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ステップ −Step−
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[2]

 翌日、出社した智也は、やや睡眠不足気味の頭を振ってからキーボードを叩く。
 コンピュータが置かれた部屋には今 のところ智也しかおらず、そのうえブラインドを上げた窓から入ってくる陽射しは、甘やかすように柔らかく暖かい。いい加 減、瞼を開いているのも億劫になってきていた。
 智也は住宅資材を扱う会社でコーディネートの仕事をしている。営業 部のサポートという面が強い部署のため、忙しいときは満足にイスに座ることもできない反面、得意先へのプランニングが終 わると、設計図や見積書の作成などで一日中座りっ放しになる。ちょうど今の状態がそれだった。
 手を止め大きく伸び をする。コーヒーでも入れてこようかと思っていると、ズボンのポケットの中で携帯電話が鳴った。
 営業部を通しての 呼び出しが多い智也だが、それでもたまに、親しくしている住宅会社や下請け会社の社員から直接、連絡が入るときがある。
「もしもし、手塚です」
 愛想のなさを礼儀で包んだ仕事用の声で、電話に出る。耳元に、くすぐったく感じるよう な微かな笑い声が届いた。
 仕事用の智也の声を、別人のもののようだと笑った人間は二人いる。一人は弟の勇樹だ。し かし、この時間帯に電話をかけてくるのは、あとの一人しかいなかった。
 急に落ち着かなくなり、智也は意味もなく髪 をかき上げる。声を平素のものにするため、一呼吸おいてみた。
「――髪、切りに行ったか」
『珍しく早起きしてね』
「お前には、時差ボケなんて関係ないだろうな」
 電話の相手である辻は、さらに声を洩らして笑い続けている。こ の笑い声を聞きながら居眠りすると、見るのはどんな夢だろうかと、漠然と考えてしまう。
 ハッと我に返った智也は、 イスに座り直した。
「それで、何かあったのか」
『今朝、勇樹くんから電話あったよ。いい目覚ましになった』
 咄嗟に、昨夜の勇樹との会話が思い出される。智也は自分の中に動揺がないのを確認しつつ、続きを促した。
「あいつ、 何だって……?」
『僕の留学のこと、心配してくれてたよ。チャイムが聞こえたから、学校からかけてきてたみたいだけ ど』
「今朝はメシ食わせてすぐに、家から追い出したからな。――他に何か言ってたか」
『近いうちに、お祝いしよ うって。家に招待します、とも言ってくれたよ』
 招待も何も、辻は何度もマンションに来ては、勇樹を含めた三人で食 事をしている。
 辻にとってはお祝いかもしれないが、智也にとっては――最後の晩餐だろうか。もう、あの部屋で辻と 食事をすることはないかもしれないのだ。
 仮に、またテーブルを囲むことがあったとしても、辻の隣には大事な誰 かがいるかもしれない。いままでのような形で食事ができる可能性は、半分もあれば上等だ。
 辻の留学のことを聞かさ れてから、どうにも思考はマイナス方向にいきがちだ。智也はそのことを反省しながら、静かにため息を洩らす。
 辻の ことだけでなく、思考がマイナス方向にいく原因はまだあった。
「――……あいつは、自分がどんな問題を家に持ち込ん だのか、よく理解してないみたいだな」
『ああ、聞いたよ。そのことも』
 言いながらも、辻の声は深刻さから程遠 い。他人事ということもあるが、辻自身の柔軟性はこんなところに出ていた。
『それで、その女の子は?』
「おれが 会社行くときは、まだ寝てたみたいだな。昨夜は遅くまで寝れなかったんだろ。まあ、二、三日ぐらい学校休んだっていいだ ろ。どうせあとは、終業式を待つだけで、すぐに春休みだ」
『智也も度胸あるよね』
「どこが」
『普通なら、お ろおろすると思うよ。すぐにその女の子の親に連絡して、引き取らせるとかね。それが、ベッドまで貸して、朝もそのままに して会社行くなんて……』
「まあ、言われてみればそうだな」
 まさか、気疲れのせいで対応を考えるのが面倒だっ たとは言えない。その気疲れの原因は、辻が留学すると聞かされてショックだったとは、もっと言えなかった。
 智也は イスの背もたれに深く体を預けて足を組む。
「おれとしては、けっこう無謀なことをしたって反省してる」
『慎重派 の智也にしては珍しいよね』
 思わず智也は乾いた笑い声を立てていた。
 もっと辻の声を聞いていたいのに、一方 で会話を続けていることに苦痛を感じる。話していると、智也自身にとって苦痛となることばかりを考えてしまうのだ。
 辻は、仕事中ということで遠慮したのか、不自然でないタイミングで切り出してきた。
『じゃあ、そろそろ切るよ』
「ああ。……メシ、食いに来いよ。お祝いとか関係なく、いつもみたいに気軽に。おれが帰ってなくても、勇樹がいるか ら」
『うん。それじゃあ』
 切った携帯電話をポケットに滑り込ませた智也は、少しの間、そのままの格好で動けな かった。仕事中の息抜きに、辻とこんなふうに話せるのは、おそらく今日で最後だろう。そう考えると、つい苦い余韻に浸っ てしまう。
「……女々しいなあ、おれは……」
 ようやく踏ん切りをつけて立ち上がりながら、智也は自嘲気味に洩 らす。
 押し殺して消した辻への恋心は、もう智也の中には存在していない。それでも辻に対して身構えてしまうのは、 再び自分の中に、消してしまったはずのものを見つけるのが恐いからだ。
 あるはずがない。あってはいけない――。智 也がそう自分に言い聞かせるのは、二度とあんな思いをしたくないからだった。つらくて、苦しいだけの思いを。




 一度大きく息を吸い込んでから、智也は玄関のドアを開ける。中に人の気配はあるのだが、なぜか玄関には勇樹のバッシュ も、さやかのローファーもなかった。
 不審に思いながら智也は靴を脱ぐ。
「――ただいま」
 探るように声を かけてダイニングに入った智也は、一瞬、目の前の光景に目眩すら覚えた。キッチンに、さやかが立っていたのだ。
「お かえりなさい」
 憎めない笑顔を浮かべて、さやかが振り返る。智也も意識しないまま力なく笑みを返していた。
  さやかは、いつだったか母親が置いて帰ったエプロンをつけて、忙しげにキッチンを行き来している。いつもなら、キッチ ンに立っているのは智也のはずだ。
 着替えるのを後にして、ひとまず智也はテーブルにつく。肘をつきながら、さやか の後ろ姿を眺めていた。自分の家のキッチンに女の子がいるというだけで、異世界に迷い込んだような錯覚を覚える。ただ、 微笑ましい光景でもあるのだ。だからといって、表情を綻ばせている場合ではない。
 智也は自分の頬を軽くつねり上げ、 顔を引き締める。
「……靴、どうした」
「靴箱に入れてます。誰か来たとき、女物の靴があったら変に思うかもしれ ないでしょ?」
「ああ、なるほど。男はダメだな。自分が浮気でもしてないと、そんなところに気が回らない」
 智 也のたとえはうけたらしく、さやかは一つにまとめた髪を揺らし、笑い声を洩らした。
「勇樹は?」
「買い物に行っ てます。すぐに戻ってくると思いますよ」
 脱いだジャケットから煙草とライターを出し、智也は単刀直入に昨夜のこと を切り出した。
「昨夜の電話のことだけど、どうしてお兄さんに電話したんだ」
 さやかはシンクの縁に両手を置い て動きを止めた。ただし今度は、智也のほうを見ようとはしない。
「――……わたしが家族で頼れるのは、兄……、お兄 ちゃんだけなんです」
「親は?」
「あの人たちは、自分のことだけで手一杯」
 他人の家庭の問題に、無責任に 首を突っ込むつもりはなかった。しかも、知り合ったばかりの少女の家庭の問題に。
 早々に話を切り上げた智也は、ジ ャケットを手に自分の部屋に行こうとする。すると背後から声をかけられた。
「智也さん、良い人ですね」
 思いが けない言葉に、足を止めて智也は振り返る。皮肉のつもりはないらしく、さやかは少し困ったような笑みを浮かべていた。高 校生の女の子が浮かべるには、少々翳りがある表情だ。
「……どうして?」
「わたしのこと、追い出そうとしたり、 無理矢理いろんなこと聞こうとしたりしないから……」
 さやかの笑みに引きずられたわけではないが、智也はつい、苦 い表情になっていた。
「面倒なだけだ。――おれも、自分のことで手一杯だから」
 言う必要のない本音をポロリと 洩らしたとき、タイミングの良く、ちょうど勇樹が買い物から戻ってきた。智也は、逃げるように自分の部屋に入った。


 夕飯の後片づけを終え、智也はテーブルの上に新聞を広げていた。ドアを開けたままの勇樹の部屋では、高校生二人がゲー ムでもしているようだ。ときおり歓声が上がっている。
 不気味なぐらい静かな空気が流れていると、目では文字を追い ながら智也は思う。こういう静けさは心臓に良くなかった。何かが起こったとき、衝撃の大きさが計り知れない。
 いつ の間に部屋から出てきたのか、勇樹がテーブルを挟んで正面に立っていた。智也は視線だけを動かして勇樹の顔を見上げる。
「何か用か」
「いや…、兄貴も寂しい男だと思って。金曜の夜に、眉間にしわ寄せて新聞睨みつけてさ」
 つま り、夜を共に過ごしてくれる恋人はいないのかと言いたいらしい。勇樹の余計な一言は、見事なまでに智也の神経を逆撫でた。
「いらん世話だ」
「俺なら心配ないから。兄貴と違って、ちゃんとつき合ってる奴いるから、萩原に妙なことはしな いし」
「お前はわからん」
「いやいや、わかってくれよ。俺の兄貴だろ」
「……そうだったかなあ」
 兄弟 同士の不毛な会話は、この時間には不似合いなほどの、乱暴なインターホンの音で打ち切られた。
 勇樹と顔を見合わせ てから、智也は立ち上がる。
 誰だか知らないが、無礼なのは間違いないだろう。
「こんな鳴らし方があるか」
 舌打ち交じりに文句を言いながらインターホンに出た智也は、無愛想な声で問いかける。
「どちらさまですか」
『――萩原さやかがそこにいるはずだ』
 智也は顔を強張らせ、勇樹と顔を見合わせる。慌てて玄関に向かおうとすると、 不穏な気配を感じ取ったのか、さやかが不安げな顔で部屋から出てきた。
「どうかした?」
「あー、いや、ちょっと ……」
 口ごもる勇樹に目配せしてから、智也は一呼吸置いて玄関のドアの鍵を解く。待ちかねていたように強引にドア が開けられた。
 あまりの勢いに智也は咄嗟に反応できず、目を見開いて硬直する。いきなり殴りかかられるのではない かとすら思ったぐらいだ。
 目の前には、見たことのないスーツ姿の男が立っていた。
 おそらく年齢は、智也とさ ほど変わらないだろう。ただ、外見から受ける印象は、あまりに違う。決して自分が、柔和な面立ちの人好きする好青年風だ と自負しているわけではないが、今、目の前に立っている男に比べれば、多少は自惚れても許されるはずだ。
 男が、非 友好的な眼差しをジロリと智也に向けてくる。殺気立っているといってもいい、剣呑とした表情が、ハンサムといえる顔立ち をより男らしく見せている。だがそれ以上に目を惹き、智也の口から非難の言葉を奪ったのは、男の全身から漂う怒りのオー ラだった。
 表情の激しさはともかく、この男の面立ちが誰かのものと重なる。智也が目を眇めようとしたとき、男自身 が答えを口にした。
「――さやかっ」
 よく通る男の声に智也は体を震わせてから、後ろを振り返る。いつの間にか さやかが立っており、男と似た部分の多い顔を強張らせていた。
「……お兄ちゃん、どうして……」
 ああ、と智也 は心の中で声を洩らす。こちらから行動を起こす前に、さやかの兄は行動を起こしたのだ。
 嵐のような展開になること を一瞬のうちに覚悟して、智也は、男とさやかの顔を交互に見てから切り出した。
「上がって話しませんか」
 途端 に男から鋭い視線を向けられた。だが、異論はなかったらしく、黙って靴を脱ぎ、智也の前を通り過ぎた。
 インターホ ンの鳴らし方もそうだったが、ずいぶん無礼な男だと、向けられた広い背を眺めながら智也は思う。さやかを預かっているこ とを即座に連絡しなかったことへの非難は甘受するが、一方で、さやかを保護していたのもまた確かなのだ。大人なら、も う少し対応の仕方があるというものだろう。
 勇樹がこちらを見て、苦々しげに唇を歪める。
「どうして、ここが分 かったの……」
 さやかの硬い声が耳に届く。怯えのない、警戒と決意の込められた声を聞いて智也は、いまさらながら、 さやかが生半可な気持ちで家出したのではないと感じた。断固としたさやかの意志が声に表れていたのだ。
 智也は二人 の側に歩み寄る。気にした様子もなく、さやかの兄である男は答えた。
「親と一緒に住んでなくて、しかも寮生活でな い生徒がいるのは、お前のクラスじゃこの家だけだった」
 男の言葉が微妙な含みを帯びる。ただ智也にしてみれば、そ れだけで十分だった。
 智也が勇樹に、家に誰も連れて来るなと言っているのは、つまりはこういった理由からだ。親が 一緒に住んでいないうえに、智也の帰りは夜となると、溜まり場になりやすい環境だといえる。隣近所からの目も厳しいはず だ。だからこそ、兄弟でしっかりしなくてはならないのだ。
 一方的に責められるのは、智也はともかく、勇樹が可哀想 なので、ささやかな反論を試みる。
「すぐに連絡しなかったのは悪かったと思いますけど、こちらとしては彼女が落ち着 くのを待って――」
「その間に、妹に何かあったらどうするつもりだったんだ」
 冷然とした言葉に、思わず智也は カッとした。
「何かって何です。弟は彼女の友人で、あなたが思ってるようなことはしないし、おれだってそのつもりは なかったです。妙な勘繰りは止めてください」
 智也以上に激昂したのは、さやかだった。頬を赤くして、鋭い声を発す る。
「そうよっ。わたしが勝手に押しかけて迷惑かけているのに失礼なこと言わないで」
「――だったらすぐ帰るん だ」
 わずかな沈黙の後、さやかは唇を噛み締めながら首を左右に振った。智也はさやかの答えを予測していたので、驚 きはしなかった。ただし男のほうは、目を見開いてショックを露にしている。
「おい……」
「……帰らない」
「さやかっ」
「絶対に……、帰らない」
「家に帰りたくないんなら、俺のところに来い。母さんには、お前は俺のと ころに泊まってるって言ってあるから」
 このとき見せたさやかの、複雑な感情の入り混じった瞳はひどく印象的で、同 じぐらい、傷ついたような男の表情も智也の目に焼き付いた。
 男が手を伸ばし、さやかの手首を掴む。さやかはその手 を振り払った。二人のやり取りを見守るしかない智也と勇樹だったが、次の男の行動には、咄嗟に体が動いていた。
 男 が手を上げる素振りを見せたのだ。
 智也はさやかを引き寄せて庇い、勇樹は男の腕を掴む。さやかのことに関して、こ れまでいい加減だった自分を忘れ、智也は思わず男を怒鳴りつけていた。
「妹だろうが何だろうが、女に手を上げるなっ」
 弾かれたように男が体を震わせ、大きく目を見開く。自分が取ろうとした行動が信じられないといった様子にも見えた が、智也には関係ない。手を下ろした男と向き合い、指先でドアを示す。
「帰ってください。今のあなたには、彼女を渡 すことはできない」
 妹に手を上げようとしていた男とは思えないほど静かな瞳が、智也を真っ直ぐ見つめてきた。そし て、何も言わず靴を履いてドアを開ける。
 ドアの向こうに消える男の背が、ひどく傷ついているように見え、智也は少しの間、そ の場に立ち尽くして動けなかった。


 久しぶりに出した大声のせいで、喉が微かに痛かった。
 喉元を軽く撫でてから、缶ビールに口をつけていた智也は、 深々と息を吐き出す。薄暗く静かなダイニングで、それはやけに大きく聞こえる。
 疲れた、と声に出さずに呟く。それ と苦笑。
 智也の部屋では勇樹が熟睡しているので、今のところ、智也の居場所はダイニングしかなかった。これはこれ で、居心地は良い。
 足を組んだ姿勢のまま、何もない天井を見上げる。すると勇樹の部屋から明かりが洩れ出て、人の 気配が智也のほうに近づいてきた。
「――……何、してるんですか」
「今日一日の反省」
 天井から視線を移し た先には、智也の貸したパジャマを、裾を折り曲げて着込んださやかが立っていた。表情はいくぶん和らいでいて、智也は内 心ほっとする。
 手招きして、イスに座らせた。
「眠れない?」
 ほの白く浮かび上がったさやかの顔が、照れ たような笑みを浮かべる。
「なんか、興奮して……」
「おれと違って、なかなか熱いお兄さんだね」
 さやかの 兄が、萩原京一という名であることと、二十六歳であることは、後になって教えられた。それと、その兄が妹へ向ける愛情も、 肌で知ったつもりだ。
「お兄ちゃんは、いつもそう。わたしのことになると」
「可愛いんだなあ、妹っていう存在は。 うちは可愛げの欠片もないバカ弟だから、実感はできないけど」
 何か飲むかと尋ねると、さやかが素直に頷いたので智 也はキッチンに立つ。
「智也さんて、女の人をものすごく大事にする人?」
 唐突な質問に、鍋を片手に智也は苦笑 を洩らす。
「まさか。反対に、冷たいって言われる。だけど、守らなきゃいけない存在っていうのは、無条件に守るよ。 男とか女とか関係なく」
 薄暗いことと、さやかに背を向けて顔が見えないこともあり、自分でも意外だが、智也は本音 を洩らしていた。脳裏に浮かんだのは、当然のように辻の顔だ。
 同じ心理が働いたのか、さやかも静かな口調で語り始 めた。
「……お兄ちゃんも同じです。昔から、わたしのことを守る存在だって思ってます」
「手を上げようとしたの に?」
「あれは……仕方ないです。わたし、家を出た理由、何にも言ってなかったから。お兄ちゃん、わたしのためにず っとがんばって、踏ん張ってきたから、これ以上は無理っていうぐらい、いろんなものを溜め込んでるんだと思います。なの に、わたしが勝手なことをしたから……」
 智也は手早くココアを作ってカップに注ぐと、さやかの前に置いてから、再 びイスに腰掛けた。
「――智也さん、母親に殴られたことあります?」
 突然の質問に驚きながらも、智也は頷いた。
「そりゃあ、子供の頃は。でも、勇樹のほうが悪ガキだったから、殴られた数はあっちのほうが上かな」
「あっ、わ かります。それ」
 さやかは笑った後、ふいに目を伏せた。翳りを帯びた表情を目にした途端、智也は不快なものが胸に 広がるのを感じた。さやかの話は、予感した通り、胸が悪くなるようなものだった。
「わたしの母は、今でもわたしのこ とを殴ります。ほとんど毎日……」
 その言葉に衝撃を受けはしたものの、表情に出すようなことはしなかった。ただ、 気を紛らわせるものが欲しくて、智也は煙草に手を伸ばす。
 さやかは、立ち上った煙草の煙を追うように視線を空に向 け、言葉を続けた。
「完璧主義なんですね。何でも、言う通りにしてれば間違いがないからっていう考えが母にはあって、 わたしが、母のその考えと少しでも違うことをするのが我慢できない……。お兄ちゃんも社会人になって家を出るまでは、わ たしと同じ立場でした」
「母親相手なら、君のお兄さんだったら力で勝てたんじゃないか」
「そんなことしたら、今 度はわたしがひどくされるってわかってたんです。だからずっと、お兄ちゃんはわたしのことを守ってくれてました」
  カップに口をつけたさやかを見つめる。自分の境遇を哀れんでいるわけでもなく、哀れみを欲しがっているようでもない目の 前の少女に、智也はふと、不思議な親近感を覚えた。
 さやかは決して強いわけではない。ただ、耐える術を知っている というだけだ。自分の気持ちを押し殺すという、手っ取り早くて効果的な術を。
 智也は無意識に、煙草を吸う手を止め ていた。
「……つらかった?」
 さやかは曖昧に頭を振った。
「何度も殴られるのは痛かったけど、それ以上に、 殴られる度に母のことを母だと思えなくなっていくことのほうが……、何て言うのかな、寂しかったです。――普段は、すご く優しい人なんだけど、だけどわたし、母が何か取ろうとして手を動かしただけでも、体が竦むんです。殴られると思って、 体が勝手に反応しちゃう」
「じゃあ、それが理由で家出を?」
「違います」
 そう言ったさやかの口調は強かっ た。
「わたしが耐えられなかったのは、お兄ちゃんのことなんです」
 無礼という印象が拭えない、さやかの兄であ る京一の顔を思い浮かべる。
「お兄ちゃん、二年前に家を出たんです。父に何度も言われて。そのとき、わたしを一人に しておけないからって、家に残ろうとしたんです」
「君が、出るように言ったんだ」
「縛るようなことしたくなかっ たんです。……だから、わたしの避難する場所を外に作って、って言ったら、納得してくれました」
 灰を落としてから、 智也は煙草の煙を深く吸う。さやかはさやかで、ほっと息を吐いてから、十代の少女には似つかわしくない自嘲気味な笑みを 浮かべた。
「わたし、言い方を間違えたみたいなんです」
「間違えた?」
「お兄ちゃんは、わたしのための場所 しか作らないんです。たまに泊まりに行くと、それがよくわかります。安心できて、気持ち良くて。だけどあの場所は、わた しのものじゃない」
「誰のもの」
「――お兄ちゃんと、きちんと向き合っていられる人」
「君じゃないんだ」
 さやかは照れたように視線を伏せ、どこか幼く感じられる指先でカップの縁をなぞる。何げない仕草だが、〈妹〉が可 愛い存在だというのは、なんとなくわかった。
「わたしは妹。もう、守られるだけの存在じゃないんです。家を出たのは、 母が嫌だったからじゃなくて、お兄ちゃんに見せたかっただけ。……いつでもこんなふうに、自由に動くことができるって」
 煙草をもみ消した智也は、缶に残っていたビールを飲み干して、心の底から呟いた。
「女は、逞しいね」
「智 也さんも、女は守られるだけの存在だって思ってました?」
 智也はテーブルに片肘をつき、しどけなく笑いかける。自 分を見つめてくる少女に対して、思わず本心を吐露していた。
「おれは、女だけを守るなんて一言も言ってないよ。大事 だとか守りたいとかっていう気持ちは、けっこう対象を選ばない」
「智也さん?」
「――……始末が悪いことにね」
 さやかがココアを飲み干すのを待ってから、カップを取り上げてキッチンに持っていく。背を向けたまま、声を低く抑 えて告げた。
「体が暖かいうちに寝たほうがいい。明日は、学校に行かないといけないだろ」
 智也が胸の内に抱え た〈何か〉を察してくれたのか、さやかは何も言わず、微かな物音を立てて部屋に戻って行く。
 智也はしばらくその場 に立ち尽くしていた。
 しゃべりすぎたと、深く反省しながら。








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