サプライズ [Extra 01] Clap  





「――お前のところ、新しい上司が来たんだろう?」
 部署は違うが、同期入社の友人の問いかけに、煙草を唇に挟んだまま堤は気のない返事をする。
「ああ……」
「若いのにやり手らしいけど、本当なのか?」
 どこかおもしろがるような口調からして、どうやら噂は耳に入っているらしい。
 堤は横目で友人を睨みつけてから、煙草の灰を灰皿に落とす。もったいぶるようにゆっくりと缶コーヒーを飲み、重々しい口調で語った。
「やり手、なんだろうな。なんといっても、会社の扱いが違う。本社に戻ってきたと同時に、俺がいる戦略事業部の主任についたが、どうやら一時的なものらしい。すでに経営管理部門のどこかの部署で、課長のポストが用意されているんだと。これまで地方支社を転々として、ばっちりキャリアは積み上げてきた、というところだろうな」
「しかも、いい男、だと聞いた」
「気になるなら見てこい」
 忙しい仕事の合間を抜け、やっと喫煙ルームに駆け込んで煙草を味わっているのだ。どうして、『あの』上司のことなど話さなければならないのか。
 二十五歳の堤にとって、これまでの戦略事業部の空気は非常に心地のいいものだった。大きな事業の先行きを決定する権限が、まだ若い自分の手にもあるのだ。これで仕事に夢中にならないはずがない。
 大学時代の友人たちからは意外だといわれるが、堤は生活の大半を仕事のみに捧げており、そんな生活に満足していた。
 だが、今の状況は少々微妙だ。理由は、今話題に上っている、新しい上司にある。
「そんな顔するなよ」
 このとき堤は、自分がどんな顔をしていたのか自覚はなかったが、友人に派手に肩を叩かれた。
「お前はいままでが順調すぎたんだ。ここらで一発、大きい試練を味わっておけよ」
「……他人事だと思って、気軽に言いやがる……」
 ぼそりと洩らした堤は、コーヒーを一気に飲み干す。肩を落とす堤とは対照的に、他人の不幸がよほどおもしろいのか、友人はニヤニヤと笑っている。
「お前の様子だと、噂は本当みたいだな」
「だいたい想像はつくが、教えろ。どんな噂だ」
 声を潜めて友人が教えてくれた噂は、忌々しいことにほぼ事実だった。
 すっかり吸う気が失せ、堤は煙草を揉み消す。
「戻るのか?」
「ああ……。うちの上司は、部下が一服するためにちょっと席を外すのも気に食わないらしくてな。俺が戻ると、顔をしかめる」
「それがわかっていながら、こうして煙草を吸いに来るんだから、お前も神経太いよな」
「俺はニコチン中毒なの。煙草を吸わないと、仕事が手につかない」
 堤は軽く手を上げると、のろのろと喫煙ルームを出る。
 戦略事業部のオフィスに足を一歩踏み入れた途端、書類を手にしていた上司がじろりと視線を向けてきた。仕事に集中しているようでいて、この上司の神経は常にオフィス全体に向けられている。
 おかげで、戦略事業室には常に緊張感のようなものが漂っていた。
 堤はさりげなく自分のデスクに戻ろうとしたが、上司である藍田春記に軽く手招きされた。反射的に背筋を伸ばした堤は、念のため周囲を見回して、自分が呼ばれていることを確認する。
「……なんでしょうか」
 デスクの前まで行って問いかけると、藍田が顔を上げた。
 堤はこの、新しい上司が苦手だった。堤より六つ年上の三一歳だという話だが、妙に落ち着いているのだ。何より、迫力がある。他の部署にも若い主任はいるのだが、藍田ほど『親しみ』という言葉からかけ離れた存在はない。
 顔の造りのせいか――。
 迫力がありすぎて、まともに正面から見つめ返せないと、戦略事業室内ではそう評されている藍田だが、実のところ顔立ちは悪くない。
 悪くないどころか、極上だといえるだろう。そう思っているのは自分だけかもしれないので、人前で率直に言ったことはないが、少なくとも堤は藍田の顔立ち『のみ』は評価していた。
 愛想はないが、やたら整った目鼻立ちをしており、造作が完璧すぎてどこか人工的にも感じられる。ただ、冷たすぎる雰囲気のせいで、かえって人間らしさを醸し出しているともいえるのだ。
 まあ、おかげで迫力に拍車をかけているので、部下としては喜ばしいことではない。
 性格に少しでも丸みがあれば救われるのだが、藍田は見た目どおり、堅物で厳格で、おそらく面白味の欠片も持ち合わせてはいないだろう。少なくとも堤は知らない。
 ついでに色気もなさそうだ。
 藍田が聞けば余計なお世話だと言いそうなことを、堤は心の中で呟く。
 何か探しているのか、デスクの上に積み重ねられたファイルを素早く開いていく藍田の左手の薬指には、指輪はない。毎夜遅くまでモリモリと残業しているようなので、おそらく恋人もいないだろう。
 そういう意味で、彩りや色気のある生活とは無縁そうだ。
「――……堤、聞いているか?」
 藍田から不機嫌そうな声をかけられ、堤は我に返る。器用に動く藍田の指の動きに、自覚がないまま見入っていたのだ。すんなりと伸びたきれいな指をしており、男のこういう指に弱い女は多いだろう。
「はあ、聞いています」
「気の抜けた返事をするな。聞いてないなら、正直にそう言え」
 切れ長の目から放たれる冷たい光に、堤はあっさり降参した。
「……すみません。ぼんやりしてました」
「陽気がいいからな」
 確かに外は五月晴れで天気はいいが、もしかすると藍田なりの皮肉なのかもしれない。
 他愛ない言葉を深読みする堤にかまわず、藍田がファイルを差し出してくる。反射的に受け取った堤は、軽く眉をひそめた。
「これは――」
「来週の月曜日、特需営業本部の営業方針報告会がホテルである。わたしも出席するんだが、お前も同行させたいと思っている。……何か急ぎの仕事は抱えているか?」
 現金だが、堤はパッと笑みを浮かべて即答する。
「大丈夫です。ぜひ、連れて行ってください」
 対照的に藍田は、まったく表情も変えずに頷いた。
「そう言うと思った」
 すっかり藍田の言葉を深読みする癖がついてしまった堤は、もしかすると、と考えてしまう。
 仕事の合間を見計らって煙草を吸いに行くことを、藍田は快く思ってないのかもしれない。基本的に戦略事業部を含めた新機能事業室全体が、非常に静かなオフィスで、人が頻繁に出入りすることもない。
 そんな中、席を立つ堤の姿は目立つのか――。
 もっとも、女性社員だってお茶を飲みに席を外すことだったあるので、堤だけが常識外れなほど休憩しているわけではない、と思う。
「戦略事業部としても意見を述べることになっているから、頼みたい仕事がある」
「はあ……」
 応じた途端、藍田から鋭い視線を向けられ、堤は返事をし直した。
「はい。なんでしょうか」
「そのファイルが、前年度の特需の報告会で使った資料だ。そしてこれが、達成数値諸々のデータが入っているディスク。比較して、自分なりにまとめてみてくれ。――あくまで、戦略事業部らしく」
「戦略事業部らしく、ですか」
「いつもやっていることだろう」
 はあ、と洩らしてしまいそうになり、寸前のところで口元を手で覆う。不審げに藍田が見つめてきたので、早口に説明した。
「俺、プロジェクトや事業部の分析は手がけてきたんですが、本部全体というのは初めてで、何から手をつけていいか……」
 どんな冷たい言葉を投げつけられるかと身構えながら訴えた堤に対し、意外にも藍田は、少し考え込むような表情を見せてから、デスクの引き出しを開けた。
「参考になる分析があるから、それを例にして説明する」
 藍田がやけに分厚いホルダーを取り出してデスクの上に置く。びっしりと付箋が貼られており、そこに細かな字で書き込みがされていた。
 堤は説明を聞くため、藍田の傍らへと移動し腰を屈める。
 淡々とした口調で説明を始めた藍田だが、すぐに何かに気づいたように口を閉じ、堤を見た。
 いかにも不機嫌そうな藍田の表情を目にして、堤は内心でうろたえる。よくわからないが、藍田の機嫌を損ねたと思ったのだ。
 無表情がトレードマークのようなところがある藍田だが、ときおり神経質に顔をしかめるときがあり、この瞬間、戦略事業部は水を打ったように静まり返る。ただ、藍田は何も言わない。部下たちの緊張に気づいた様子もなく、あくまで淡々と仕事を続ける。
 まだ、怒鳴り散らす上司のほうが、相手としては楽かもしれない。
 堤は慎重に問いかけた。
「……あの、俺、何か気に障ること……」
 相変わらず不機嫌そうな表情のまま、なんでもないと答えた藍田は、説明を再開する。一方の堤はすぐには気持ちの切り替えができず、少しの間、藍田の白い横顔を凝視してしまう。
 頭の中では、こんな言葉が何度も駆け巡っていた。
 やはりこの上司は苦手だ、と。




「ということで、俺は上司から嫌われているかもしれない」
 煙草の煙とともに、珍しく堤がぼやきを洩らすと、友人は声を上げて笑う。
 別に待ち合わせているわけではないが、社内のヘビースモーカーの行動は大抵似たものとなる。仕事の合間にふらっと喫煙ルームに行って煙草を吸うのだ。
 一応中庭でも、外の空気に触れながら煙草を吸えるのだが、気候がいい間は、あの場所は大層な肩書きを持つ人間が占領してしまい、とても近づける雰囲気ではない。
「そんなこと気にするほど、繊細じゃねーだろ、お前。新人の頃から、ふてぶてしいと言われてたくせに」
「……なんというか藍田主任の場合は、眼差し一つがチクチクくるというか。案外俺、年齢が近い上司っていうのは、苦手なのかもしれないな」
「それは間違いなく、その上司『だけ』が苦手なんだよ。だってお前、要領いいから、誰とでも適当にうまくやるだろ」
 他人から指摘されるまでもなく、愛想と要領のよさは自信がある。だが、藍田の鋭い視線を意識すると、すべてを見抜かれているような不安を覚えるのだ。
 苦手意識を持ってしまうと、何もかもがマイナスに作用するのだろう。
「嫌われているにしても、初めての仕事を任せてくれたうえに、きちんと面倒まで見てくれているんだから、いい上司じゃないか。お前のことをクソ生意気だとでも思っていたら、相手だって人間なんだから、避けたっていいものなのに」
「そこでわかりやすい態度を取らないから、やり手なのかもしれないな」
「まあなー」
 友人の気のない返事に少々傷つきながら、堤が煙草を唇に挟んだとき、視線の隅に見覚えのある人影が入る。
 ハッとして喫煙ルームの外を見ると、なぜか藍田がいた。藍田のほうも、たまたま通りかかっただけらしく、堤を見てわずかに目を見開いている。
 だがそれも一瞬で、次の瞬間には何事もなかったような顔をして、喫煙ルームの前を歩いていってしまう。
 堤は煙草を揉み消すと、慌てて立ち上がる。
「じゃあな」
「お、う……」
 突然の堤の行動に呆気に取られている友人を置いて、喫煙ルームを飛び出す。反射的ともいえるが、藍田の後ろ姿を追いかけていた。
「藍田主任っ」
 呼びかけると、足を止めて藍田が無表情で振り返る。しかし、堤が駆け寄ると、なぜか顔をしかめた。
「やることさえやっているんなら、休憩していたことをどうこういう気はない。わざわざ追いかけてこなくてもいいぞ」
 取り付くしまもなくそう言って、藍田が歩き出す。堤は咄嗟に前に回り込み、あれこれ理屈を考えるより先に、素直な疑問を口にしていた。
「――俺、嫌われていますか?」
 突拍子もない堤の言葉は、藍田から感情を引き出すことに成功した。ある意味、失敗かもしれないが。
 無表情が売りの上司が、思いきり呆れた表情を見せたのだ。何を言い出すんだ、と心の声が聞こえてきそうだ。
「誰が、お前を嫌っているんだ。そもそも、わたしと目が合っただけで、なぜお前にそんな質問をぶつけられないといけないんだ」
「……すみ、ません。つい、慌ててしまって」
 なんとなくこのまま別れられなくなり、堤は藍田の隣を並んで歩く。
 エレベーターではなく、階段を使ってオフィスに戻りながら、なんとも沈黙が痛かった。
普段の堤なら、気まずさを感じれば他愛ない世間話で場の空気を和らげるぐらい簡単なのだが、相手が藍田だとそうもいかない。
 冷や汗すら流れそうになっていたとき、踊り場でふいに藍田が立ち止まった。
「主任?」
「さっきのことだが、お前に誤解を与えるような言動をわたしが取っていたのだとしたら、今後は改める」
 堅苦しい物言いだと思いながらも、堤はいくぶん安堵する。とりあえず、藍田を怒らせていたわけではないらしい。
「……つまり、俺に悪いところはないと考えて、いいんでしょうか」
 遠慮がちに問いかけると、藍田は軽く眉をひそめ、堤をじろじろと眺めてくる。
「悪いところは――とりあえずは、ない」
「引っかかる言い方ですね」
 つい、いつもの調子で応じると、藍田から鋭い視線を向けられる。
 会話の距離感を掴みにくい人だ、と思った。会話を拒否しているわけではないし、それとなく打ち解けそうな空気も漂わせてはいるのだが、いざ踏み込もうとすると、調子に乗るなといわんばかりに目の前で境界線を引かれるようだ。
「悪いところはないが、気に食わないところはあるんだ」
「なんでしょう。直せるところなら、直しますよ」
 慇懃に堤が応じると、初めて藍田が困惑の表情を見せた。この瞬間、堤の胸に、トンッと何かにノックされたような感覚が広がる。
「……あえて言うほどのことじゃない。仕事には関わりのないことだし」
「俺はかまいませんよ」
「わたしがかまう。上司の立場で、部下の個人的なことまで口を出すのは嫌なんだ」
 堤は首を傾げる。
「個人的なことなんですか?」
 そんなことを言われると、ますます気になる。堤は少しだけ粘ってみた。
「かまいませんから、教えてください。もしかすると、他の人にも嫌な思いをさせているかもしれませんし」
「……そう、気にならないと思う」
「でも主任は、気になるんでしょう?」
 さすがに藍田に睨みつけられ、思わず堤は両手を挙げそうになる。
 藍田は寸前までの会話など忘れたように先に歩き出し、階段を上り始める。軽い息を吐き出した堤も、仕方なくあとをついていく。これ以上尋ねると、今度こそ怒鳴られそうだ。
「――堤」
 突然藍田に呼ばれて顔を上げると、体ごと振り返った藍田がこちらに向けて片手を伸ばしてくる。
 殴られるのかと思ったが、そうではなかった。
 唇に何かが押し当てられ、堤は目を丸くする。
「なっ……」
 なんだ、と言いたくて唇を開いた途端、ポイッと口に放り込まれるものがあった。すると、藍田が冷然とした口調で命令してきた。
「噛め」
 忠実な犬のように堤は従い、口に放り込まれたものを機械的に噛む。すぐに、それがなんであるか理解した。
「ガ、ム――……」
「自分のデスクに常備しておけ。つまり、そういうことだ」
 唖然として立ち尽くす堤を置いて、藍田はさっさと行ってしまう。
 藍田の姿が見えなくなると、堤は律儀にガムを噛み始める。
 ガムを噛めということは、つまりは口臭が気になるということだ。堤にとって口臭の原因となりそうなものは、たった一つしかない。
「あー、そういうことか」
 ポケットから煙草の箱を取り出し、声を洩らす。そして、ジャケットの腕の辺りに顔を寄せて匂いを嗅ぐ。
 煙草の匂いにすっかり慣れ親しんでいる堤にはわからないが、藍田はそうではなかったのだろう。口臭そのものより、堤の全身から漂う煙草の匂いが気になっていたはずだ。
 だから、堤が喫煙ルームから戻ってきたり、側に寄ると顔をしかめていたのだ。
 どうやら藍田は嫌煙家らしい。しかも、それを声に出してアピールしない、控えめな嫌煙家だ。表情に出していたのは、よほど我慢できなかったのか――。
 必死のアピールが、部下の口にガムを放り込んでくるという行為だとは、予想外もいいところだ。
 一言、本人に言えばいいものを。
 気がつけば堤は、ガムを噛むのも忘れて、腹を抱えて爆笑していた。
「おもしろいな、あの人……」
 そう呟きながら堤は、あることを確信していた。
 この先自分は、あの上司を二度と苦手とは思わないことを。
 きっと、うまくやっていける――。
「……いい機会だから、煙草の本数を減らすか……」
 ガムを口に放り込まれたとき、微かに唇に触れた藍田の指の感触に、今になってドキリとしながら、堤は煙草の箱をそっと握り締めた。










Copyright(C)2007 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[--]  Surprise  [02]