ヤクザにとって、組長というのは絶対の存在だ。かつて三田村は、飼い主に逆らうことはしないと言っていた。三田村にとっての飼い主とは、もちろん賢吾で、三田村はその賢吾の従順な飼い犬だ。
賢吾は、飼い犬の忠誠心を試しているのかもしれない。
書斎にこもってずっとパソコンに向き合い、必要な書類を作成していたが、気を抜くとすぐに、賢吾から言われた言葉を思い返していた。
賢吾が言っていたヤクザらしい駆け引きなどわからないし、わかりたいとも思わない和彦だが、狡い駆け引きなら、すでにやっている。
〈後始末〉という便利な言葉を使って、三田村の愛撫を堪能した。しかも、挑発したうえで。
持て余すほど立派なイタリア製のイスに両膝を抱えて座り直し、膝の上にあごをのせる。この数日、三田村に代わって、長嶺組の別の組員が様子をうかがいにくるが、インターホン越しに言葉を交わすだけだ。気が紛れるどころか、鬱屈が溜まる一方だ。
賢く、したたかになると決めた和彦だが、自分はただ、狡猾に、多淫になっているだけなのではないかと思えてくる。
仕事を再開する気にもなれず、コーヒーを入れてこようと書斎を出る。このとき何げなく時計を見たが、そろそろ夕方だ。
窓に歩み寄り、まだ明るい外の景色を眺める。いつもなら、夕食を何にするか考える時間だが、わざわざ外に食事に行く気にもなれず、宅配でピザでも頼もうかと思う。千尋と買い物に出かけた先で不審な男に絡まれてから、なぜか和彦まで、たとえ近所であろうが、同行者なしで出かけるなと言われているのだ。
そして、こんなときに、側に三田村はいない。
ガラスに額を押し当てた和彦が、重いため息をつこうとしたとき、突然、携帯電話の着信音が鳴り響いた。リビングでずっと充電器に繋いだままだったのだ。
携帯電話を取り上げると、画面には中嶋の名が表示されていた。
「もしもし……」
『ああ、よかった。これで出なかったら、諦めようかと思ったんですよ。先生を誘うの』
どういうことかと尋ねると、中嶋はこの一時間ほどの間に、数回電話をくれていたらしい。和彦は書斎に閉じこもっていたため、まったく気づかなかった。
「君の熱意はわかったが、それで何に誘ってくれるつもりなんだ」
『先生、メシは食いましたか?』
「……まだだ。味気なく、ピザでも頼もうかと思っていたところだ」
『だったら、俺たちと食いませんか。しかも、花火つき。もちろん、美味い酒もありますよ』
人と話す気分でもなかったのだが、中嶋の誘いに心惹かれるものがあった。
「花火……」
『俺が馴染みにしている店の近くで、今日、花火大会があるんですよ。それで店を貸し切りにして、楽しく飲み食いしながら、花火を観ることにしたんです。集まるのは、この間先生と一緒に飲んだような連中ばかりなんで――ものすごく気楽ですよ」
中嶋は、和彦の誘い方を実によく心得ていた。先日、初めて中嶋と飲んだときに、スポーツジムを紹介してもらったのだが、その場には、数人の男たちも同席していた。一般人ではないが、ヤクザともいえない、そういう中間の位置にいる男たちだ。ときどき中嶋に頼まれて、さまざまな仕事を請け負っているのだという。
和彦の前では剣呑とした雰囲気や話題を避けてくれていたのか、そう危険な印象は受けなかった。だが明らかに、普通ではない業界に身を置いている人間たちの匂いはプンプンしていた。
善良な一般人でなくなった和彦にとって、中嶋や、その仲間の男たちと飲んで話すのは、砕けた雰囲気もあり楽だった。中嶋も、そんな和彦の様子が見ていてわかったらしい。
若くして出世するためには、抜け目のなさは必須だと、中嶋と接しているとよくわかる。
「……花火は魅力的だ……」
『綺麗ですよ。俺は毎年観てるんですけどね、今年は派手に楽しもうと思ってたんです』
「どうして?」
『俺が総和会に招き入れられたのは、今年の初めなんです。記念の年ですよ』
なるほど、と和彦は口中で呟く。中嶋の言いたいことは、なんとなくわかる気がした。おそらく、ただお祭り騒ぎをするためだけに、花火を観る集まりを催したわけではないことも。
「野心家の君らしく、何かいろいろと考えていそうだな」
『過大評価ですね、先生。俺を野心家なんて。――ただ、誰にでも、息抜きの場が必要だと思っているだけです。俺は、それを提供するだけ。〈交流〉は大事ですよ』
中嶋も、和彦がこんな話を信用するとは思っていないだろう。口調には、どこかおどけたような響きが混じっている。和彦は小さく笑みをこぼして返事をした。
「これから行くよ。メモするから、場所を教えてくれ」
三田村がいたなら、こんな場所に和彦が一人で出向くことを、絶対阻止していただろう。だが、その三田村は側にいない。
あんたが悪いのだと、和彦はグラスに口をつけながら、ひっそりと心の中で呟く。同時に、大きな窓の向こうで花火が打ち上がり、店内で歓声が上がる。男らしい歓声が。
「――先生、楽しんでますか?」
和彦が腰掛けているソファの背もたれに腕をかけ、中嶋がひょいっと背後から身を乗り出してくる。和彦は、手にしたグラスを軽く掲げて見せた。
当然のように中嶋が隣に座ったので、ここぞとばかりに疑問をぶつける。
「なんなんだ、集まっている面子は。そもそもこの店、クラブだろ。なのに――」
和彦は辺りを見回す。内装はシンプルだが、落ち着いて趣味のいいインテリアで統一された店内は、さほど広いというわけではない。しかし、夜景がよく見渡せる大きな窓に囲まれているせいか、窮屈さを感じさせない。照明が落とし気味なのは、花火がより明るく見えるようにという配慮なのだそうだ。
「女っ気がない?」
「……ぼくが言うのも変だと思うかもしれないが、その通りだ」
和彦の〈オンナ〉の立場を知っている中嶋は、気まずそうな顔をするどころか、楽しそうに声を上げて笑う。
「こういう場で、女は邪魔ですよ。けっこうヤバイ話もするし、いちいち気をつかっていたら、せっかくこうして集まった意味がない。なんといっても、女は口が軽い」
「そういうものなのか……」
「それに、この集まりを俺に提案してくれた人の意向でもあって。ほとんどのセッティングも、その人がやってくれたんです。だから俺は、主催者のくせして、こうしてのん気に飲んでいられる」
前回のような気楽な飲み会だと思って、こうしてのこのこと出てきた和彦だが、今回は少し様子が違う集まりのようだ。
皿に取り分けてきたパスタをフォークに巻きつけながら、周囲の男たちを不躾でない程度に観察する。
まだ二十歳そこそこの、千尋と変わらないような若者もいれば、四十歳ぐらいに見える男もいる。年齢だけでなく、服装もバラバラ。一般人のような顔をした人間もいれば、一見して筋者とわかる強面の人間もいる。そういった連中の中で、異彩を放つ数人の男たちがいた。
和彦が何を見ているのか気づいたのか、中嶋が顔を綻ばせた。
「いかにも、でしょう?」
そう声をかけられ、思わず和彦は頷く。見るからに水商売風の男たちが、一つのテーブルについて談笑していた。そこだけ見ると、ここがクラブとはいっても、ホストクラブの光景を切り取ったようだ。
「同じビルの中にあるホストクラブのホストたちですよ。と、一人は経営者ですけどね。――俺の先輩です」
パスタを食べながら首を傾げると、中嶋は照れたような表情を浮かべる。
「大きな声じゃ言えませんけど、俺、十代の頃から、ホストクラブで働いていたんですよ。そして、その店を仕切っていたのが、総和会の組の一つというわけです。どのホストも、組の人間と関わろうとはしてなかったんですけど、俺はホストより、ヤクザ稼業のほうに興味を持って、今はこの通り。そのとき、俺を組に紹介してくれたのが、先輩ホストの秦(はた)さんなんです。今は、ホストクラブやキャバクラを経営している、実業家ですよ」
紹介しますよと言って、中嶋が一度席を立ち、ホストたちがいるテーブルへと歩み寄る。そこで一人の男に耳打ちすると、中嶋とともにこちらを見て、軽い会釈のあとにすぐに立ち上がった。
二人がソファの傍らに立ったので、和彦も立ち上がろうとしたが、スマートな動作でそれを制された。
「堅苦しいのは抜きにしましょう。隣に座ってもかまいませんか?」
そう問われて頷いた和彦の両隣に、中嶋と、秦という男が腰掛ける。ふわりと鼻先を掠めたのは、秦のコロンの柔らかな香りだ。
これからホスト二人に接客されるようだと、つい和彦は背筋を伸ばす。
「――初めまして、秦です」
ソファからわずかに身を乗り出して秦が笑いかけてくる。手にはシャレたデザインの名刺があり、差し出されるまま受け取っていた。
名刺には、秦が経営している店か会社らしき名とともに、社長という肩書きが記されている。
「秦静馬……」
まるで芸名のようだなと思いながら声に出してみると、秦が声を洩らして笑った。
「源氏名みたいでしょう?」
ハッとして和彦は顔を上げる。わずかに目を細めている秦が、じっと和彦を見つめていた。
自分の美貌の価値をよくわかっている種類の男だと、一目で和彦は見抜く。美容外科医として、人間の美貌に対する渇望や切望、外見が生まれ変わったときに一変する人間性を見続けてきただけに、感じるものがあった。
実際秦は、端麗と表現としても惜しくない顔立ちをしていた。こういう人間を華があると言うのだろう。柔らかく艶っぽい雰囲気は、水商売に関わっている人間特有のものだ。親しみやすく優しげな笑みを浮かべているが、それは、したたかで掴み所がない表情ともいえる。
金髪に近い薄茶色の髪は、さすがに千尋とは違い、色を入れているのだろう。三十歳を少し出ているように見えるが、磨かれた外見のせいか、今も現役のホストで十分通用しそうだ。
「外見にぴったりのお名前ですね」
世辞でもなんでもなく、思ったままを和彦が告げると、秦は首をすくめるようにして笑った。
「嬉しいですね。そう言っていただけると。気に入ってるんですよ、この名前」
しかし秦は、この名が本名か源氏名なのかは明言しなかった。どちらなのかと思い、和彦は中嶋を見る。すると中嶋は、苦笑しながら首を横に振った。
「俺も、実はわからないんですよ。知り合ってからずっと、秦さんは教えてくれない」
「なんだったら、お前が使ってたホスト時代の名前を教えてあげたらどうだ。きっと、ウケるぞ」
「勘弁してくださいよ、秦さん」
ホスト時代もこんな感じだったのか、和彦を挟んで、中嶋と秦がふざけ合うような会話を交わす。もちろんこれは、和彦を自然な流れで会話に加えるためのテクニックだろう。
中嶋は会話の中で、和彦を秦に紹介したが、このとき、和彦の立場などについては一切説明せず、ただ、自分の友人だと言った。こちらの入り組んだ事情を慮ってくれたのかもしれない。
そのせいか、話していると、中嶋が今は立派なヤクザだということを忘れそうだ。すぐにでもホストに復帰できるのではないかとすら思ったが、それは、野心をたっぷり内に溜め込んでいる中嶋に対して失礼だろう。
ここで立て続けに花火が上がり、三人は一度会話を止めて見入る。
「……こんなにじっくりと花火を観たのは、子供のとき以来だ……」
和彦がぽつりと洩らすと、秦が応じた。
「来年も、中嶋に招待してもらえばいいですよ。もし、こいつが忘れるような薄情なことをしたら、わたしが招待します。――忘れずに」
秦がにっこりと笑いかけてきた瞬間、打ち上がった花火の光が秦の顔に濃い陰影を作る。そのせいか、秦の笑みが彫像めいて冷たく見えた。
その後、中嶋は他のテーブルに挨拶をしに行き、和彦と秦の二人が残される。
和彦の相手をしてくれとでも言われているのか、和彦が使った皿を片付けた秦は、デザートとカクテルを運んできてくれた。さすがに申し訳なくなり、和彦が控えめに視線を向けると、艶やかと表現できる笑みを秦は返してきた。
「遠慮しないで楽しんでください。わたしがあれこれと世話を焼くのは、半ば職業病みたいなものですから。じっと座っているのが落ち着かない」
「でも……、秦さんも、楽しまれていたのに……」
和彦は、さきほどまで秦がついたテーブルをちらりと見やる。なかなか派手に盛り上がっていた。
「あっちは、わたしがいないほうが、気楽だと思ってますよ。なんといっても、後輩や、部下にあたる奴らですから」
それをきっかけに、秦が手がけている店の話になる。ホストクラブを二店舗、キャバクラとレストランを一店舗ずつ経営していると聞かされ、和彦は目を丸くした。
「すごいですね」
「まあ、たまたま運がよかったんですよ。……それに、純粋に自分の力だけとも言い切れない。元手は、組から融通してもらったんです。――と、佐伯さんに、あまり物騒な話をしたら、中嶋に怒られますね」
秦の言葉に、和彦はちらりと苦笑を洩らす。中嶋は本当に、和彦がどんな立場にいる人間なのか、一切説明していないようだ。だからといって自分のことを隠しておくのはあまりフェアでないように思え、部分的に事実を話した。
「大丈夫です。中嶋くんとは、その組の仕事で知り合いましたから。ぼくも組の力で、これからクリニック経営者になるんです」
「クリニック……」
「ぼくは医者です。美容外科医」
「ああ、だから、『先生』」
様になる動作で足を組んだ秦が、片腕をソファの背もたれにかけ、和彦のほうにわずかに身を乗り出してくる。そこに甘さを含んだ眼差しも加わると、本当にホストに接客されている女性客の気分が味わえる。
「さっき中嶋が、何度か言い直していたから、気になってたんですよ。『佐伯さん』と呼んでいたかと思ったら、『先生』と呼んだり」
「彼にはいつも、先生と呼ばれているんですよ」
「そうなんですか。しかし――」
秦が身を乗り出すどころか、和彦との間の距離を縮めてきて、さらに声を潜める。
「美容外科の先生となると、非常に興味深いです。外見は、大事な商売道具ですからね、わたしたちの職業は。知っているホストの中にも、弄っている人間がいますし」
そんなことを話す秦の顔を、和彦はついまじまじと美容外科医の目で見てしまう。この場にいる誰よりも抜きん出た美貌を持つ男と、美容外科医という組み合わせは、なかなか絶妙だ。
すると、和彦の考えたことを見抜いたように、秦がニヤリと笑った。
「もしかして今、わたしの顔はどうなんだろう、と思いました?」
「……すみません。手術のサンプルにしたいほど、きれいな骨格と、バランスのいい目鼻立ちをしているので、つい……」
「光栄ですね」
突然、秦に手を握られ、ドキリとする。その手を抜き取ろうとする前に、秦の頬に触れさせられた。目を見開く和彦を、秦はイタズラっぽい表情で見つめてくる。
「触れて確かめてください。わたしは、どこも弄ってませんから」
秦はホスト時代、こんな手管で女性客を惑わせていたのだろうかと、つい感心する。さすがに和彦には、通用しないが。
同性同士だからというより、和彦は短期間で、男たちが放つ毒に触れすぎてしまった。生半可な毒では――たとえそれが甘い毒であっても、効かない。
ニヤリと笑い返すと、秦の頬を両手で挟み込む。さすがの色男も、面食らった様子だが、かまわず和彦は頬にてのひらを這わせ、鼻に触れ、あごも撫でる。
「ぼくが得意なのは、輪郭形成なんです。頬やあごや鼻の骨を削って、形を整える。……その人にとっての一生を左右する手術ですよ。だからこそ、好きなんです」
「他人の人生を、自分の指先で操れるから?」
肯定も否定もせず、和彦は薄い笑みを浮かべる。
このとき、談笑や歓声で満たされている店内で、不似合いな怒声が上がった。
「ちょっと、今日は貸切なんだっ。入らないでくれと言ってるだろっ」
店内が、波が引くように静かになっていく。和彦は、秦の顔から手を離して、振り返る。
出入り口のほうで揉めているらしく、何人かの男たちが集まっている。遅れて中嶋が歩み寄ったが、驚いた表情のあと、慌てて深々と頭を下げた。その状態で、なぜか和彦のほうを見る。
「えっ……」
何事かと思った和彦が声を洩らした瞬間、男たちを掻き分けるようにして姿を現したのは――。
反射的に立ち上がった和彦の前に、殺気を含んだ空気を漂わせた三田村が立ち止まる。
三田村の無表情は相変わらずだ。だが、それでも和彦にはわかる。三田村はひどく怒っていた。
「どうして……」
「――帰るんだ、先生。ここは、先生みたいな人が一人でいていい場所じゃない」
三田村に片手を差し出されたが、和彦はムキになってその手を払い除ける。
「どうして、あんたが来たんだっ」
「先生の様子を見に行ったうちの若い衆が、インターホンに応答がないことを不審に思って部屋に入ったんだ。そこから大騒ぎだ。先生がいないといってな。千尋さんが変な奴に絡まれて、組全体がピリピリしているんだ。そんなときに、大事な先生がいなくなったらどうなるかわかるだろ。俺も呼び出されて、組長から直々に命令された」
「ぼくを捜せと?」
「正確には、犬らしく鼻を利かせて、先生を連れて戻れ、だ」
賢吾らしい物言いだ。
「携帯電話を部屋に置いたままだったから、正直捜すのはお手上げかと思ったが、履歴に中嶋の携帯番号が残っていた。ここ最近、親しくしているのを思い出したから、あとは、中嶋の今日の予定を総和会に問い合わせて、ここに辿り着いた」
淡々とした口調でそこまで説明され、和彦はため息をつく。もともと、長嶺組から逃げ出すつもりなどなく、単なる息抜きとしてここに来たのだ。騒ぎになったのは本意ではない。
和彦は、立ち上がった秦に挨拶をする。艶やかな存在感を放つ男は、気にしていないと首を横に振り、笑みを浮かべた。
「佐伯先生みたいな方とお会いできただけで、今日の集まりを提案した甲斐がありましたよ。今度は中嶋も含めて、三人で飲みましょう」
「……許可が出たら」
和彦の言葉を受け、秦はちらりと三田村を見る。
騒がせてしまったことを中嶋に詫びてから中座すると、三田村に促されるままエレベーターホールに向かう。
話しかけられることを拒むような三田村の背を見つめ、和彦は唇を引き結ぶ。むしょうに、腹が立った。こちらを見ろと、まるで賢吾のような傲慢な命令をしたくなる。
「――ぼくの護衛を外れたいと、組長に直訴したそうだな」
エレベーターの到着を待つ間がもたず、和彦にとってはもっとも大事な話題を持ち出す。三田村の後ろ姿は感情の揺れを一切うかがわせなかった。
「どうして急にそんなことを言い出したんだ」
「組長にも話したが、俺じゃ、先生みたいな人が望むような護衛をできる自信がない」
「先生みたいな人、って、具体的にどういうことだ?」
ようやく三田村が、肩越しにちらりと振り返る。きつい眼差しを向けると、感情を徹底して排した目で見つめ返してきた三田村は、また前を向いた。
「先生みたいな人としか表現できない。俺は三十四年生きてきて、あんたみたいな人には初めて会って、正直まだ戸惑っている。……普通の男の顔をして、平気で男を惑わせるしな。したたかで狡い性質かと思ったら、ひどく不安定で脆いところも見せられた。そういう難解な人間に、俺はいままで触れたことがない」
「だから護衛を外れるのか……」
「それがお互いのためだ。いろいろな事情を含めて」
そんな理由で納得できるはずないだろうと、カッとした和彦は怒鳴りたくなったが、たまたまエレベーターの扉が開いてしまったのでタイミングを逃す。それに、エレベーターには人が乗っていた。
和彦は三田村に促されるまま、少し離れたコインパーキングに置いてあるという車へと向かう。
花火大会のこんな夜、どこの駐車場も満車で、道路は混み合っている。和彦が花火を楽しんでいる最中、三田村はここに来るまで相当苦労しただろう。賢吾に命じられ、犬のように従順に和彦を捜していた男には、そんな感覚があるのか怪しいが。
歩道を歩く人たちの流れと逆の方向に進んでいるにもかかわらず、先を歩く三田村を、人々は露骨に避ける。この男が放つ独特の空気のせいか、和彦からは見えないだけで、威嚇するような表情を浮かべているのか――。
小さな花火の音が散発的に上がっていたが、不意をついたように、一際大きな花火の音が鳴り、和彦の体を震わせる。思わず足を止め、空を見上げていた。もちろん、ここから見えるはずもない。
それでも空を眺めていると、三田村に呼びかけられる。
「――先生」
早く来いと言わんばかりに片手を差し出され、ムッとしながらも和彦は足早に歩み寄る。
「まだ花火大会は終わってないんだ。どこかでゆっくり花火を見たい」
「そんな場所があったら、とっくに他の観客が占領してる。それに、渋滞に巻き込まれている間に、肝心の花火大会が終わるだろうな」
「……なら、歩いて帰る」
和彦が踵を返そうとすると、大股で歩み寄ってきた三田村に乱暴に腕を掴まれ、有無を言わさず引きずられる。
不思議なもので、三田村一人が歩いていると人々が道を空けたというのに、和彦の腕を掴んでいるというだけで、三田村の姿は人々の間に紛れてしまう。案外、酔っ払い同士がつるんでいるように見えているのかもしれない。
ようやくコインパーキングに到着した頃には、クラブで飲んだアルコールが程よく回り、少しだけ気分が落ち着いていた。
和彦が助手席に乗り込んでも、三田村は後部座席に移るよう言わなかった。黙って車を出し、案の定、すぐに渋滞に巻き込まれる。
沈黙を意識する前に、和彦は率直な疑問をぶつけた。
「これからぼくを、どこに連れて行くんだ」
「どこにも。ただ、先生を部屋に連れて帰る。そして先生は、風呂に入ってから、ゆっくり休んでくれ」
「だったら今夜は、あんたが護衛をしてくれるのか?」
「――……違う」
すかさず和彦はシートベルトを外そうとしたが、実行には至らなかった。こちらの行動を読んでいたように、三田村に手を掴まれたせいだ。
「何をするつもりだ」
「見張りがいないなら、ここで車を降りたところで問題はないだろう。あんたは、ぼくが見つからなかったと言えば済むし」
「ダメだ」
「ぼくの護衛でなくなったあんたに、そんなことを言う権利はない」
子供じみた理屈を言っていると、和彦にも自覚はあるのだ。だが、予測もしなかった形で三田村が目の前に現れ、クラブから連れ出されたことで、どういう態度を取っていいのかわからない。
『――三田村と寝たいか、先生?』
忌々しいことに、こんなときに賢吾の言葉が脳裏を過る。
そして、しっかりと手を掴んで離さない三田村は、射竦めるような眼差しを和彦に向けてくる。威嚇しているのではない。自制している男の、切羽詰った目だ。
三田村とは、色恋ではない。もっと性質が悪いものだ。動物的な本能だけで突き動かされる、欲望だ。
この男に守られるのが好きだった。この男に触れられるのが好きだった。必要な理屈があるとすれば、これで十分だ。
何もかも、賢吾が言っていた通りだった。和彦も野獣の一匹だ。もちろん、三田村も同じ。
三田村がふいに手を離し、車をほんの数メートルだけ進める。再び車が停まると、それを待ってから和彦から手を伸ばし、ハンドルを握る三田村の手の上に重ねた。すぐに三田村に手を握り返され、指を絡める。
「……三田村さん、あんたに聞きたいことがある」
「なんだ」
「組長から、ぼくのことで何か質問されなかったか」
三田村は答えなかったが、代わりに、強く指を握り締められた。
このとき和彦には容易に想像できた。『先生と寝たいか、三田村?』と唆す賢吾の姿と言葉が。
二人が沈黙している間、小さな花火がいくつか打ち上がる音がする。
じっと前を見据えていた三田村が、突然、話し始めた。
「――俺は、先生をさらに地獄に落としたくない。実行した俺が言うのもなんだが、ヤクザに拉致られて、おもちゃを尻に突っ込まれて、そんな場面を写真としてばら撒かれた挙げ句に、職場にいられなくなった先生を、俺たちはヤクザの世界に沈めた」
ハスキーな声は淡々とはしているが、それでも苦悩のようなものが滲み出ているようだった。
「いい部屋を与えられて、若くしてクリニック経営を任されて、欲しいものをなんでも買ってもらったところで、堅気にとっては、ヤクザの世界なんてやっぱり地獄だ。そんな環境の中にいて、俺が先生に触れていたなんて組長に知られたら――」
「もっと地獄を見せられるか、そうなる前に、殺されるかもな」
和彦の言葉に、三田村がゆっくりとこちらを見る。
「……煽ったのは、あの組長だ。欲しいという気持ちに見境も理屈もないと言って。ぼくは、そんな野獣たちの一員だそうだ」
もう一度和彦の指をきつく握ってから、三田村が手を離す。その手が伸ばされ、和彦の頬に触れてきた。ごっそりと感情をどこかに置き忘れたような無表情が印象的だった男は、今は、鬼気迫るような凄みを帯びた顔をしていた。
こんな三田村を怖いと感じながら、たまらなく欲しいとも思った。
互いにシートから身を乗り出すと、間近で見つめ合いながら、抗えない引力に引き寄せられるように唇を重ねていた。性急に三田村に唇を吸われ、二人は余裕なく貪り合う。
だが、こんなものでは、抱えた渇望は消えない。それは三田村も同じだと、目を見ればわかる。
このことを確認したとき、二人は完全に歯止めを失っていた。
Copyright(C) 2009 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。