サプライズ [1月期間限定/Extra 09]  





 藍田春記の年末年始の過ごし方は、自賛するわけではないが、非常に地味で落ち着いていた。もともと騒ぐのは好き ではないし、共に過ごす相手もいない。負け惜しみでもなんでもなく、一人で静かに過ごすのが性分に合っているのだ。
 会社が二十九日から正月休みに入ると、一日がかりで部屋の大掃除を終わらせ、三十日には年末年始をゆっくり 過ごすための買い物を済ませる。
 そして三十一日には、数少ない趣味である海外のミステリー小説を読みながら、 やっと落ち着いた時間を堪能する。テレビはうるさいので、ニュースや報道番組以外はほとんど観ないのだ。
 夕 方になると、混雑している近所のそば屋に出かけ、年越しそばを食べる。
 普段なら、行列してまで外食しようと いう気は皆無に近いのだが、年末ぐらい人に合わせるのもいいと、妙なところで藍田は律儀さを発揮していた。
 長湯 しても眠り込むことなく、ゆったりと湯に浸かって上がると、気に入っている紅茶を飲みながら展開が佳境に入ってい る小説に読み耽っていたが、ふと時計を見てから本を閉じる。
 隣室に移動してテレビをつけたまま再び本を開い ていると、そのうちカウンタダウンが聞こえてきた。
 藍田は本を閉じて新年を迎えてから、キッチンに向かう。 熱い紅茶を淹れ直し、テレビを消して寝室に入った。
 とりあえず最低限の年末を迎えられたことに満足しつつ、 この夜、藍田はミステリー小説を完結まで堪能すると、満足しつつベッドに入った。


 元日といえど、いつもと変わらない休日としての時間を過ごす気満々だった藍田だが、予定外の訪問者によって、予 定ともいえない予定は狂わさせることになる。
 何やら大荷物を抱えて押しかけてきた母親を見て、シャツの上か ら厚手のカーディガンを羽織りながら、藍田は渋々問いかけた。
「――何か用ですか、母さん」
「何か、じゃ ないでしょう。今日はお正月よ」
「知っています。だからわたしは、こうして朝からのんびり過ごしているんです」
 徹底しておもしろ味に欠けた藍田の言葉に、母親は険しい顔となる。昔から我が強く、自己主張と利己主義の塊 のような人なので、望んだとおりの返答がないといつもこんな顔をするのだ。
 一人息子に会いに来たところで、 とことん会話が噛み合わないのは承知しているはずなのに、それでも世話を焼きたがるのは、母性愛のなせる業か、そ れとも単に、帳尻合わせか――。
 藍田は冷静に母親の心理を分析していたが、当の母親は、荷物の一つをテーブ ルの上で開いて見せた。重箱三段に、ぎっしりとお節料理が収まっている。
 彩りの乏しい藍田の部屋にあって、 この重箱だけが強烈な正月らしさを放っていた。
「あなたのことだから、どうせ何も準備していないと思って、お 店に作ってもらったの」
「……こんなにどうするんですか。わたしは一人ですよ」
「日持ちするわよ」
「そういうことじゃなくて――」
「どうせまだ、外食ばかりの生活を続けていると思ったから、他にいろいろ作っ てきたのよ。冷凍しておけるものばかりだから、急いで食べなくても大丈夫。それと、お雑煮はここで作ってあげよう と思って、材料は用意してきたの」
 反論は許さないとばかりに一気にまくし立てた母親の勢いに圧され、藍田は キッチンを自由に使っていいと許可を出す。それで気が済むなら、好きにさせたほうがいい。
 さっそくエプロン をつけてキッチンに立った母親の後ろ姿を、ダイニングのテーブルについて眺めてから、藍田は仕方なくテレビをつけ る。
 正直なところ、母親――父親もだが、一緒にいて何を話せばいいのか、いまだにわからない。悪い人たちで はないと思うし、嫌いでもないのだが、おそらく藍田は、自分の両親が苦手なのだ。
 そういえば、と、藍田はあ ることに気づく。
 両親と揃ってまともに年末年始を過ごしたことがなかった。
「母さん、父さんを放ってき たんですか?」
 半ば答えがわかっている質問をすると、案の定、予想どおりの言葉が返ってきた。
「十二月 と一月は、海外の工場の研修に立ち合うとかで、帰ってこられないそうよ。ええっと、どこの国だと言ってたかしら… …」
「どこの国だとしても、仕事の内容は変わらないからかまわないでしょう」
 藍田の父親は工業メーカー の重役だが、会社の重役室にどっしりと座って務まるような仕事ではない。かつては技術開発に心血を注いでいたよう な人で、重役である以前に技術者だ。そのため、新しい工場が建設されると、技術指導のため世界中を飛び回り、長期 間の滞在を余儀なくされる。
 一年の三分の二は海外で過ごし、残りの三分の一も大半は会社での仕事に追われて いるような生活は、昔も今も変わらない。
 一方の母親も、親から継いだ飲食店をいくつか経営しているため、多 忙さでは父親といい勝負だ。
 そんな二人を両親に持った藍田は、物心つく頃には父方の祖父母の家に預けられ、 高校に入るまで両親とは別々に暮らしていた。
 ようやく実家に戻った理由も、祖母が亡くなり、祖父も入院した ためだ。それに、実家で生活するようになったといっても、藍田はほとんど一人暮らしをしているようなものだった。
 親に対して敬語で話すのは、子供の頃からの癖だ。たまに会う両親は、感覚としては親戚に近かったし、砕けた 口調で話せなかった。それが癖となり、今では自然なことになってしまった。いつの間にか両親も、息子の他人行儀な 話し方について何も言わなくなった。
 どんな子供時代を過ごそうが、誰かに干渉されるのが嫌いだった藍田だか らこそ、風変わりな家庭環境に特に不満も感じなかったのだ。
 なのに藍田が二十代後半に入ったぐらいから、子供の 頃、一人で寂しい思いをさせたからと言って母親が生活に干渉するようになってきた状況には、少々閉口していた。
 子供の頃には面倒が見られなかった分、今になって世話を焼きたがる。帳尻合わせとは、そういう意味だ。
「……キッチン、少しも使った様子がないのね」
 とりあえず置いてある包丁を取り出して眺めながら、ため息交 じりで母親が言う。様子を探られているなと思いながら、藍田は素っ気なく答えた。
「わたしがいつも、食事は外 で済ませている知っているでしょう。お茶を淹れるぐらいしか使いませんから、仕方ありません」
「料理を作って くれるような人はいないの?」
 思ったとおりの切り返しに、遠慮なく藍田は即答した。
「いません」
「あなたもうすぐ、三十四歳でしょう。誰か一人ぐらい――」
「誰もいません」
「不便じゃない? 仕事で忙 しいのに、家の用事まで自分でこなすなんて」
 母親の言葉に、野菜を切る包丁の音が重なる。子供のことは放っ ておいた人だが、家事全般は完璧にこなせるのだ。ただ、それ以上に仕事ができるというだけだ。
 そんな人でも、 孫の顔は見たいという欲求はあるらしい。
 藍田は完全に他人事として、そんなことを漫然と考える。母親に言っ た言葉にウソはなく、今のところ――かなり過去に遡っても、藍田は恋愛事とはまったく無縁だった。
 家庭環境 のせいではなく、他人と関わるのが億劫な性分なのだ。
 しかし母親は諦めきれないらしく、少し怖い口調でこう 言った。
「早く結婚して、落ち着こうという気はないの?」
「ないですね。そもそも、結婚したから生活が落 ち着くというものでもないでしょう。父さんや母さんみたいに、慌ただしく暮らしている人もいるんですから」
  皮肉のつもりはなかったが、確実に母親に直撃したらしい。包丁の音が一度だけ大きく響いた。
 怒らせたかな、 と思ったが、さすがに母親も打たれ強くなったようだ。思いがけない報復があった。
「――あなたに紹介したい女 の子がいるんだけど。うちの店をご贔屓にしてくださっている大学教授のお嬢さんで、最近まで、お仕事でフランスに 住まれてたそうなのよ。そのお仕事というのがバイオリニスト。すごいでしょう?」
「別に……母さんが自慢する ことでもないでしょう」
 振り返った母親の表情が、つまらない子ね、と露骨に言っている。
 こんな話を聞 かされるぐらいなら、近所にある、モーニングでしか利用したことのないファミリーレストランに夕飯を食べに行くべ きだったと後悔した藍田だが、もう母親の口は止まらない。
「わたしも前に、そのお嬢さんが同行している楽団の 演奏を聴きに行ったことがあるのよ。挨拶もしたんだけど、きれいな方よ。躾もしっかりされていて、上品な物腰で。 楽器演奏で指には気を使うらしいけど、お料理が得意らしいのよ。子供も好きだという話だし。年齢は二十八で、あな たとの釣り合いも悪くないでしょう」
「はあ?」
 慌ただしくキッチンを行き来しながら、母親は変わらない 口調で話し続ける。
「ご夫妻に、あなたのことを話したら、興味を持たれたのよ。一応、あなたが働いている会社 は有名企業だし、あなたも順調に出世コースに乗っている。堅物すぎるぐらいまじめだし、見栄えも悪くない。自分で 言うのもなんだけど、両親もしっかりしているし」
「……本当に、自分で言わないでください」
 口中でぼそ りと呟いた藍田は、お節料理に視線を向ける。母親がこちらに背を向けているのを確認すると、栗きんとんを少し摘ま んで味見する。上品で美味しいのだが、藍田としては、一緒に暮らしていた祖母が作ってくれた素朴な味のほうが好み だ。
 指先をペロリと舐めてから、藍田は素っ気なく告げた。
「わたしは、誰とも結婚する気はありません。 もちろん、結婚を前提にしたつき合いをするつもりもありません。――恋愛と結婚は、わたしの人生における不必要要 素です。なくても生きていけますから」
「そうは言うけど、友人としておつき合いしていって、それから恋愛や結 婚を意識することだってあるでしょう」
「面倒だから、そもそも友人としてつき合う気もないです」
「でも、 一度会うだけでも……。本当にいいお嬢さんなのよ」
「でしたらきっと、いい人が見つかりますよ。わたし以外の 人で」
 ここで勝負はついた。母親は完全に沈黙して雑煮作りに専念し始め、藍田は興味はないがテレビに視線を 向ける。
 打たれ強い母親のことなので、また日を置いて、新たな相手を勧めてくるかもしれない。ただそのとき は、やはり素っ気なく断るだけだろう。
 どれだけ言われたところで、藍田の中に、恋愛や結婚というものに対し て興味が湧くことはない。必要以上に人と接することが煩わしくて仕方なく、その最たる行為である恋愛や、恋愛の延 長線上にある結婚など、藍田から求めることはありえないのだ。
 こんな姿勢でつき合ったところで、相手を傷つ けるだけだし、藍田自身、無駄な労力を費やしてしまうだろう。
 だったら、最初から人と深く関わらないほうが いい。
 藍田がそんなことを考えているとは知りもしない母親が、聞こえよがしにぼやいた。
「あなたと同年 代の人たちなんて、ほとんどの人が結婚して、可愛い奥さんと子供に囲まれて幸せに暮らしているっていうのに、なん でわたしの息子は、こんなに捻くれているのかしらね」
「……聞こえてますよ」
「聞こえるように言ったの」
 雑煮はいいから帰ってくれないだろうかと、心の底から願った藍田だが、ふと、あることを思い出した。
  藍田が副室長を務める新機能事業室の向かいのオフィスに、オフィス企画部がある。そこの部長補佐の男が藍田の一つ 先輩なのだが、非常に女性受けがいい。いや、女性受けがよすぎると言っていいのかもしれない。
 藍田が、結婚 のことで母親から圧力をかけられているのとは対照的に、その男は、なんと二度も結婚し――二度失敗した。
 あ くまで社員たちの噂を聞いたものだが、どうやら本人も隠そうとはしていないようなので、ほぼ事実だろう。
 結 婚の労力以上に、離婚はさらに労力を必要とするはずだ。その経験を、二度もしているのだ。
 いつ見ても、向か いのオフィスで藍田の先輩である男は、女性社員と楽しそうにしている。そろそろ、三度目の結婚でも考えているのか もしれない。そんなことを推測するぐらい、いつも男は――大橋龍平は充実しているように見えた。
 そんな大橋 はきっと今頃、恋人と楽しい新年を過ごしているのだろう。
 自分と交わることのない、まったく別の人生を送っ ている男のことを頭の片隅でちらりと考えた藍田だが、次の瞬間には、母親の短い悲鳴を聞いて忘れてしまう。
  どうやら鍋の蓋を足元に落として驚いたらしい。
「何か手伝いましょうか」
 そう声をかけた藍田は立ち上が ると、羽織ったばかりのカーディガンを脱いでキッチンに向かった。




 新年早々、俺は不幸だ。
 寒さに肩をすくめながら、大橋は半ば本気でそう思う。
 背後どころか左右から も容赦なく人に押されて前のめりになると、前を歩く人にぶつかって、すかさず振り返って睨みつけられる。
「… …きれいに化粧しても、そんな怖い顔したら台無しだろう」
 周囲の騒々しさをいいことに、ぼそりと呟くと、す かさず隣から肘打ちを食らわされ、脇腹にヒットした。
 うっ、と息を詰めた大橋は、ギロリと隣を睨みつける。 そこには、前を歩く女よりさらに気合いの入ったメイクをした敦子が、澄ました顔で前を見据えていた。
「お前な あ……」
「せっかく初詣に来ているんだから、もっと華やいだ表情をしなさいよ」
「来ているっ? 俺はてっ きり、強引に連れてこられたもんだと思っていたが」
「男なら、細かいことは気にしない」
 大橋は呆れなが ら、敦子の横顔を眺める。そしてはっきりしたことがある。
 自分は不幸というより、不毛な境遇に置かれている のではないかと。
 元旦に、こうして初詣に出かけるのはかまわない。ただ、連れが敦子であるのが問題なのだ。 つまり、不毛である原因だ。
 まだ寝癖がついている髪をガシガシと掻き上げて、大橋は『元妻』に向かってこう 言った。
「――お前さー、初詣につき合ってくれる男はいないのかよ。いないにしても、一緒に出かける相手の選 択肢に、普通は元亭主は入れないだろう」
「仕方ないでしょう。ちょうど男とは切れたところだったし、女友達な んてほとんど家庭持ちだから家族と一緒に過ごすのよ」
「だからといって、俺の家に押しかけてきて、強引に引っ 張り出すのはどうかと思うぞ」
 ここで敦子がニヤッと笑いかけてきた。
「引っ張り出さないと、龍平も相手 がいないでしょう。一人寂しく、寝正月をする気だったの?」
「……悪いが、バリバリそのつもりだったぞ」
 敦子から思いきり呆れた視線を向けられ、図太いことで定評がある大橋も少なからず傷ついた。
 神殿へと向か う人の列はゆっくりと進み続けているが、寒さと眠気もあり、大橋はいい加減、列から抜け出したい衝動に駆られる。 もともと、人々が盛り上がるイベントや行事には疎いというより無関心で、正月も一人でのんびりと家で過ごすつもり だったのだ。
 そこを、嵐ように敦子に襲来され、車を出してくれとせがまれて引っ張り出された。
 別れた 夫婦間の遠慮というものは、敦子に限っては存在しない。だいたい、そんなものがあれば、大橋が二度目の結婚生活を 味わっている中、平気で電話をかけてきたりはしないだろう。
 敦子のせいだとは言わないが、二度目の結婚も見 事に破綻し、現在三十四歳の大橋は、すでに二度の結婚と離婚を経験した、自称『人生のけっこうな猛者』だった。
 実際のところは、女二人に振り回され、呆然としているような数年間だったが。
 さすがに仕事一筋の生活 はまずいと、二度目の離婚届に判を押したときは猛省したものだが、今も変わらず、仕事一筋の生活だ。
 二度の 離婚を経験して、女はもういいという心境に達してしまったのだ。いや、興味はあるのだが、かつてのような行動力は 発揮できないし、そもそも女は観察対象になってしまった気がする。
 三十半ばを目前にして、枯れるにはまだ早 い。
 ただ、恋には臆病になったかもしれない――と詩的なことを考えてみたが、ようは、仕事が忙しくて、女の わがままに振り回される余裕がなくなったということだろう。
 そんな大橋を振り回せるのは、敦子ぐらいだ。女 というより、呑み友達に近いせいかもしれない。
「お前、実家には帰らなくていいのか」
「帰ると、いまだに 腫れ物みたいに扱われるから嫌なのよねー」
 敦子の言葉に、大橋は即座に返事ができなかった。責められている のかと思ったが、そうではないらしい。
「この間紹介した男が気に入らなかったらしくて、あんな男とつき合って 大丈夫なのかって、何度も電話で心配されて。うちの親は、あなたがお気に入りだったから。なんであんないい男と別 れたんだ、っと文句タラタラよ」
「……今度親父さんに、酒でも送るか」
 すかさず、また脇腹に肘がヒット した。
 怒ったように唇を尖らせる敦子を見て、思わず笑みがこぼれる。我が強すぎて、まるで子供のようだった 女だが、つき合っている頃は楽しかったのだ。結婚してからは、その我の強さが突出しすぎて、大橋ですらコントロー ルできなくなったのは悔やまれる。
 今なら、もう少しうまくつき合えたのかもしれないと考えなくはないが、あ くまで想像でしかない。二人の関係はとうに終わったのだ。
「まあ、俺は恵まれているほうなのかな。別れた嫁と、 男友達みたいなノリでたまに合ってメシを食って酒を呑めるんだから。……二度目の嫁さんには、徹底して避けられて いるんだがな」
「線が細い人だったものね。龍平の図太さについていけなかったのかな」
 悪かったな、と口 中で応じた大橋は、とうとう我慢できずに行列から抜け出そうとしたが、すかさず敦子に腕を取られて引きとめられた。
「我慢しなさい。もうすぐでしょう。それに、他の人の迷惑よ」
「……やっぱり、元嫁のわがままにつき合う んじゃなかった。新年早々、なんでこう、人に揉みくちゃにされないといけないんだか」
「お願いしたら、いいこ とあるかもよ」
 その言葉に感銘を受けたわけではないが、周囲を着物姿の女の子たちに囲まれていることに気づ いたところで、行列から抜け出すのを諦めた。下手に動いて着物を汚したり、着崩れさせてしまうのが怖い。
「い いことなんてあるのか? 元日から、隣にお前がいる時点でもう……」
 今度は、足を踏まれた。元嫁の攻撃は容 赦がない。
 ようやく神殿前まで来て、賽銭箱にお金を入れた大橋は、しっかり二礼二拍手をしてから手を合わせ ると、なんとなくだがあることが頭に浮かび、素直にそれを願っていた。
 敦子を庇いながら人ごみから抜け出す と、体を伸ばす。すると、敦子に腕を突かれ、にんまりと笑いかけられた。
「ずいぶん熱心に願い事をしていたけ ど、何を願ってたの?」
「お前は?」
「いろいろ」
「相変わらず欲張りだな」
「女は欲しがりなの」
 妙に納得させられる深い言葉だ。一声唸った大橋に対して、敦子は顔を覗き込んでくる仕草をする。
「で、 何をお願いしたの?」
「元嫁に、これ以上振り回されませんように」
「……意外に本気で願ってそうよね」
 大橋は声を上げて笑ってから、今にも雪が降り出しそうな空を見上げる。そして、多少気恥ずかしい気分を味わ いながら、冗談交じりで答えた。
「――一生に一度のような大恋愛をできる相手と巡り合えますように、だ」
「本気?」
「ここのところの俺は、正直枯れている。ここで一発、ガツンとくるような相手と惚れた腫れたをやっ てみたい。結婚は……考えてないけどな。そういう現実的な話は抜きに、とにかく、痺れるような大恋愛をしたい」
 敦子は微妙な表情を浮かべ、大橋の肩を軽く叩いてきた。
「龍平って、結婚しても長続きできないはずよね」
「なんでだ」
「デリカシーに欠けるから。元奥さんの前で、よくそんなこと言えるわね」
 敦子と会って する会話の大半は、敦子がつき合っている男とのノロケ話だ。それを大橋は、文句も言わず聞き続けてきた。挙げ句、 この言われようだ。
 女は勝手な生き物なのだと、改めて痛感させられる。
 二度と、わがままで我の強い女 とだけはつき合わない――。
 そう心に誓いながら、大橋は口元にそっと笑みを刻んだ。
「好きに言え。…… 俺は今年、予感がするんだ」
「大恋愛?」
「メロメロに惚れて、骨抜きになるな」
 敦子から脇腹にパン チを叩き込まれることを覚悟したが、反応は冷たかった。
「――あー、はいはい」
 軽く受け流され、再び大 橋は傷つく。
 この心の傷は、意地でも大恋愛の相手を見つけて、癒してもらうしかないだろう。
 もっとも このとき大橋は、自分の願い事が叶うなど本気で思ってはいなかった。
 このときは――。










Copyright(C)2008 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[08]  surprise  [10]