(2)
相変わらず軽薄な男だと、パソコンのキーボードを打つ手を止めた藍田は、ブラインドを上げた窓の向こうを眺めながら
淡々と思う。
中庭を挟んだ向かいのオフィスには、オフィス企画部が入っており、そこを実質的に取り仕切っている
のが、藍田の視線の先にいる大橋という男だ。肩書きは部長補佐。
仕事はできるが、家庭の維持は下手な男――。そ
れが、大橋という人間を端的に表しているかもしれないが、もう一つ重要なことを付け加えるとすれば、とにかく女性にモ
テる男だということだ。
バレンタインデーである今日は、モテる男の本領発揮といったところだろう。藍田が見てい
た限りでは、女性社員たちが何人も、プレゼントらしきものを大橋に手渡していた。
今も、どこかから戻ってきた大
橋の手には、派手なラッピングがされた箱がある。結局、朝から晩まで、バレンタインデーの恩恵を受け続けていたという
わけだ。
まともな羞恥心を持っていたら、会社であんな派手なものを持ってウロウロできるはずがない。
だい
たい会社をなんのための場所だと思っているのだ。
唇をへの字に曲げながら、藍田は窓から視線を引き剥がす。軽薄
な男を眺めていても、無駄に腹が立つだけだ。
デスクに向き直った藍田だが、意識したわけでもないのに、部下の堤
と目が合った。さらに唇を曲げた藍田は、半ばムキになってパソコンの画面を見る。
仕事に戻ろうとしたが、やはり
どうしても気になってしまい、もう一度堤に視線を向けた。堤は電話をかけながら、パソコンを操作している。
藍田
は、デスクの一番下の引き出しを開け、そこに入れたものを確認する。嫌味のように真っ赤な包装紙に包まれ、金色のリボ
ンがつけられた箱だ。
中身はチョコレートだと、贈り主である堤に言われた。ちなみに堤は――男だ。
デスク
の上にこの箱が置いてあり、なおかつ、裏返して添えられていた名刺を見たとき、藍田はめまいに襲われてしまった。まさ
か部下の男から、バレンタインデーにチョコレートを贈られるとは考えもしなかった。
何かの間違いではないかと思
い、わざわざ堤を呼び出して事情を尋ねたが、多少生意気なところがあり、臆することのない部下は、悪びれたふうもなく
言ったのだ。
「俺がもらったものをお裾分けです。藍田さんが、女性社員からチョコは受け取らないことは有名らしい
ですけど、男の俺が渡したものなら、受け取ってもらえますよね?」
「……自分がもらったものを、他人に押し付けて
どうする」
「藍田さんが返すというなら、俺はゴミ箱に突っ込むだけです」
「だったら、わざわざわたしのデスク
に置かないで、自分一人で処理すればよかっただろう。他人に罪悪感まで押し付けるな」
「――たかが、チョコですよ」
堤のこの言葉を聞いて、チョコレートを押し返す気は失せた。おそらく堤は、つき返されたチョコレートを本当に会
社のゴミ箱に放り込むだろう。そんな胸が悪くなるような光景を、藍田は見る気はない。食べ物に執着はないが、無駄にす
るのは嫌いだ。
自分でチョコレートを食べる気もないのだが――。
あいにく藍田には、もらったチョコレート
をさらに押し付けられるような気安い知人は社内にいない。だが、持って帰ったところで扱いに非常に困る。
せめて、
ホットチョコレートが作れるような種類のものであればいいがと考えながら、藍田は仕事を進める。
そして、部下の
大半が帰った頃になって、ようやく帰り支度を始めた。
アタッシェケースをデスクの上に置いてから、引き出しの中
のチョコレートは、自宅に持ち帰る資料と一緒に紙袋に入れた。
オフィスを出た藍田は、地下駐車場に降りる前に遠
回りをして経理部に立ち寄り、書類を提出すると、経理部近くのエレベーターホールからエレベーターに乗り込んだ。
夜と呼べる時間帯だが、残業している社員はいくらでもいる。次の階では数人の男性社員が乗り込んできて、藍田は後ろ
へと移動する。さらに次の階でも社員が乗り込んできたため、エレベーターの隅へと追いやられた。
ここで、前に立
つ男性社員たちの会話が耳に届く。
「しっかし、毎回すごいですねー、大橋さん。その紙袋に入ってるの全部、今日も
らったチョコレートでしょう?」
「チョコレート……というか、それ以外のものもあるんだけどな。まあ、バレンタイ
ンなんて、ちょっとしたお祭りみたいなものだから。俺に対しては、お地蔵様に供え物するような感覚だろ」
「どうい
う例えですか」
気が抜けそうな会話を交わしているのは、軽薄男――ではなく、向かいのオフィスの大橋だった。
ぼんやりしていて、いままで大橋が乗り込んでいたことに気づかなかった藍田は、足元に落としていた視線をわずか
に上げ、大橋が持っている紙袋を見る。確かに、どれだけあるのか知らないが、いかにも、な箱がいくつも入っていた。
今日一日の戦果かと、皮肉っぽく考えた藍田はさらに視線を上げる。目の前には、大橋のがっしりとした広い背があ
った。
「もらったチョコは、知り合いの子とかに食べてもらうんですか? それだけあると大変でしょう」
「いや、
食うぞ。時間をかけて、俺が全部。けっこう甘いものは得意なんだ。それに、せっかくもらったものだから、あっさり他人
にやるのも悪い気がする」
大橋の言葉は、藍田にとって意外だった。どうせ適当に処分するのだろうと、頭から思い
込んでいたからだ。
ここで、自分が手に持つ紙袋を見下ろす。中に入っているのは、堤から押し付けられたチョコレ
ートだ。
大橋の言葉を聞いて、チョコレートの存在を迷惑がっていた藍田は反省した――わけではなく、甘美な悪魔
の囁きにあっさり乗せられた。
紙袋からそっと取り出したチョコレートの箱を、エレベーター内が混雑しているのを
いいことに、誰にも知られることなく大橋の紙袋の中に忍び込ませたのだ。
心は痛むどころか、むしろ軽くなった。
堤と藍田という薄情な男二人に迷惑がられるより、甘いもの好きのモテる男に喜んで食べてもらったほうが、チョコレート
も幸せだ。
都合のいい理屈を自分の中で並べ立ててエレベーターから降りたとき、藍田は完全にチョコレートと離別
した。
遅めの夕飯を外で済ませて、誰もいない自宅マンションに戻った大橋は、まっさきにバスタブに湯を溜め始め、家中の電
気をつけて回ると、最後にエアコンのスイッチを入れた。
少し待つと、寒々とした部屋に温かな空気が広がっていく。
大橋は紙袋はテーブルの上に置いてから、テレビをつけた。自分の部屋が静まり返っているのは好きではない。
ジャ
ケットを脱いでネクタイを解くと、イスに腰掛け、片手でワイシャツのボタンを外しながら、もう片方の手で紙袋の中身を
一つずつ取り出していく。
「……お地蔵様の供え物って……、なかなか上手いこと言うよな、俺も」
大橋のよう
に人当たりがよく、一見陽気な上司は、バレンタインデーを楽しみたい女性社員にとっては都合のいい存在なのだ。堅苦し
いことを言わないどころか、一緒になって楽しむ寛容さを持ち合わせている。
会社は本来、仕事だけをする場所だが、
年に一度ぐらいいいではないかというのが、大橋の意見だ。
大橋にチョコレートを渡して義務を果たしたような気に
なるなら、まさしく供え物だ。
ただ一方で、考えさせられることもある。
紙袋から細長い箱を取り出し、大橋
はため息をつく。旗谷が買ってくれたネクタイだ。仕事が終わってからだと、絶対二人きりになってくれない大橋に対する、
ある種のあてつけの意味もあるのかもしれない、と考えるのは、穿ちすぎか。
仕事後の疲労感もあり、ぼんやりと考
え込んでしまった大橋だが、風呂の湯を出したままなのを思い出し、着替えを掴んで慌ててバスルームに向かう。
休
みの日でもない限り、時間がもったいなくて長湯ができない大橋は、熱い湯でさっさと体を温めて入浴を済ませる。
再びダイニングに戻ると、ビールを片手に一仕事だ。チョコレートなどをくれた女性社員の所属部署と名前をレポート用紙
にまとめるのだ。
他人は気楽に羨ましがるが、バレンタインデーに何か贈られるということは、ホワイトデーにはし
っかりお返しをしなければいけないということだ。
女はシビアだから、と会社では口が裂けても言えないことを、大
橋はひっそりと呟く。他人からは女の扱いに慣れていると思われている節がある大橋だが、そもそも慣れていれば、二度も
離婚したりはしないだろう。常識的に考えて。
ちなみに、一番目の妻である敦子からは昨日、宅配便で酒が届いた。
大橋は、ある箱を手に取って軽く眉をひそめる。真っ赤な包装紙と、金色のリボンがついた小振りの箱なのだが、眺
め回してあることに気づいた。
手渡されたプレゼントについては、大橋がすべてその場で所属部署と名前を箱に書き
留めるか、一緒にもらった名刺を貼り付けるかするのだが、この箱には贈り主を示すものが何もない。
どういう経緯
で紙袋に入ったのだろうかと考えながら、手の中で箱を弄ぶ。恥ずかしがった誰かが、大橋がいないうちに紙袋に潜ませた
のかもしれない。
もしくは、自分に恨みを持つ誰かが、毒薬入りのチョコレートを――……。
大橋は苦笑しつ
つ金色のリボンを取り、包装紙を剥がす。あまりに怪しそうなら、申し訳ないが捨てるしかないだろう。
「おっ……」
包装紙の下から出てきたカードが、テーブルの足元に落ちる。緩慢とした動作で拾い上げた大橋は、なんとなくカー
ドを開いてドキリとした。
『あなたと共に働けることに、感謝しています』
カードには、こんな一文が記されて
いた。ただ、名前が書いていない。
こういったカードを添えてくる女性社員は他にいるが、それでもこのカードは印
象的だった。その理由は簡単だ。
「……これはどう見ても、男の字じゃないか……?」
箱の中には、さまざまな
形をしたチョコレートの粒が品よく収まっている。このチョコレートを、男から贈られたのかもしれないと考えた大橋だが、
次の瞬間には自分に言い聞かせた。
きっと、男のような字を書く女性社員から贈られたのだ。しかも、シャイな。
大橋はチョコレートを一粒摘まみ上げると、覚悟を決めて口に放り込む。少しの間、口をモゴモゴさせてから、しっ
かりと味わってぽつりと洩らした。
「なんだ、美味いじゃないか」
ビールとチョコレートは合わないなと反省し
つつ、大橋は作業を進める。
最後に紙袋から取り出した包みの中には、ワイシャツが入っていた。ただし、色は淡い
ピンク色だ。
本気で大橋に似合うと思って買ってくれたのだとしたら、文句を言う気はない。だからといって、この
色のワイシャツを着て会社に行けるかというと、それは別の問題だ。いい色ではあるが、大橋が着ると派手すぎる。
部下を部屋に泊めたときにでも押し付けてやろうと思い、ワイシャツはひとまずクロゼットに仕舞い込んだ。
旗谷か
ら贈られたネクタイは明日締めていくことにして、箱から出してイスの背もたれにかけておく。
これで大橋の今日の
仕事は終わりだ。あとは、だらだらとビールを飲んで寛ぎ、明日のハードワークに備えて体を休めるだけだ。
時計を
見上げれば、ちょうど日付が変わるところだった。
大橋は、今年も恵まれたバレンタインデーだったと感謝しつつ、
正体不明の『誰か』から贈られたチョコレートをもう一粒口に放り込んだ。
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