[3]
真昼間から、やけに街中に中・高校生らしい子供たちの姿を見かけるなと思いながら、智也はそっと目を細める。
何が楽
しいのか知らないが、あの年頃の子たちはよく笑う。人目もはばからず、屈託なく。きっと、智也の年代になる頃には忘れてしま
う、楽しい〈何か〉があるのだろう。今からでもいいので、ぜひ、その〈何か〉を取り戻せないかと思う。そうすれば、きっと毎
日は素晴らしくなる――かもしれない。
とりとめなくそんなことを考えていた智也だが、自分が一応、まだ、二十四歳で、
世間では十分若い部類に入ることを思い出し、ガクリと肩を落とす。
「あー、今日は土曜日か……」
学生たちだけでな
く、智也も本来なら、気楽な土曜日を過ごすはずだったのだが、その予定はぶち壊され、こうして堅苦しいスーツ姿で街の片隅に
突っ立っている。
今朝は、営業の人間からの電話で起こされ、プランニングの変更のため得意先のところに行ってい
たのだ。
これから会社に戻り、ついでに夕方まで仕事をするつもりだ。週明けから忙しいので、できるときに雑用は片付け
ておきたい。
だが、その前に、会わなければならない人物がいた。こちらは雑用ではなく、きわめて大事な用だった。
智也はため息をつくと、カタログの詰まったバッグとアジャスターケースを抱え直す。このとき傍らを高校生らしい男女のグループが通
り過ぎ、つい眺めてしまう。勇樹やさやかは今頃何をしているだろうかと、ふと考えていた。
やっと歩き始めた智也は、くしゃくしゃと
髪を掻き上げる。できることなら、このまままっすぐ会社に向かいたいという気持ちがあった。しかし大人の事情から、それがで
きない。
やはり自分は、厄介なことを背負い込んでしまったのだろうなと自嘲しながら智也が入ったのは、駅近くにある、
待ち合わせ場所としては最適の喫茶店だった。
店内は多少混雑していたが、待ち合わせの相手を探してきょろきょろと
する必要はなかった。
智也は、近寄ってきたウェートレスに待ち合わせ相手が先に来ていることを告げながら、窓際のテー
ブルについている、自分と同じくスーツを着た男に視線を向けていた。喫茶店内にいる客たちの中で、その男――萩原京一だけが
浮いているため、嫌でも目につく。
窓から差し込む春の陽射しすら溶かせない、頑ななものが京一の中から透けて見えるよ
うだった。とっつきにくさが全身から滲み出て、他人を拒絶しているようでもある。まるで重要な商談にでも臨むかのような姿勢
のよさすら、威嚇行動のように見えてくる。
自分を強く見せるためではなく、妹を守るために。
もっともこれは、智
也の先入観に因るところが大きいだろう。
「――どうも、お待たせしました」
テーブルに歩み寄った智也は、わずかに
嫌味な響きを忍ばせて声をかける。窓の外の一点を見据えているようだった京一が、ゆっくり見上げてきた。このとき、不愉快そ
うに京一の眉がひそめられたのを、智也は見逃さない。
どんな強烈な言葉を言われるのかと、条件反射のように一瞬身構え
たが、予想に反して京一は、微かに笑みらしきものを浮かべた。
「すまなかった。仕事中に電話をかけるようなことをして」
拍子抜けした智也は、自分の子供じみた先入観と心の狭さを、少しばかり心の中で反省する。よそよそしく、いえ、と応じ
ながら、テーブルの向かいの席についた。
まだ昼を食べていなかったので、サンドイッチとコーヒーを注文する。京一のほ
うは先に終えたのかまだなのか、コーヒーが置かれているだけだ。
ウェートレスが立ち去ってから、さっそく智也は口を開
く。
「……よく、おれの携帯の番号が分かりましたね」
今日、得意先でのプランニングの打ち合わせを終えたあと、携
帯電話にメッセージが残されており、相手が京一だとわかったとき、驚くと同時に、心底嫌な予感がしたのだ。こちらからかけ直して
告げられたのが、この場所での待ち合わせだった。
「俺がさやかに電話して、さやかから君の弟に聞いてもらったんだ」
「そのさやかさんとは?」
「話した。どっちも謝ってばかりで、会話にならなかった」
昨夜、さやかから聞いた話のせ
いなのか、京一に対しての一方的な悪者というイメージは払拭されつつあった。
端然とスーツを着込んだ男は、違和感を覚
えるほど淡々とした声で話す。自分の感情が表に出ることを嫌っているのかもしれない。
「――昨夜の俺は、どうかしてた。
よりによって、あいつに手を上げようとするなんて……」
自分がこのときどんな表情をしたのかわからないが、京一は苦々
しげに唇を歪めた。
「さやかから、聞いたんだろ」
「まあ……」
「そういうことだ。俺はあいつを、もっと傷つける
ところだった」
答えようがなく、智也は沈黙する。その間に注文していたものが運ばれてきた。食べ始めると、程よいタイ
ミングで京一が再び口を開いた。
「できる限り、あいつが楽になれるようにしてたつもりだったけど、ダメだった。家出まで
するぐらいなら、さやかを俺のところに住まわせる。……もっと早くに、無理矢理でもそうするべきだったんだ」
さやかが
何を思って家を出たか、聞いたことをそのまま告げようと思わなくはなかった。だが、唇を動かすまでには至らない。もともと、
お節介な性分でない智也は、他人の家庭の事情に口出しすること自体、できることなら避けたかった。
何より、本当のこと
は、さやかが自分から言うべきだろう。家出してから先、どうするか、さやかが葛藤しながら選択することだ。
智也が食事
を中断しないよう配慮してくれているのか、京一は負担に感じない程度に話を続ける。その内容というのは、自分が妹のためにど
ういったことができるか、というものだ。兄としての義務感というより、京一は本当にさやかを大事にしているのだと、話を聞い
ているだけで真摯な気持ちが伝わってくる。
ただ一方で、融通の利かない兄の想いで、妹を守るというより、囲い込んでい
るようにも感じるのだ。守ってやろうという義務感に燃えているほうは満足かもしれないが、守られているほうのさやかの気持ち
は、いろいろ複雑だ。
その点、自分たち兄弟は単純だと、あまり自慢にもならないことが智也の脳裏を掠めた。
紙ナ
プキンで指先を拭いながら、智也は思いきって切り出した。
「母親には、家出のことはまだ?」
一拍の間を置いて、京
一はため息をつく。〈両親〉ではなく、〈母親〉と言ったことで、智也が言外に込めた意味を理解してくれたらしい。
京一
が頷いた拍子に、頑ななほど落ち着いた表情の下から、苦難と苦痛を抱えた男の本当の顔が覗き見えた。
「さやかから聞いて
わかっただろうが、……みっともない家庭の事情というやつを俺たちは抱えている。みっともない以上に、深刻だな。暴力もだが、
暴言もひどい」
「……母親が、何かの拍子に手を動かしただけで、殴られるんじゃないかと思って身が竦むと言ってました。
殴られるたびに、母親のことを、母親だと思えなくなるとも」
「そんなことまで、君に話したのか――……」
「彼女は、
誰かに聞いてもらいたかったんじゃないですか。適度に距離がある他人に」
京一に話せば、それは今の境遇をどうにかして
くれとせがんでいることと同じだ。少なくとも、京一はそう感じるだろう。だがさやかは、京一に今以上の負担を与えたくはない。
他人の智也が、こんなことまで説明する義理はない。それに、説明するまでもなく京一なら、さやかの気持ちを汲み取れる
はずだ。
深刻そうに何度かため息を洩らした京一は、やっと智也の存在を思い出したようにまた話し始めた。
「さやか
は俺のところに泊まると言っておいたらしい。俺も、何とか話は合わせている。ばれたら――」
智也はその続きを言わせな
かった。
「もう少し、さやかさんのことを預かろうと思うんですが」
驚いたように京一が目を見開き、テーブルに身を
乗り出してきた。
「どうしてっ……」
「彼女の好きにさせてやりたいんです。そちらの家族の葛藤ってものがどんなもの
か、他人のおれは分かりません。だけど、彼女が何かを選んで、行動を起こしたのは、わかります。危なっかしいし、それが正し
いのか、おれには判断できないけど、尊重してあげたいんです」
彼女の意志を、と智也が言うと、京一の表情に険しさが宿
り、鋭い眼差しを向けられた。
「――君は他人だ」
「だけど彼女は、うちに来た。兄であるあなたの元じゃなく」
わざと京一の神経を逆撫でるようなことを言ってしまったのは、睨みつけてくることへの意趣返しだ。
やはり、この男とは
少々相性が悪いかもしれないと、智也は内心で呟く。京一の顔を見ていると、相手も自分と同じことを考えているのが手に取るよ
うにわかる。兄同士、何かを共感し合えるという幻想は、早々に捨ててしまうに限るだろう。
良い意味でも悪い意味でも、
京一に対する緊張の糸が緩んでしまっていた。
智也は、失礼、と一言声をかけて煙草に火をつける。京一も我慢していたの
か、同じく煙草を咥えた。
「――……さやかに、何かないだろうな」
「何かって何です」
わざととぼけて言うと、
さらに京一に睨みつけられた。智也は唇だけで笑いながら髪を掻き上げる。
「大丈夫ですよ。うちの弟は管理するし、彼女だ
ってけっこう気が強いから、ぶん殴るなりするでしょう。まあ、そんな事態になるようなことは、絶対させませんけど」
「だ
けど――」
「あなたが思っているより、彼女は強いですよ」
智也はふっと煙を吐き出す。この瞬間、心に芽生えたのは、
自分でも意外な感情だった。
さやかに対して親近感を覚えると同時に、羨望にも似た感情があった。あの強さとしなやかさ
は、どう足掻いても智也には手に入らないものだ。少なくとも智也は、なんとかしなければという気持ちに背を押され、一歩を踏
み出したことはない。それを、弟と同い年の少女はやってのけてしまったのだ。
遠くに向けていた視線を京一に戻すと、な
ぜか目が合った。京一はじっと智也を見つめていたらしい。
「余計なお節介だが――、疲れてるんじゃないか」
意外な
言葉が投げかけられ、智也はわずかに目を丸くしてみせた。
「誰がです」
「君だ。男二人の生活に、いきなり女子高生が
入り込んできたんだ。……顔色が少し悪い。表情も暗い」
どうやら京一は、心配してくれているらしい。そうとわかって智
也は思わず吹き出してしまった。
「――萩原さん」
「なんだ」
「あなた、世話好きのうえに苦労性だ。早くハゲます
よ」
心外だと言わんばかりに、京一は顔を窓のほうに向ける。
春の陽射しを受けた京一の横顔が思いがけず魅力的に
見え、智也はテーブルに頬杖をつき、つい見入っていた。
自分では実感していなかったが、どうやら身体的にも精神的にも疲れていたらしい。
うつ伏せの姿勢で目を覚ました智也
は、仕事の疲れがまったく取れていないのを知った。しかも眠りが浅かったらしく、心なしか頭も重い。
ベッドから身を乗
り出し、床に敷いた布団に勇樹の姿がないのを確認する。さやかも起きているらしく、壁一枚隔てたダイニングからは話し声と物
音が聞こえてくる。
テレビの音とは違い、人の話し声というのは、聞いているとなんだか安心する。智也は枕にグリグリと
頭を押し付けながら、昨日の京一の言葉を思い返していた。
顔立ちはさやかと似ているが、唯一まったく似ていない京一の
鋭い目は、見たまま、いい観察力をしているようだ。もっとも、智也が疲れている最大の理由は、さやかのことではない。
もう一度眠るのは諦めて、部屋を出る。ダイニングでは、すでに着替えを終えた勇樹とさやかが、出かける準備をしていた。
立ち尽くしている智也に気づき、さやかが挨拶をしてくる。それで勇樹もこちらを見た。
「あれっ、起きたのか」
「起
きて悪かったか」
機嫌が悪いと言いたげに、勇樹が肩を竦める。朝から弟と、些細なことで言い争う気力もない智也は、さ
っさと顔を洗ってきてからイスに腰掛ける。すかさずさやかが、コーヒーを入れてくれた。
礼を言った智也は、妙に張り切
っている二人を交互に見てから尋ねた。
「どこか行くのか」
「何人かで遊びに行くんだよ。萩原も。まあ、いい気分転換
ってとこ」
「お前は毎日気楽そうなんだから、気分転換なんて必要ないんじゃないか」
ニヤリと笑った勇樹から、思い
がけない反撃を受けた。
「兄貴のほうも、少しは気分転換したほうがいいぜ。夜中によく唸ってるから」
コーヒーにミ
ルクを入れて掻き混ぜていた智也は思わず手を止めたが、咄嗟に言葉が出ない。すると勇樹が憎たらしくもこう言った。
「ウ
・ソ」
いろいろと言いたいことはあったが、智也はぐっと呑み込んで、カップに口をつける。勇樹の隣では、さやかが声を
洩らして笑っていた。
さやかには、昨夜のうちに京一との間で話したことは伝えてある。もう少しこの家で過ごさないかと
言ったとき、さやかは驚いた表情の後、怖々と頷いた。
どうして智也がそんなことを言い出したのか、理由は問われなかっ
た。問われたとしても、智也には答えられなかっただろう。心のあちこちに小さな波が起こり、予想外に大きな波を引き起こすこ
とがある。今の智也はまさにそんな状態で、自分の心の動きに翻弄されている。
新聞を読んでいると、勇樹とさやかの会話
が耳に入る。内容は、今日どこに行くかということだ。行き先も決めないまま、はしゃいでいたらしい。
そういえば、と思
う。ここのところ智也は、仕事以外で誰かと外を出歩いたことがない。得意先や同僚たちから声をかけられることもあるが、面倒
だという意識が先に働いてしまうのだ。
「――兄貴、今日はどこも行かないのか」
バッグを肩からかけながら勇樹に問
われる。寝乱れたままの髪を撫でながら、智也は少し考えた。
「そうだな、久しぶりにどこか行くか……」
「一人で」
「お前は一言多い。さっさと行け」
さやかと一緒に玄関に向かいながら、勇樹がさらにこう言った。
「夕方には戻
って来いよ。今日は萩原と俺でメシ作るから」
「滅多なこと言うなよ。大雨降るぞ」
楽しそうな笑い声が、玄関のドア
が閉まる音とともに消える。つい今しがたまでにぎやかだった室内が急に静まり帰り、何となく息苦しさを覚えた智也はダイニン
グのテレビをつけた。
勇樹には適当なことを言ったものの、実際今日は、一人で部屋にいたい気分ではなかった。勇樹とさ
やかの楽しそうな姿を見せられたら、なおさらだ。
映画でも観に行くかと、コーヒーを飲み干してから智也は立ち上がった。
一人で映画を観た後、自分の買い物を済ませた智也は、車に乗り込みながらふと、今頃辻は部屋で何をしているだろうかと思っ
た。そろそろ部屋のものを片づけなくてはならない頃だが、あののんびりした辻のことだ。まだ何もしていないかもしれない。
そう考えたときには、帰ろうとしていた智也の次の行き先は決まっていた。
車を運転しながら、内心で苦笑する。他
人の世話好きのことなど言えない。智也自身の世話好きも、かなりのものだった。かつて思っていた相手に、今でも苦しさを抱え
たまま、それでも世話を焼いてしまう。
通い慣れた道を走り、辻のアパートの前に着く。すでに夕方も近いので、まだ眠っ
ているということはないはずだった。
一階の辻の部屋の前に来ると、通路側の窓から見る限りでは電気はついていなかった。
チャイムを鳴らしても応答はない。このとき智也は深く考えず、外出しているのだと考えた。
大した用があったわけでもな
いので、待つことなく引き返す。少しばかり、残念な気持ちを引きずりながら。
荷物を手に、部屋に帰った智也がドアを開
けると、いつにも増してにぎやかな話し声が聞こえてきた。玄関に並んだ靴を見ると、勇樹やさやかの靴の他に、もう一足靴があ
った。同時に、耳に馴染んだ柔らかな笑い声も耳に届く。
誰が訪れているのか、ほぼ確信して智也は慌てて靴を脱ぐ。ダイ
ニングに駆け込むと、思った通り、テーブルには勇樹と一緒に辻の姿があった。さやかはキッチンに立って野菜を切っている。
「……何してるんだ、お前……」
こう言うしかなかった。辻は目を細めて智也を見上げてくる。
「勇樹くんに電話
もらって、夕飯一緒に食べようって誘われたんだ」
「次の日曜だと忙しいかと思ってさ、今日誘ったんだよ。ちょうど萩原も
いるし」
それでようやく、なぜ今日に限って勇樹が夕飯を作ると言い出したのか理解した。最初からこのつもりだったのだ。
まったく気づかなかったとはいえ、のこのこと辻の部屋まで出かけていった自分が恥ずかしくなってくる。もちろん、辻の
部屋まで行ったなどとは、この場の誰にも言わない。
勇樹も立ち上がって準備を始めたので、智也は荷物を置いて辻の相手
をする。
「――びっくりした?」
無邪気に辻が聞いてくる。智也は笑って応じる気にもなれず、不機嫌な表情を作りな
がら煙草を取り出す。
「おれを驚かしてどうする」
「僕はびっくりしたよ。急に部屋に、勇樹くんと萩原さんが来たんだ
から」
自分も部屋に行ったのだとは、ますます言えなかった。智也はキッチンに視線を向け、勇樹に問いかけた。
「わ
ざわざ行ったのか?」
「お客を迎えに行ったんだよ。帰りに、辻さんの食べたいもの聞いて、買い物しなきゃいけないしさ」
そうか、と洩らして、改めて辻の顔を見る。
「リクエストは?」
「鍋。僕一人だとなかなか作ろうって気にならな
いから。だからこういう機会に食べておきたいなと思って」
辻の幸せそうな笑みを眺めてから、智也は煙草を咥えたまま立
ち上がり、鍋やコンロを出してテーブルの上に置いていく。その一方で見た勇樹とさやかは、キッチンのほうで楽しげにやってい
た。
「あの二人、恋人同士?」
服の袖がくんっと引っ張られ、何事かと腰を屈めた智也に、耳打ちするように辻が囁い
てくる。肌をくすぐるような感触につい過剰に反応してしまい、誤魔化すように曖昧に首を振った。
「勇樹の言葉じゃ、ただ
の友達らしい」
「そうなんだ。でも――、いい感じだよね」
智也は顔をしかめつつ、キッチンにいる二人を一瞥する。
楽しそうだとは思うが、そこから〈いい感じ〉を嗅ぎ取るのは、智也には無理だった。
「……そうか? おれはよく分からん。
恋愛事には興味がないからな」
「智也って高校のときからそうだよね。モテるくせに、誰ともつきあわなかった」
嫌な
話題になったと困惑する。智也が過去に持っていた恋愛感情を、辻は知らないのだから仕方ないが、できることなら恋愛方面の話
題に触れてもらいたくなかった。
間が悪いことに、辻の言葉を聞きつけた勇樹が側に寄ってきた。
「うそっ。兄貴って
モテたの?」
「モテたよ。かっこういいし、ちょっと冷めてるようなとこもあったから、そこが大人びて見えてたらしくて、
女の子からよく呼び出されてた」
「俺、知らないんだよなあ。その頃の兄貴の生活って。寮に入ってたろ? でも……、なる
ほど。充実した学園生活だったんだ」
自分のことをこんなふうに話されると、傍らで聞いていて逃げ出したい気持ちになっ
てくる。照れ隠しというわけではないが、智也は勇樹の頭を軽く殴りつけてやった。だいたい、勇樹が変な質問をするから悪い。
「いてーな。見た目良くても、性格悪いからダメだよ。兄貴は」
「そんなことないよ。君は弟だから、いつも一緒にいて
わからないだろうけど」
辻の言葉に、この場にいて誰よりも共感しているのは、きっと自分だろうと思うと、ズキリと智也
の胸は痛んだ。
智也の高校時代の話題で盛り上がっている勇樹と辻に目を向けつつ、自分の世界に浸ってしまった智也だが、
ふいに辻に顔を指さされる。
「――灰」
「えっ?」
「だから、灰落ちそう」
「ああ…」
煙草の灰を灰皿に
落とす。二人の話題が変わってくれないだろうかと願っていると、智也の願いに応えるようにインターホンが鳴らされた。
「誰か来た」
煙草を消し、救われたような思いでインターホンに出た智也は、相手が誰かわかり、慌てて玄関に行く。
ドアを開けた目の前には、京一が立っていた。
「どうも……」
智也を相手に、どういう表情をすればいいのかわから
ないらしい。京一がぎこちなく頭を下げる。しかしそれは智也も同じことだ。呆気にとられながらも、反射的に京一の動作に倣っ
ていた。
「これ」
ぶっきらぼうに突き出されたものを戸惑いながら受け取る。箱からして、どうやらケーキが入ってい
るようだ。
訝しみながら智也が、京一と箱を交互に見ると、居心地悪そうに顔をしかめながら京一が言った。
「さやか
が好きなんだ。だけど、一つだけ買ってくるわけにもいかないから――……」
ハンサムである一方、およそ甘そうなものが
似合わない雰囲気を漂わせた男が、どんな顔をしてこのケーキを買ってきたのか。想像した智也は、本人を前にして笑い出してし
まう。非常に可愛らしく、微笑ましい光景が頭に浮かんだのだから仕方ない。
当然、京一は眉をひそめて不快そうだ。智也
は苦労して表情を取り繕う。
「……失礼しました。ところで、今日はなんのご用です」
「なんのご用じゃない。さやかか
ら、みんなでメシを食うから来いと誘われたんだ」
京一の言葉に、思わず後ろを振り返る。ダイニングのほうから、こちら
の様子をうかがうように、勇樹とさやかが顔を出していた。なぜか少し遅れて、辻も。
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