[1]
それは、突然の言葉だった。
「えっ?」
智也は思わず顔を上げ、友人の辻を見る。
九年のつきあいで、印象
がまったく変わることのない穏やかな笑みは、やはり今も、目の前に存在していた。
言い諭すような柔らかな口調で、辻
が同じ言葉を繰り返す。
「だから、留学するんだ。アメリカに」
優しげでおとなしげな容貌の辻から、芯の通った強
さを感じるのはこんな瞬間だ。どんな大事だろうが、意気込むことなくまるで世間話のようにさらりと言ってしまう。おっとり、
と言ってしまえばそれまでだが。
半ば呆然としながら、智也の手は無意識に煙草に伸びていた。すかさず辻が立ち上がっ
て灰皿を持ってくる。煙草を吸わない辻の部屋に、灰皿を持ち込んだのは智也だ。それほど、辻の部屋に立ち寄ることが多いと
いうことだ。
「突然だな……」
深く煙を吸い込んでから、智也は呟く。頭の中が真っ白になってしまい、そんな言葉
しか出てこなかった。すると辻が、これもまた衝撃的なことをさらりと言う。
「実はそうでもない。前々から準備してたん
だ」
そんな素振りは全然感じていなかった――。
智也は少しの間、まったく反応ができず、煙草を指に挟んだまま、
まばたきすら忘れてしまう。できることなら、大きくため息をついてイスにもたれかかり、天井を仰ぎ見たいところだが、辻の
前でそんな醜態は晒せない。〈親友〉のプライドにかけて。
「大学院の次は留学かよ。よっぽど研究が好きなんだな」
「よく言われるよね。智也にはその言葉」
「本当に思うんだから仕方ないだろ」
高校生のときに知り合い、学部は違
えど大学も同じだった。そして卒業後、智也は就職し、辻は大学院の修士課程に進んだ。まったく同じ人生を歩んでいるわけで
はないと、当たり前のことに気づかされた一度目の出来事だ。
そして二度目は、今夜訪れた。
「――……これで、打
ち止めにしてくれよ……」
ため息にも似た智也の言葉を、辻は聞き取ることはできなかったようだ。相変わらず目の前で
穏やかに笑っている。おかげで智也は、深刻な顔をすることができない。
不精して伸びた辻の前髪の合間から、二十四の
男がするには無防備すぎる瞳が覗き見える。思わず手を伸ばした智也は、その前髪をくしゃりとかき上げてやる。
触れる
ことにためらいはない。かつて智也は、辻に対して友人以上の愛情を持っていた。そしてその感情を、消し去る努力をした。そ
の成果がこれだ。ぶっきらぼうに無造作に、必要以上の優しさを込めないよう、辻に触れられるようになった。
「留学どう
こう言う前に、髪ぐらい切れよ……」
智也の言葉に、くすぐったそうに辻が肩をすくめて笑う。
「切るよ。あんまり
時間がないから、明日にでも」
今夜だけで二度目になる衝撃が、自分に襲いかかってきそうな予感がして、智也は眉をひ
そめる。
慎重に煙草を灰皿の縁に置くと、おそるおそる尋ねた。
「……お前、いつ行くんだ」
「二週間後、かな。
大学の桜がちょうど見頃になってるよ」
さすがに、咄嗟に何も言えなかった。それでも智也は視線をさまよわせつつも、
言葉を模索する努力はしたのだ。
桜なんてどうでもいい――。
心の底からそう思ったが、口に出せるはずもない。
辻の性格からして本当に、桜の花を見るのを楽しみにしているはずだ。
結局、智也は無駄な努力を早々に放棄して、沈黙
を誤魔化すように再び煙草を唇に挟んでいた。
何事にも慎重――。
それが、社会に出た智也に与えられる評価には必ず入っている。
電車を降りて、階段を一段
ずつ踏み締めるように歩きながら、智也は自虐的に考えていた。
他人からの評価など、どうでもいい。しかし智也自身、
感じていることはある。慎重すぎて、次の一歩が踏み出せないのだ。主に、人間関係に関して。
辻への恋愛感情を、友人
だから、同性だからといった理由で押し殺した弊害であることは、明白だった。罪悪感たっぷりに彩られた片思いは悲惨すぎて、
さんざん自分の心を傷つけていた気がする。それでも、辻に知られ、辻を傷つけるより遥かにマシだった。
智也はただひ
たすら、辻への思いを断ち切った証拠を欲し続けている。そして辻は、智也を置いて遠くへ行く。
駅を出て人もばらけて
くると、足を止めた智也は深く息を吐いて空を仰ぎ見る。
「何でそう、いつも人の先を行くんだ……」
自棄気味に言
ってから、次の瞬間には自分自身の情けなさを実感する。これはもう、辻への嫉妬に近い感情かもしれない。
軽く鼻を鳴
らしてから、再び智也は歩き出す。
自宅のマンションの前まで来てから、いつものように二階の自分の部屋を見上げる。
明かりがついていた。
智也は、もうすぐ高校三年になる弟と一緒に暮らしている。弟としては一人暮らしが望みだったよ
うだが、母親が許さなかったのだ。そこで、保護者役というより監視役として智也に、弟との同居を命じたのだ。気楽な一人暮らし
をしていた智也は、おかげでいい迷惑だ。少なくともあと一年は男二人、顔を突き合わせて暮らさなくてはならない。
重
い足取りで部屋の前に立ったとき、智也はひどく疲れていた。生意気な弟と会話も交わさず、まっすぐ自分の部屋に入ることが、
今は何よりもの願いだった。夕飯など、勝手にとれと言いたい。
だが、今日という現実は、智也に対して容赦がなかった。
ドアを開けた智也の耳に、明らかに弟のものとは違う声が届く。高く澄んだ、少女の声だ。無意識に顔をしかめながら
足元に視線を落とすと、弟の大きなサイズのバッシュの隣に、茶色のローファーがきちんと揃えらていた。
部屋に他人は
入れない。
それが、同居生活を始めるとき、兄弟間でもっとも厳しく定めた事項の一つだ。それでなくてもギスギスしが
ちな男二人の生活に、第三者の存在などトラブルのもとだ――と、もっともらしいことを言った智也だが、家に帰ってきてまで、
他人に気をつかうのが嫌だったのだ。
智也の個人的な思惑はともかく、ルールはルールだ。なのに、お調子者の弟は、よ
りによってこんな日に、それを破ってくれたらしい。
智也は設計図の入ったアジャスターケースを抱え直してから、足音も荒く廊
下を歩く。話し声はダイニングから聞こえてきた。
「――勇樹」
楽しげな二人の姿があると思っていたが、予想に反
して、ダイニングに入ってまず最初に目に入ったのは、弟の勇樹の苦渋に満ちた顔だった。その顔が、智也の呼びかけに驚いた
表情をする。
「兄貴……」
勇樹の呟きに応じるように、テーブルにつき、ちょうど智也に背を向ける形になっていた
少女が振り返った。わずかに肩にかかった髪が軽やかに動き、目鼻立ちがくっきりした顔が智也を見上げてきた。
奇妙な
沈黙が三人の間を流れる。一番最初に反応したのは勇樹だった。
「あっ、兄貴、こいつは――」
慌ててイスから立ち
上がりながら、勇樹が少女を指さす。すると、少女が遮るように言葉を発した。
「萩原さやかです」
あまりに堂々と
した名乗りかただったので、面食らいながらも智也もこう言っていた。
「どうも……。勇樹の兄の、手塚智也です」
一見、気が強そうに見えるさやかが、人懐っこい笑顔を浮かべる。感じのいい表情で、このときになって智也は、さやかが美少
女と表現できる容貌の持ち主なのだと、客観的に判定できた。どうやら、どんな兄貴が帰ってくるのかと緊張していたようだ。
帰ってきたのが、一見優男――中身は苦々しさに満ちているが――の智也で、さぞかし安心しただろう。
前髪を掻
き上げながら智也は、さりげなく視線を足元に向ける。さやかは学校帰りに寄っているらしく、制服姿のうえに、鞄とやたら大
きなバッグをイスの足元に置いてある。まじめな高校生は、毎日これだけの荷物を持ち帰りしているのかと、勇樹の薄っぺらい
鞄を思い返しつつ、つい感心してしまう。
ちらりと視線を勇樹に移すと、兄弟ながら、智也とは性格も顔立ちもまったく
違う弟は、いつもの生意気さを引っ込めて困惑している。少なくとも萩原さやかという少女を部屋に招き入れたことを智也に知
られ、動揺しているという態度ではなかった。
状況がよく把握できない智也は、指先で勇樹に自分の部屋に来るよう示す。
勇樹はすぐに従った。
「――お前な、うちには他人を連れて来るなと言ってるだろ」
ドアを閉めてから、智也はデス
クの上に鞄とアジャスターケースを投げ置く。ただでさえ辻のこともあり、口調がきついものとなる。それでも、声を潜めるだけの配慮
はどうにか残っていた。
勇樹は髪を短く刈り上げた頭を掻きながら、あまり悪びれていない素振りを見せる。
整っ
てはいるが、これといって個性的なものがない顔立ちの智也とは違い、勇樹の顔はどんな表情にも愛嬌がある。高校生らしく健
康的に日焼けした肌のせいか、精悍さもいくらか感じられ、いかにも憎めない悪ガキといった雰囲気を醸している。
そん
な弟の顔を、智也は軽く睨みつけた。
「おい、こら、何とか言え」
「何とか言えと言われても、俺もあんまりよくわか
ってないんだよな」
「……疲れて帰ってきたお兄様を、怒らせるなよ」
芝居がかった動作で肩を竦め、勇樹が智也の
耳元に顔を寄せてくる。視線は、ドアのほうに向けられていた。
「萩原のほうが、荷物持ってここに来たんだよ」
「荷
物?」
「足元にあっただろ、でかいバッグ。あれ、あいつの」
「だから何なんだ」
ジャケットを脱いでネクタイ
に指を引っかけるが、この次に言われた言葉で智也は動きを止めた。
「萩原の奴、家出してきたんだってよ」
勇樹の
顔を見ると、頷かれた。冗談を言ったわけではないと、伝えたいらしい。
今日、何度目かの心の底からのため息が出た。
ついてない日は、とことんまでついてない。きっと今日という日は、呪われているのだ。
「――大丈夫か」
「あー?」
智也が自棄になってネクタイを解いていると、心配そうに勇樹が顔を覗き込んでくる。ついこの間まで、視線の高さは同
じだったはずなのに、今は勇樹の視線のほうがわずかに高い。
智也が作るものを、手伝いもしないのにガツガツ食べて、
嫌になるほどよく育っているのだ。
日々の食事の苦労を思い出し、ムッと眉をひそめた智也だが、一方の勇樹は、さやか
の件で怒っていると勘違いしたらしく、小声で言い訳をしてくる。
「いや、本当に、俺は何も知らなかったんだって。いき
なりあいつが、大荷物を持ってここに来て、わけがわからないまま部屋に入れたんだよ。どこかに泊まりに行くのかと思ったら、
なんか話がとんでもない方向に――……」
相槌も打たず、智也は勇樹に背を向けて、ハンガーにジャケットをかける。持
って帰ってきた図面にも少し手を加えないと、などと考えていると、ひょいっと勇樹がまた顔を覗き込んでくる。
「兄貴、
本当に大丈夫か?」
智也はじろりと勇樹を睨む。
「何が、本当に大丈夫か、なんだ」
「大声で怒鳴らないだろ」
「……お前が家出したって言うんなら、おれも怒鳴りはするけどな。だいたい今日は、そんなに熱くなれる気分じゃない。
感情が麻痺したというより、磨耗しきった……」
後半はほとんど独り言を呟きながら、智也はドアのほうを一瞥する。
自分の兄が単に機嫌が悪いだけではないと察したらしく、勇樹は沈黙を恐れるように話を続ける。
「萩原とは同じク
ラスなんだよ。つきあってるとか、そんなんじゃないけど、まあ、けっこう話は合うな。女だけど、一緒にいても楽なんだ」
表情をうかがってきた勇樹に、続けろと手を振る。
「見たまんま、別に問題起こすような奴じゃないし、はっきり言
って俺も、何であいつが家出してきたのかわかんねーんだよ」
「理由、聞いてないのか?」
「聞いても、頼むから泊め
てくれとしか言わないんだ」
煙草が吸いたくなったが、あいにくと灰皿はダイニングに置きっぱなしだ。智也はネクタイ
をベッドに放り出して、自分の部屋を出る。
「兄貴っ?」
慌てて勇樹も後ろからついて来た。
ダイニングに戻
ると、緊張した様子もなくさやかはイスに腰掛けたままだった。大きな目が、じっと智也を見据えてくる。態度ももちろん、き
ちんとした制服姿を見ても、勇樹の言葉通り、さやかから荒れたようなものを感じることはできない。それどころか、受ける印
象は、好印象そのものだ。
きちんと躾けられた、行儀のいい女子高生。少なくとも見た目は。
「――萩原さやかさん」
智也は呼び
かけると、さやかと向き合う形でテーブルにつく。正面から見つめた瞳が、少しでも動揺の光を浮かべていたら、智也は当然の
義務として、帰るよう宣告するつもりだった。しかしさやかの瞳は、わずかに揺らぎもしていない。
静かな覚悟を胸に秘
めた人間の瞳だ。そういえば今日の辻も、似たような瞳をしていたかもしれない。
「勇樹から、経緯は聞いた。だけど、君
が家出してきた理由は分からない。だから、聞いてもいいかな」
さやかは妙に憎めない笑みを浮かべた。
「今すぐに
は無理です」
「どうして?」
「わたしにも、この方法が正しいのかどうかわからないから。そんな状態で人に言うのは、
無責任だと思うんです」
言っている意味がよくわからないが、さやかが真剣であるということは十分感じた。
家出
に、真剣も冗談もあるのかと自問しつつ、智也は勇樹と目が合う。
どうするんだと、好奇心も露な勇樹の表情が尋ねてい
る。厄介なことに巻き込まれたという意識は、どうやら存在していないらしい。智也は腕を組み、数回首を振ってみる。
感情だけでなく、思考のキャパも今はいっぱいだ。本当は、さやかを追い出すのが一番だとわかってはいるのだが、なぜかその
選択肢は最初から智也の中になかった。
何かを考えるには、今はあまりに最悪の状態すぎる。
「うちは――」
唐突に智也が口を開くと、目を丸くしてさやかが頷く。
「はい」
「見ての通り、うちは男二人しかいないんだけど」
「大丈夫です。勇樹のことは、男とは思ってませんから」
もう一人、男がいるのだが――という指摘は、無駄に話を
ややこしくしそうなので、やめておいた。
「つまり、何があっても覚悟はできているということか。……いや、覚悟が必要
なことが、あるわけじゃないんだけど……」
「……兄貴、何言ってるんだ」
勇樹にさりげなく指摘され、智也は結論
へと入る。
「とりあえず今夜は、泊まっていいよ」
よほど意外な答えだったらしく、勇樹が短く声を洩らす。その反
応も仕方ないと、智也は思う。普段なら、面倒事はなるべく避ける選択をするのが、智也なのだ。『何事にも慎重』という評価
は伊達ではない。
ただ今日は、あまりに疲れていた。物事に対して、投げ遣りになっていた。考えることが、面倒になっ
ていた。
そんな智也の内面を知るはずもない勇樹とさやかが、互いに嬉しげに顔を見合わせている。
その姿を見て
心和むほど、智也の感覚はおかしくなっていなかった。大人としての一欠片の理性はまだ残っているのだ。
「――ただし」
智也
は重々しく切り出し、指先で電話を示す。
「ここにいるってことを家族に知らせるんだ」
「それは家出って言わないん
じゃ――」
余計なことを言おうとした勇樹を、視線で制する。さやかのほうは顔を強張らせており、苦悩の深さがうかが
える。親にちょっと叱られたから家を出たようには思えなかったが、他人の家庭の事情に深入りする気はない。
「……わかりました」
一分近く待って、ようやくさやかが答える。勇樹が子機の場所を指先で示すと、立ち上がったさや
かが取り上げる。動作の一つ一つに、悲壮感が漂っていた。
向けられた強張った横顔を智也が眺めていると、傍らに立っ
た勇樹が声を潜めて話しかけてくる。
「問題は起こすな、厄介ごとを持ち込むな、ってのが口癖の兄貴らしくないな」
「ここから放り出しても、彼女は家には帰らんだろ。だったら、ここに置いておくほうが安全だ」
「男二人がいるのに?」
明らかにおもしろがっている口調の勇樹を、斜め下から睨みつける。
「おれは女子高生には欲情しない。お前にして
も、手を出していい人間かそうでないかぐらい、分別はあるだろ」
「鋭いなあ。……まあ確かに、つまらないことで、友達
はなくしたくないよな」
勇樹の目が、電話をしているさやかに向けられる。雰囲気や言葉の端々から察するに、勇樹とさ
やかが今のところは純粋な友人関係であるというのは間違いないようだ。もっとも、それがわかったところで、抱えた問題が簡
単になるわけではない。
「――……ごめんね、お兄ちゃん……」
ふいに、さやかの言った言葉が聞こえてきて、智也
は思わず聞き耳をたてる。電話の相手がどうやら両親ではないということに、わずかながら違和感を覚えたのだ。
「大丈夫。
同じクラスの子のところに泊めてもらうから。だから、捜すようなことしないで」
電話を替わるべきだろうと智也は立ち
上がりかけたが、先にさやかは電話を切ってしまった。もっとも、電話に出たところで、説明に非常に困っただろうが――。
振り返ったさやかと目が合う。笑いかけられた智也は、すぐに電話を替わらなかった自分のズルさを見抜かれた気がして
ドキリとする。
「……今の電話、君のお兄さん?」
「そうです。ちゃんと社会人ですから、わたしの保護者って言えま
すよね?」
言いたいことはあったが、言及はしなかった。追いつめるのが恐かったのだ。
智也にとって十代の少女
というのは、未知の生き物としか表現できない。柔らかくて脆くて、少しの衝撃で壊れてしまうというイメージが頭にこびりつ
いている。外見がどうだろうが、その先入観は捨てられない。
こめかみを軽く揉んでから智也は立ち上がる。勇樹が驚い
たように声をかけてきた。
「兄貴?」
智也は、勇樹とさやかにそれぞれ指示を与える。ダラダラと考え込んでいても、
腹は膨れないのだ。
「勇樹、お前は夕飯作るの手伝え。萩原さんは、おれの部屋で着替えを済ませる。以上」
面食ら
ったように立ち尽くしていた二人だったが、すぐに智也の指示通りに動いた。
ベッドの上にあぐらをかいて座り込み、智也は唇に煙草を挟んだまま床を見下ろす。
夜ともなると、智也と勇樹はそれ
ぞれの部屋に入ってしまうのだが、今夜はそうもいかなかった。智也の視線の先では、勇樹が文句を言いながら床に布団を敷い
ている。
「何で俺が、床の上に寝なきゃいけねーんだ」
「……お前の部屋は萩原さんが使ってるし、ダイニングで寝るに
はまだ寒いだろ」
「いや……、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、普通は可愛い弟にベッドを譲ってやろうとか―
―」
智也はふっと煙を吐き出す。生意気そうな勇樹の顔が白く霞んだ。
「彼女はお前のお友達。つまり、おれとは無
関係。床を貸してやってるだけでもありがたく思え」
「横暴」
布団を敷き終えた勇樹がベッドに上がり、智也の隣で
同じくあぐらをかいた。煙草を一本抜き取ろうとしたので、手の甲を叩いて阻む。
恨みがましい視線を送ってきながら、
ぽつりと勇樹が呟いた。
「やけに今日は、機嫌が悪いよな……」
「……帰ってきたら家出少女がいるんだ。仕方ないだ
ろ」
「違うな。靴を脱ぐ音からして荒っぽかった」
いつも夕飯のことだけ考えて、智也の帰りを待っていたわけでは
ないらしい。ずいぶん意外だと思いながら、煙草を灰皿に置いた智也は、できる限り淡々とした口調で、今日、辻から聞かされ
たことを話す。
勇樹も辻のことはよく知っており、素直に智也の話に驚いた。
「大丈夫なのか? 辻さんみたいにふ
わふわした人、一人でアメリカに行かせて」
「本人が行くって言ってるんだから、どうにかなるんだろ」
「だけどなー、
危ないよなあ」
「一度危ない目に遭って、日本に逃げ帰ってくればいいんだ」
ふと洩れた本音に、内心しまったと舌
打ちする。辻に対する想いを押し殺したとか、今は乗り越えたとかいっても、心の底に溜まったままの澱は、何かの拍子にドロ
リと蠢く。
智也が苦々しさに顔をしかめていると、兄の過去の葛藤を知らない勇樹は、微かに喉を鳴らして笑った。
「ダメだって。あの人、柔軟性と天真爛漫の塊みたいな人だから、何あってもケロッとしてるぜ。絶対」
「ああ、そうだな
……」
だからこそ愛しくて、同時に憎しみさえ覚える存在であり続けるのだ。
智也は苦しい胸の内を、声にならな
いほどの呟きにして吐き出した。
「――あいつは、そんな奴だ」
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