[14]
「――あっ、帰ってたんですね」
自分の部屋でぼんやりとテレビを観ていると、突然、背後から声をかけられた。
智
也は、唇に挟んでいた煙草を落としそうになりながら振り返る。開けたままにしておいたドアのところに、制服姿のさやかが立っ
ていた。
智也は思わず、今の時間を確認する。まだ昼を少し過ぎたぐらいだ。
「……早いね……」
「やだなあ、今
日は学校休みですよ。制服を着ているのは、図書館に行ってたからです」
わかってはいたのだが、さやかの顔を見て動揺し
てしまう。つい数時間前まで、目の前の少女の兄と一緒だったのだ。さやかにしても、智也が昨夜帰って来なかった理由は察して
いるはずだ。これで、動揺するなというほうが無理だった。
「勇樹は?」
テレビのほうに顔を戻しながら尋ねる。邪気
のない声が返ってきた。
「友達と、カラオケ行くって言ってました」
「じゃあ君は、昼はまだだ」
「智也さんも?」
「うん」
「だったらわたし、何か作りますね。ちょっと待っててくださいね。着替えてきます」
テレビを消した智
也は、まいったな、と心の中で呟く。あそこまで自然な態度を取られると、かえって何もかもが切り出しにくい。
着替えた
さやかがキッチンで昼食の準備を始めたのを見計らってから、智也も部屋を出る。テーブルについて煙草を吸いながら、いつさや
かに声をかけようかと迷っていたが、先手を取られた。
「――お兄ちゃんのところ、わたしの荷物でいっぱいだったでしょ?」
さやかがちらりと横顔を見せて笑い、智也は目を見開く。京一の話では、さやかにはまだ、実家から荷物を運び出したこと
は告げていないはずなのだ。
「どうして、それを知って……」
「わたし今日、家に寄ったんです」
話しながらもさ
やかは手を動かし、その度に肩で髪が揺れる。さやかの話に集中したくて、智也は煙草を消した。
「荷物、整理しておこうか
なと思って。そうしたらわたしの部屋、ほとんど何もなくて……。母たちに捨てられたと思ったんだけど、その母が、お兄ちゃん
が持っていったって言ったんです」
座ったままだとなんだか間が持たなくて、智也は二人分の皿を食器棚から取り出す。す
ると、さやかが控えめに問いかけてきた。
「智也さん、わたし、間違ってなかったですよね?」
「そういうことはさ、他
人じゃなくて、自分で決めることだと思うよ。君が間違ってないと思ってるなら、それが答えだ。だいたいおれは、人のこと言え
るほど自分のことをすっぱり決めてたわけじゃないから」
さんざん悩んで迷って不安になりながら、それでもどうにか、こ
こにいる。それは多分、さやかも同じだ。
「……自分で自分のことを決めるのって、難しいですね」
「だからこそ、価値
があるのかも」
「うん、そうだと思います」
さやかが笑ってくれたことに、智也は内心でほっとする。
スパゲッ
ティが出来上がると、二人は向き合う形でテーブルにつき、食べ始める。
「家に帰って、何か言われた?」
「言いたそう
な顔はしてたけど、結局何も言われませんでした。母の理解できない存在になったのかもしれないですね、わたしが。だから、何
を言ったらいいのかわからなかったのかも」
「ちゃんと君のことを見ようとしてる証拠かもしれない。わからないから、理解
しようとするんだし」
「優しいですね、智也さん。あんな失礼なこと言われたのに」
からかうように言ったさやかが、
フォークを置いてわずかに身を乗り出してきた。上目遣いの目から、純粋な好奇心がありありと見て取れる。
智也は身構え
つつ、ぎこちなく笑いかけた。
「何?」
「――智也さんはお兄ちゃんのこと、何かわかって、理解できましたか?」
ピタリと動きを止めたの智也の顔が、瞬く間に熱くなっていく。自分では感情をあまり表に出すタイプではないと思っていたが、
京一やさやかと知り合ったことで、どうやらその認識をは改めなければならないようだ。
「あの、ね……、今はおれのことじ
ゃなくて、君のことを――」
「これから智也さん、わたしが知ってる以上に、お兄ちゃんのこと知っていくんですよね。お兄
ちゃんも、わたしが知りたかった智也さんのことをたくさん知っていく。……どっちも羨ましいし、どっちにも嫉妬しちゃう」
素直だな、と思いながら、智也は目を細める。すると子供扱いされたとでも思ったらしい。軽く睨んできたさやかが、フォ
ークにぐるぐるとスパゲッティを巻きつける。智也もフォークを動かしながら、聞いてみた。
「勇樹と、そんなこと話すこと
ある?」
「ダメ。勇樹と話すと、すぐ下ネタいっちゃうから」
何とも勇樹らしい。おそらく本人は、照れ隠しのつもり
なのだ。
砕けた口調で応じるさやかを、優しい気持ちで見つめながら智也は言う。
「いつか君にもできるよ」
「好
きな人?」
「そう。一緒にいる空気が気持ちいいとか、離れたくないとか。もっとダイレクトに言うと、相手に触れたいとか、
触れてもらいたいとか……。たった一人に対して、いろんなこと考えるようになる。その気持ちは、君を支えてくれるよ」
さやかは深々とため息をついて、しみじみとした様子で言った。
「恋愛って気持ちよさそう。智也さんの話聞いてると」
「……すごい表現だな」
応じながら智也は、さやかはもう大丈夫だと確信する。根拠はなかったが、何かを探し始めようと
している気配が感じられ、それは前向きさに繋がっている。今のさやかにはそれだけで十分だ。
「――とりあえず、お兄さん
のところに戻ってみる?」
「そうですね。自分が何をしたいのか、やっと考えられそうから……。あんまりお兄ちゃに心配か
けて、今よりもっと怖い顔になったら困りますし」
頷いたさやかは、ようやく楽になったように穏やかな表情を浮かべた。
夕方になって戻ってきた勇樹に、さやかはすぐには、京一の元に戻ることを告げなかった。智也は何も言わず、ただ見守ること
にする。
夕飯後、勇樹が風呂に入っている間に、先に入浴を済ませたさやかは京一に電話をかけ、明日迎えに来てもらえる
よう伝えている。兄妹の話が終わってから受話器を差し出されたが、智也は慌てて断った。
「わたしのことは気にしなくて良
かったんですよ」
電話を切ってからのさやかの言葉に、苦笑してしまう。自分と京一の関係を知っても自然体でいてくれる
のはありがたいが、あまりオープンなのも困りものだ。
「気をつかってくれなくていいよ。君のお兄さんとは、好きなときに
電話して、会いたいときに会うから」
ちょうどそこに勇樹がやってくる。相変わらず風呂上がりはスウェットパンツに、上
半身は裸だ。昼間、さやかと交わした会話が会話だけに、智也は大股で歩み寄って勇樹の頭を叩いた。
「いてっ」
「さっ
さと上着ろ」
ブツブツ言いながらも、智也の部屋にシャツを取りに入った勇樹のあとを、パジャマの上から上着を羽織った
さやかがついて行く。智也はイスに腰掛けたまま動かなくても、ドアが開いているため、二人の会話はよく聞こえた。
「――
勇樹」
「なんだよ。俺のストリップ見たいのか?」
「……バカ。あんたの裸なんか、見たくないわよ」
自分の弟な
がら、緊張感のなさに呆れる。それでもさやかの異変は察したようだった。
「どうかしたのか?」
「んー、明日、お兄ち
ゃんのところに戻ろうかと思って……」
「何かあったのか」
「どうして?」
「急にそんなこと言い出すから」
勇樹の声が突然、真剣味を帯びる。智也は耳を傾けながらライターを手の中で弄ぶ。
「いつまでも、ここにいるわけにいかな
いでしょ」
「いればいい。兄貴だって、迷惑がってなんかいないんだから」
数瞬、間があった。
「――ダメよ。決
めたんだから」
素っ気ないほどのさやかの言葉の数秒後に、荒々しい足音が部屋を飛び出し、智也の背後でピタリと止まっ
た。振り返ると、唇を引き結んだ勇樹が立っていた。
「どうした」
「兄貴が帰れって言ったのか」
勇樹を見上げな
がら答えようとすると、部屋から出てきたさやかが先に口を開いた。
「わたしが帰りたくなったの。それだけ。だいたいここ
は、勇樹と智也さんの家でしょ。わたしはただの居候」
黙り込んだ勇樹の顔は、今は妙に幼く見える。そして、その幼さに
相応しく、ふてくされた様子で智也の部屋に入り、乱暴にドアを閉めてしまった。さやかと二人でその様子を眺めてから、智也は
髪をかき上げる。
「……ガキだねえ」
「そこが勇樹のいいところなんですけど」
勇樹の兄として礼を言うべきだろ
うかと、一瞬本気で智也は考えてしまった。
さやかと目が合い、こう問いかける。
「つらくない?」
「平気です。
いつだって会えるし、勇樹との関係が変わるわけじゃないし。感覚としては、ちょっと長い野外活動が終わった感じです」
「実りが多い野外活動だったら嬉しいけど」
智也の言葉に、さやかはにっこりと笑った。どんな言葉をかけられるより、そ
の表情が何よりも智也には嬉しかった。
すっきりしているさやかとは違い、勇樹はふて寝を決め込んでいた。
ベッドの上に座り込んだ智也はじっと、布団からわ
ずかに出ている勇樹の頭を見下ろす。まだ眠っていないのは、ときおり体がもぞもぞと動くのでわかっていた。
勇樹のほう
も智也の視線は感じているようで、しばらくしてこう言った。
「さっさと電気消せよっ」
「いつ寝ようと、おれの勝手だ」
そう答えた途端、飛び起きた勇樹が電気のスイッチを乱暴に消してしまう。
「――ガキ」
「うるせーよ」
電
気をつけに行くのも面倒なので、枕元に置いてあった煙草に火をつける。一瞬だけ室内がぼんやり照らし出され、そのとき勇樹の
様子が見えたが、布団に包まりながら天井を見上げていた。
智也は、煙草の先の小さな火に視線を向ける。
「不謹慎だ
けど、彼女と生活してて、楽しかったな」
ぽつりと洩らした言葉に応えるように、勇樹が身じろいだ気配がする。
「い
ろいろあったけど、最初の日に追い返さなくて良かった」
「……萩原は、いい奴だろ?」
「ああ。お前が特別だって言い
切るのもわかる」
だが、さやかが特別だというわけではない。おそらくきっと、誰もがあんなふうに必死で、誰かの目を魅
きつけるのだ。
「あいつはすごいよ。なのに俺は、ガキだ」
「さっきからそう言ってるだろ」
体を前屈みにして、
ベッドの足元に置いてある灰皿を取ろうとする。そのとき、勇樹に手首を掴まれた。暗闇に慣れた目に、真剣な勇樹の顔が入る。
「あいつが帰るって言ったとき、俺……あいつに置いて行かれると思った。あいつは、俺なんかが遭遇もしてない問題を抱え
て、だけどその問題を受け止めて、自分がとうするべきなのか、選んだ。それを素直にすごいと思うけど、一方で……悔しい。だ
から、引き留めたかった」
手を離してくれないので、仕方なく智也はベッドから下り、布団の上に座り込む。煙草の煙を吐
き出してから、できることなら秘めておきたかったことを、弟のために告白した。
「そんなこと……、おれは辻と一緒にいる
間、ずっと思ってた。大事なんだけど、憎くて嫉妬して」
「萩原兄のおかげ、か?」
「それもあるけど、辻の奴が言った
んだ。いつもおれに置いていかれてたって。――そんなもんだろ。自分が感じてる距離なんてのは。あてにならない」
智也
は自分自身の言葉を噛み締める。すると、手首を掴んでいる力がふっと抜けた。
「なんか兄貴、変わったな。無理しなくなっ
てる」
「人間、そう簡単に変わるわけないだろ」
「本人だけだな、そんなふうに言うのは。周りは絶対、俺みたいに思っ
てるぜ」
煙草の灰を落としながら、少しだけ考えてみた。弟の意見に頷くのは抵抗があるが、この部分だけは、変わったこ
とを認めざるをえなかった。
「他人は他人、おれはおれ、だな。いちいち人の歩く速さに合わせてたら、疲れる」
「ただ
でさえ体力ないもんな。まあ、あの人なら、少し先に行っても待ってくれるんじゃねーの?」
『あの人』とはもちろん、京一
のことだ。智也は慌てて煙草を消してベッドに戻る。すると勇樹が抗議の声を上げた。
「ひでー。自分のことになったら逃げ
るのかよ」
「うるさい。さっさと寝ろ」
「やっぱ変わってないわ。その横暴なとこ」
聞こえない振りをして、智也
は横になる。少しの間、智也のパジャマの端を引っ張るなどしていた勇樹も、飽きたのか眠くなったのか、布団に潜り込んでおと
なしくなった。
嵐のようだった三週間と少しの日々を、布団の中で振り返る。丹念に一つ一つの出来事をたどっているうち
に、いつしか智也は眠っていた。
すっかり準備を整えたさやかが、荷物をダイニングに持ってくる。バッグと学校の鞄などだが、さすがに初めてここに来たとき
よりも荷物は少し増えたようだ。
この光景を見ると、帰るのだな、という意識より、さやかが言っていた通り、終わったの
だということを強く感じさせられる。
「忘れものは?」
「ないです」
よく眠れた様子のさやかが、智也を見上げて
笑みを浮かべる。この笑顔は無敵だと、微笑み返しながら智也は思う。
時計を見てから、京一が訪れる十時が近いのを確認
する。智也としては、さやかが帰るのは午後になってからでもよかったのだが、明日からの生活を考えると、萩原兄妹としてはそ
うもいかないのだろう。
自分の部屋にふらりと入っていった勇樹が、すぐに、服らしきものを持って出てきた。
「おい、
萩原、忘れもの」
「何?」
「お前の色気のないパジャマ」
「バカっ」
勇樹の手からパジャマを引ったくり、さ
やかが紙袋の中に突っ込む。
「……しっかりしてるようで抜けてるな、お前」
「抜けっぱなしのあんたに言われたくない
わよ」
昨夜、複雑な心中を告白した勇樹だが、今朝はごく自然な態度でさやかと接している。その様子を見て智也は安心し
ていた。
「あっ、そうだ、何か飲む?」
智也の提案に、パッとさやかが手を上げる。
「わたし、ココアがいいです」
「だったら俺も」
リクエストに応えて、智也はココアを入れてから、テーブルについた二人に出す。智也も立ったまま
ココアを啜った。
部屋が、心地良い静けさに包まれる。
さやかの唇から吐息が洩れたのを聞いたとき、待っていたよ
うなタイミングのよさでインターホンが鳴った。途端に、勇樹とさやかが一斉にこちらを見る。
二人の視線の意味が嫌とい
うほど智也にはわかっているので、カップを置いて玄関に行く。
ドアを開けると、京一が立っていた。数瞬、言葉もなく互
いの顔を見つめ合いながら、智也は不思議な感覚に囚われる。今目の前にいるのは、自分がどうしようもなく好きな人なのだと、
頭ではなく、感覚で実感していた。
「……どうも……」
「ああ」
素っ気なく交わされた挨拶だが、それを補えるだ
けの優しい眼差しを京一から向けられ、智也も同じものを返す。
中に招き入れてさやかと対面させると、京一は穏やかに笑
いかけた。
「――準備、できたか」
「うん」
「いいんだな」
しっかりとさやかが頷く。智也は二人の会話を聞
きながらコーヒーを入れ、イスに腰掛けた京一の前にカップを置く。
智也が座ると、向かい合っている京一が静かに頭を下
げた。
「さやかをいままで預かってくれて、ありがとう」
「やめてくださいっ……。それ以上頭下げたら、殴りますよ」
うろたえながら智也が応じると、頭を上げた京一はわずかに目を細めていた。
「相変わらずだな、君は」
「なんの
ことです」
勇樹やさやかの手前もあってとぼけると、苦笑した男はそれ以上は言ってこない。コーヒーを一口、二口飲んで
から、腕時計を見た京一は立ち上がった。
「悪いが、昼からすぐに仕事に出ないといけない」
肘をついて京一を見上げ
た勇樹が口を開く。
「もう少し、ゆっくりしてけばいいのに。兄貴の顔は見飽きないでしょ」
突然何を言い出すのかと、
智也は横目で勇樹を睨みつける。勇樹のほうは京一の反応を楽しむつもりなのか、多少、意地の悪い表情をしている。しかし、さ
すがに大人の余裕と言うべきか、京一は悠然として答えた。
「初めて俺に、直接声をかけてきてくれたな。君のお兄さんを取
ったから、嫌われてるのかと思っていた」
勇樹が絶句し、さやかが顔を伏せて笑う。智也は内心の動揺を必死の思いで隠し、
何事もなかったように立ち上がる。
「……さすが萩原の兄貴だ。まあ、あんな性格でなきゃ――」
さやかを見送るため
玄関に向かっていると、小声で勇樹が呟く。意味深な視線をこちらに向けてきたので、先を歩く二人に気づかれないよう、智也は
勇樹の頬をつねり上げる。
京一がバッグを手に、先に玄関を出る。何を思ったのか、さやかは次に勇樹を外に出してしまう。
ドアが閉まって玄関に二人きりになると、さやかは靴を履いてから智也に頭を下げた。
「お世話になりました」
「あの人といい、君といい……、怒るよ」
「だって、お世話になったのは本当ですから」
自分のサンダルをひっかけた
ところで、さやかが間近に顔を寄せてくる。身構えそうになったが、憎めない笑みを向けられて毒気を抜かれる。
「何?」
「わたし将来、勇樹と結婚しようかな」
あまりに軽く言われたので、智也は即座には言葉の意味を理解できなかった。
「はあ……?」
「だって、そうしたら、もれなく智也さんがついてくるでしょ」
「もれなく……。景品みたいだな」
「近くで見てたいなあ。お兄ちゃんと智也さんのこと。勇樹と一緒にいても、飽きることはないだろうし……」
他人事
のようにおもしろいと感じる反面、困惑する。智也の気持ちを読み取ったように、すかさずさやかは智也に背を向け、ドアを開け
た。
「……そう、困った顔しないでください。冗談なんですから。わたしはちゃんと、自分の恋愛をします。智也さんが言っ
てたみたいな、気持ちいい恋愛」
すでに京一と勇樹の姿は見えない。先に車に行ったようだ。おかげで会話を聞かれなくて
済む。
「君のお兄さんにそんなこと言わないでくれよ。うちの妹に余計なこと吹き込むなって怒られる」
「もうお兄ちゃ
ん、そんなこと言わないですよ。きっと」
一緒に階段を下りると、マンションの前に車が停まっている。京一は運転席で、
勇樹は車の傍らに立って二人のことを待っていた。
さやかの背を軽く押して促すと、小走りで駆けて助手席側に回り込む。
車に乗ろうとしたさやかだが、思い出したように智也のほうを見る。
「また来ていいですかっ?」
大きな声での問いか
けに、勇樹と顔を見合わせてから答える。
「――もちろん」
さやかが車に乗り込むのを待ってから、京一がエンジンを
かける。一度だけ目が合ったが、すぐに車は走り出した。
走り去る車を、智也は勇樹と見送る。
「慌ただしいなあ……」
「仕方ないだろ。萩原さん、仕事だって言うし」
車が見えなくなってから部屋に戻ろうとすると、まだ立ち尽くし、車
が走り去ったほうを見ていた勇樹に声をかけられた。
「萩原と二人で、何話してたんだ」
いつもは生意気な弟が、今日
はやけに可愛く思え、兄としてはついからかってみたくなる。
「気になるか?」
「意地悪いぞ」
「秘密だ、秘密。彼
女が将来どうなるか、おれなりの楽しみを残しておくんだ」
「親父みたいな発言だな」
思わず声を上げて笑うと、そん
な智也の肩に手をかけ、勇樹が隣に並ぶ。そのまま肩に頭がのせられた。
「――……萩原兄の言葉は、けっこう効いたな……」
勇樹がどんな表情をしてこんなことを言ったのか、智也が顔を覗き込もうとしたときには、パッと体を離して逃げられた。
軽い足取りで階段を駆け上がり、途中で智也を振り返った。真剣な表情が智也を見下ろしてくる。
「……もう、大丈夫だよな
?」
それがさやかのことを指しているのか、智也のことを指しているのか、判断できなかった。それでも智也は深く頷く。
「ああ」
智也も跳ねるように軽い足取りで、階段を上がり始めた。
風が吹き、男のコートの裾をふわりと揺らす。
足を止めた智也は少しの間だけ、誰とも見間違いようのない京一の後ろ姿
を眺める。すると、智也の視線に気づいたように、ゆっくりと京一が振り返った。口元が綻んだのが、どんな言葉をかけられるよ
りも嬉しい。
「お待たせしました」
智也は駆け寄り、視線を交わし合ってから、緩やかな歩調で歩き出す。
さや
かが京一の元に戻ってから数日後、智也のほうから京一に連絡をした。会いたいと。さやかの様子が知りたかったこともあるが、
智也自身、ただ単純に京一の顔が見たかったこともある。
昼下がりの自然公園は、相変わらず静かだった。いくらか花をつ
けた桜の木を見上げながら、智也は髪をかき上げる。
「――彼からは、電話か何か来るのか」
智也は視線を桜の木から、
京一の横顔へと移す。
「彼っていうのは、辻のことですか?」
「他に誰がいるんだ」
「それもそうですね」
辻
は忙しいらしく、電話は夜更けに一度かかってきて以来、メールすらない。智也としては、それでいいと思っている。ずっと目を
背け続けていた、辻は辻としての世界を持っていることを、受け入れ、認めることができたのだから。
脱いだジャケットを
腕にかけ、智也は答えた。
「辻は忙しいみたいで、さっぱり。まあ、月に一回ぐらい連絡が取れたら、それでいいです。生き
てる証拠にはなりますから」
「ずいぶんまた……、あっさりしてるな」
「未練たっぷりにしてたほうがよかったですか?」
「それは困る」
即答され、一瞬呆気に取られた智也は、次の瞬間には噴き出してしまう。京一は居心地悪そうに顔をし
かめた。
「君は笑うけど、俺は本気で――」
智也は表情を改め、京一を見上げる。
「おれも本気ですよ。まっすぐ、
あなたを見てるつもりです」
まいったな、という京一の低い呟きが聞こえ、肩に腕が回されてすぐに離れる。何度も抱き合
った感触が、たったそれだけの行為で鮮明に思い出された。
京一のほうは何を思い出したのか、まだ顔をしかめている。
「さやかが、よく俺のことをからかうんだ」
「なんといって?」
「俺が小言を言うと、君に報告するって……」
容易に兄妹のやり取りが想像できて、智也は微笑ましく感じる。
「兄と妹、仲良くてけっこうじゃないですか。彼女のほう
は、元気そうですね」
「……明るくなったような気がする。前から明るかったが、俺としてはどうも、無理してるという感じ
がしてたんだ。だけど今は、あいつなりに毎日を楽しもうとしてるみたいだ」
楽しいのなら、それでいい。京一と一緒に暮
すことがいいとか悪いとか、そんな判断を最終的に下すのはさやか自身だ。だから智也として言えるのは、今を楽しんでほしいと
いうことだけだ。
「――……電話が、かかってくるんだ。出ると何も言わずに切れる」
「あなたたちの実家から……、で
すよね?」
「ああ。どういう意図かはわからんがな」
「心配なんですよ、きっと。だけど、何を言えばいいのかわからな
い」
京一も同じ考えらしく、軽く頷いた。
「さやかが言ったよ。あの人たちが何か言うまで、自分からは何も言わない
と。そう、決めたみたいだ。……俺はあいつに任せる。あいつのほうが、俺より賢明な判断を下せそうだしな」
「いろんなこ
とを、決めなきゃいけないんですよね。彼女や、もちろん勇樹も。おれたちがしてきたみたいに」
「ああ」
ふと、京一
が足を止めて頭を振る。
「どうも俺たちは、若さがないな……。すぐに自分たち以外のことで語り合う」
「そうですね。
じゃあ、おれたちのことで語り合いますか」
言った途端、京一が唇の端を動かして笑う。
「焦らなくていいだろ。――
でも、あえて言うなら、俺も君の家に転がり込んでみようか」
智也は大きな歩幅で京一の数歩先を進み、振り返る。
「それこそ、焦らなくていいでしょう」
「どうしてだ」
「おれの計画としては、これから一年の間に勇樹を自立した男に
鍛えるんです」
智也の言いたいことを素早く理解してくれたようだ。京一は芝居がかった動作で頷く。
「それで?」
「簡単です。一人暮しさせるんですよ」
追いついた京一にそっと手を取られたので、ジャケットで隠すようにして指先
を触れ合わせた。
「君の弟に、もう二度と口を利いてもらえないかもな……」
「そのときは頑張ってください。おれに似
て、あいつは頑固ですから」
「大変だな、それは」
そう言いながら、優しい眼差しが惜しみなく智也に向けられる。
今のこの瞬間を、京一と分かち合っているのだと、強く実感させられる。ずっと欲しいながら、具体的な形の見えなかった
ものが、確かな感触を持って指先に触れていた。
「……飛び跳ねたい気分ですよ」
智也は気持ちを素直に言葉にする。
本当に、そんな気分だった。嬉しくて楽しくて、ただ隣に京一がいるというだけで心が満たされていく。そしてその感情に、突き
動かされる。
「――俺もだ」
京一に強く手を掴まれ、智也は邪魔なジャケットを持ち替える。ためらわず迷わず、自分
を求めてきた手を振り払うことがないよう、そして同じ気持ちを相手に求めながら、強く手を握り返す。
「今度の日曜、花見
に行きましょう」
「四人で?」
「四人で」
京一は頷きながら、冗談とも本気とも取れない口調で言った。
「だ
ったらそのときに、君の弟と仲良くなっておくか。一年後のために」
「はい。期待してます」
繋いだ手を離すことがで
きず、二人は同じ歩調で歩きながら、そっと笑みを交わし合った。
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