サプライズ [2月期間限定/Extra 10]  



(1)

「うーん」
 井口可南子は一声唸ってから、手にしたシャープペンの先を揺らす。
「こんなものかなあ……」
 そう言って顔を上げ、自分の両脇から手元を覗き込んでいる二人の女性社員たちに視線を向ける。
 三人 とも新機能事業室の人間ではあるのだが、所属している事業部はそれぞれ違う。ただ、お互いデスクが近くてよく会話を交 わすため、昼休みともなると一緒に過ごすことが多い。それに今日は、大事なことを決めなければならない。
 昼休み、 男性社員たちは昼食をとりに出かけてしまい、オフィスには電話番の女性社員が残るだけとなる。その機会を見計らって、 こうして顔を突き合わせているのだ。
「こんなものだよねー。で、値段のラインは――」
 コピー用紙とシャープ ペンを取り上げられ、素早く数字が書き込まれる。
「うわあ、いつになくシビアね」
「恋愛対象にならない男に、 チョコをくれてやるだけでも感謝しろっていうのよ」
「新機能事業室は、それでなくても女っ気が乏しいから、女の子 一人の負担がどうしても大きくなるのよねー」
 可南子はコピー用紙を取り上げると、チョコレートの金額ごとに分類 された男性社員の名前を眺める。
 バレンタインデーには、自分が所属している部署の男性社員たちにささやかな義理 チョコを贈るのは、東和電器の密かな恒例行事だ。
 一応、強制ではないのだが、女性社員たちが密かにランク付けし た名簿を作り、希望者からお金を集めてから、一斉にチョコレートを買い出しに出かける姿を見ていると、知らぬふりなど できるはずがない。
 男性社員の反応などどうでもいいが、女性社員同士、非協力的だと何かとあとが怖い。
「あ っ」
 可南子が手にしたコピー用紙を一緒に見ていた後輩が、小さく声を上げる。
「何、誰か名前漏れてる? 男 はこういうところで細かいから、きちんと確認したんだけど……」
「大事な人を忘れてます。――藍田副室長」
  可南子は、もう一人の同僚と顔を見合わせてから、クスクスと笑い声を洩らす。
「藍田副室長はいいの」
「どうし てです?」
 可南子は振り返って、この新機能事業室の実質的なボスである藍田のデスクを見る。昼食をとりに出てい るらしく、空席だ。可南子はわずかに目を細めた。
「去年の今頃、藍田副室長って、経営管理での課長職と兼務して、 うちの事業部統合リーダーだったのよ。で、女の子たち数人とチョコレートを渡したんだけど……なんて言ったと思う?」 「怒った、とか」
「外れ。まじめな顔して、『今年は仕方ないけど、来年からはわたしには渡さなくていい。浮 いたチョコレート代の分、自分の大事な人のために使いなさい』と言ったんだから」
「あれで、藍田副室長に惚れた子 はいるね、絶対」
 自分だと名乗れるはずもなく、誤魔化すように可南子は笑う。顔が赤くなっていないだろうかと思 いながら、デスクに向き直る。
「――ということで、藍田副室長の分は買わなくていいわけ」
「よく覚えておきま す」
 だいたいのことが決まったところで、可南子は自分のデスクの引き出しから電卓を取り出し、合計金額を計算す る。
 電卓に表示された数字を二人に見せてから、コピー用紙に書き込んだ数人の名前をシャープペンの先で指す。
「独身のイイ男に甘くなるのはわかるけどさ、このグループのチョコのレベルをちょっと下げないと、金額的にきつい かも」
 この指摘に食いついたのは、意外にも後輩だ。
「差別化は大事ですっ」
「……差別化は、個人的に買 ったチョコで図るっていうのはどうよ?」
「でも、堤さん、いろんな人からすごいものをもらってそうで、張り合える 気がしません」
 ハンサムなだけでなく、ちょっと斜に構えたような雰囲気で人気がある堤が狙いとは、目が高いとい うべきか、肩を叩いて慰めるべきか、可南子は反応に困る。
「――……仕方ないから、これで予算を通してあげる。つ いでに、堤くんの分のチョコは、自分で選んできなさい」
 出した金額を女性社員の人数で割ろうとしたとき、慌ただ しい足音がこちらに近づいてくる。
 誰かと思って何げなく顔を上げた可南子は、思わずドキリとしてしまった。
 こちらが声をかけるより先に、側までやってきた藍田が口を開いた。
「早いな。もう昼食は食べてきたのか?」
「はい、急いで。今日中に決めておきたいことがあるんです」
 答えたのは、同期入社の友人だ。藍田はいつものよう に、特に表情を浮かべることなく頷いた。際立って顔立ちが整っている上司だが、恐ろしく表情に乏しい人なのだ。だから といって、女性社員で嫌っている人間はいない。見た目の冷たさに反して、基本的に藍田は女性に対して物腰が丁寧で紳士 だし、話のわかるいい上司だ。
 多少、男性社員に対して容赦はないと思うが。
「決めたいこと……」
 呟い た藍田が、可南子の背後に立ってコピー用紙を覗き込んでくる。意識しなくても、どうしても緊張して、体が強張る。
「……いつもの、あれか。そういえば、もうすぐバレンタインだな」
「いつものあれです。行事ごとだから、仕方ない ですね」
 何も言えない可南子とは対照的に、友人はそう言って笑う。ふいに背後から藍田の手が伸び、コピー用紙を 取り上げた。
「感心だな。わたしの名前は書いていない」
「欲しいときは言ってください。喜んで買ってきますか ら」
 友人の冗談に、藍田がどんな表情をしてのか、振り返って確認する勇気はない。ただ、背後で気配がしたかと思 うと、コピー用紙と一緒に、お札が可南子の前に置かれた。
「わたしも協力する。うちは女性社員が少ないから、君た ちも負担が大きいだろう。ただし条件として――」
 藍田が出した条件に、三人揃って噴き出してしまう。いかにも、 藍田らしい条件だったからだ。
「わたしもお金を出していると、他言無用だ。言ったところで、うちの事業室の男たち は誰一人喜ばないだろうからな」
 これからまだ打ち合わせがあると言って藍田は、自分のデスクの上からファイルを 取り上げると、慌ただしくまたオフィスを出ていった。
 その背を見送った可南子は、つい考えてしまう。藍田に、個 人的にチョコレートを贈る女性はいるのだろうか、と。
 仮にいたとしても、鉄壁の無表情を持つ上司は、容易なこと では私生活をうかがわせたりはしないだろう。


 バレンタイン当日、藍田に個人的にチョコレートを渡す勇気が持てなかった可南子だが、そのことを悔やむ場面に出くわ した。
 昼休み、社員食堂に向かう途中でハンカチを忘れたことに気づき、可南子はオフィスに引き返す。
 何人 かの社員が昼食を食べに出かけることもなくオフィスに残っている中に、藍田の姿もあった。
 クールな無表情がトレ ードマークであるはずの上司は、自分のデスクの傍らに立ち、可南子が初めて見るような苦い顔をしていた。
 何かト ラブルかと思ったが、そうではないらしい。
 藍田は眉間にシワを寄せたまま、デスクの上に手を伸ばす。もっと状況 を知るため、可南子は自分のデスクに戻るふりをして、藍田のデスクの上を見る。
 そこに置いてあったのは――真っ 赤な包装紙に包まれ、金色のリボンがつけられた箱だ。今日がなんの日かを考えると、きれいにラッピングされた箱の中身 は、チョコレートだと考えるのが妥当だろう。
 藍田は、箱ではなく、箱に添えられた名刺を取り上げた。
 誰が 贈ったのだろうかと、ドキドキしながら可南子は見つめる。さすがにこの距離では、名刺の主を確認することはできない。
 ただ一つ言えることは、藍田は決して喜んでいないということだ。
 むしろ――。
 頭痛を感じたように藍 田がこめかみに指先を当て、オフィス内を見回す。一瞬目が合った可南子は、慌てて視線を逸らしたが、そもそも藍田の視 界に可南子は入っていないらしい。当然だ。チョコレートを贈ったのは自分ではない。
 誰がチョコレートを贈ったの か、激しく気にはなるのだが、藍田のまとう空気が冷たくなってきたのを感じ、とりあえず避難することにする。
 可 南子はハンカチを取り上げると、後ろ髪を引かれる思いでオフィスをあとにした。
「……すっごく、気になる……」
 相手は気にはなるが、見当すらつかない。
 それに、少しだけ敗北感も味わっていた。自分の存在を知らせるよ うに、チョコレートの箱の上に名刺を置く勇気は、可南子にはない。
 結局、藍田に対する気持ちは憧れのままかと、 小さくため息を洩らした。




 後藤の上司である大橋という人物は、異性から非常に好意を寄せられやすいタイプだ。率直に表現するなら、同じ男とし て嫉妬する気も起きないほど、ものすごく女からモテるのだ。
 オフィス企画部部長補佐という肩書きは、大橋を表現 する一つの要素ではあるが、魅力を表現する要素ではない。
 なんというか――。
「危険そうに見えて、実は安全」
 自分の上司のモテっぷりを、口を開けて眺めていた後藤は、突然そんな声をかけられて驚く。顔を上げると、腕組み した旗谷がデスクの傍らに立っていた。
「後藤くん、ヨダレが落ちそうよ」
 自分のマヌケ面を指摘され、後藤は 慌てて表情を引き締める。
「なんです、今の発言は」
「補佐の人物評」
 旗谷の視線の先では、朝から精力的 に自分のデスク周りを片付けている大橋の姿がある。片付けるのも早いが、散らかすのも早い人なのだ。
 何より今日 は、次々に荷物が届けられている。
「大橋部長補佐―」
 華やかな声が二重奏で聞こえてきたかと思うと、別の部 署の女性社員が二人、小走りで大橋のデスクに駆け寄ってくる。二人は、何が入っているのか紙袋を持っていた。
「お う、おはよう」
 気軽に応じた大橋が、機嫌よさそうに女性社員二人と挨拶を交わす。そして、紙袋を手渡される。大 橋は驚いた表情のあと、申し訳なさそうな顔をする。
「あの表情が、クセモノなのよ」
 舌打ち交じりの旗谷の言 葉に、後藤はつい苦笑を洩らす。
「旗谷さんは、何贈ったんですか?」
「子供にあげるような、缶に入ったお菓子 の詰め合わせ」
「補佐、喜んだでしょう?」
 すかさず旗谷に横目で睨みつけられた。大橋のように女心を把握す るのは、後藤にはまだ難しい。
 特に、バレンタイン当日、意中の男性に対して本命チョコを贈るどころか、義理チョ コとも言いがたい、冗談たっぷりのお菓子の詰め合わせを贈る女性の気持ちとか――。
 旗谷はどんな気持ちで、次々 に女性社員からのチョコレートやプレゼントを受け取っている大橋を見ているのか、後藤にはまったく想像がつかない。
「――隙のある男前っていうのは厄介なのよ。特に、ああいう屈託なさそうな表情を浮かべられるタイプは」
「人 生にハンデがあるとなおさらじゃないですか? 二度も奥さんに逃げられたエリートビジネスマンなんて、緩急をつけた男 の魅力があると思うんですよ」
「わかってるわね。後藤くん」
「それは、まあ……」
 大橋に紙袋を渡した女 性社員が帰ると、大橋が屈み込んでデスクの下で何か始める。気になった後藤は、近づいて声をかけた。
「補佐、何し てるんですか?」
「もらったものを整理してるんだ。くれた相手の部署と名前をチョコの包装紙に書き込んでから、大 きい袋にまとめておく。ホワイトデーにお返しをしないといけないからな」
「……モテるのも大変っすね」
「バカ」
 ようやくデスクの上に顔を出した大橋が、ニヤリと笑う。この表情が、旗谷の言うところの『危険』な部分かもしれ ない。なかなか悪の魅力に溢れているが、床の上に屈み込んでいる格好そのものは間が抜けている。
「俺に対するプレ ゼントは、時節の挨拶みたいなもんだな。他の上司だとシャレは通じないが、俺は遊び心溢れるナイスな上司だから」
「そんなこと言って……、仮に補佐に本命チョコを渡す人がいたら、可哀想ですよ」
「どうだろうなー。俺は、モテそ うだと言われるわりに、実は全然モテないんだぞ」
 仕事はできるし、モテる上司なのだが、意外に女心には疎いのか もしれない。後藤はそんなことを思いながら、ちらりと背後の旗谷を振り返った。


 昼休みを告げる音楽が流れる中、後藤はイスの上で大きく背を反らす。このとき視界に大橋の姿が入り、すぐに姿勢を戻 した。
 バレンタインのプレゼント攻勢にあった上司の機嫌は悪くはないはずで、もしかすると昼飯を奢ってくれるか もしれないと考えたのだ。大橋は、部下に対して太っ腹だ。
「補佐――」
 大橋を呼ぼうとした瞬間、後藤の傍ら を素早く誰かが通り過ぎ、頬に風を感じる。何事かと思った後藤の目に、一直線に大橋の元に歩み寄る旗谷の姿が映った。
 おっ、と思いながら、後藤は黙って事の成り行きを眺める。
 旗谷は、大橋に声をかけたかと思うと、いきなり 腕を取った。大橋は苦笑を浮かべながら首を横に振るが、かまわず旗谷は腕を引っ張り、結局大橋は立ち上がる。
 ど んな会話を交わしたのかまではわからないが、旗谷の積極さに大橋が折れたのは確かなようだ。
 まるで、母親に連れ られた子供のように、素直に旗谷に引っ張られる大橋に、後藤は声をかける。
「補佐、昼飯ですか?」
「あー、ま あ、みたいなもんだ。お前も一緒に行くか?」
 のんびりとした口調で言った大橋とは対照的に、旗谷からは鋭い視線 を向けられた。無言の圧力を感じ、さすがの後藤も事態を察する。つまり旗谷は、どうしても大橋と二人きりになりたいの だ。
 後藤はぎこちなく手を振る。
「……や、やっぱり遠慮しておきます」
 大橋と旗谷がオフィスを出てい くと、オフィスに残っていた社員たちが一斉に話し始める。
「いよいよ、旗谷主任が実力行使に出たか?」
「補佐 を押し倒す気かもな」
「尻に敷かれるだろうなー、補佐。今も敷かれてるようなもんだけど」
 大橋の人徳か、好 き勝手に言っていながらも、みんなの言葉に悪意はない。二度の結婚に失敗している上司のことを、部下たちなりに心配し ているのだ。
 後藤としては、あの様子なら旗谷は、いよいよ大橋に告白するのかもしれないとすら思ったのだが、ど うやら期待しすぎたらしい。
 昼休み終了間近に、大橋と旗谷は慌ただしく戻ってきたのだが、このとき大橋の手には、 会社近くのデパートの袋があった。
 袋からわずかに覗いた、きれいに包装された箱のサイズからして中身は――。
「ネクタイですか?」
 書類に目を通す大橋に、後藤はさりげなく尋ねる。ちらりと顔を上げた大橋は、唇の端だ けで笑った。
「目敏いな」
「旗谷さんからのプレゼントですよね」
「俺のネクタイの選び方は芸がないんだと。 今はバレンタインで紳士もののセールをやっているから、ちょうどいいから行きましょう、と連れて行かれた」
 旗谷 らしい誘い方だと、思わず後藤は笑ってしまう。
「……ネクタイなんて、年中買えるのに」
「そうだな」
 こ う答えた大橋の口調の優しさで、なんとなく後藤はわかった気がした。
 旗谷が誘った意図も何もかも察したうえで、 大橋はデパートまでつき合い、ネクタイも選んでもらったのだろう。今日がバレンタインデーで、女性にとって特別な日だ と、しっかり認識しているからこそ。
「デパートに行ってたんなら、メシ食う時間がなかったでしょう?」
「一緒 に牛丼屋に寄ってきた」
「晩飯に誘うべきだと思うんですが」
 後藤が思わず余計なアドバイスをすると、大橋は さりげなく旗谷のほうに視線を向けてから、微苦笑を洩らした。
「俺は、仕事を離れて、うちの女性社員とは絶対二人 きりにならないと決めてるんだよ。セクハラ対策」
「……女性社員からセクハラされたことあるんですか?」
「バカ。俺がセクハラしたって騒がれるのを防ぐためだ」
「いつも、誘われるとそうやって断ってるんですか」
  大橋は笑ったまま、後藤を拳で殴るふりをした。
 女心に疎いどころか、大橋は何もかもお見通しらしい。当然、旗谷 から寄せられている想いにも気づいているはずだ。
 モテる上司は、社内恋愛には非常に慎重、といったところか。い や、恋愛そのものに慎重なのかもしれない。
 後藤はそんなことを考えながら、大橋から返された書類を手に自分のデ スクに戻った。








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